No Smoking


▼ 41-3/4

 ああ、きっと人というのは、自覚しているよりも己の言動を制御しきれないものなのだろう。今回のはいわゆる、勢い余っての失言というやつで、しかし今やり直せたとしても結果は同じになるような気もするから、引くに引けなくなっちゃったぶん時間を無駄にせずに済んだのかもしれない。

「――……ふー……」

 肩まで浸した41℃。裸の膝を抱えて息を吐き、くるくる流動する湯気を睨みつける。思考を鈍らせる動悸の音。どくどくと蠢く手足の血流が、肌に滲む水温の熱に押し進められている。
 白い靄の向こうで、ちゃぷ、とくぐもった水音が響いた。濃く濁ったお湯の表面を、緩やかな波紋が歪めていく。汗か水蒸気か、ひやりとした水滴がうなじから背中にかけての窪みを伝い落ちた。ほてった頬を冷やすには足りそうもない。……あつい。

「――ナマエ」

 気怠げなスモーカーさんの声がする。

 わたしは、ごくりと生唾を呑んだ。



「一体何をそう悩む必要があんだ」
「だって……すっかり失念してたんですもん」

 ――数刻前、受付前のロビーにて。

 それぞれ一人掛けのソファでテーブルを挟んで額を突きあわせ、改めてスモーカーさんと打ち合わせしていたときのことだ。議題はこの宿の温泉施設の利用に関して。受付の方から受け取った手元のパンフレットには、いくつかの写真とそれぞれのプランに即した金額設定なんかが至極詳細に書かれていた。
 さて、温泉を愛する日本人として待ちに待っていたはずのひと風呂だというのに、わたしはなぜこうもグダグダと煮え切らないでいるのか。それは事ここに至るまで頭から抜け落ちていた、我ながらめんどくさいコンプレックスが理由だった。

「なんか、今更やけどが気になっちゃって」

 スモーカーさんは体重を背もたれに預けた状態で、若干の呆れ顔を浮かべながらわたしを見る。視線を受けた左腕を誤魔化すように摩りながら、わたしはぼそぼそと聞かれてもない言い訳を口にした。

「目立つ位置だし、お風呂じゃ隠しようがないじゃないですか。流石にこれだけ根性焼きがあると周りの方も落ち着かないんではないかと……」
「誰も大して気にしゃしねェと思うが」
「かもしれませんけど、誰かと一緒ならまだしも今回は一人ですし、普通に恥ずかしいですし」
「そんなに気になるなら貸し切りゃいいだろ」
「えー、いいんですか?」

 なんだか誘導したみたいになってしまったが、正直気になっていたので願ったり叶ったりだ。この宿は温泉に力を入れているというだけあって、大浴場とは別に貸し切り風呂が用意されている。セント・ポプラの自然を堪能できる景観のいい露天風呂で、ちょっとばかり値は張るもののムードのある素敵な感じなのだ。わたしはいそいそとテーブルに置いたパンフレットと睨めっこした。

「んーまあ、時間制限はありますけど、二人しかいませんし頑張れば入れ替わりで間に合いそうですかね」
「別に急ぐ必要もねェだろ。お前たっての要望なんだ、好きなだけ寛いでくりゃいい」
「それじゃあスモーカーさんは大浴場の方を?」
「いや、おれは遠慮しておく」
「えっ、なんでですか、折角ですし……」
「忘れてやしねェだろうがおれは能力者だ。こんなことで下手にリスクを増やしたくねェ」

 そういえばそうだった。力が抜けるだけならそんなに警戒しなくても、と思いつつ、その間まともに動けなくなることを思えばスモーカーさんも気が引けるのだろう。やっぱりあの海で引き止めにきてくれたのは、彼の性格からして相当なイレギュラーだったに違いない。

「それならやっぱやめにしましょうか……」
「あ? なんでだ、入りてェんならおれに構わず好きにすりゃいいだろう」
「だって今回は一応スモーカーさんのお礼旅行な上、やけどのことはわたしの我儘ですし、一人しか入らないのに広々と貸し切るっていうのも」
「あのなァ……」

 踏ん切りのつかないわたしにいよいよ痺れを切らしたのだろう。スモーカーさんの語気がささくれ立ってきたので、わたしは少し焦ってしまったのだ。そうでなければもう少し考えてからものを言っただろうし、引っ込みがつかなくなる前にいくらか冷静になれたはずである。……ともあれ、今更言っても詮無きことだ。

