No Smoking


▼ 41-1/4

「うわあっ――」

 半円形の車窓一面に広がる鮮烈な碧。

 それはどこまでも続く、見渡す限りの大海原。

 動力部の煙突から吐き出される白い蒸気が、棚引く雲となって空を渡る。高らかな汽笛を鳴らして駅を出航した蒸気船、海列車"パッフィング・トム"――。車窓から身を乗り出し、激しく吹きすさぶ潮風に髪を押さえながら、わたしは思わず歓声を上げた。

「――……イ」

 呼ばれた気がして振り返れば、向かいの席には渋面のスモーカーさん。窓から入り込む突風を浴びながら、鬱陶しそうに顔を顰めている。どうやら何か仰られたようだが、しかし――ただでさえ車両全体が音を立てて揺れているのに、窓から頭を出している状態では尚のこと――ごうごう吹く風に流されて上手く聞き取ることができない。無視するわけにもいかないので、わたしはやむを得ず声を張り上げた。

「はい? なんか言いましたか!」
「……から、――……!」
「なんて?」
「――危ねェから身を乗り出すな!」

 と、同じく身を乗り出して耳元で怒鳴ってきたスモーカーさんに、ぐいっと首根っこを掴まれる。座席に引き戻されて尻餅をつくなり、問答無用とガラス張りのギロチン窓を下げられてしまった。風が途切れ、舞い上がっていた前髪がぱさりとおでこに落ちる。ああ、せっかくの絶景が。
 恨みがましく睨めども、スモーカーさんときたら乱れた髪を掻き上げつつ素知らぬ顔だ。まったく無粋な、こちとら初めての海列車なんだぞ。ちょっとくらいはしゃがせてくれたっていいのに……と視線だけで抗議するも、彼は「いいから大人しく座ってろ」とつれない態度で言い聞かせてくるのだった。ちぇっ。

 さて、何はともあれ今日は待ちに待った贅沢旅行の決行日。その滑り出しは大変順調だ。準備は万全、天気は快晴、出発時刻も予定通り。念願の海列車ではちょっといい席の切符も買えたことだし、早起きして定期便を乗り継いだ甲斐もあるというものである。そしてこの海列車の目的地は"春の女王の町"セント・ポプラ。年中花の咲き誇る美しい街並みが特徴で、造船で有名なウォーターセブンと木材を取引しているくらい自然豊かな島なのだとか。わたしはもうマリンフォードの外に出かけること自体がずいぶん久しぶりなので、それだけで心も躍るというもの。うーもう、はちゃめちゃに楽しみだ。滅多に取れない休暇なので、スモーカーさんも羽を伸ばしてくれるといいのだが。

「今日、晴れてよかったですねえ」

 間延びした声で呟きつつ、未練たらしく窓に張り付けていた顔を剥がして正面のスモーカーさんに向き直る。彼はわたしとすれ違いに車外を眺めながら、あァ、と実に素直な相槌をくれた。

「今は比較的波も凪いでる。この分だと予定通りに着けそうだな」
「はい。とはいえセント・ポプラに到着するのは大体お昼過ぎですから、まだまだかかりますよ」

 一応暇つぶしの用意はいくつかしてきたものの、葉巻も吸えないスモーカーさんにはちょっとばかし酷かもしれない。とはいえこの人相手に会話で苦労することは滅多にないし、だらだらしゃべくっていればそれほど退屈はさせないだろう。こういうゆったりした時間こそが旅行の醍醐味なのだ。うんうん。

「で……昼飯の予定は?」

 移動時間についてはさしたる問題も感じなかったらしい。窓から差す日に照らされたスモーカーさんの横顔は、あっさりと次の話題に興味を移していた。とはいえ、ここらで予定の擦り合わせをしとくのは悪くない提案だ。わたしは軽くかぶりを振った。

