No Smoking


▼ 39-3/3

 朗らかな朝である。

 窓の隙間から吹き込んでくる爽やかな潮風。木枠に嵌め込まれたガラスの向こうには、気持ちの良い青色の海が広がっている。うーん、この快晴といい絶景といいリゾート地さながら、忙しない日々の余暇には文句なしにぴったりだ。
 ところが哀れ、わたしの現在地は消毒液くさい診療所の一室。日光浴に飛び出したい気持ちをベッドの上に括り付けられたわたしは、こうして借りてきた猫のように大人しく海軍船のお出迎えを待っているわけである。わたし以外の方々による満場一致の「大事を取って安静に」の言いつけだ。骨折したわりに痛みは殆どないのだが、包帯でガチガチに固められているためこのように座ってるだけでもすんごく息苦しい。

「ほ、本当に、お元気になって、よかったです」

 そして目の前には半べそのたしぎ姉さん。ベッドで上半身を起こしたわたしに縋りつきながら、彼女はずるずると鼻を啜っている。まったく、この可憐なお姉さんを泣かせた不届き者はいったいどこのどいつだろうか。笑顔が一番似合うたしぎ姉さんを憂き目に合わせるなど言語道断、大変この上なく許し難い。うむ……犯人は当然わたしなんだけどさ。

「昨晩、ナマエさんが、ここからいなくなっていたときは本当に、ど、どうしようかと……っ」
「……心配かけてすいません」

 照れ臭くなってつい頬を掻く。正直あんまし覚えてないのだが、昨日一瞬だけ目を覚ましたわたしは、彼女の前でずいぶん取り乱したらしいのだ。その上での入水自殺騒動であるから、まあなんというか、本当にごめんなさいという感じだ。わたしもようやく感情の整理がついてきたところなので、恥ずかしながら衝動的になってしまったことについては深く反省している。というかわりと羞恥心が勝っているので一刻も早く忘れていただきたい。

「す、すみません取り乱してしまって。あっ、そうだ、お水とかいります?」
「いただきます。でもその前に眼鏡を拭いた方が」
「そ、そうですねっ」

 たしぎ姉さんはべしょべしょになった眼鏡を外し、服の裾でレンズを拭った。それから慌ただしく水差しをコップに注ぎ――なぜか床にも水溜りができてしまったが――わたしに手渡してくれる。ありがたく受け取りつつ、彼女の腕に薄くついた切り傷へ意識を向けた。……藪にでも引っ掻かれたのだろうか。

「ところで、たしぎ姉さん。わたしまだ詳しい話を聞いてないんですが……よくあんなに早くここまで駆けつけられましたね。わたしが拐われたのにはいつ気づいたんです?」
「あっ、そうですね。ナマエさんには説明しておかないと……」

 眼鏡をかけ直したたしぎ姉さんが背筋を伸ばし、木製の三脚椅子の上で居住まいを正す。わたしはコップの縁に口を当てつつ彼女の話に耳を傾けた。

「ええと昨日の昼過ぎでしょうか、実は港の方でちょっとした事故があったんです。それで私たちも収集に駆り出されたので本部の出入りが多かったんですけど、部下が例の内部犯を見かけたと報告してきまして……。それでどうもきな臭いと思われたのか、スモーカーさんがご自宅のナマエさんに連絡を入れたんです。そうしたら電伝虫が繋がらないものですから、もう血の気が引きました」

 軽く相槌を打ちながら水を飲む。事故の話はあの内部犯が口にしていた通りのようだが、しかし海兵さんに見つかってたとは。あの男が迂闊だったとはいえ、人相は結構違ってたのによく見抜けたものだ。