 わたしは実に何気なくこんな提案をした。

「というか、一緒に入れば済む話じゃないですか?」
「――は?」

 スモーカーさんは一瞬、ぽかんと呆気に取られたような顔をした。それはわたしも同様で、自分が何を言ったのかを理解したのは数秒遅れてのことだった。
 間抜けにもようやく気づく。もしかして、わたし今、とんでもないことを言ったのでは? いやでも合理的に考えて悪い提案じゃないはず、だけどお風呂に一緒に入るって、冷静に考えて、ギリギリアウトな誘いをしてしまったんでは。でもやっぱりこうするのが一番効率的だし、お互い今更気にするような仲でも……なくはないけど、なんせ相手はスモーカーさんだし、まず変なことにはならないだろうし。などと二転三転する混乱のさなか、スモーカーさんが平坦な声で「ナマエ」と名前を呼んでくる。恐らく赤面と冷や汗に塗れて酷いことになっていた顔を上げると、案の定彼の責めるような視線にぐさりと刺し貫かれたのだった。

「本気で言ってんのか」
「あ、いや、っち、がくはないですけど。だってほら、わたしが居たら万が一のことがあっても大丈夫、ですし。湯船も広いでしょうから距離を保って入れば問題ないというか、その方がわたしも気兼ねなく羽を伸ばせますし。へ、変な意味じゃなくてですよ」
「…………お前は……」
「だ、だから。折角ですし、どう、……でしょうか。スモーカーさんがお嫌でなければ、ですが」

 そっと上目遣いに彼の顔を覗き見る。スモーカーさんは物言いたげな表情を顰め、暫し沈黙ののちに、眉間を抑えながら鉛のようなため息を吐き出した。



 ――と、そんなわけで今に至る。

 ひやりとした夜風に満ちた温泉の浴場は、殆どが無骨な厚い石からできていた。橙色の灯が湯気にぼうと霧散し、張られたお湯の表面に鈍い光を振り撒いている。老竹色をした衝立ての化粧枠には、色づいた桃の花が遊女のようにしなだれかかっていた。さほど広くはないけれど馴染みのある空間。どこの世界でも、こういうものにさしたる違いはないらしい。などと、鑑賞しているうちは平静を装えるのだが。
 わたしは浴槽の段差に膝を抱えて座ったまま、額にじわじわ滲んできた汗を拭った。ああ、駄目だ、変に緊張してしまってる。折角のいいお湯なのに、のんびり堪能する心の余裕がない。これでは本末転倒だ。

 どうしてこうなったんだろう。あれほど気乗りしなさそうな態度だったくせ、スモーカーさんは何故かわたしの提案を断らなかった。入浴中以外のタオルの使用を義務付けたりだとか脱衣所はひとりずつ使うのを徹底したりだとか先に入れとかあっち向いててとか、わたしがとにかく面倒なことを並べ立てても文句ひとつ言わなかったし、現在も湯船の端と端にきっちりと距離を保って浸かってくれている。正直言って不可解だった。いや、自分から誘っておいて何言ってんだという話なのだが。

「――ナマエ」

 どきりとした。立ち込める湯気のせいで、向こう側のスモーカーさんの姿ははっきりと伺えない。気怠げな声に不意を打たれ、思わず返事が上擦った。

「な、んですか」
「どうせ見えやしねェんだ……もう少しこっちに来い」
「あ……そう、ですね」

 彼の言う通り、お湯の色は乳白色に濁っていて、浅く手を沈めるだけでもその輪郭をぼんやり霞ませてくる。裸足の裏に感じるざらざらした石の感触はあれど風呂の底も見えそうもないし、肩まで浸かってしまえば体も同じことだろう。いずれにせよ、このまま無言でいても気まずいだけである――とはいえ、お互い無防備な状態で近づくのはちょっぴり恥ずかしいというか……。