「まだ決めてないです。着いてから探そうかと」
「なら列車内で済ませる手もあるが」
「あれ、海列車ってご飯食べれるんですか?」
「あァ、第四車両に給仕室がある。確かプッチのシェフを雇ってるって話だ。少し値は張るが、味に関しちゃ"美食の町"のお墨付きだぜ」
「いいですね、それでいきましょう。今回に限っては金に糸目をつけないと決めてるので」
「お前の奢りってのも落ち着かねェがな……。で、セント・ポプラに着いてからの行き先は決めてんのか」
「あ、それならこれ、行きたいとこの候補に付箋貼っといたのでよかったら見といてください。まあわたしとしては、町をぶらぶら散策するだけでも十分楽しめる気はするんですけどね」

 などと何気ない会話。鞄から取り出した旅行雑誌をどうぞと手渡せば、スモーカーさんは膝の上にページを広げて存外丁寧に目を通し始めた。ふむ、わたしが独断で計画した旅行だったので不安だったのだが、この人も結構乗り気なんだろうか。それなら急かしては悪かろうと、わたしはスモーカーさんの手元から視線を外した。

「……」

 カタ、コト、カタ、コト一定のリズム。窓枠に肘を載せ、揺蕩う線路を手繰る滑車の音を聞きながら、微かに込み上げる郷愁に浸る。電車なんか、以前は特段意識もせずに利用していたもんだけど……。もう現代に帰れないと分かった今となっては、こういうちょっとしたことでも感傷的になるのだ。とはいえ、過去の情景と重ねるには共通点が限られすぎてるのだが。

 俯きがちのスモーカーさんを視界の隅に捉えつつ、くるりと列車の内装を見回してみる。木彫の壁、金の装飾、やたら高いペンキ塗の天井。この世界準拠のサイズ感で造られている海列車は日本の電車の1.5倍くらいにはでかいので、こうして座っているわたしの両足もギリギリ床から浮いてしまう。踏ん張りが効かないせいで、ときどき車両が波に揺られると、爪先がスモーカーさんの脛にぶち当たるのが申し訳ない限りだ。まあこれに関しては、この人の無駄な脚の長さにも原因がある気がするけど。

 わたしは流れていく景色を眺めるふりをしながら、旅行パンフレットに視線を落としているスモーカーさんを盗み見た。左手首の腕時計、肘まで袖を折り上げたグレーのワイシャツに黒のスラックス、それから靴箱の奥底に仕舞われていたUチップの革靴。海兵然としていない彼のラフな出で立ちは、わたしをどことなく新鮮な気分にさせる。一つ屋根の下で暮らしていれば時折り見かける姿ではあるのだが、こう改めて目にするとやけに格好がついて見えるから不思議だ。
 ぱら、と節ばったスモーカーさんの素手がページを捲る。短く切り揃えられた爪の形。血管の浮いた手の甲は、日焼けしていないせいかやや色白に見える。普段革手袋に覆い隠されているそれらが無造作に衆目に晒されていることに、わたしはやたらと落ち着かない気分になるのだった。

「――……?」
「!」

 視線を感じたのか、スモーカーさんがふと伏せていたおもてを上げる。わたしは咄嗟に窓の外へ目を逸らした。危ない危ない。じろじろ見てたこと、ばれなかっただろうか。

「おい、ナマエ――」
「あっ見てください、スモーカーさん! あそこ! 煙が出てますよ。あれってなんですか?」
「ただのホットスポットだ。ちったァ落ち着け。今のお前はガキ扱いされても本気で反論できねェぞ」
「せっかくのお出かけとあって洒落込んできたわたしを前になんたる言い草ですか。今日のわたしのかわいさを舐めないでください」
「……はァ」

 捲し立てるようなわたしの弁に上手いことはぐらかされてくれたらしい。言いかけた言葉の続きを口にする気も失せたのか、呆れ顔でため息を吐くスモーカーさんに内心ホッとする。……と、いうか。

