No Smoking


▼ 40-3/3

 ――ナマエ。


 幻聴に揺さぶられて目を覚ました。

 窓から差しこむ薄明が、天井を淡く照らしている。人間が活動を始めるには早すぎる未明。わたしは掛け布団がずり落ちるのを無視し、仰向けに横たえていた上半身を起こした。眠りは浅くなかった気がするのに、なぜこんな時間に目を覚ましてしまったのだろう。疑問符を脳裏に浮かべながら、わたしは目尻に浮いた涙を指先で拭った。

 波打つシーツの幾つものすじを、窓から溢れる暖かなガス灯の光が描き出している。その僅かな光源を頼りに、わたしはくしゃくしゃになったスモーカーさんのジャケットを畳んで置き、裸足のままの足を床に下ろした。不思議と、二度寝をする気分にはなれなかった。
 冷えた温度を足裏に感じながら、ぺたぺたと光源の方へ向かい、カーテンを引いて窓を開ける。冷たい風にチクチク皮膚を刺されたが、相変わらず天気は良かった。今晩の月は切り落とした爪のようにほっそりとしていて、その代わりに周囲の星が明るく見える。息を吸い込み、深呼吸をした。寝起きの熱を孕んだ肺を、澄み切った空気が冷やしていく。

 窓際に立って目を瞑れば、わたしは滔々とした夜の匂いを感じ取ることができた。昼間は喧騒にかき消されてしまう、湿った土と街路樹の葉の香り。すっかり肌に馴染んだ潮風の匂いや、マリンフォード特有の白い石壁の匂いも。静まり返った夜はいつだって、無機物の香りに支配される。このしんとした空気が、わたしはなんとなく好きだった。ここに来てからはいっそう、大勢の人たちに囲まれているときよりもずっと、一人きりの寂しさを紛らわせることができる――

「――ッ?」

 はっとして、短く息を飲んだ。

 なにか、途方もなく不快で、有害で、胸のむかつくような匂いを鼻先が捉えたせいだった。それをわたしが間違えるはずがない。憎らしくて仕方がないのに、それでいてわたしをやるせない気分にさせる香り。それはどこか掠れた、白色の匂いだった。
 ぱっと目を開けて窓から身を乗り出す。階下を見おろし、兵舎の正門の向こう、橙色の街灯に照らされた白い石畳の道路へ視線を向けた。柱に隠れて人の姿は見えない。ただ張り巡らされたフェンスの隙間から、背の高い影がひっそりと伸びていた。何にも確証はない。けれど灯りを反射する石畳が時折揺らいで見えるのはきっと、間違いなく、くゆらされる白い霞の仕業だった。

 ――まさか。

 慌てて窓辺から身を離し、上着を羽織って、何も考えずに部屋を飛び出した。理屈はない、なぜか衝動的に体が動いていた。足の裏に刺さる細かいささくれを感じつつ、靴下かスリッパを履いてきたらよかった、などと悠長に後悔しながら、足音を立てないよう廊下を渡る。階段を降り、下駄箱から取り出した靴に足を突っ込んで、慌ただしく玄関の扉に手をかけた。何かに急き立てられているみたいに必死だった。待たせてはいけない、帰ってしまうかもしれない。これが夢や幻だったとしても、今すぐ顔が見たかった。

 扉を押し開けた瞬間、ひゅう、と外気を顔に浴びる。風向きが変わったせいか、今はもうあの匂いを感じ取れない。前髪を揺らす風は、部屋で浴びていた温度よりもいくらか冷たく感じられた。

 正門に向かう通路を進む、その足元がなんだか覚束ない。もしかするとまだ夢の中にいるのだろうか。現実との境目を見失う明晰夢に翻弄された経験は、未だ記憶に新しかった。ああ……どうかしてる。わたしはいよいよ精神に異常をきたしてしまったのか。だっておかしいだろう。普通に考えて、彼がこんな時間に、こんなところにいるはずがないのだ。そもそも迎えにきたなら呼び出すはずだし、あの人は夜通し突っ立っているほど暇じゃない。なんて都合のいい幻なんだろう。向こうから迎えに来て欲しいだなんて、自分から逃げ出したくせに何を甘えたことを。情けない。あり得ない。期待しちゃいけない。
 それでもわたしは未練がましく、地面に揺らぐ幻覚を頼りに、のろのろと足を運んでいた。この影の正体を知りたかった。どうせ見知らぬ海兵さんが一服しに外に出てただけだとか、通りすがりの酔っ払いが屯してただとか、そんなところに違いないのだ。あんなことがあったばかりなのに、相手が誰かも分からないのに、無用心だとも分かっている。でも、この目で確認するまではどうしても、諦めきれない――