「安心しろ。……大して動けもしねェよ」

 宥めるような囁きが湿った空気を揺らした。

 その言葉に釣られたわけではないけど、スモーカーさんの声色が――お湯に浸かってるのが原因なのは分かっていながらも――やけに殊勝に感じられて、わたしは自然と腰を上げていた。タオルを引っ掴んで頭に乗せ、張られたお湯から首だけ出したままの状態で声のした方向に歩み寄る。ほんの少しの好奇心も手伝って、足は存外躊躇わずに湯船の底を這った。
 やがて、靄の中から上裸の輪郭が浮かび上がる。湯船のへりに肘を掛け、やはりけだるそうに座っている見慣れた人影。濡れた白髪を掻き上げる仕草は普段の洗練さをあからさまに失っており、肘から伝い落ちる雫の流れさえ緩慢に見える。その姿を目にした瞬間、猛烈な照れが込み上げてきて、わたしは思わず立ち止まってしまった。いや、なんだろう、おかしいな。初めて見る姿でもあるまいに、一体何を恥じらってるんだわたし。予想外の動悸に硬直していると、それを訝しんだらしいスモーカーさんから、実に無気力な眼差しを向けられた。

「……どうした?」
「え、あ……っ、な、なんでもないです」

 おかしな感情が芽生えたのに気づかれないよう、わざとざぷざぷ水音を立てながらスモーカーさんの足元まで距離を詰める。彼の斜向かいくらいの位置に腰を据え(といっても深さがあるので立て膝である)、わたしは照れ隠しに無理やり口角を上げた。

「しんどそうですね、スモーカーさん」
「あァ、……見ての通りだ」
「あのう、その状態でくつろげるもんなんでしょうか。湯加減はいい感じですけど」
「ン……まァ、悪くはねェな」

 スモーカーさんは目を伏せてほんの少し笑う。よかった、ちゃんと自然に会話ができた。珍しく覇気のないこの人を前にしてるせいかもしれない。

「気になってたんですけど、水に浸かると力が入らなくなるってどういう感じなんですか?」
「まァ、そうだな……実際、そのままの意味だ。動こうとすると力が分散するってのか……てめェの意思に関係なく筋肉が弛緩する、ような感じだ」
「ふうん……因みにその状態ではやっぱし煙になれないんですか? 怪我とか普通にしちゃったり」
「いや……自主的にゃ無理だが、外部から攻撃されりゃ勝手に煙になる。海楼石じゃこうはいかんが……」
「ええ? そんなずるい、ほんとですか?」
「……試してみるか?」

 スモーカーさんの手のひらがふっとわたしの頬を持ち上げてくる。何事かと戸惑って見上げるなり、湿った彼の親指に唇の端を撫でられた。な、なにを。いや、ここで動揺してはいけない。なにしろスモーカーさんの表情は平常通りなのだ。

「ええと……?」
「ほら、噛んでみろ」
「か、噛むって。犬じゃないんですから」
「前はお前からやってきただろ」
「は? いつの話ですか、覚えがないですよ」

 思いっきり素で顔を顰めてしまった。いや、寝ぼけてたってわたしがそんな真似をするはずがない。なんか勘違いしてんじゃないだろうかこの人。
 とはいえ、この状態で噛みついたとして実際どうなるのかは興味がある。我ながらこういう時だけは悠長だと内心苦笑しつつ、口を開いてスモーカーさんの親指を受け入れた。癖のある温泉の香りと、ほんのりしょっぱい肌の味。なにやら妙な感じがする。冷静になる前にと歯を立てるも、肌の弾力はいつまでも裂けてくれない。うーん、加減がわからん。眉を寄せるわたしを、スモーカーさんは面白そうに眺めている。

「痛くないですか?」
「痛くねェよ。今更何を遠慮してんだ」
「だって、ちょっと怖いんですよこれ」
「いつかのお前に聞かせてやりてェ発言だ」

 また言ってる。抗議の気持ちを込め、今度こそ勢いよく奥歯を噛み締めた。刹那、口いっぱいにぶわりと広がるガス状の何か。わたしはいきおい咳き込んだ。

「ケホッ! うええ、変な感じです」
「ハッ」
「何笑ってんですか」
「いや?」
「わぶ」

 いきなり手のひらで顔ごと覆い込まれ、押さえつけるみたいに頭を撫でられた。力はまともに入ってないので痛くはないけど、髪がくしゃくしゃ絡まってきて鬱陶しい。彼の手首を捉えて引き剥がせば、前髪越しにうっそりと目を細めるスモーカーさんの表情が見えた。多分、まだ笑ってる。

