No Smoking


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 ――カチャ。

 扉が開く音がした。風呂上がりの一服を終え、スモーカーさんが外から戻ってきたのだろう。

 顎まで引き上げた布団に頬を埋ずめ、わたしは慎重に瞼を下ろした。なるだけゆっくり肩を上下させ、不自然になりそうな呼吸を落ち着けて、わざとらしくならない程度に寝息を立てるふりをする。そう、正に熟睡って感じに見えるように。

 キシ、キシと。

 徐々に近づいてくるスモーカーさんの足運びは隙がなく、また静かだ。それでも彼の体重のぶんだけ、床が僅かに軋む音がする。その音はちょうどわたしの足元の辺りまで近づき、――そこでぴたりと止んだ。

「…………」

 濃厚な葉巻の匂いがする。

 瞼越しに透けて見える部屋の明かりが――寝落ちした感を出す為にあえて消さなかった――背の高い影に遮られている。スモーカーさんがベッドのかたわらで足を止めていた。視線を感じる。彼が蹲るわたしを見下ろしているのだ。
 滲み出す生唾を飲み込みたい、が動くわけにはいかない。緊張のあまり関節に針金が通ってるみたいに強張っている。油断すると末端が震えてしまいそうだ。ところで寝る時の呼吸って鼻でするんだっけ、口でするんだっけ。もうわかんなくなってきた。ていうかこれ、もしやとっくに寝たふりってばれてる? だとしても気まずいのはお互い様なんだし話しかけたりしないで欲しい、頼むから。

「……――」

 わたしの願いが届いたのか、不意にスモーカーさんの気配が遠のいた。

 そろそろと薄目を開けて見やれば、目前には白いシーツと無地の壁が広がっている。スモーカーさんの影はすでに見当たらない。よかった、どうやら事なきを得たらしい。ようやく体の緊張を解き、わたしはもう一度目を閉じた。この調子で、ふりじゃなくほんとに眠れられたらいいんだけど。
 あのあと。脱衣所の外をうろうろと歩き回りながら散々覚悟したというのに、結局スモーカーさんの口からお叱りの言葉が飛んでくることはなかった。お風呂上がりの彼は――やけに出てくるのが遅かったので少々心配したのだが――なにやら借りてきた猫のように大人しく、言葉少なで、わたしを見る目にはむしろ後ろめたそうな気配さえあった。悪いのは全面的にこちら側のはずなのに。ともあれわたしもそれに甘えて、あの事故についてはもう蒸し返さないでおこうと決めたのだが――しかしスモーカーさんは早々に一服してくるとわたしを置き去りに立ち去ってしまい。そんなわけで先に部屋に戻ったわたしは、またあんな空気を味わうのも嫌なのでさっさと狸寝入りを決め込むことにしたわけである。

 ――ふっ、と視界が一面暗くなる。

 スモーカーさんが明かりを落としたらしい。

 全神経が聴覚に集中する。背中のほうから、微かなすり足が聞こえてきた。ギシ、と重たげにスプリングが軋む音。窓側にあるもう一台のベッドにスモーカーさんが身を横たえたのだろう。シーツを捲りあげる大袈裟な衣ずれの音が、やけに長く耳に残った。

 ――そして闇の中に、沈黙が落ちる。





 カチ。カチ。カチ。カチ。

 時計の秒針が規則正しく音を刻んでいる。

 暗闇の中で脳だけがはっきりと冴えていた。いつの間にか強く瞑りすぎていた眼を意識的にゆるめる。ベッドに接着した左半身に熱が籠るのが気になってしょうがないが、寝返りなどをうっては起きてるのがばれるかもしれない。つい先ほど眠ったふりをした手前、それだけは避けたいところだ。

