No Smoking


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 活気の良い海軍本部の昼下がり。

 天気よし、気温よし、風向きよしの午後、まっとうな奴ならせかせか働き詰めているはずこの時刻。しかし世の中には多くの例外が存在する。かくして執務室の標語を立派に背負い、ダラダラだらけきったこのおれは――全く手付かずの書類の山を横目に――我慢する必要もなかろうと、でかい欠伸を一つした。
 今日も今日とてナマエちゃんはお休み。となれば、普段なんとか絞り出しているなけなしのやる気も失せるというものだ。その代わり(になるもんでもねえが)目の前には色気も愛想も可愛げもない部下が、いつものあの娘の特等席に図々しく腰を据えている。ご存知、くだんの内部犯について報告しにやってきたスモーカーだ。こんなむさい男相手に灰皿と水のもてなしをくれてやっただけ、おれも部下思いな上司と言えるだろう。

「んん、……内部犯の処理は済んだ。侵入ルートと協力者については現在調査中。ナマエちゃんの骨折も経過は良好で、溺水の後遺症もなし。一回酷い錯乱状態になったが現在は落ち着いているらしい、……ってのは分かったが」

 後頭部を指で掻きつつ、スモーカーから手渡された報告書を総括して繰り返す。気になることは山ほどあるが、しかし最も肝心なことが書いてない。やれやれ気の利かない部下だ。不満を訴えるべく、おれはのろりと面を上げた。

「で、ナマエちゃんは今どうしてんのよ」
「さァ……」

 スモーカーはゆらゆら葉巻の煙を吐きながら、何の感慨もなさげに肩を竦めている。こいつ、上司への報告中だってのに何をしらばっくれてんだ。

「さァ、ってお前な……おれァ『暫く休みます』って言われたきり、あの子からはさっぱり音沙汰なしなのよ。お前さんならなんか知ってんだろ……一体なにがどうなってんだ?」
「知らねェ。本人に聞け」
「そうしてェのは山々だが……ここんとこナマエちゃん、昼間に電伝虫かけても通話中だし、おつるさんとこに顔出しても留守にしてるしでやけに忙しそうじゃない。しつこくすんのも悪ィだろ……。別にお前のプライベートまで首を突っ込む気はねェが、元気にしてんのかどうかくらい教えてくれたって――」
「知らねェつったろ。今あいつは家を出てる」
「えェ?」

 呆気に取られてぽかんと口を開いた。スモーカーはおれの視線を無視したまま、鬱陶しそうにあさっての方角を向いている。なんつったこいつ……ナマエちゃんが家出しただって?
 あららら……いやはや、そりゃまじか。聞いてねェぞ、いつからだ? あの子の心境の変化はいい方向なのやら悪い方向なのやら、それも意外っつうか今更っつうか……。ナマエちゃんはあれで寂しがり屋ってのか、スモーカーには結構ベッタリだったはずなんだが……そうか……。寝耳に水だ、てかそういう大事なことはもっと早く言え。

「しかし、なんでまたいきなり。……お前ら、事件が片付いて早々喧嘩でもしたのか?」
「いや……」

 即断即決を地でいく性格にしては珍しく言葉を濁すスモーカー。何か不穏だ。こいつが言葉に詰まるような内容という時点でいい予感はしな――

「ハッ……まさかスモーカーお前、いよいよナマエちゃんに手ェ出したんじゃねェだろうな……!? 今すぐ答えろ、返答次第ではお前をこの場で氷像に変えちまうかもしれん」
「オイやめろ、んなわけねェだろうが」
「じゃあなんなのよ。喧嘩してるわけじゃねェなら、顔はちょくちょく合わせてんでしょ」
「いや、おれもここ暫くは会ってねェ。昨日一回だけ通話はしたが……大して話さなかったんで詳しい現状は知らん。存外、元気そうにはしちゃいたが」
「フーン、そんならいいけどよ……んで、ナマエちゃんはいつ戻ってくるって?」
「……未定だと」
「お前そりゃ……完璧避けられてんじゃねェの」
「……」