「ちょっと、なんなんですかもう」
「お前があんまりガキ臭ェんで……安心してな」
「やらせたのはスモーカーさんのくせに」

 ぶつくさ言いつつ、引っ張ってきたスモーカーさんの手首を裏返してさっきの噛み痕を探した。よく見ると、親指の第一関節、その傍らの切れ込みから薄ら煙が溢れている。わたしの歯形だ。治癒の速度はいつもに比べて少し遅いようだが、それでももう殆ど消えかけだった。スモーカーさんの意思に関わらず勝手にこうなるなんて、やっぱりなんか不思議だ。


「――なァ、ナマエ」

 ぽつり、と眠たげに呟かれるスモーカーさんの声。

 わたしは彼の手のひらから視線を外し、一つ瞬いてそろりと頭上を振り仰いだ。曖昧に目が合う。湯気に霞むスモーカーさんの表情は掴みづらいが、その眼差しは未だ穏やかな色を湛えているように見えた。

「わざとやってんのか、……無自覚かどうか知らねェが、きっとお前は……おれを試してんだろうな」
「……?」

 試してるって……わたしが、スモーカーさんのことを? 逆はまだしも、無自覚どうこう以前に覚えがない。軽く首を傾げる。いまいち、彼が何を言わんとしているのか分からなかった。

「どういうことですか?」
「……お前は少し前まで、もっと……おれに対して慎重だっただろ。過去を思い出す以前なら、こんな軽率な真似はしなかったはずだ。お前は多分……おれを手放しに信用していいのかを確かめてェんだろう」
「え……」
「心当たり、少しはあるんじゃねェのか」

 スモーカーさんがつとわたしを流し見る。

 一瞬、考えて。それからすとんと、腑に落ちた。今まで気付いてなかったけど、わたしがこんな恥知らずな真似をしてしまった理由――そうだ、彼の指摘した通り、確かにそういう部分はあった。

「もしかして、嫌な気分にさせましたか」

 おずおずと口を開く。少し恥ずかしい気分だ。自覚なしに試すような真似をしてたのだとしたら、彼に対して失礼だったかもしれない。例えわたしがスモーカーさんに甘えたいと望んでるのだとしても、それを無理に押し付けるつもりはないのだ。しおらしくなったわたしを見てか、彼の口元に浮かんだのは嫌味のない苦笑いだった。

「まさか……。まァ、やり口は堪ったもんじゃねェが、好都合だ。おれも自信がある訳じゃ、ねェし……」
「自信って、なんの?」
「お前を傷つけずに、やり過ごす自信だ」

 わたしを迎えにきたあの早朝にも、似たようなことを言っていた記憶がある。「それは」と否定しようとしたわたしの唇を、スモーカーさんは手のひらでやんわりと諌めた。

「ナマエ。お前は覚えてねェだろうし、思い出す必要もねェが、おれはあの時……お前に手痛く拒絶されて、てめェでも笑えるくらいショックだった。かなり堪えたよ。あんな気分になんのは、……もう二度と御免だ」

 ――やっぱり、そうだったのか。スモーカーさんがわたしに触れるのを躊躇していた理由は。もちろん、予想はしてたのだ。それでもわたしの言動がこの人を揺るがせたのだと、他でもない本人の口から聞かされて、わたしはどうしようもなくやり切れない気分になった。そんなことは二度としないと言いたくても、あの恐怖がコントロールの及ばないものである以上、絶対に起こり得ないと言い切れないのがもどかしい。少なくとも一回は、わたしはこの人の手を振り払ったのだろうから。
 スモーカーさんの手が口元から離される。何もかも見透かしてるかのように優しく、切れ長の目が眇められる。こちらを覗き込む彼の瞳には、仄かに上気したわたしの顔が映り込んでいた。

「おれも男だ。今も、何かのきっかけでお前をあんな風に怯えさせる可能性はゼロじゃねェ。それでもナマエ、お前が赦す限り一緒に過ごしたいと思う。おれ自身も証明してェんだ……お前の信頼に報いれるのかどうか」
「――……」