「あの、因みに……本当に子供っぽいですか? これでも一応……スモーカーさんの隣に立つので、あんまりちぐはぐに見えないように気を使ったんですけど」

 実際、洒落込んできた、というのはあながち冗談ではないのだ。よそ行きすぎて着る機会を見失っていた刺繍入りのワンピースは下ろし立てだし、スニーカーは厚底で数センチ盛ってみたし、何より鏡の前で格闘の末なんとか整えたヘアスタイルは拍手喝采で褒め讃えられてもいいと思う。言動はこれが素なので仕方ないとしても、身だしなみに関しては大人っぽく見えるようにらしくもなく頑張ったのだ。これだけやってなお子供扱いを受けたら若干傷つくかもしれない。

「"ちぐはぐ"ってのはどういう意味でだ」

 片手でパンフレットを閉じながら、スモーカーさんは気乗りしなさそうに尋ねてくる。当然というべきか、この人は今のところわたしの格好については一切触れてきていない。別に期待はしてないし褒められたいわけでもないので構わないのだが、それはそれとして客観的な意見は知りたいところだ。

「そのまんまの意味ですよ。だからつまり、いちいち関係性を勘繰られないくらいにはこう、スモーカーさんといる時のミスマッチな感じを減らしたいってことです」
「そりゃ……無理じゃねェか?」
「難しいのは分かってます。そもそもスモーカーさんは海兵ですし、それを抜きにしたって堅気の人間には見えませんし」
「お前は海兵をなんだと思ってんだ」
「ヤクザの類なのは間違いないです。まあともかく、百歩譲って変な目を向けられるのはいいとしても、スモーカーさんと親子扱いを受けるのだけは勘弁願いたいんですよ。ほんと、今日はこれで年相応に見えたらいいんですけど」

 スモーカーさんは胡乱げな眼差しでわたしの頭から足までを順繰りに辿っていく。それから顔を上げると、彼はなんとも言い難い表情で眉を顰めた。

「他人の目なんざどうだっていいだろう」
「……そう仰られると思いました」

 しかしどうでもいいと片付けられては元も子もない……というか、今はそういうことが聞きたいんじゃないのに。こと世間の目に関して、無頓着なスモーカーさんと神経質なわたしは永遠に分かり合えないらしい。鋭いわりにデリカシーに欠けるこの人のことだ、もしかしたら具体的にどこがどう気合が入ってるのかさえ分かってないんじゃなかろうか。
 あーあ、なんか虚しくなってきた。この分だと、今朝のわたしの奮闘は実際無駄な努力に終わるんじゃないかって気がしてくる。ともすれば先程のスモーカーさんの発言も、年相応には見えないが他人の目なんか気にするな……というフォローだったのかもしれないし。そういう話はあんまりしないから分かんないけど、この人ってやっぱり、未だにわたしのことが12歳くらいのお子様に見えてるんだろうか。実際のところどうなのか……。

「ナマエ」

 そろそろめげてきて口を噤むわたしに、スモーカーさんは無表情と縦に持ったパンフレットを突き返してくる。正面切って見つめ返す気力は湧かず、わたしは通路の方へ目を逸らしながら視界の外へ手を伸ばした。そうして指先に触れた紙の厚みを掴むと――

「安心しろ。お前はいつも通り可愛い」
「かわ……」

 あるべき支えを失ったパンフレットが、ばさりとわたしとスモーカーさんの脚の隙間に滑り落ちる。ど、動揺して落っことしてしまった。そんなまじめくさった声で言うことじゃない、ていうかいや、なん、いきなり何を言い出すんだこの人は、

「なななんですか、今はそういう話してるんじゃ」
「……顔が赤ェぞ」
「違います、びっくりしただけです。そんな、大雑把な感じで煽てようったってそうはいきませんから」
「あァ、よく分かってる。勿論な」

 スモーカーさんがぐいと身を乗り出してくるので、思わず背もたれに背中が張り付くまで後退る。ごつ、とぶつかる膝と膝。こちらを覗き込んできたスモーカーさんは、やたら底意地が悪そうに目を眇めていた。