 スモーカーは不服そうに口を閉ざした。聞いた限りじゃどう考えても、ナマエちゃんは意図的にこいつから距離を置こうとしているように思える。言うなればあの拉致事件の時とは真逆の立ち位置だ。だがおれからするとあの時以上にナマエちゃんの心情が掴めなかった。スモーカー曰く落ち込んでるわけでもねえようだし……女の子の気まぐれってのは中々に複雑なもんである。

「喧嘩したわけでも手出したわけでもねェんだろ……となりゃあれか、まさか玉砕したのか?」
「違ェ」
「そりゃ残念だ。……他に心当たりはねェのか?」
「あるにはある、が……」

 スモーカーは難しい声で呟き、くっと眉間の皺を深くした。灰皿に落ちた眼差しは、慎重に言葉を探っているように見える。どうやらやたらに茶化していい内容じゃねえのかもしれないが、しかしどうにも読めねえな……内部犯との一件でナマエちゃんとこいつの間に何があったんだ?
 滑りの悪い思考の歯車を回しつつ、途切れた言葉の続きを大人しく待つ。ややあって、スモーカーは重たげな白煙を吐き出した。

「ただの憶測だ、説明は省く。いずれにせよ、あいつがおれと距離を置きたいってんなら無理に引き止めるつもりはねェんだ」
「いや、だがお前……本部じゃナマエちゃんとの接点はそう多くないでしょ。あっという間に疎遠になっちまうぞ。惚れた女相手にんな……」
「当面の間、身を引こうと思う」

 ――は?

 手にしていた資料をぽろりと落っことす。カサカサ音を立てて床に重なるそれを拾い上げるのは後回しでいい。待て待て、思わず耳を疑っちまった。

「……まじで?」
「ナマエにこれ以上見返りを求めるのを止めてェんだ。あいつには多分そんな余裕はねェし、それにおれとしても……離れてた方が安心できる節はある」

 ウッソだろ、本気かこいつ。他でもない"白猟のスモーカー"が、獲物(って言い方は語弊があるが)を前にして引き下がるっつったのか?

「あらららら……そうか。イヤ……おれとしては願ったり叶ったりなんだけどよ」

 人差し指で耳の後ろを掻きながら、椅子の背もたれにドサリと体重を預けた。とりあえず当て付けを口にしてはみたものの……実際は何とも言い難い気分だ。
 あまりにもベッタリなこいつらが距離を測り直すのは、おれの立場からすると喜ばしいことではあるはずである。そんでもってスモーカーがナマエちゃんを手放すってんなら、あの子の将来や貞操や門限なんかの心配をしなくて済むし、今回の件でこいつがドフラミンゴとの繋がりを嗅ぎつけたらどうしたもんかって悩みもいくらか解消される。しかしおれはスモーカーの上司以前に友人でもあるのだ。こいつの遅すぎる初恋がこんな――相手が大事すぎるからなんつう涙ぐましい理由で――不完全燃焼に終わる可能性を思うと忍びない。当面の間、なんて言ってる間にナマエちゃんがいつどんな相手を連れてくるのかも分からねえんだぞ。んなことになるならいっそこう、ガツンと振られちまった方がマシだ。慰めるくらいはしてやれるからな。

「つってもお前、そんな悠長に構えてていいのか? ナマエちゃんはあれで結構いい女だろ……若い男に惚れられてアタックされたらコロッと行っちまう可能性だってあんじゃない」
「いや、それはねェ」
「なによ……自信満々じゃねェの」
「もう済んだ話だからだ」

 スモーカーは気遣いは無用とでも言いたげに、しれっとした口振りで葉巻を手繰った。こいつ、人の厚意をなんだと……って待て、もう済んだ話だって?