「それから部下へ確認に行かせている間、軍の許可が下りていない民間の船が沖に出たという記録を見つけたんです。ナマエさんの姿がないと分かったので恐らく拉致されたのだろうと、大体の航路に当たりをつけてすぐ追いかけました。もう、本当に大変だったんですよ。スモーカーさんがあんな無茶な操船をするなんて……」
「え、待ってください。じゃあこの島が怪しいっていうのはなんで分かったんですか?」
「ああ、それは青キジさんの助言なんです」
「クザンさんの?」
「はい。ナマエさんが行方知れずだったとき、大将にも確認を入れたんです。そうしたら不審船の方向からしてもここだろうと。私もスモーカーさんも、詳しいことは分からないんですけど……この島は物資の輸送船に紛れやすいことから、シャボンディへの"引き渡し"によく使われるそうなんです」

 なるほど、そうか。クザンさんはジョーカーだとか人間屋ヒューマンショップだとかについて調べていたはずだ。わたしが居なくなったと聞いてすぐ、ドフラミンゴが関係していると踏んだに違いない。だとしたら今回助かるかどうかは本当に紙一重だったのだ。ほんと、海兵の皆様にはどれだけ感謝してもしきれない。

「……わたしが助かったのは色んな人が手助けしてくれたおかげってことですね。ありがとうございます、たしぎ姉さんも」
「そ、そんな、当然のことですから。でも、本当に危ないところでしたね。ナマエさんが海に落ちたと分かった瞬間、自分があんなに早く判断できるなんて思わなかったです」
「ああ、あの時ってやっぱりたしぎ姉さんが引き上げてくれたんですよね。……」

 わたしの体感ではかなり深くまで沈んでいた気がするのに、追って飛び込んだはずのたしぎ姉さんはけろりとしたものだ。さすが海兵ということだろうか。彼女の勇姿を見逃したのが非常に残念だ。
 ともあれ、わたしが今ここにいるのはたしぎ姉さんの功績によるところが大きいのだろう。その事実がじんわりと効いてきて、わたしは両手でコップの表面を撫でながら、思わずはにかんでしまった。

「やっぱり、姉さんはわたしの命の恩人です」
「い、いえ、そんな、大層なものでは。それに、私が引き上げた時点ではかなり危なかったんですよ。呼吸も止まってましたし体も冷えていたので、人工呼吸と保温が間に合わなければあのまま目が覚めなくてもおかしくなかったんです」
「ふうん、そんなに危険だったにしては、後遺症がなさすぎて全然実感湧かないです」
「それならむしろよかったです。スモーカーさんの救命措置が手慣れていたからでしょうか」
「ゴホッ!」

 え?

 口に含みかけていたコップを離し、目を見開いてたしぎ姉さんを見る。彼女はきょとんとしたままわたしの顔を見つめ返す。いや、ちょっと待て。何か今、とんでもないことをサラッと仰られたような。

「な、なん、今なんて」
「え、ですから……ナマエさんに救命措置をしたのはスモーカーさんだと……」
「その前です!」
「あ、ああ、人工呼吸を、ですか?」

 人工こきゅ、……。って。

「マウス・トゥ・マウス?」
「それはもちろん、そうです」


 スモーカーさんが。

 わたしに。


 ――嘘だと言ってくれ。

「あ、……ぅうあ……」

 口元を覆って悶絶する。血が昇る。顔が熱い。ありえない量の冷や汗が流れ出してくる。取り落としかけたコップをたしぎ姉さんに慌てて回収されたがお礼を言う余裕もなかった。いや、だって、どうして。

「だ、大丈夫ですか、ナマエさん?」
「大丈夫なわけありますか! なんでよりによってスモーカーさんなんですか、そこは普通たしぎ姉さんがやるものなのでは!?」
「う……まあそれはそうなのですが、あの時私は息が上がっていましたし、すっかりずぶ濡れでしたし、スモーカーさんに任せるのが最善だったんですよ。さすがにその……脱衣くらいは私がやればよかったと思いますけれど」
「だつい!?」
「あっ、わ、私は見てませんよ!?」
「見ててくれてた方がましですよ!」

