No Smoking


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「すいませーん」

 ストライプ柄の屋根に木製の壁、両サイドに取り付けられた大きな車輪。目の前にあるやや背の高いカウンターには、チョークで「OPEN」と書かれた小さな黒板が立て置かれている。そんなパステルカラーのペンキで彩られた大型ワゴン――遊園地でよくポッコーンを売ってるアレだ――に声をかけると、顔を覗かせたのは車体と同じ色のエプロンを纏った気さくそうなおばちゃんだった。

「いらっしゃい。何にする?」
「苺のクレープひとつください」
「苺ね。トッピングも選べるわよ」
「んー、じゃあこのチョコソース追加で。それからアイスコーヒーもひとつお願いします」
「はいはい、かしこまりました」

 メニュー表をなぞっていた指を離し、店員のおばちゃんに向き直る。彼女は手元の紙にさらさら注文を書き入れると、奥のキッチン担当へ手渡した。

 さて、現在時刻は午後3時。昼にこの島へ到着して歩き回ることしばらく、わたしたちが一息入れようと訪れたのはここ――セント・ポプラの中心部、暖かな日差しに照らされた役所前の噴水広場だ。この広場は"春の女王の町"の観光名所である春の庭園、その一部に含まれているため、辺りを見回すとさまざまな春の花が咲き乱れる様子を眺めることができる。そして道端に並ぶいくつものワゴンショップ――つまるところ観光客向けの出店だ――の中で、わたしの心を射止めたのがこちらのクレープ屋さんだ。写真が貼られた手作り感溢れるメニュー表に、"春の女王の島"の名前に恥じぬカラフルな花飾り、そして何より食欲をそそる甘くて香ばしい匂い……うーん、期待大だ。

「もう少し待っててちょうだいね」

 と、頭上から声がかかる。わたしははい、と相槌を返し、念のため周囲を確認しておいた。どうやら他にお客さんはいないっぽいし、彼女の口ぶりからしてそれほど時間もかからないだろう。場所は空けなくてよさそうなので、このまま待たせていただくことにした。
 それにしても、お昼も早めだったし結構な距離を歩き回ったのでわりかしお腹が空いてきている。気を利かせて買ってみたはいいものの、スモーカーさんコーヒーだけで足りるんだろうか。まあさっきお腹は空いてないって言ってたし問題はないと思うが――あ、奥から生地が焼ける匂いがしてきた。今のうちに財布の小銭を確認しとこうかな。えーと、クレープとコーヒーの二品で650ベリー、細かいのあったっけ……。

「ねえ、ちょっとお嬢ちゃん」

 手元からぱっと顔をあげる。話しかけてきた当のおばちゃんは、カウンターに身を乗り出してこそこそと落ち着かない様子だ。はて、何事だろう。

「どうかされましたか」
「向こうのベンチに座ってるお兄さん、お嬢ちゃんのお連れ様? ほら、あの背の高い白髪の」
「え? ああ、多分そうです。よく分かりましたね」
「さっきからずっとこっちを見てるもの」

 くるりと振り返り、背後を窺ってみる。場所取りをしてるはずのスモーカーさんを探せば、道行く通行人の向こうで葉巻片手に一服している姿が目に入った。こんな素敵な庭園で喫煙するなと言いたいところだが、この広場には吸ってくださいとばかりに灰皿スタンドが設置されてるし、残念ながらこの世に路上喫煙禁止法はない。そんなわけですぱすぱ煙を吐くスモーカーさんはおばちゃんのいう通りぼんやりとこちらを眺めていたので、わたしは悪戯のつもりで手を振ってみた。どうせ無視されるのがオチだし……と思ったのだが、意外にもスモーカーさんは葉巻を持った手を煽ぐようにして軽めに応えてくれる。それがなんとなくおかしくて、自然と口元が綻んでしまった。

「いいわねえ、男前な彼氏がいて」
「えっ!?」

 意表を突かれ、握りつぶされたがま口の財布がガチャリと音を立てる。あからさまに動揺したわたしを見て、おばちゃんはきょとんと訝しげな瞬きをした。

「違うの?」
「ち、違いますよ。あの人はただの付き添いです」
「あらそお、それにしては仲良いのね。セント・ポプラにはカップル客も多いのよー、いちゃいちゃしてるからてっきり恋人かと思ったわ」
「い、いちゃいちゃ……」