 しかし依然として、睡魔の訪れは遠い。

 ほんの少し、後悔している。過ぎたことを悔やんでも仕方ないとはいえ、せめて部屋だけは分けておくんだったなあ。今のスモーカーさん相手にここまでぎくしゃくするとは思ってなかったものだから、当然のように一部屋しか取らなかったのだ。
 普段通りであれば、たかが隣り合わせに寝るくらい何の問題もなかったはずだ。わたしたちは出会ったその日から同室だったし、彼に寝かしつけられた記憶は数知れず、添い寝したことも数回ある仲である。そもそもわたしはお恥ずかしながらスモーカーさんの気配がないと寝れないので、いずれにせよこうするほかなかったといえばその通りだ。でも、一人部屋で徹夜したほうが、わたしのメンタルには優しかったと思う。

 ナイトテーブルを挟んだ向かい側。壁を向いたわたしの背中側から、時折聞こえる微かな衣擦れの音。スモーカーさんの気配がこれほど落ち着かなかったことは、未だかつてないかもしれない。

 寝て起きる頃には、この気恥ずかしさを忘れられるだろうか。別に、あの人を意識してるとか、してないとか、そういうんじゃないんだけど。ただお風呂での一件は、色々あったかつての気まずさとは違って、その、つまり……非常に不健全な接触だったので、どうすれば水に流せるのか分からないのだ。正直なところを言えば、彼がなんであんな様子だったのかなんとなく察してる部分もあり――いや、まさかとは思うし思いたいんだけど、スモーカーさんだって男の人なわけで――だからこそ今、こんなに落ち着かない気分にさせられてるわけで。

 わたし自身はよく……知らないけど、男の人にはそういう衝動みたいなものがあると、お姉さんたちが話してるのを何度か耳にしたことがある。特に軍人なんかをしてると、感情が伴わなくても本能が求めるから女の人を抱けるのだと。こういう下世話な一般論をスモーカーさんに当てはめて考えたくはないが、現実に彼は女慣れしてるし、あれでまあまあモテるし、過去に遊んでたという噂もある。それでいて今のスモーカーさんからは女の匂いは全くと言っていいほどしない。だとしたら、どうだろう。そりゃわたしにそういう魅力は全くと言っていいほどないけど、溜まっているものがあれば間違いが起こることもある……のだろうか。わかんないけど。

 ああ、もう。何考えてんだろ、わたし。

 唇を噛みながら枕に横顔を埋め込んだ。こういうことを考えるのは何かこう、すごく失礼な気がして嫌になる。わたしはただスモーカーさんと一緒にいたいだけなのに、なんでいつも余計な問題がついて回るんだろう。わたしの望みはそんなに難しいことだろうか。
 ……いやんなる。もうやめよう、こんなことを考えてたら眠れるものも眠れない。朝になったらできるだけ早起きしなくちゃだし、そろそろ羊でも数えるべきだ。頭を空っぽにして、早く寝なくちゃ。

 体を丸め、時計の音に耳を澄ませる。

 そういえばずいぶん……静かだ。

 スモーカーさんはもう眠ったのだろうか。あの人は生粋の海兵殿であるから、ストンと眠りに入れるような訓練なんかもきっとしているはずだ。つい先ほどから、僅かな身じろぎの音さえ聞こえなくなった。

 細く息を吐き、目を開ける。青みがかった闇の中に、相も変わらず無愛想に聳えている壁が見えた。窓側からさす仄かな月明かりが、思いの外はっきりと影の境界を際立たせている。この分なら、スモーカーさんの表情くらいは伺えそうだ。
 いっそ振り返って確認してみようかな。そしたらわたしも安心して眠れるかもだし。スモーカーさん、こっち向いてなければいいんだけど……。そういや、散々緊張したせいか、やけに喉が渇いている。本格的に寝る努力をする前に、水をひと口飲んでおくのも悪くないかもしれない。でも、物音を立てたら起こしてしまうだろうか。ともかく一度、スモーカーさんの様子を確かめるだけでも――