 切々としたその声に、思わず胸が詰まった。

 本心を言えば、恥や外聞を捨て去って、素直にスモーカーさんに甘えてしまいたかった。もっと彼に近づいて、あわよくば自分から触れて、陽だまりで微睡むときみたいに安心したかった。それは男女としてではなく、もっと純粋な望みとしてだ。だからわたしは、この人が積極的なスキンシップをどこまで許容してくれるのか知りたかったし、彼がわたしに対して――当然あり得ないという前提の上で――恋慕や劣情などを抱いたりするはずがないことを確かめる必要があった。それは勿論わたしのトラウマに依るところもあるけれど、何よりあの救命措置の話を耳にしてから変に浮き足立っている自分を諌めたかったからだ。スモーカーさんと一線を越えることはないと確信できれば、もっと素直に、彼の傍らに寄り添えるはずだった。
 でも、わたしは自分勝手だったのかもしれない。スモーカーさんがわたしの言動に揺らぐ可能性を、殆ど考えてこなかった。多分、わたしがスモーカーさんに見放されるのが怖いように、この人もわたしからの拒絶を恐れているのだ。思い出してみれば当然のことだった。あの海でわたしを引き止めたのは、彼がわたしを失いたくなかったからじゃないか。

 けれど、分からない。わたしがスモーカーさんを拒むことなんて、この先あるのだろうか。わたしは、この人がいないと生きていけないのに?

「……スモーカーさん」
「ん」
「相手がスモーカーさんなら、大丈夫ですよ」

 少し、はにかみながら口にした。わたしのトラウマが、二度とスモーカーさんに重ならないとは言い切れないけど。それでもやっぱり、根拠はないけど大丈夫だと思う。あの悍ましいものと、スモーカーさんは全く違う。わたしは、ちゃんとそれを分かっている。

「……お前の、タチが悪いのはそこだよな」

 呆れたような、或いは責めるような声が降ってくる。重心を背中に預け、僅かに上半身を沈めながら、スモーカーさんはゆるくため息を吐いた。

「なんですか、それ」
「諦めようと思えば、妙な期待をさせてくる」
「期待、って」
「おれが、裏切りたくねェと宣言したそばからそれか。状況を分かってねェだろ。相手がおれじゃなきゃ、誘ってんのかと疑うところだ」

 思いがけぬ話の方向にぎょっとした。なにをいきなり、まさか本気じゃないだろうけど、冗談……にしては剣呑な表情だ。苛立ってるようにさえ見える。

「ばっ、ばかなこと言わないでくださいよ」
「そうだな、悪ィ」
「……謝られても調子が狂いますけど。わたしだって、相手がスモーカーさんじゃなきゃこんな真似」
「おれがお前に手ェ出すわけがねェからか」
「も、もちろんです。今まで何もなかったんですから、当たり前じゃないですか」
「あァ、そうだったな。てめェみたいなガキ相手にゃ全くそんな気は起こらねェ。今も裸の女を前にして悠長に喋くってるのがその証拠だろ」
「な、――」

 あけすけな物言いに絶句する。吐き捨てるような口調だった。ここ暫く鳴りを潜めていたはずの刺々しさが、ほんの少し漏れ出したみたいに。彼がこういう態度を取るのは、大抵わたしが不用意な発言や振る舞いをした時だ。やはり内心では、わたしの軽率さを咎めているのだろうか。

「すまねェ。……今のは八つ当たりだった」

 自嘲ぎみにそれだけ告げて、スモーカーさんは悪さをした子供のように顔を背けた。

 ――沈黙が降りる。気まずい。もう何を言っても彼の神経を逆撫でする気しかしなかった。 スモーカーさんはわたしの方を向かないまま、表情の失せた横顔を遠くへ投げている。それが取り付く島もないように思えて、わたしはいよいよかける言葉を失った。

「わ、わたし、もう出ます」

 耐え切れなくなって腰を上げた。スモーカーさんはこちらを見てないし構わないだろうと、頭上に乗せたままだったタオルを前が隠れるように広げ、胸元で押さえつつ立ち上がる。ざば、とのし掛かるお湯をかき分けて湯船のへりへ歩み寄った。濁っていて見えづらいが、スモーカーさんが座ってる辺りにあるであろう段差に当たりをつけて足を上げ――

「――え」

 がつ、と予想外の場所でつま先を引っ掛けた。

 全く構えていなかった身体が、思いっきりバランスを崩す。みるみる目前に迫る石造りの段差の角。まずい、転ぶ。異変に気づいたスモーカーさんが、ぎょっと目を見開くのが視界の隅に見えた。