 こ、心当たりがない。え、まさか今の手を振ったのがだめだったのか。そんな……わたしが子供には見えないらしいのはいいけど、カップルだと思われるのはそれはそれで心外なのだが。

「ははあ、さてはお嬢ちゃんの片想いね」
「!?」
「彼の優しさに甘えて一緒に旅行に来てもらったんでしょ。それでもってこれを機に告白して一気に進展! って腹ね。隠さなくていいのよ。春島の旅行客にはそういう女の子も多いから」
「ち、違いますってば!」
「そんな恋する乙女におばさんからのプレゼントよ」

 ぜ、全然人の話を聞いてくれない。完全におばちゃんのペースである。そんなこんなで唖然としている間に押し付けられてしまったこれ――はなんだろうか。両手に置かれたのは花の塊、どうやら桃色や白色の小さな花が崩れないように編まれたものらしい。

「それ、生花だからすぐ萎れちゃうんだけどねえ。セント・ポプラではちょっとしたお礼にお花を渡すことが多いんだけど、折角だから観光のお客さんにも差し上げてるの。おばさんの手作りで悪いんだけど、髪飾りになるからよかったらもらってちょうだい。因みに彼氏の手先は器用?」
「あ、はい。彼氏じゃないですけど器用ですよ」
「ならよし。いい? クレープは溢れやすいから両手で持って食べなくちゃでしょ。それに託けて手が塞がってるから着けてって彼に頼むのよ」
「いや、ですから、そんなことしなくても」
「応援してるわよ」
「……はあ、それでいいですよもう」

 どうせここだけの出会いだ、潔く諦めるが吉である。おばちゃん相手に弁明したところで敵うわけがないのだ。お花飾りは素敵だし、貰っておいて損もないし、これはこれでよしとしよう。

「それじゃ、お会計950ベリーね」
「……値段上がってません?」
「お花代よ」
「お金取るんですか!?」
「冗談よ」

 そんな感じにおばちゃんに翻弄されつつ注文した商品を受け取り、わたしはようやくスモーカーさんの元へ引き返したのだった。


「お待たせしました」

 両手にクレープとアイスコーヒーを持ったまま噴水前のベンチに駆け寄る。既に葉巻はスモーカーさんの手元にない。わたしが戻る前に片付けたのか、春風に流されて煙の匂いもそれほど残っていなかった。

「あァ、……そいつは?」

 隣に腰を下ろすなり、親指に引っ掛けていた花飾りを目ざとく指摘するスモーカーさん。恐らくこれの話題で店員さんに捕まっていたのを察しておられるのだろう。片想い云々の話題は省くことにして、わたしは軽く相槌を打った。

「あー、おまけにいただいたんです。生花なので滞在中しか持たないらしいんですけど……」
「髪飾りか」
「そうみたいです。可愛いのでついもらっちゃいました。こういうの、春島らしい文化ですよね」
「貸せ。どうせ自分じゃ着けられねェだろ」

 返事をするよりも早く飾りをひったくられ、肩を押してくるりと背を向けさせられる。ああ、図らずもおばちゃんの企て通りになってしまった。なにやら視界の隅にグッドサインをしてる人影が見えるけど、気づかないふりをしておこう。