 門限以降の出入り用に取り付けられた小さな格子戸から閂を外し、街灯の真下に出る。キイと軋む鉄の音。慎重に足元の段差を越えたその瞬間、地面を塗り上げる影に靴先が触れた。

 ――人の気配。

 わたしは、ゆっくりと顔を上げた。


「……よう。お疲れさん」

 喋り方を忘れてしまったかような、普段よりも幾分かさついた低い声。背の高い白髪の男の人は、わたしの登場に驚きもせず、正門に備え付けられた白レンガの花壇に浅く腰を下ろしていた。こちらに向けられた彼の目はやんわりと眇められていて、葉巻の煙に霞んで曖昧な表情を描き出している。その姿を見た途端、あまりにも呆気なく、ここ数日わたしの中で蟠っていた何かが瞬時に霧散するのを感じ取った。

「スモーカー、さん」

 本物のスモーカーさんだ。間違いなく。

 でも、なんで。これが現実だと理解したからこそ、頭がひどく混乱していた。らしくもなくはしゃいで飛びついてしまいたいような衝動と、彼の意図が読み取れない不安と、まだ拭いきれない気恥ずかしさとが綯い交ぜになって、わたしの唇を躊躇わせてくる。そのせいだろうか、話したいことは山ほどあったのに、真っ先に口をついたのは感情の昂りに反して味気のない問いだった。

「いつから、ここに」
「……それほど長くはねェよ」
「今、もう朝方ですよ」
「あァ、そうだな」

 何食わぬ顔で嘯く彼に唖然とする。悟らせまいとしているが、スモーカーさんはやっぱり、夜通しここで待ちぼうけていたのだ。一晩中、ひとりで、わたしを呼び出しもせず。一体……なにをやってんだ、この人は。ここ数日、夜はばかにならない寒さなのに。
 唇が震えた。なんでそんなことをしたのか、などと、間抜けな質問ができるはずもない。だって彼がここに居る理由は一つしかないのだ。そんなのは分かりきってる。だからこそいつもみたいに、冗談めかして尋ねられる自信がない。

「わたしに、会いにきたんですか?」

 ぎこちなく強張った声が、まるで怯えたような調子になってしまう。スモーカーさんは微かに口の端を歪めた。彼らしからぬ罪悪感に塗れた表情が、一瞬だけその眼差しによぎった気がした。

「……さァ、な」

 くぐもった声でそう呟く。返事を濁す彼の態度は、その通りだと白状しているようなものだった。

 言葉が詰まる。この人が何を思っているのかはわからない。でもスモーカーさんは間違いなく、わたしに会うために訪ねてきたはずだった。それなのに、この人は何かを試すみたいに、ここでじっと待っていただけだ。わたしを呼び出すこともしないで、まるで何かを恐れているかのように。
 ……間違ってる。今のスモーカーさんを見ていると、色んなことを弁明したくなる。スモーカーさんがそんなふうに遠慮する必要はないのだ。わたしの推察通り、彼の懸念がわたしのトラウマを刺激する可能性なのだとしたら、それは間違いなく杞憂だった。あの時だって、今だって、わたしは怯えたわけでも、拒んだわけでもない。わたしは単に恥ずかしかったのだ。わたしはこれまで一度だって、差し伸べられる彼の手を嫌悪したことはない。いつも通りに接して欲しい。躊躇わずに触れて欲しい。だけどそのことを、どうやって説明したらいいんだろう。

「……」

 スモーカーさんは身じろぎもせずに、ただ静かにわたしを見つめていた。街灯の明かりに照らされる彼の全身はまるで静止画のようで、やけにくっきりと浮き出して見える。その手に手繰られる葉巻の煙だけが唯一、ときおり吹く木枯らしに併せて揺れ、時間の存在を証していた。

「あの」
「……ん?」
「久しぶり、ですね」
「昨日も話しただろう」
「電伝虫越しの会話は勘定に入りませんよ」
「……それも、そうか」
「やっぱり、元気そうには見えませんね」
「どうだかな」
「大丈夫ですか。寒く、ないですか?」
「別に、……あァ、いや……」