「ちょ、なんだそりゃ……おれァ聞いてねェぞ」
「あァ、……だろうな」
「オイオイオイ、ちゃんと説明しなさいよ。ナマエちゃんが惚れられたのか? どんな野郎だったのよ、事と次第によっちゃタダじゃ済まさねェぞ」
「アンタはナマエを見守りたいのか邪魔してェのかどっちなんだ」
「ナマエちゃんは碌でもねェ奴に好かれやすいから心配なんだよ。例えばお前みてェな……」
「オイ」
「それで、誰なのよ。その不届き者は」

 脳裏に浮かんだイヤらしい笑みを浮かべてナマエちゃんに擦り寄るガラの悪いチンピラを氷漬けにして破壊する。いや、海兵であるおれは当然一般人に手を出したりはしねえ。あくまでそれくらいの制裁は辞さねえ構えってだけだ。んん……おれもあの子が関わると大概過保護になるらしい。意気込むおれを見て、呆れ顔を浮かべたのはスモーカーの方だった。

「……花屋の店員だ」
「花屋?」
「若ェ男だ。ナマエに会うたび花束を渡してた」
「ほォ……で、お前のことだから当然牽制しに行ったんでしょ。どんな奴だったのよ」
「……。嫌味のねェ、肝の据わった奴だった。話した感じが少しナマエに似てる。正直、敵わねェと焦ったが……ナマエがあっさり振ったんで驚いた」
「へェ、……」

 脳内イメージのナマエちゃんの隣に立っていたチンピラが、爽やかな笑顔の青年に変貌する。照れ臭そうに花束を差し出す男と、少し大人びた表情で受け取るナマエちゃん……おォ、悪くないんじゃねえか? 現実に起きたら泣いちまうかもしれん。

「よし、おれァその兄ちゃんを推すぜ」
「……そう言うと思った」

 スモーカーは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「しかしなんでまた、ナマエちゃんはそんな好青年を振っちまったんだ? お前がそれだけ褒めるってことはいい相手だったんでしょ。別にあの子、男嫌いってわけでもねェのによ……」
「……おれも初めは同じ反応をした。今となっては、あいつがなんでそうしたのかが理解できる気もするが」
「で、理由を聞いても教えちゃくれねェんだろ」
「言いふらすような話でもねェんで」

 スモーカーは軽く目を伏せた。またおれを除け者にしようって腹らしい。おれだってナマエちゃんがお前に隠してることを知ってんだぞ。誰が水面下であの子を護ってると思ってんだ、上の目を逸らしておくのも楽じゃねえってのに……って愚痴すらこいつにゃ漏らせねェんだが。はァ、やれやれ……。

「あ……そんならよ、スモーカー」
「断る」
「オイオイ、人の話は最後まで聞きなさいよ」
「ここまでの流れでアンタの言い出すことなんざ大体の予想はつく。頼みは聞かねェぞ」
「頼みじゃねェ、こいつァ命令だ。お前、ナマエちゃんに家出されてるしどうせこのあとも暇なんでしょ……」

 ま、実のところ一番退屈してるのはおれなんだが。素直な話、おれだけ何も知らねえってのも気に食わないしな。こいつが首を縦に振るまでしつこく食い下がってやろう……と我ながら暇すぎる意志を固めつつ、心底嫌そうな顔をするスモーカーに向けて、おれはにやりと口角を吊り上げた。

「ひとつその花屋におれも連れてってちょうだいよ。玉砕した兄ちゃんの顔を拝みてェんだ」



 数十分後。あの手この手で連れて行かせようとするおれに、結局スモーカーは折れた。

 というわけで、現在日当たりのいい花屋の前に似つかわしくない無骨なでかい男が二人。こんな街中で海兵の姿を見かけるのも物珍しいのだろう、通行人の主婦や子供たちからの視線を痛いほど感じる。ていうか大将ってのは一般人相手にも顔が知られてるもんで、さっきもちっちゃい女の子に「青キジだー」なんて指さされちまった。ママさん達、お騒がせしてごめんよ……おれは自分の好奇心に逆らえなかったんだ。
 さて、目的の花屋は商店街の大通りを一本逸れた、真っ白な石畳の歩道に店を構えていた。シックな色合いに纏められた、今風の小洒落た店だ。おれの知ってる八百屋に毛が生えたような花屋とはかなり違う。こんな居心地の悪さを感じる時ほど、自分の年齢を自覚することはない。なにせおれもいい歳したおっさんなのだ。