 一旦髪留めを解き、ほつれた髪を梳いていくスモーカーさんの指先を感じつつ、生クリームの乗った薄切りの苺に齧り付いた。やはりこれも"いちゃいちゃ"の範疇に含まれるのだろうか。しかしおばちゃんの思惑と違ってスモーカーさんがわたしの髪をいじるなんてよくあることである。匂い移りへの不安はあれど、今更ときめいたりはしないのだ。
 しかし、それにしても納得がいかない。わたしとスモーカーさんは贔屓目に見ても凸凹感がすごいというか、とても恋人って風には見えないと思う。まあ、スモーカーさんを一方的に意識してるって点に於いては、わたしの片想いというのはあながち間違いではないのかもしれないけど。少なくとも逆よりはあり得る可能性だ。なにせスモーカーさん、前に「もしわたしがアタックしたら」って例え話をした時もめちゃくちゃ嫌そうにしてたし、女の子に首ったけになることなんか一生無さそうだし。大体この人はヒナさんやたしぎさんみたいな美人さんが周りにあれだけ居てのこれなのだ。わたしの面倒を一生見るとか言っちゃうくらいだから、きっと恋愛感情も願望も持ち合わせちゃいないんだと思う。ともかく、そんな相手に片想いするほどわたしは無謀な人間ではないのだ。そもそも喫煙者だし、歳の差もあるし、体格差も……いや、勿論スモーカーさんとそういう関係になりたいわけでは全然全くこれっぽっちもないんだけど。

「よし、済んだぜ」
「ありがとうございます」

 スモーカーさんの指先が離れたのを見計らい、体勢を元の位置に戻す。ふんわりと漂う花の香りは、髪飾りと花壇の花々のどちらによるものだろう。付けてもらう前より髪の収まりがいいのが悔しいとこだ。

「おかげさまでわたしも全身すっかり春って感じです。折角ですしスモーカーさんにもお花を添えてあげましょうか」
「いらん」
「つれないですねえ。ポケットに薔薇の花を欠かさないサカズキさんを見習ってください」

 そんな言に若干鼻白みながら、スモーカーさんは指先でわたしの肩から花びらを摘む。先ほどの髪飾りから抜けたものだろうか。払い落とされたひとひらを眺めつつクレープを口に運ぼうとしたところで、わたしはようやく左手のドリンクの存在を思い出した。

「そうだ、一応アイスコーヒー買ったんでどうぞ。要らなかったらわたしが飲みますけど」
「いや、貰っておく。ありがとう」
「よかったです。もし足りなかったらわたしのクレープもちょっとくらいなら分けてあげますね」
「いらねェよ。おれに構わず一人で食え」
「えー、美味しいのに。疲れた時は糖分ですよ。あ、わたしにもコーヒー飲ませてください」
「お前な、結局欲しがるならなんで自分の分も買ってこねェんだ」
「だってスモーカーさんが飲むかどうか分かんなかったんですもん。飲みさしでいいんでください」
「はァ、……やっぱりそれ一口寄越せ」
「あっ、待ってください、スモーカーさんの一口はでかいんですよ! もっと控えめに、ああっ」

 わたしの手首を引っ掴んだかと思うとガッツリかぶりつきやがったこの男、許せん。……はっ、もしかしてこれも"いちゃいちゃ"なのでは? いかん、油断も隙もない。我が家では時々あることなので何が何だか、これくらいなら友達相手でも普通にする気もするんだけど、ううん、もう基準が分からん。

「それで、これからの予定なんですけど」

 コホン、と咳払いを一つして仕切り直す。スモーカーさんは白々しく口の端を舐めているが、これ以上いちゃヽヽヽつくのは御免なのででかい苺を取られたことについては不問にして差し上げるとしよう。

「おやつを食べ終わったらスモーカーさんへのプレゼントを買いに行こうと思います。せっかくのお礼旅行ですからね。スモーカーさんに選ばせたらどうせ何もいらんと仰るでしょうし、わたしが勝手に貢ぎますから安心してください。例えばキーケースとかどうですかね、小銭入れにもなる感じの」
「好きにしろ。なんにせよ有りゃ使う」
「よーし、任してください」

 実は前々からスモーカーさんがポケットに鍵やら小銭やらライターやらをじゃらじゃら突っ込んでるのが気になってたのだ。ご自分で用意するほど不便はないのだろうが、実際ケースがあれば横着せずに使ってくださると思う。本人の許可も得たことだし、ここはひとつ奮発するとしよう。
 そんなわけでお次の予定はショッピングだ。わたしは頭の中で予算計画を組み直しつつ、残りのクレープをいそいそと口に詰め込むのだった。