「――ナマエ」


 どくん、と心臓の音が沈黙の中に際立った。

 ……空耳、ではない。スモーカーさんが、ほんの少し掠れた声でわたしの名前を呼んだのだ。

 呼吸を止める。汗の滲む手でシーツを握りしめ、無言を返す。わたしはまだ何もしてない、だから起きてることがばれたと決まったわけじゃない。もしかしたら彼の独り言か、ブラフって可能性もある。落ち着け、下手に反応したらまた墓穴を掘る羽目になるかもしれな……

「まだ、起きてんだろ」

 今度こそ明瞭に聞こえた。全て見抜いてるみたいな声。震える息を静かに吐き出す。それがあまりに確信めいた言い方だったので、わたしは早々にこれ以上の強がりを諦めるしかなかった。
 体を捻り、シーツの上で寝返りを打つ。そこでぎくりとした。窓を背にしたスモーカーさんのシルエットが、片腕を枕にじっとわたしを見据えているのだ。……いつから、ああしてたんだろう。布団の裾から目元だけ出して、わたしはじとりと彼の顔あたりを睨みつけた。

「……もうすぐ、眠れそうだったのに」
「嘘を吐くな」
「む……そんなのわかんないでしょう」
「気配で分かる」

 つまりそれって、勘で話しかけたってだけじゃないか。……やっぱり返事するんじゃなかった。

 逆光のせいで、スモーカーさんの表情はいまいちよく見えなかった。声だけ聞けば、普段の様子と大差ないように思えるけど。しかしそれにしてはいまいち真意が読めない。なんだってスモーカーさんは今のタイミングで、いきなり声をかけてきたんだろう。

「あの……なんか、大事な話でも?」
「いや。ただ、……お前の声が聞きたくてな」
「らしく、ないですね。眠れないんですか」
「……そうかもな」

 スモーカーさんの口ぶりは穏やかだ。無理に普段通りにあろうとしているようにも思える。そう感じてしまうだけのいくぶんかの揺らぎが、彼の語気にちらついていた。それが示唆する、妙な予感がある。一呼吸入れてから、わたしは布団の隅で手汗を拭った。

「もう、怒ってないですか?」
「初めから、怒っちゃいねェさ」
「でも、きっと不快にさせたでしょう」
「……いや」
「だって、さっきは」
「そうじゃない。違ェんだ、ナマエ……」

 スモーカーさんが訴えるようにもう一度、違う、と囁く。苦しげに歪んだ彼の表情を闇の中に幻視して、わたしは思わず声を呑んだ。

「スモーカーさん、その」

 罪悪感に呑まれ、俯くように視線を逸らす。

「されると嫌なこととか、こうして欲しいとか、あるなら言ってくださいね。はっきり伝えてくれたら、甘えるのもやめますし、振る舞いにも気をつけます。わたし、ちゃんと聞き入れますから……」

 淡く白んだ、ベッドの縁を無意味に見つめた。

 ――スモーカーさんは、沈黙している。

 彼はわたしが言わんとしていることに、気付いてるだろうか。この変な空気の正体をスモーカーさんが理解していないわけないだろうが、あの人はわたしのことをかなりの子供だと思ってるから(それはあながち間違いではないのだが)、本心が伝わってるのか実際微妙なところである。かといって、直接的な言葉を使う勇気はわたしにはないし。
 後ろめたいような、情けないような。スモーカーさんの視線が汲み取れないから、知らずのうちに目が合うのも怖くて顔が上げられない。窓を向いたわたしの表情は、多分彼からは見えているだろうけど……。ああ、スモーカーさんはなぜ返事をしてくれないのだろう。わたしの意図を測りかねているなら、そうと言ってくれればいいのに。この人の気持ちが分からない。暗澹とした闇に紛れて、知っているはずのことさえも、見えなくなりそうだった。


「ナマエ」

 一体どれくらいの間、そうやって黙りこくっていたのか分からない。静寂が耐え難くなってきた頃、出し抜けにスモーカーさんが口を開いた。その声は淡々と何気ないようでいて、そうではなく。きっと隠しきれていない、なんらかの感情を含んでいた。