 だがしかし、そこに毛程の迷いもなく、もはや常連といった風体で踏み込むスモーカー。全く似合わねェなァ、こいつほど花屋に相応しくない人間は他にいないんじゃねえだろうか。お陰で少しは自分に自信が持てるってもんだ。ずかずか店の奥に進んでいくスモーカーの背を追いつつのろのろ歩く。天井に頭を打たないよう身を屈めると、吊り下げられたドライフラワーの追い討ちが顔面に降りかかった。どうやら全長3メートルの客は想定に含まれていないらしい。

「お客さん! こんにちは、ご来店嬉しいです」

 己のくしゃみに紛れて、快活そうな若者の声が耳に届いた。狭苦しい店の奥、カウンター前は少し開けたスペースになっているようだ。スモーカーを見失ったので、声を頼りに花を避けて進む。

「結局あれからまだお二人でいらしてないじゃないですか。おれ、てっきり……」

 バサ、と視界が開けた。

 スモーカーの背中の向こう、カウンターの奥。通路を抜け出した瞬間、割とイメージ通りの爽やかな青年と目が合った。と認識した瞬間、にこやかな微笑みはぎくりと強張り、顔色がさっと青ざめる。

 おっと……間違いなく驚かせてしまった。

「さ、三大将の……ッ!?」
「よォ……精が出るな、兄ちゃん」
「い、いらっしゃいませ、な、なんでまた」
「まァそう硬くなりなさんな……おれァナマエちゃんの友達がいるって聞いて顔出しただけだからよ」
「え、ナマエさんの……?」

 スモーカーはこちらを振り返りもせず、面倒くさそうにため息を吐いている。店員の兄ちゃんはおっかなびっくりおれから視線を逸らすと、助け舟を求めるような顔で目の前のスモーカーを見上げた。

「お客さん、あの……失礼なんですが、ナマエさんって何者なんですか?」
「……軍の保護対象だ。別に気にする必要はねェよ、あの大将が特別物好きってだけだ」
「そう、……ならいいんですが、ええと……」

 青年は一瞬躊躇っていたが、早いうちに客は客だと開き直ることにしたらしい。続けざまに「大将さんもお花買って行かれますか?」と話しかけてきた兄ちゃんを見て、"肝が据わっている"と評したスモーカーの言は概ね間違ってなかったようだと得心した。

 それから、そのままの流れでなんとなく接客を受けていたのだが、だんだん花ってのもいいもんだという気分になってきて結局執務室に飾る用の花を幾つか購入してしまった。店員の兄ちゃんの売り込みに乗せられちまったのか、それともおれがチョロすぎるだけか。ともあれ悪い気はしない。ナマエちゃんが戻ってくるまでに枯れちまわないといいんだが。
 因みに店をぐるっと回って戻ってくると、スモーカーはカウンターに並べられた謎のボトル類を手に取って何やら神妙な顔をしていた。片手サイズのスプレータイプで、如何にも清潔そうなシンプルなデザインの消臭剤だ。ナマエちゃんじゃあるまいし、こいつが好むようなもんには見えんが……何が琴線に触れたのだろう。新商品だからとかだろうか。

「ナマエさん、そういえば今すごいですよね」

 おれの選んだ花をカウンターに置きながら、どうやらだいぶ緊張も解けてきたらしい兄ちゃんが世間話を振ってくれる。しかしいまいち前後が読めない。スプレーボトルを片手にカウンターの隅に腰掛けていたスモーカーも、興味を引かれたらしく視線を上げた。

「お前さん、ナマエちゃんと会ったのか?」
「はい。ほら、スモーカー大佐がご覧になっているそれも、数日前にナマエさんが届けてくださったんですよ。おれ、しばらく前から花の香料についての相談にも乗ってたので、安く卸して下さって。折角なのでうちの店でも販売を始めたんですけど、お客さんからも好評で……」
「ちょっと待て。何の話だ?」

 スモーカーが横から口を挟んでくる。が、おれも兄ちゃんの言わんとしていることはさっぱり分からん。いったい何がどういう事情なんだ。ナマエちゃんって別に郵送のバイトとかしてねえよな……?