「おまッ……」
「わひゃっ!?」

 咄嗟に突き出した腕が、動きの鈍いスモーカーさんの手にすんでのところで掴まれる。しかし全体重を支えるほどの力は入らなかったようで、彼に引っ張られる形でわたしの体はふらりとよろめいて横転した。バシャ、と大袈裟に水飛沫が跳ねる。しかし、膝を擦りむくはずの衝撃は、わたしを受け止めた何かに遮られて、いつまでもわたしを襲わない。

「は、っあ、危な……?」

 痛みに備えて瞑った目を慌ててこじ開ける。

 視界一面にスモーカーさんの首筋がある。

 タオル一枚隔てても、濡れた肌から伝わる確かに筋肉質な感触。理解が追いつかない。ぴたりと触れているへその下あたりから、スモーカーさんの熱が染み込んでくる。――ぎくりとした。自重に圧迫された胸を、下敷きにした彼の胸板に押し付けてしまっている。わたしのちょうど胸もとからおなかにかけての全面が、さながら低反発マットレスのように、彼の上半身の凹凸に沿って押しつぶされているのだ。

「――……!?」

 慌てて身を起こすより早く両肩を掴まれ、水中の能力者のものとは思えない勢いで引き剥がされた。ざぷ、と太ももの高さで水飛沫が跳ねる。わたしは咄嗟に胸元のタオルが落っこちないよう握りしめた。よ、よかった、見えてない。
 わたしの肩を掴んだままの前のめりの状態で、スモーカーさんは静止している。まずい、何か只事ではない気配だ。なにしろ一応布越しだったとはいえ、胸の感触やその他もろもろはダイレクトに伝わってしまったはずである。いや、この世界基準だとささやか過ぎて気づかなかった可能性も……は流石にスモーカーさんをばかにしすぎか。とにかく恥じらいとか以前に非は全面的にわたしにあるわけで、叱られても仕方ないというか、散々気を遣ってくれたスモーカーさん相手になんて粗相を……ち、痴女かわたしは。どうしよう、今までラッキースケベにはとことん気を付けてきたのに今に限ってどうしてこんな!

「さ……ッ、些末? なものを! ご、ごめんなさい」
「……」
「じ、事故なんです、へ、へんなとこに段差があったもので。今のは不可抗力だったから気にしないで、というかその、ほら、わたしのなんて他の女性の方に比べたら無いようなもんですし。じゃなくて、ええと、ですから、とにかく」
「…………」
「う、ほ、ほんとに、誠に、失礼しました……」

 萎縮しながら謝罪するが、いつまでも経っても怒声は飛んでこない。スモーカーさんは俯いたまま黙りこくっている。
 ……何かおかしい。血管の浮いた腕と軋みそうなくらい食いしばられた歯。その鼻先からぱたぱた滴り落ちている水滴は、もしや汗ではないだろうか。

「あの、スモーカーさん……大丈夫ですか?」

 顔を覗き込めば、らしくもない表情でハッと息を呑むスモーカーさん。わたしを見つめ返すと、彼は酷く耐え難そうな表情で眉を歪めた。下方へ向けて泳ぐ視線とどこか不自然な呼吸。なんだろう、いつになく様子が変だ。

「……っ、さっさと上がれ」
「調子悪そうですけど……能力者って長いことお湯に浸かりすぎたら駄目とかあります?」
「構うな。いいから行け」
「なんか冷や汗すごくないですか?」
「てめェ、いい加減に……ッ」

 絞り出すような声でスモーカーさんが唸る。物凄い顔で睨まれたので、わたしは慌てて立ち上がった。ちょっと心配だけど、更に虎の尾を踏んでは敵わない。これ以上食い下がるのはよそう。

「じゃ、じゃあ、外で待ってるので……」

 とだけ言い残し、わたしは湯船から上がって脱衣所まで一気に駆け込んだ。

 後ろ手に浴場に向かう扉を閉じ、バスマットの上で立ち止まる。そこでようやく、ばくばくと跳ね上がった心臓に気付く。毛先からぽたぽたと垂れ、胸からお腹へと伝っていく雫の温度が冷えてきても、一向に収まる様子がない。わたしは火照った頬を押さえてしゃがみ込んだ。

「ああ……」

 どうしよう。今更、死にたくなってきた。スモーカーさんに逆セクハラをかますなんて。パニクって余計なこと言いまくった気がするし、もう最低だ。

 とりあえず、あとで怒られる覚悟はしておこう。

prev / next

[ back to title ]