「例えば、朝っぱらから散々時間かけて4、5回着替えた挙句、何を悩んでたのか分かんねェような大人しい一張羅を選んでくるところもお前らしいし」
「な、なんでそれを」
「30分近く粘った甲斐あって寝癖も落ち着いてる――かと思えば、大はしゃぎで海列車の窓から身を乗り出してたせいで無意味になってやがるし」
「えっ、うそっ」
「靴で身長を底上げしたがるくせ、ヒールは選ばない辺りに旅行に対する堅実さが出てるな。まァ、全部引っくるめてお前には似合いだと思うぜ」

 こ、この野郎。全部気づいてんじゃないか。

「……あの、もしかして、ばかにしてます?」
「本心だ」
「つまりからかってることは否定しないと」
「どうだかな」

 素っ気なくそう告げるなり、スモーカーさんは身を引いて何事もなかったかのように体勢を戻す。うぐぐ、しれっとした顔で余計なことばっかりあげつらって……。奥歯を何度か噛んで反撃の言葉を探ったが、どうせ毎度の如く何を言っても堪えやしないのだ。ああもうほんとやだ、デリカシーがないってのだけは正解だったけど。
 
「髪、直してやろうか」
「いりません。お気遣いどうも」
「フ……」

 前髪を押さえつけつつじとりと睨めば、スモーカーさんはいよいよ耐え切れなかったように破顔する。ちくしょう、一体何がそんなに面白いんだ。わたしの無様を曝して楽しいかこのやろう。

「ナマエ」

 宥めるような声に思わず威勢が削がれかける辺り、わたしは相当ちょろいらしい。スモーカーさんの口もとにはまだ機嫌良さげな笑みが乗っていて、もしかしてこの人にしては相当浮かれてるんじゃないかと今更に思い当たった。実に腹立たしい。巻き込まれるこっちの身にもなって欲しいものだ。

「……なんですか」
「おれァこれでも喜んでんだぜ。他人がどうかは知らんが、お前がおれを意識して着飾ってきたってのに悪い気はしねェさ」
「別に、スモーカーさんのためじゃ」
「それでも、だ」

 穏やかなスモーカーさんの口調のせいで、わたしは思わず言葉に詰まる。なんだろう、この会話。なんというかその……こう表現するのも不本意だけど、付き合いたてのカップルじゃあるまいし。素直すぎるスモーカーさんには、なんかこう、調子を狂わされる。

 どもりつつ「そうですか」などと口にして、髪を弄りながら膝の方へ目を落とした。視界に入った床のパンフレットにこの居た堪れなさから抜け出す言い訳を見つけ、わたしはのろのろと身を屈める。なんだか少し、スモーカーさんの態度が以前とは違っている気がした。悪態を吐いてても棘がないというか、前までは眉を顰めてたようなわたしの物言いも受け流してくるというか、なんとなく余裕があるというか……より一層、掴みどころが無くなったような。やっぱりこれって、わたしがあの晩、スモーカーさんに縋りついたのが原因なのだろうか。それとも単にわたしが戻ってきたからか、或いはあのときジャケットを持ち込んでたことがばれたせいか(少なくともあれからスモーカーさんはやけに機嫌がいい)。わたしの行動がこの人の感情にどういう影響を与えたのかは、はっきりとは分からないままだけど。

 はあ……この旅行、今のスモーカーさん相手に――主にわたしのメンタル的な意味で――無事に終えられるのだろうか。気持ちの整理はついてきたとはいえ、人工呼吸の件も若干尾を引いているというのに。家に戻ってからの反応を見てもスモーカーさんは多分そんな些細な事件は忘れてるし、そもそもわたしが知ってることさえ知らないだろうし、わたしだけいつまでも気にしたってしょうがないのは分かってるのだが。

 パンフレットの埃を払って、そろりと体を起こす。スモーカーさんの眼差しはとっくに窓の外へ投げ出されていたので、わたしはようやく胸を撫で下ろすのだった。

prev / next

[ back to title ]