「あれ。すみません、ご存知かと思ってました。もしかして言わない方がよかったかな……」
「構わねェから話せ。ナマエは何を?」
「ええと……つまり、ナマエさんはここ暫くそのボトルの――消臭剤を開発なさってたんです。なにやら企業の代表者なんだそうですよ。発売開始からまだ一週間くらいとのことで、ここ数日あちこち駆け回ってらっしゃいました。海軍からの許可も得てるとの話でしたから、てっきり皆さんも存じているものかと……」

 スモーカーと顔を見合わせる。お互いに心当たりはないらしい。となると、おつるさん絡みだろうか。よくよく思い出してみれば、"赤い港レッドポート"で、ナマエちゃんがおつるさんにプレゼン用の資料がどうとか言ってた気がする。そもそもパーティーへの参加自体おつるさんが促したものだったはずだ。つうことはまさかあの時点で話が進んでたのか?

「そうだ、お客さん。その商品の裏はもうご覧になりましたか
「いや……?」
「なら見てみてください。その、"ナマエ証の消臭スプレー"と書かれてるすぐ上のブランドマークです。ナマエさんがデザインされたんでしょうけど、斜線の下の葉巻のシルエットが2本になってるんですよ。おれはてっきりお客さん宛ての私信かと思って、微笑ましく見てたんですけど……」

 スモーカーはひっくり返したパッケージの裏を見て何やら微妙な顔をした。横から覗き見ると、成分表示の余白スペースに「当社はあなたの禁煙を応援します」と書いてある。マークの葉巻も間違いなく2本。こいつは確かに強烈なラブレターだ。

「ったく……ナマエちゃんってほんと、お前のことばっかりだよな……」

 苦笑混じりに溜息をついて、カウンターへと向き直った。ナマエちゃんが忙しくしてた訳にはビックリだが、とはいえあの子がスモーカーを避けてる事実自体は変わらない。結局彼女の考えについては謎が深まるばかりだ。
 つうか、この兄ちゃんも兄ちゃんで不可解なんだよなァ。ナマエちゃんにはあっさり振られたってのに、会って喋るくらいは普通にできてるみてえだし……。傍目にゃケロッとしてるように見えるが、果たして未練はあるのか、それとももう完全に吹っ切れてんのか。さっきの態度を見るに、ナマエちゃんとスモーカーの関係は受け入れてるみてえだが……。

「大将さん、こちらを」
「っと……どうもありがとね」

 不躾な推測をしているうちに、いつの間にか商品が仕上がっていたようだ。仕事が早いところも好感触。丁寧に包装された花束を差し出しながら、兄ちゃんはちらと顔を上げ、おれとスモーカーを交互に観察した。

「お買い上げありがとうございます。それと、……失礼を承知でお尋ねするんですが、お客さんたち、もしかしてナマエさんと何かあったんですか?」
「そうそう、聞いてやれ。こいつ今、ナマエちゃんに愛想尽かされて別居中なんだけどよ……」
「えっ!?」

 おれがちょっとばかしの好奇心で口を滑らせるなり、バッと振り向いた兄ちゃんの横顔からは、新鮮な驚きが見て取れる。かくいうスモーカーは手元に視線を落としたまま「語弊がある」などと溢しつつ、取り立てて否定はしなかった。その様子を見て事実だと認識したのだろう、青年は素直に眉尻を下げる。

「おれが先日お会いした時はお変わりなかったですよ。なんでまた」
「なんつうか、実は具体的な理由は分からねェのよ。ナマエちゃんがスモーカーを避けてるってのは確かなんだろうが……」
「でも、おれの思うに……ですけど」

 青年は躊躇いがちに口を開く。その視線は、未だ気もそぞろなスモーカーに向けられていた。

「ナマエさんはスモーカー大佐に会いたがってると思いますよ。この前お会いしたときもたびたび名前を出しておられました。彼女がやたら気恥ずかしそうなので、おれはむしろ、お客さんと何か進展があったんじゃないかと落ち込んでたくらいで……」