 静まり返った闇の向こうで、スモーカーさんは自嘲気味に笑う。柄にもなく言葉に迷った眼差しには、微かに切なげな色が混じっている気がした。

「――少し、冷えるな」

 寂しそうな声色だった。彼はわたしの温度を欲しがっているのではないかと、その言葉の裏に隠れた意味を、都合よく見出してしまえるほどに。

「お前は?」
「わたしも、……この頃は少し、肌寒いです」
「……そうか。てっきり、おれだけかと思ってた」
「そんな、わけ」
「こんな晩は、人肌が恋しくなる」

 くしゃりと優しげに歪む目もと。心臓が潰れてしまいそうになる。スモーカーさんの白い髪が、中秋のススキみたいにさらさら風に揺れていた。彼の双眸が、強い引力を持ってわたしを捉えている。ああ――

「お前も同じなら、いいだろうに」

 そんな顔でそんなこと、言わないで欲しい。


 唇を噛み、手のひらを握りしめ、手繰り寄せられるように一歩、踏み出す。

 スモーカーさんが小さく身じろいだ。足首に絡みつく躊躇を無視して、まっすぐ伸びた影を辿りながら、彼のもとへ歩み寄る。ぎこちない沈黙の間隙に、わたしの足音だけが響いていた。暗闇から抜け出し、明るい方へと向かう。まるで光に集う蛾のように。
 スモーカーさんは何も言わずに、じっと、わたしの一挙一動を見守っていた。けれどその眼差しからは、引き絞られるような緊張が伝わってくる。近づくほど明瞭になっていくスモーカーさんの気配。懐かしい香り。彼の浅い呼吸の音が聞こえる。そして――

 街灯の真下。目と鼻の先にある彼の顔。わたしは、スモーカーさんの両膝の間で立ち止まった。

「……スモーカーさん」

 そうっと慎重に、広い肩に手を置いた。厚い布地は、満遍なく夜の気配を含んでいて冷たい。わたしが触れたことに気付かなかったのかと思うほど、スモーカーさんは彫像のように動かなかったが、両の拳だけが何かを堪えるみたいに膝の上で握りしめられていた。

「一つ、お願いがあるんです」

 スモーカーさんの瞼が戸惑いがちに揺れる。わたしの意図を推し量る視線。オレンジ色の灯火がまつ毛を透かし、彼の頬に薄い影を落とし込んでいる。その色合いが、彼の口の端から漏れる白い煙に霞んだ。

「あァ、……なんだ」
「さっき、わたしを呼んだでしょう」

 スモーカーさんがぴくりと目を凝らす。ああ……やっぱり。この反応を見れば分かる。わたしを目覚めさせたあの声は、幻聴なんかじゃなかったのだ。

「……聞こえたのか?」
「たぶん、夢じゃなかったんなら」
「ここから、どんだけ距離があると」
「だからもう一回、聞かせてください」

 囁くようにそっとねだる。ここ数日、どうしても聞きたかった彼の一声。わたしを繋ぎ止める楔。他の誰でもない、彼の口から聞きたかった。

「わたしの名前を、呼んでくれませんか」
「――……」

 スモーカーさんは理由を問わなかった。ただ、魅入られたような目でわたしを見ていた。瞬きをひとつ返し、視線だけで彼を促す。陶然と、我を忘れたような表情で、スモーカーさんは淀みなく口を開いた。

「ナマエ」

 まるでうわ言のように、わたしの要求通りにそれだけ告げて、スモーカーさんは多分ほとんど無意識に手を伸ばした。けれどわたしの頬に触れようとした彼の指は、はたと思い出したみたいに、透明な薄い壁に隔てられてしまう。もう、あと少しなのに。躊躇いがちに丸められた指先、その距離が途方もなくもどかしい。

「スモーカーさん」

 照れ隠しに目を伏せる。スモーカーさんが、わたしを呼んでくれてよかった。不甲斐ないわたしに、それでも会いに来てくれてよかった。わたしに伸ばされたこの手が無ければ、きっと自惚れる勇気を持てなかっただろうから。
 スモーカーさんの手に指を添える。煙の吐息がふつりと途切れる。わたしの行動に驚いているのだろうか。大丈夫だと伝えたくて、ほんの少しはにかみながら、わたしは彼の手に頬を擦り寄せた。

「ちょっとくらいなら……触っても、いいですよ」

 切れ長の瞳が、音もなく見開かれる。

 冷え切った革手袋の感触が、緊張の向こうから、熱っぽい頬へ伝わってくる。わたしを射抜く緋色の眼光。わななく彼の薄い唇。餌を前にした獣のように、スモーカーさんが生唾を飲んだのが、上下する喉の動きで分かった。

