No Smoking


▼ 04-2/3

 垂涎ものの香ばしい貝の香り。フォークでくるくると巻いてやれば、スパゲッティに絡まるオイルソース。その熱気と湯気がわたしを急き立てている。堪らずゴクリと唾を飲んだ。
 待ちきれない、と口に含んだ途端、舌に染み渡るのは溢れんばかりの旨味とピリリとした香辛料の刺激。新鮮なアサリのダシがいい感じに効いている。んん、おいしい。ボンゴレ、最高だ。

 買い物をしながら島をぐるりと回り、ほとんど反対方向までやってきたわたしたちは、そろそろお昼時だからと手ごろなカフェでランチをしている。店内は木製の壁や家具を白いペンキで塗りあげた、爽やかな雰囲気のお店だ。にしても、今更ながらたしぎ姉さんとデートというシチュエーション、全海兵に妬まれてしまいそうです。

「ナマエさん、本当にこれだけでいいんですか?」

 たしぎ姉さんも同じようにスパゲッティを食べながら、椅子に乗せられた紙袋を心配そうに見やった。両手で持てる程度の数しか購入していないことに、「遠慮しなくてもいいんですよ」と困り顔で告げられる。

「いえ、服は着心地のいい寝間着さえあれば十分ですもん。追加の私服はこれくらいで……だいたい船旅は汚れるんだから、いい服を買っても仕方ありませんよ」

つるるとスパゲッティを咀嚼しながら笑うと、たしぎ姉さんも無理強いはできなかったのか「ナマエさんがいいなら」と控えめな相槌を打った。

 それに、わたしはたしぎ姉さんのお下がりをわたしを気に入っている。差し上げますよ、と渡された当初は最終的にお返しするつもりだったのだけど、高い頻度で着まわしているうちに、煤や埃でかなり汚してしまっていた。それを突き返すのも申し訳ないと、結局わたしはたしぎ姉さんの服をありがたく頂戴することにしたのだ。
 しかし貰えるものは貰う精神とはいえ、船旅とあっては衣類は限られているはず。むしろたしぎ姉さんこそ服を買うべきだと思う。そう伝えると、たしぎさんは否定するようにぱたぱたと両手を振った。

「わ、私はいいんですよ! 気を使わなくていいと言っているのに、みなさん女性だからと荷物はたくさん持たせてくれますから」
「それならいいんですけど……。まあ、心配なさらずとも、わたしの服だってこれだけあれば大丈夫です」

 実際、このショッピングは経費で賄っているらしいとはいえ奢りなのだ。後で返すあてはないのだし、タダほど高いものはないとも言う。自分のお金でも無いのに好き放題使うのは、それなりに抵抗があった。

「それに、わたしのお目当てはこれからなので」
「ふふ、それもそうですね」

 おそらく弾けるような笑顔のわたしに、たしぎ姉さんもつられたように笑みを零す。そう、食後わたしたちが向かう先……それは買い物と聞いた時からわたしがずっと楽しみにしていた、いわゆるホームセンターに他ならない。
 そこに行けばわたしの望むものがあるはずだと、期待に胸を膨らませる。きっと見つけられる、自室であろうと葉巻の匂いを打ち消す、最新鋭の消臭兵器が……!ああ、これを喜ばずにいられようか。

「あ、わたしばかり要望を聞いてもらうのもなんですし、たしぎ姉さんもいい武器屋さん見つけたら、寄ってもらって構いませんからね」
「えっ! それは嬉しいで……い、いえ、でも」
「お互い様ですから。それに、たしぎ姉さんもずっと気を張っているのは疲れると思うので」
「……ありがとうございます、ナマエさん」

たしぎ姉さんはほんの少し頬を染めて微笑んだ。瞬間トキメキが駆け抜ける。突然わたしを襲ったいじらしい可愛さに、心臓はノックアウト寸前だ。それは罪深いよ姉さん。

「私、あまり女の子同士でお買い物とかしたことがなくて。今日はナマエさんとご一緒できて、とても浮かれているんです。私頼りないですけど、船の上でも困ったことがあったら、いつでも相談してくださいね!」