「――お買い上げありがとうございました!」

 さて、そんなこんなで無事買い物を終え、慇懃にも見送りをしてくれた店員のお姉さんに会釈して店を出た。右手に提げたブランドロゴ入りの小さな紙袋、その重みが今回の収穫を伝えてくれる。ここまで来た甲斐あってなかなか理想通りの品が買えた。ダークブラウンの本革で作られたキーケースは、裏地にあしらわれたベルベットの色合いが洒落ている。スモーカーさんが持ったらきっと様になることだろう。
 それにしても、あの"BOSSBO"がメンズの小物まで取り扱ってるとは思わなかった。マリンフォードは田舎ではないとはいえ、こういったトレンディーなブランドは外出の機会じゃなきゃお目にかかれないのだ。もともとファッションに疎い性分とはいえ、わたしも人並みに興味はある。魚人島が近いせいか"クリミナル"や"JKS"の店舗もあったし、折角だから明日また時間があれば見にこよう。

 そんなことを考えながら、スモーカーさんと合流すべくショー・ウィンドウの並ぶ華やかな通りを探す。近場で待つと言ってたし、それほど遠くへは行ってないはずだけど。徐々に傾いてきた日差しに塗り上げられた美しいレンガ作りの街並みを眺めつつ進んでいると、丁度曲がり角の向こうから見慣れた姿が現れる。いつ見ても人を寄せ付けない空気というか、なんとも威圧感のある横顔だ。

「スモーカーさん。どこか行ってたんですか?」

 呼びかけつつ、ぱたぱたと足音を立てて彼の元に駆け寄る。足を止めたスモーカーさんは、わたしを視界に収めるなり纏う空気をほんの少し和らげた。

「あァ、野暮用だ。待たせたか」
「大丈夫ですよ、わたしも丁度出たところでした」

 スモーカーさんは正面のわたしを見下ろしたまま、そうか、と口にして目を細める。多分、地面の石畳が斜陽を反射して眩しいのだろう。気を遣って視線を外すと、不意に彼の左腕が目に留まった。ポケットに突っ込まれた手の甲から袖口の肘までを切り取られた上腕には、何か物足りなさを感じる。

「あれ、さっきまでしてた腕時計は?」
「メンテナンスだ。碌に使っちゃいねェが、こんな機会がないと手入れもしねェんでな。明日また取りに戻る……で、目当てのもんは買えたのか」
「はい、バッチリです。折角ラッピングしてもらったのでまた家に帰ったらお渡ししますね」

 確かに今日はもう宿に帰るだけの予定だし、時計を預けるにはいいタイミングだっただろう。一日歩き回ったから疲れも出てきたし、そろそろ休みを取りたいところだ。そんなふうに考えていると、目の前にスモーカーさんの伏せた右手が何気なく差し出される。いきなりのことに、わたしははてと首を傾げた。

「手ェ出せ、ナマエ」
「? はい」
「やる」

 素っ気ない口振りと共に、差し出した手にひんやりとした感触が落ちる。いきなりなんだろう。深く考えずに見下ろすと、手のひらの上にはつるりとした金色の輪っかが乗っていた。……指輪?

「えっ!?」

 慌てて人差し指と親指でつまみ上げ、くるくると光に当てながら細部を確認する。ほっそりとしたシンプルなリングだ。よく見ると蔦のような意匠が象られていて、金属の反射に複雑な模様を描き出している。

「わあっ、かわいい……え、うわあ、ありがとうございます!」
「サイズは?」
「あ、中指ならピッタリです。わたし手小さいのにすごいですね」
「ピンキーリングだからな」
「こ、小指用……?!」

 これが小指なら世の中の人の手はどれほどでかいというのだ。だってこれ多分女性ものなのに。ていうか入らなかった場合のこととか考えてたんだろうか。勘で買うもんじゃないぞこんなの。

 色んな意味で動揺しているわたしに対し、スモーカーさんの態度はしれっとしたもので、少しの違和感も伺えない。からかうって感じでもなければ浮かれた様子もない、贈り物だからと改まった感じでもない。謎すぎる。わたしの認識では、指輪のプレゼントってかなりこうなんというか、アクセサリーの中でもハードルが高いイメージなのだが……一体この人はどういうつもりでこんなものを。
 いや、深読みはすまい。時計を預けてたって話だし、貴金属店だかジュエリーショップだかで気まぐれに手に取っただけだろう。というか単に、奢ると言い張るわたしへの意趣返しかもしれない。なにせやたら品のいい、ちゃんとした指輪だし――って、まさか。