「あ……」

 そうっ、と。

 スモーカーさんが壊れ物に触れるように、優しくわたしの頬を覆う。分厚いなめし革越しの、その指先はほんの僅かに震えていた。微かに皮膚の表面を掠めて、耳たぶの下を撫ぜていく人差し指の腹。背筋が粟立ち、瞼が震える。その冷たい温度と、肌を擽る愛撫に目眩がした。あまりにも熾烈な衝動にどうにかなってしまいそうだ。わからない。スモーカーさんは一体、わたしに何をしたのだろう。

「……ナマエ――」

 脳を甘やかに麻痺させる声。わたしの名前。

 スモーカーさんの眼差しがわたしを絡めとって離してくれない。心臓がとくとく鼓動を刻んでいる。得体のしれない期待と不安。彼の瞳の奥にちらつく小さな切望の正体を、わたしはまだ知らない。

「……すまねェ」
「なにが、……ですか?」
「耐えきれなかった。お前の顔が見たくて」
「え、……ぁ」

 こつん、といきなり、額を鎖骨のあたりに押し付けられる。慌てて見下ろそうとすれば、スモーカーさんの髪が顎から首筋にかけてを擽るので、わたしは正面を向いたままの姿勢を余儀なくされてしまった。……どう、したんだろう。逆上せた脳がまだ追いつかない。ただでさえ困惑の最中だというのに、襟の隙間に入り込んでくる熱い吐息が、いっそうわたしの思考力を奪おうとしてくる。スモーカーさんの指は、未だわたしの耳元に添えられていた。

「……こんなつもりじゃなかった」

 スモーカーさんが、くぐもった声で呻く。

「お前が心配だった、なんて言い訳をするつもりはねェんだ。おれはただ、どうしてもお前を……いや、それも言い訳か」
「スモーカー、さん?」
「すまねェ、おれァ結局自分本位な人間なんだ。お前が本当におれを避けてようがいまいが、実のところどうでもよかった。不安だったのはおれの方だ……ナマエ。お前を強く求めるたびに、お前が許してくれるうちに、いずれ辛抱できなくなって、手ひどく傷つけちまうんじゃねェかと……不安に、なる」

 真下から聞こえてくる、独り言のような吐露。ただただ痛切な嘆きだった。スモーカーさんがどうしてそんなに苦しげなのか、いまいちよくわからない。何がそんなに不安なんだろう。この人がわたしに危害を加えるわけがないなんて、わたしが一番よく分かってるのに。

「でもスモーカーさんは、そんなこと……」
「違う。お前は知らねェだろう、今この瞬間、おれがお前をどうしてやりたいかなんて」
「……わたしを、傷つけたいんですか?」
「んなわけ、ねェだろ」

 曖昧に苦笑したのが、その声から分かった。

「――ふう……」

 スモーカーさんがため息を一つ吐き、ゆっくりと面を上げる。肌に触れていた彼の熱が失われてしまうことが、なんだか無性に心細かった。それなのに、わたしは彼を引き止める言葉を未だに持ち合わせていない。スモーカーさんはあえなく、わたしの頭をくしゃりと撫でて立ち上がった。

「これで充分だ。二度はねェ」
「え、……」
「お前はまだ、おれに会うのを避けたかっただろう。こんな風に押しかけて悪かった」

 わたしを見下ろし、自嘲気味に口角を歪める、その表情がわたしの平常心をかき乱す。どうしよう、好きすぎる。スモーカーさんが大好きだ。悔しいことに、やっぱりそれだけは間違いない。

「じゃあな」

 スモーカーさんが実にあっさりと、わたしに背を向けて歩き出した。慌てて振り返り、彼の背中を目で追いかける。一刻も早く立ち去ろうとしているようにも、後ろ髪を引かれているようにも見える歩調。街灯の灯りの下にわたしを置き去りにして、その背中が暗闇の中に消えて行ってしまう。まだ言えていないことが沢山あるのに。このままじゃ、せっかく会いに来てくれたのに、置いてかれて、しまう――

 咄嗟に、地面を蹴った。
 
「――!」

 どすん、と。

 全速力で駆け出し、スモーカーさんの背中――正確にはほとんど腰の高さ――にしがみついた。スモーカーさんが頭上で息を呑む。頬に触れる、広くてごつごつした背中の感触。目一杯腕を回しても、両手が重ならないくらいに分厚い身体だ。それでも強く、せめて彼に伝わるようにと、わたしは両腕に力を込めた。