 わたしの手を取りながら、彼女は明るい声でそう告げた。ああ……たしぎ姉さんの気遣いが胸に染み渡る。わたし、結婚するならあなたのような人とがいい。




 昼食を終えて店を出る。うーん美味しかった。特にあのあと食べたデザート、ほろりととろけるようなあの甘さが絶妙で最高だった。
 さてと気を取り直し、目指すはホームセンターだ。わくわくと浮かれた気持ちのまま、たしぎ姉さんと歩き出そうと――して。

「おらァ! 退け退けェ、海賊様のお通りだァ!」

 突然、根性の悪さを前面に押し出したような、粗暴な怒鳴り声が、道の向こうから響き渡った。なんだろう、と思うよりも早く、たしぎ姉さんに腕を引き込まれ、彼女の背中に庇われるような姿勢になる。あまりに迅速な対応に、わたしはまったくついていけていなかった。

「え、たし……」
「海賊……ッ! こんなところで!」

焦りと敵意が入り混じったような声で彼女は歯を食いしばり、刀に軽く手をかける。
 海賊、今のが。わたしのような人間には、まったく馴染みのないその総称。日本で普通に生きていれば暴力団とすら遭遇する機会はないというのに、人殺しも辞さない海賊となると、あまりにも現実離れしすぎている。

「ナマエさんは道の端へ避難していてください!」
「わ、かりました」

 慄く内心を叱咤しつつ、わたしはたしぎ姉さんに持ってもらっていた紙袋を受け取り、指示に従って壁際に移動する。それを見届けたたしぎ姉さんはこくりと頷くと、視線を道の向こうへ向けて、じっと海賊の動きを警戒した。

「道を開けろォ! この島の港はおれたちが占領した! 死にたくなきゃ従いやがれ!」

 道の向こうから姿を現したのは、如何にも海賊、といった風体の大男だった。幾人もの海賊を従えて、武器を振り回しながら民間人を襲っている。物が壊れる音に紛れて、あちこちから悲鳴が上がっている。
 ああ、信じられない、彼らの武器に絡まる赤いものは血、だ。本物の。人が人を殺す、そんな作り話のような光景が目の前で広がっている。

 たしぎ姉さんはメガネをかけ直しながら、ぎりりと奥歯を噛み締めた。

「ッ、民間人を襲うなんて……!」

その声から怒りが伝わってくる。カフェの店主が「お姉さん、逃げなさい!」と呼びかけても、彼女は道の真ん中に立ったまま一歩も引こうとしない。わたしが海兵である彼女を心配するのはお門違いだと分かっていても、たしぎ姉さんはあの大男を、あの人数を、人殺しすら辞さない恐ろしい海賊たちを、たった一人で相手取れるのかと不安になる。だが、心配したところでわたしにできることは何もなかった。

「……オイ、ねーちゃん。おれの言うことが聞こえねェのか?さっさと道を開けろって言ってんだ」

 反抗的なたしぎ姉さんが癪に触ったのか、大柄な海賊が数人の部下を引き連れてずかずかと詰め寄ってくる。それにしてもかなりの巨漢、たしぎ姉さんが子供に見えるほどのサイズ差だ。しかし彼女はそんなことは物ともせずに、高い位置にある男の顔を負けじと睨み返して声を張り上げた。