「……はい」

 動揺しないよう、落ち着いて返事をする。ちゃんと真剣に受け止めよう。スモーカーさんが何を言ったとしても、わたしは……

「こっちに来てくれ」


 ――……。

 どういう、つもりで――。


 ドッ、と心臓の音が早まっていく。脳髄が緊張で痺れて、次第に真っ白になる。浮かび上がる大量の疑問符が意味のある形になる前に霞んで消える。何も分からない。確かなことはただ一つだ。スモーカーさんが、わたしを呼んでいる。
 ベッドが軋み、肩から布団がずり落ちた。頭が回らない。視界が90°傾いて、乱れた髪が頬にかかる。彼の言うことを聞いていいわけがない。いつの間にか、上体を支える右肘が枕に沈んでいる。思考と動作が、完璧に切り離されているような感覚を覚えた。どうにかなりそうだ。まるで操り人形にでもなったみたいに、わたしの体はわたしの覚悟が追いつくのを待たずに起き上がった。

 ベッドから、静かに足を下ろす。乾いた夜の空気と床の冷たさに身震いする。裸足のまま、拐かされたみたいにスモーカーさんのもとへ歩み寄り、その傍らで足を止めた。やおらわたしを見上げた彼の半顔が、鈍い月明かりに照らされる。わたしはようやくその表情を目の当たりにした。あの錯覚と寸分の狂いもなく、今のスモーカーさんはひどく息苦しそうに見えた。

「どうか、しましたか」
「……」

 スモーカーさんが焼け付くような息を吐く。引き結ばれた眼差しと歪む眉頭。顰められた額にはうっすらと汗が浮いている。見るからにしんどそうだ。もう、正に一杯一杯という感じだった。

「なにか……つらいんですか」
「……ナマエ」
「スモーカーさん?」
「もっと、……近くに」

 飢えた獣のような顔をしながら、甘い声で誘い込もうとする。熱を孕んだ眼差しに見え隠れする危うさが、今にもわたしに牙を剥こうとしてるのが本能でわかる。背筋にぞわぞわと、腰を砕くような悪寒が走った。欲を向けられて怯えてるのか、望まれることに悦んでるのか。自分がわからない。とかく褒められた状況ではない。それだけは確かだ。

「それは、その……これ以上近寄るのは、あんまりよくないんじゃ、ないでしょうか」

 よくないというか、それはつまり、"そういうこと"だろう。スモーカーさんを心配するわたしの気持ちに、付け込もうとするよこしまな何かだ。今のこの人は冷静じゃない。絆されるべきじゃない。あとで後悔するのは、きっと彼も同じだ。

「おれは、何もしねェ。約束する。だから」

 スモーカーさんの声が追い縋るように揺れる。

「もっと、傍に来てくれ」
「そ、のほうが、ひどくなるんじゃ……」
「構わねェから、……頼む」

 断らないとだめだ。こんな口車に乗ってはいけない。三日三晩何も口にしてない獣として、目の前に餌をひけらかされて耐えられるはずがないのだ。その腹を満たすためなら、殺してだって奪い取ろうとするだろう。なのに、わたしは何をやってるんだ。いくらスモーカーさんが、こんなふうにわたしを求めているからといって、受け入れる覚悟なんかありもしないくせに。

「……絶対に」

 口約束をさせたところで、意味があるのか。こんな要求は、いっそ余計に残酷なんじゃないのか。はねつけるべきだって、頭では分かっているのに。

「絶対、触らないって約束してくれるなら」
「約束する」
「指の一本も、動かしちゃだめですよ」
「分かってる」

 ごくりと、生唾を飲む。

 わたしの体重を乗せ、ベッドが鈍く軋みを立てた。



 ――ああ、なんとも、強烈な。

 目が覚めるような葉巻の匂い。どれだけ吸ってきたのか知らないが、ここのとこ控えてる彼にしては過剰なまでの濃厚さだ。この状況で、その不快感だけがわたしを現実に引き戻してくれる。情けない。葉巻の残り香に感謝するなど嫌煙家の名折れだ。
 ぎりぎり体が触れ合わない距離を保って、スモーカーさんと同じ布団に潜り込んでいた。それでも乱れた彼の呼吸や、互いの肌から発散される生々しい熱は、わたしが保とうとする平常心を刻一刻と侵してくる。逆上せてしまいそうだ。全身の血管が破裂しそうなくらい脈打っていた。暴走列車じみた、尋常じゃない速度で。