 あ、やっぱそれはそれで落ち込むのか。そりゃそうか。しっかしナマエちゃんも罪な女――ああいや、本題はそこじゃない。肝要なのはようやく知れた彼女の近況だ。
 青年の体感を信じるなら、ナマエちゃんがスモーカーを避けてる理由はやっぱり嫌いになったからとか鬱陶しいからって事情じゃないらしい。相も変わらずことあるごとに同居人の名前を出す元気なナマエちゃんのまま。ことこの消臭剤に関してもそうだ。むしろあの子は兄ちゃんがスモーカーとの進展があったと勘違いするくらいには好意的に――。

 好意的、に……。

 好――いや、……まさかな。

 脳内に飛来したその可能性を信じたくない。仮におれの予想が正しいんだとすりゃ、スモーカーが身を引くなんて腑抜けたことを言い出すわけがねえんだ。こいつが勘違いしてんなら話は別だが……いやいや、まじで、それだけはありえねえ。だってあのナマエちゃんだぞ。煩悩のぼの字も持ち合わせてねえような性格してんだぞ。ありえねえだろ。

「何も知らない身でなんですが、お客さん、ナマエさんを迎えに行かれないんですか?」
「さァ……どうだろうな。あいつは多分、おれが居なかろうと困っちゃいねェと思うぜ」
「……しかし」
「事情が事情なんだ。……すまんが、おれァ先に出る。冷やかしに来て悪かったな」

 おれが自分の――飛躍しすぎた推測を必死で振り払っている間に、スモーカーは無愛想に身を翻し、外に向かう狭い通路に姿を消してしまっていた。露骨なようで分からねェ奴だ。あの態度を見ると、やっぱりおれの適当な予想は的外れなんじゃねえかって気もしてくる。引き止めようとしたらしく身を乗り出した兄ちゃんは、スモーカーが通り過ぎた後の葉が揺れるのを眺めながら、やはり不安げな表情を浮かべていた。

「失礼を働いたでしょうか」
「あァ、ま……気にすんな。あいつァ元から愛想のねェ奴なんだ。ここに無理やり連れて来させたのもおれだしな……兄ちゃんが気に病むこたねェのよ」
「ならいいのですが。その、スモーカー大佐には気分を害されたならすいませんとお詫びを……」
「あァ、伝えとくよ」

 手をひらひらさせつつ相槌を打つと、青年は感謝を口にして頭を下げる。その姿を見て、おれは脳裏でまたしても疑問が首をもたげるのを感じ取っていた。ついでだ、いっそ聞いちまおうか。横槍を入れきそうな奴も今はここに居ないわけだし。

「……なァ、兄ちゃん」
「はい」
「失礼ついでに聞いておきてェんだけどよ。……お前さんは、スモーカーに対して何か思うところはねェのか? ナマエちゃんとのことは知ってんでしょ」
「……」

 青年は幾度か目を瞬き、それからまっすぐおれを見た。おれの言葉を咀嚼し、言葉を選ぶのに時間がかかっているらしかった。それでも若者らしい快活な眼差しは、逸らされることなくおれを振り仰いでいる。

「勿論、少しは悔しさもあります。でも彼は……おれに可能性をくれました。なぜかと聞いたら、後ろめたさを残したくなかったからだと。だからおれも、スモーカー大佐に倣うつもりなんです」

 ……スモーカーも、らしくねえことをしたもんだ。

 おれはため息をついた。確かにこの物怖じのなさと意志の強い感じは、どこかナマエちゃんを彷彿とさせる。というよりこれは、若々しさだろうか。部下にも若いのは居るが、その無謀さとは違う類のひたむきさだった。歳を重ねた今となってはもはや得られないそれに、スモーカーが敵わないと思ったのも、無理なからぬことだっただろう。

「……世話になったな」
「いえそんな。お客様ですから」

 客商売をしているだけあって切り替えが早い。兄ちゃんは穏やかに微笑んだ。

 さて、このまま待たせておけばいつ置いていかれるか分からねえ。青年に軽く会釈して、おれはスモーカーの足跡を追いかける。背後から耳に届いた「またのご来店をお待ちしてます!」という声かけに片手を上げて返し、おれは再びドライフラワーのカーテンに顔面を突っ込んだ。

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