「港を襲ったんですか!? 一体なんのためにそんなことを……!」

海賊の間から下衆な嘲笑が起こる。

「ハッハッハァ、威勢が良いな! ンなの決まってんだろォが、この島をおれたち海賊団のモノにしてやるためさ!」
「そんなことはさせません」

たしぎ姉さんは凛とした声でハッキリと言い切った。その声に気圧されたように、海賊たちは笑うのを止める。大男が額に青筋を浮かべて、ドスの効いた声で脅しをかけた。

「この女、海賊の怖さを知らねェようだな……!」

海賊が巨大な剣を容赦なく振り上げる。周囲のギャラリーが恐怖にどよめく。わたしは悲鳴を飲み込んで拳を握り、たしぎ姉さんから目を逸らすまいと息を飲んだ。

 大剣が空気を切る、重たい音。

「……海賊の怖さなら、あなたよりは知っているつもりです!」

ズダン、と踏み込むと同時に、たしぎ姉さんは吠える。彼女は刀を抜き放ち、海賊とすれ違いざまに素早く剣尖を振るっていた。

「ッガ、ア……!」

大男の胸に斜めの刀傷が刻まれる。息をつく間も無く勝敗は決した。大男が正面から崩れ落ちるのを見てようやく、人々からは歓声が上がり、海賊たちには動揺が走る。

「海軍本部曹長、たしぎです! 問答無用、私があなたたちを捕縛します!」

たしぎ姉さんが威勢よく言い放つと同時に、海賊たちの一斉攻撃が始まった。


 たしぎ姉さんは強かった。圧倒的な勢いで彼女は海賊たちを叩きのめしている。普段トロ女、とかマヌケ、とかスモーカーさんに散々言われている彼女は影も形もなくて、太刀筋は思わず目を奪われるほどに華麗だった。彼女が武器で他人を傷つけるさまは恐ろしかったが、一太刀一太刀に宿る正義の意志は、血生臭いものでは決してなかった。だって、たしぎ姉さんが殺さないように、無力化させるべく斬っていることは、わたしにだってわかる。

 ああ、ひとまずは大丈夫なようだ。ほっと息を吐き出しそうとして――気づいてしまった。たしぎ姉さんの死角に、銃を構えた海賊が控えている。

 たしぎ姉さんは気づいているのだろうか。そもそもわたしはたしぎ姉さんの実力を知らないが、いくら何でもあの至近距離で銃弾を斬ることができるほど人間離れしているとは思えない。どうしたらいいんだ。あの海賊、多分たしぎ姉さんの疲労による隙を狙ってる。

 素人の余計な手出しは足を引っ張るだけだ。

 しかし、もし彼女が撃たれたら、わたしはきっと、手を出さなかったことを後悔する。

 そんなことに気を揉んでいるうちに最後の一人が、すらりと斬り捨てられた。その一撃の反動からか、流石のたしぎ姉さんもたたらを踏……え、嘘だろう。何もない地面で躓いた彼女は正面から転倒し、メガネが吹き飛んで――まずい。

「たしぎ姉さん」

叫び声にもならない叫びをあげ、ああ、間に合わないと察知した瞬間、わたしはポケットに入れていた小さなガラス瓶を、海賊目掛けて投擲していた。実際助けようとかいう意思はほとんどなくて、体が動いたのは無意識だった。
 そして本当に奇跡的に、わたしの渾身の一撃は海賊の顔面にクリーンヒットをかました。海賊が情けない悲鳴をあげる。わたしの前世はメジャーリーガーかなんかだったに違いない。ほら、観客たちの歓声が聞こえる。ファインプレー! よくやったお嬢ちゃん! ……ん? 幻聴かと思ったら現実だった。
 炸裂したガラス瓶の中身はナマエ特性濃厚木酢液である。どぎつい酸性なのでダメージ効果はあるはず、きっと。

「――ナマエさんっ!!」
「は」

 メガネを取り戻したたしぎ姉さんがあげた悲鳴と、人々のざわめきと、ぐわんと頭の揺れる音。頭蓋に響く激痛と共に、くらりと視界が暗転する。

 ……あの海賊、腹いせに銃身ごと放り投げてきやがったな。なんだそれは、無茶苦茶だ。海賊ってなんでもするなあ。そんなことを半ば冷静に思いながら、わたしはあっけなく意識を手放した。

 ひとまず、たしぎ姉さんが無事でなにより。

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