「ナマエ……」

 スモーカーさんが、強請るように呻く。

 青筋の浮いた額を、透明な汗の粒が伝い落ちる。それが落ち着かないのだろうか。わたしは少し迷ってから、袖口で彼のこめかみを慎重に拭った。触れた瞬間、スモーカーさんの息づかいが感じ入ったように途切れたのは、きっと見間違いではないだろう。

「まだ、……」

 スモーカーさんが促すように瞼を塞ぐ。接した一点を離させまいと、微かに額を寄せられた。動かないで、とも言えないくらい、多分ほとんど無意識下の仕草。逆らう気もせずにそのまま彼の耳の後ろへ指を撫で下ろした。硬い耳殻の裏に触れたとき、わたしは今度こそ確かな身震いを感じ取った。

「……足りねェ」

 白いまつ毛がささやかに揺れ、爛々とぎらついた瞳が、食いつくようにわたしを見る。腹の底が熱い。わたしも如実に、この空気に毒されつつある。

「――もう、限界、だ」
「!」

 切羽詰まった声で唸り、スモーカーさんはぐいと迫るように身じろいだ。わたしは慌てて背を逸らし、両手で彼の肩を押さえ込む。スモーカーさんははあッ、と荒っぽく息を吐いて、それから堪えるように強く歯を食いしばった。ほとんど苛立ち紛れだ。懇願というには性急過ぎる、責め立てるような、きつく命じるような声で、彼はわたしの名前を口走った。

「ナマエ」
「だ、だめ、です」
「は、ッ……お前は、ひでェ奴だな」
「う…… 動かない約束、でしょう」

 許しちゃだめだ。もしここで、彼に同情して、少しでも受け入れる素振りを見せてしまったらどうなるのか、わたしは知識として理解していた。わたしとスモーカーさんは今、いつ傾くかしれない不安定な天秤の上にいる。

「なら、せめて」

 喘ぐような呼吸を無理矢理抑えながら、スモーカーさんが低く囁いた。痛ましいくらい切実な声。思わず耳を傾けてしまうくらいに。

「もっと、近くに来てくれ」

 ――ああ。……もう。ちくしょう。

 まただ。本当にずるい。こんな状態でも、わたしの罪悪感につけ込む方法をよく知った上で、わたしが断れない限界点を狙い澄ましてくるあたりが、間違いなくこの人の狡猾さだった。スモーカーさんが誘い込むように脇を開ける。肌が触れるのはまずいと分かってても、そんなふうに受け入れられてわたしがそっぽを向けるわけないのに。

「変なことしたら、許しませんから」
「あァ、分かったから……早く」
「……」

 ――もう、どうとでもなれだ。

 意を決してスモーカーさんとの隙間を埋める。わたしが大人しく腕の中に収まると、浮いていた彼の腕がそっと腰に落ちてきた。……あつい。
 胸の前で構えた両腕に当たる、彼の身体が火照っている。葉巻の残り香とスモーカーさんの肌の匂い。どちらのものともしれない、どくどく響く短い拍動が鼓膜を叩く。彼の呼吸は未だ浅く小刻みで、首元の地肌はやけに汗ばんでいた。

 ああ、……わたしだって、ばかじゃない。ちゃんと分かってる。スモーカーさんは興奮している。欲情している。わたしが、……ここにいるから。

「はあ……」

 今はわたしの体温の方が低いせいだろう。首筋に頬を押し当てると、彼は心地良さそうにため息を吐いた。どうやらわたしが触れても逆効果にはならないらしい。そろそろとスモーカーさんの腋から腕を回し、筋肉質な分厚い背中を摩る。ひどい汗だ。