「スモーカーさん」
「な、お前……」
「待ってください」

 スモーカーさんの腰を、力の限り抱きしめる。珍しく動揺しているのか、わたしの行動が予想外すぎたのか、彼の体はピタリと硬直している。できればこのまま振り払わないで聞いてほしい。顔を見ないほうが、多分上手く言えるだろうし。

「今度のお休みに、二人でどこか行きませんか」
「……は……ァ?」

 呆然としたスモーカーさんの声。どんな顔をしているのかもおおよそ想像がつく。脈略がなさすぎただろうか。唐突すぎて申し訳ないのだが、断られるのは怖いので、このまま一息に言わせてほしい。
 
「実は、臨時収入が入ったんです。スモーカーさんにお礼がしたくて、どうしようか色々悩んでたんですけど……折角だから、旅行に誘おうかと思いまして」
「何でいきなり、んな……」
「いえ、ずいぶん前に頼んだじゃないですか。クザンさんと出かけたときは日帰りしか無理だって言われたので、スモーカーさんと泊まりがけでどこか行きたいって。わたし、海列車に乗ってみたいんです」

 実際、前から計画はしてたのだ。タイミングがなくてなかなか言い出せなかったけど、旅行雑誌に付箋を貼ったり、くまさんにオススメの旅行先を聞いたりとかもして、ちょっと楽しみにしてたのだ。

「セント・ポプラとかどうですか? ここからだと結構近いですし。セカン島とかも行ってみたかったんですけど、あっちは新世界ですからね。セント・ポプラは春島だからあったかいそうですし、今の時期には丁度いいんじゃないでしょうか。観光地だから小さいけど温泉もあるみたいで、美食の街が近いからご飯も美味しいって話で、まあスモーカーさんが楽しめるかはわかんないですけど……ええとだから、近いうちに準備をしなきゃいけません、色々入り用ですからね。わたしの部屋に色々置いて行っちゃったので、確認しておかないと。ここに居ると都合が悪いですから、その、つまり」

 じゃなくて、違う、こんなふうに言い募ったって仕方ない。ぎゅうと目を塞ぐ。結局これは照れ隠しだ。わたしが言おうとしてたのは、今言うべきことは、つまり、そうじゃなくて、だから――

「スモーカーさんと、一緒に帰ります」

 ――あ。

 どうしよう。鼻声に、なってしまった。

「だから、荷物、取ってくるので、待っててください。お世話になった挨拶とかも、しなきゃですし。できるだけ急ぐので、待ってて、ください」

 あの日を境に涙腺が緩んでしまったのだろうか。スモーカーさんの背中に目元を押し付けて誤魔化そうとしても、鼻の奥にはツンと刺すような痛みが残る。この葉巻の匂いが全部悪い。ああくそう、泣き落としなんて意地でもしたくないのに。

「わ、わたしを、置いてかないでください……」

 我ながら憐れっぽく言い終えて、スモーカーさんの服の裾を握りしめ、ずず、とばれないように鼻を啜った。別に、ちょっと声が震えただけだ。泣いてない。ちゃんと堪えたからばれてないはずだ、多分。
 しばしの沈黙。深呼吸を繰り返し、込み上げた感情を落ち着ける。それから背中越しに互いの体温が染み込んできた頃。ややあって、スモーカーさんはふ――……と、それはもう長いため息を吐き出した。

「……離せ、ナマエ」
「いやです」
「分かったから。一旦離れろって言ってんだ」

 返事を待たず、広い手のひらに腕を取られた。そのままスモーカーさんは身を屈めつつ振り返り、ひょいとわたしの顔を覗き込んでくる。彼はどこか呆れ顔で、しかし意外にも穏やかな表情を浮かべていた。

「何、泣いてんだ」
「泣いてませんが?」
「はァ、……たく、お前はおれにどうしろってんだ。突き離したり縋りついたり、おれを置いて行ったのはお前の方だろうが」
「やっぱり、めんどくさいですか」
「自覚があって何よりだ」

 そんなふうに悪態をついて、スモーカーさんはそっとわたしの頬を拭う。ほんとに泣いてなんかなかったのに……と不満を覚えつつ、躊躇わずに触れてくれたことが嬉しくもあるし。複雑な気持ちでじとりと睨みつけるも、スモーカーさんは一向に堪えた様子もなく、やけに可笑しそうに眉尻を下げた。

「安心しろ、ここで待っててやる」
「……いいんですか?」
「お前のおねだりヽヽヽヽを断る理由はねェさ」

 スモーカーさんは揶揄うみたいにそう言って、霞が取れたような表情で、ほんの僅かに目を細めた。

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