「待ってください、これって本物の純金なんじゃ」
「偽物を渡すと思うか?」
「ちょっ……と、あの、これ幾らしたんですか」
「安心しろ、安モンだ」
「い、いや、本物なのに安いわけ」

 羽根のように軽いはずの中指のリングが、急にズシリと重みを増す。こんなものをさらっと、しかも生身で……怖、これが大人の金の暴力? ていうかこれ絶対わたしからのプレゼントよりお高いんだけど、え、どうしよう。奢るどころかむしろ何気なく借りを増やされたのだが。見せつけられた財力の差、すごくひどい。
 動揺しまくるわたしを置き去りに、さっさと歩き始めるスモーカーさん。文句も返品も受け付けないといったご様子だ。相変わらずの我が道を往く態度に半ば諦めつつ、「待ってください」と後を追いかける。結局借金は差し引きゼロ、むしろマイナスになってしまったけど……まあ、いいや。物自体はとても気に入ってるし、スモーカーさんがくれたものを突き返す気は端からない。くれぐれも失くさないようにしなくちゃ。

 追いついた彼の隣を歩きながら、頭上に手を翳す。一際鮮やかな陽光に煌めいている中指の金色。未だ現実感のないそれに、わたしは小さく嘆息した。

「――まさか、生まれて初めて男の人からプレゼントされたアクセサリーが指輪で、くれるのがスモーカーさんになるとは思いませんでした」
「不本意だったか?」

 くつりと笑いながらスモーカーさんは問う。

「んん、まあ、……意外とそうでもないですね」
「そりゃ何よりだ」
「これが最初で最後になるかもしれませんし、それに……わたしにとっての初めての経験は大抵スモーカーさんが持ってっちゃってますから、今更ですよ」
「いいな。魅力的な言い回しだ」
「?」

 スモーカーさんがふと足を止め、鼻先をわたしの方へ傾ける。彼の口元にはまだ曰くありげな微笑みが浮いていて、しかしわたしにはその理由がいまいち思い至らない。スモーカーさんは翳したわたしの手を退けながら、指輪のついた中指を撫でるように指を絡ませ、それからそっと目を眇めた。

「お前の初めてをどこまでおれにくれるんだ?」

 ……これってセクハラなのでは?

 熱の上ってきた頬を誤魔化したくて、手を握られたままじろりとスモーカーさんを睨みつける。どこまでもなにも、同居も添い寝も救命措置とはいえ唇も奪われてしまってるわたしからこれ以上何を取り上げようというのだ。……まあ、言い出したのはわたしだし、過剰に反応して墓穴を掘ったら最悪なので、強く言い募りはしないけども。

「……仕方ないので、初めての男の人との二人旅、はスモーカーさんにあげますよ」
「そりゃ光栄だ」

 嘯くスモーカーさんに、ふ、と笑みを返す。

 我ながら、今日は少し浮かれすぎかもしれない。けれど結局のところ、わたしはあの夜からこの人のために生きているのだ。わたしみたいな物のそれにどれほどの価値があるのかと思うけど、スモーカーさんが喜んでくれるなら悪くない使い道だろう。
 宿に向けての道を、再びスモーカーさんが歩き出す。さりげなく繋いだままの彼の手のひらは、心地よく渇いていて暖かい。気恥ずかしいような、落ち着かないような妙な感覚のまま、親指でこっそり指輪の縁を撫でた。髪飾りから漂う花の香りも、首に下げたドッグタグも、左腕のやけども含め、なんかどんどんこの人に染められてるなあ、などと仄暗い愉悦を覚えそうになり、いやいやと慌てて振り払う。

 なにはともあれ、このままいけば今日は無事に終えられそうだ。朱色に染まり出した空を眺め、わたしはひとつ深呼吸をした。

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