「……大丈夫、ですか」
「大丈夫に見えるか、おれが……?」
「そんなの、わたし、……分かんないですよ」
「は、ナマエ……」

 スモーカーさんが鼻先をわたしの髪に埋ずめた。彼の吐息が頭皮に染み込んでくる。……嗅がれてる。どうしよう、あんまり長いこと緊張しすぎたせいか、頭がくらくらしてきた。酸欠かもしれない。

「手を……」
「え、あ……こう、ですか」
「ン……」

 シーツの上、胸元のあたりに投げ出されていた彼の手を取ると、ゆるりと甘えるように握り返される。ちょっと待て。スモーカーさんのこんな、いかん、信じ難いことに母性本能に訴えかけてくる。情緒がぐちゃぐちゃになってきた。正気に返れわたし、状況が状況だし相手は10以上も年上の男だぞ。

 それから、スモーカーさんは長いことそうやって、わたしの全身を感じながら呼吸を整えていた。わたしが一つ撫でるたび、彼の背中が上下する頻度は徐々に少なくなっていくので、わたしは溶け落ちそうになる警戒心を何度も引き締め直す必要に迫られるのだった。
 ……こういう時は、人肌が恋しくなるものなのだろうか。それともわたしの匂いにはリラックス効果があるとかだろうか。むしろわたしを相手にすると幼すぎて萎えるとかかもしれない。ともあれ、わたしを腕に抱いてから彼はいくらか冷静さを取り戻したようだった。あれだけうるさかった心臓の音も、かなりゆるやかに凪いできている。

「……落ち着いてきましたか?」
「……」
「スモー……うぎゃっ」
「ッ、」

 す、すでに引っ込めたけどなんか脚に当たってはならないものが当たった気がする。や、やばいかも、いや、何を考えてんだわたし。

「お前なァ……」
「ひ! 膝でしたよね今のは!?」
「……もういい」

 スモーカーさんは再び押し黙った。わたしも無かったことにした。忘れよう。

 ゆっくりと整っていく、スモーカーさんの脈拍を数えながら考える。もし、ここに居るのがわたし以外の誰かだったら、この人は当然のように抱いたのだろうな、とか。ここまできても手を出さないってことは、やっぱりわたしはこの人にとって対象外なんだろうな、とか。その分大切にされてるってことだろう、とか。わたしが本当に小さい子供だったら難しいこと考えずに済んだのに、とか。実りのない、とりとめもない現実逃避をぐるぐると。

 どのくらいの間、そうしていたのかは分からない。

 ふと、つむじからスモーカーさんの重みが遠のいた。彼の顎にぶつからないよう気をつけながら、そろりと頭上を仰ぐ。目が合った。余裕があるとは言えないが、スモーカーさんの眼差しにはずいぶん理性の色が濃くなってきている気がした。

「……ナマエ」

 紡がれたのはいつものスモーカーさんの声だ。少し掠れてはいるが、それでもさっきまでの誘うような声とは明らかに違っている。わたしは自然と息をついた。どうやら峠は越えたらしい。

「はい、なんですか」
「……分かってんだろ。なんで……逃げねェんだ」
「それは、スモーカーさんが呼んだからでしょう」
「かも、な」

 物言いたげに呟き、彼は曖昧に苦笑した。

 不意に体が軽くなったかと思うと、スモーカーさんは腕を解いて仰向けに身を返した。遠ざかる体温に安心したのか、あるいは逆か、自分ではよくわからない。片手で目元を覆いながら天井に向けて長いため息を吐き出す、形の良い横顔を盗み見る。スモーカーさんは気怠げに目を閉じた。

「疲れた」
「眠れそう……ですか?」
「……」
「スモーカーさん」
「……ん?」
「その」

 口籠もりながら手元へ視線を下げた。スモーカーさんの左手はまだわたしの手の中に収まっている。手持ち無沙汰になった両手でその指先を握りながら、わたしは少しの間言葉を選んだ。

「ごめんなさい」

 主語のない唐突な謝罪は流石に通じなかったらしい。スモーカーさんは訝しげに眉を寄せた。

「――何が?」
「わたしが、その、こんなので。スモーカーさんが、こういう風に溜めて……しまってるのは、わたしが潔癖だからですよね」
「あ……?」

 彼はきっと自分を責めるだろうが、温泉のこととかそれ以前に、こうなったそもそもの原因はわたしにあるのだ。今まではあくまで噂だったし、スモーカーさんにそういう欲求があるのかさえよく知らなかったから、口には出さなかったけど。

「わたしが来る前はよそでなんとかしてたんでしょう。その、昔は、来るもの拒まずだったって……噂も、聞きましたし。だから、ほんとに気を遣わなくていいですよ。外泊とかされても、気にしませんから。スモーカーさんだって不本意だと思いますし。わたしみたいなちんちくりんにまでこんな――」
「オイ、ふざけんな……!」
「ッ、!?」

 いきおい上体を起こしたスモーカーさんが、噛み付かんばかりの勢いで語気を荒げた。これまで、幾度と知れずこの人を怒らせてきたわたしではあるが、今回ばかりは完全に逆鱗に触れたらしい。起き上がった瞬間にシーツの上に押さえつけられた手首が、ぎりりと痛々しく悲鳴を上げた。

「てめェはおれをなんだと――」
「いッ……スモーカーさん、いたい」
「相手が誰でもいいわけ、ねェだろうが」

 スモーカーさんが顔を歪める。刹那、手首の痛みに気を取られていた視線が目前の男に釘付けになった。それは、怒りというよりもむしろ嘆くような表情だった。彼は悲痛げに呻きながら、ひどく落胆したように、震える声で吐き捨てた。

「おれが何のために、……こんな」
「え、……?」
「ああクソ、なんでもねェ。もう寝ろよ、早く」

 スモーカーさんは投げやりにわたしの手首を払い除けると、顔を背けながらベッドに荒っぽく身を横たえた。わたしは理解が追いつかないまま、暗がりに向けられた広い背中を呆然と見つめ返す。
 なんでいきなり、こんな態度を? 確かに冷静に考えれば、すごく失礼な発言をしたけれど、スモーカーさんをばかにしてるって捉えられてもおかしくないことを言ったけど、でも、そこまで機嫌を損ねるつもりは……なかったのに。

 早く寝ろと言われても、こんなふうに突っ返されて眠れるわけがないだろう。と思ったのだが、重なりに重なったハプニングでわたしの疲労は限界を迎えていたらしい。適度なスモーカーさんの気配が入眠を促したのも相まって、わたしの瞼が落ちるまでに、それほどの時間は要さなかった。





 ――朝の日差しに目を覚ます。

 眩しい。……眠い。葉巻臭い。

 ここは……どこだろう。見覚えのない天井が、膜を張ったような視界に映る。ええと……そうだ、今はまだ旅行中だった。ここは宿屋の一室で、昨日の夜、確かここでスモーカーさんと……。

「――!」

 がば、と慌てて身を起こす。すっかり熟睡していたらしい。しっかりばっちり窓側のベッドに寝ていることからして、昨晩のあれはどうやら夢ではない。しかしわたしの隣の空間は――すでに空っぽだ。体温の名残りさえなく、すっかり冷え切っている。
 どうしよう。散々やらかした挙句スモーカーさんを怒らせて眠ったのは珍しく隅々まで記憶にある。そうだ、確か喧嘩別れみたいな形で眠ってしまったのだ。まさかいよいよ愛想を尽かされたのではないかと、寝起き特有の短慮さで彼の影を探そうとして。そこで、ようやく、光源の方から漂ってくる薄い煙に気がついた。

「あ……」

 窓際の一人がけのソファ。朝日を背に、スモーカーさんが葉巻を咥えながら新聞を広げている。開かれた窓から爽やかな春風が吹き込んで、カーテンを気持ち良く揺らしていた。あまりにも穏やかな光景に拍子抜けして言葉を失っていると、おもむろにスモーカーさんが視線を上げる。目が合うなり、彼はふっと可笑しそうに口角を上げた。

「よう。酷ェ顔だな」
「お、おはよう、ございます」

 なんだろう。元気そうだ。あまりに飄々とした態度だから、さりげなく寝起きの顔をばかにされたことにも気づかなかったほどだ。失礼な。

「えと……体調はどうですか?」
「このままじゃマゾにされそうだ」
「は?」
「問題ねェ。昨晩は悪かった」
「あ、いえ。わたしの方こそ、……」

 何言ってんだろうこの人。ぼんやりしたままの鳥の巣頭を撫でつけながらベッドから下り、ひとまずスモーカーさんのもとへ歩み寄る。狐につままれたような気分だ。葉巻を手繰る彼の表情はやはり毒気も妖気もないもので、昨晩のあらゆる態度との落差についつい混乱してしまう。なにせ今のスモーカーさんときたら、まるでティータイム中みたいに伸び伸びした優雅さなのだ。

「やけに、ご機嫌よろしいですね」
「まァな」

 わたしを一瞬見やって、スモーカーさんはばさりと新聞を閉じる。彼は相槌をひとつすると、大仕事をやり遂げたみたいな顔で口角を上げた。

「これで証明できただろ」
「……なにを?」
「おれの安全性について」
「はい?」
「何があっても、おれァお前を裏切るような真似はしねェってことだ。それが知りたくて、ずっとおれを試してたんじゃねェのか?」

 二度、目を瞬く。

 ――あ。そうだ。確かにあのとき、そういう話をしたんだった。した、けど……え?

「おれも安心してんだ。今後お前にゃ手ェ出さずに済みそうでな。大した自制心だと我ながら関心してる。頼むからこれでもまだ足りねェとか抜かすなよ。どれだけ惨めな気分になるかお前は知らんだろうがな」
「あ、……あの」
「ん?」
「昨晩のははじめから、そういうつもりだったってことですか。わたしを呼んだのも、近づくように言ったのも、ぜんぶ……」

 わたしにただ無害であることを証明するために、したことだったのか。それじゃ、同衾を促してきたのは、わたしの体温を求めてきたのは、ただそれを確かめさせるためだったと? そんなまさか。わたしは、てっきり彼が、わたしを……。

「当たり前だろ」

 スモーカーさんはあっけらかんと言った。

「お前もそれを分かった上で話に乗ったんじゃねェのか、ナマエ。まさか何も知らなかったで済ませるほどガキじゃねェよな。そうじゃなきゃ意味ねェだろうが……それともなんだ、まさか期待でもしたのか?」
「なっ」
「冗談だ。お前みてェな奴に手出すほど飢えちゃいねェよ。それほど倒錯した趣味もねェんでな」

 倒錯、って。そりゃ確かに、この世界基準で言えば小学生サイズのわたしは小児性愛者にしか対象にされないのかも知れないけど、わたしだって乙女の端くれなわけで、だからそんな、そこまで言わなくてもいいのに。今に始まったことじゃないけど、ひどい。わたし一人で散々意識してたのがばかみたいじゃないか。
 言葉が出ない。スモーカーさんが一線を踏み越えることはないって、わたしをそういう対象にするわけないって、証明して欲しかったはずなのに。スモーカーさんがわたしを子供扱いしてることは分かってるし。わたしはあくまで彼の大切な同居人として可愛がられてることも知ってたし。なにより、あの極限状態でも最後までわたしを女として求めてこなかったことが全て証明してる。けどそれはわたしにとっていいことなんじゃなかったのか? 期待でもしたのか……って、そんなまさか。別にスモーカーさんとそういうことがしたかったわけじゃない。そんな度胸はない。それなのに。

「――ナマエ?」

 意味が、わかんない。

 なんでわたし、今更こんな気分になってるんだろう。

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