 それならわたしはスモーカーさんにマウストゥマウスされたうえ服をひん剥かれてあられもない姿を見られたということですか。信じられない。どうしてスモーカーさんなんだ。よりにもよってどうして。

「だ、大体人工呼吸ってラブコメでしかやらないものなんじゃないんですか。最近の心肺蘇生法は胸骨圧迫が優先だって教わりましたよわたしは!」
「え、えっ? でも、溺水した場合の最優先は人工呼吸ですよ。肺に空気がなかったらどれだけ動かしても無駄ですから。まあその、私たちは海兵ですしこんなのは比較的よくあることで――」
「よくあること」
「だ、だから気にしなくていいですよ。とはいえ私もあの時はちょっと、そのう、スモーカーさんにあまりにも迷いがなかったので照れましたけど」
「ぉわああこれ以上具体的なイメージをわたしに与えないでください!」

 耳を塞ぎつつかぶりを振る。たしぎ姉さんから衝撃の事実を告げられた瞬間から、いかがわしい脳内映像がわたしの精神を執拗に汚染してきているのだ。もうスモーカーさんの姿を想像させないでほしい。
 項垂れながら膝の掛け布団に顔を埋めた。ああ、できるなら今耳にした話をすべて忘れたい。だってこんなのって……こんなの、ひどすぎる。

「ナマエさん、そ、そんなに思い詰めることないですよ。スモーカーさんも多分忘れてるというか、今後話題にされることもないでしょうし」
「だから余計にやなんです……だってわたし、昔からファーストキッスを結婚式でするのが憧れだったのに。それをそんなあっさり……せめて悪びれてくれたらいいものを、向こうはそんなことあったっけ? みたいな、しかも相手が喫煙者だなんて、そんな、ひどいですよ」
「だ、大丈夫です。安心してください、救命行為はカウントに入りませんから」
「う、うう……ほんとですか? ああもう、なんで、よりによって、相手がスモーカーさん……」

 心配してくれるたしぎ姉さんをよそに、多分茹で蛸のようになってる顔を隠したくて布団を頭から引っ被る。頭上から降ってくる励ましの言葉に生返事を返しつつ、ぐるぐる堂々巡りをする思考とばくばく早い心臓を抑えつつ引きこもっていると、まもなく部下の方々が彼女を呼び出しにきた。どうやら指示を仰ぎにきたらしい。こんな時に限って、たしぎ姉さんは申し訳なさそうに病室をあとにしてしまった。


 ――どうしよう。こんな状態で一人にされると、勝手に暴走する頭を止める術がない。

 昨晩の海、あの湿度たっぷりの会話を思い出して頭を抱える。わたしの純情を踏みにじったスモーカーさんを相手に告げた言葉の数々を思うと、くらくらと意識が遠のいた。いや、あれは結構切羽詰まってたし、空気に酔っていただけというか、言うなれば深夜テンションというやつで、冷静な気持ちになってはいけないと分かってるのだが。ていうかそもそもその救命行為の話なんか全く知らなかったけど、ていうかスモーカーさんに対してそういう疚しさは一切持ち合わせてないけど、いやでもしかし、実際問題、現実に。

 わたし確か、スモーカーさんに、泣きながら「大好きです」とか抜かしたような……。

「ぅぐ、ああぁ……」

 布団の中にうずくまって悶え苦しむ。なんてことだ。大変なことだ。どうしてあれほどに恥ずかしい真似をしてしまったのだ。スモーカーさんがわたしに、キ……ゴホン、いや、違うんだけど。全然そういうのではないんだけど。救命行為だったし、きっと必要に駆られてのことだし、してもらわなければ死んでたかもしれない。仕方なかった。そんなことはわかってる。
 だけど、だけども。気にしないなんてどだい無理な話だ。だってわたしは、誰しもがご存知の通り、そういう話題に対しての免疫というものがこれっぽっちもないのだ。我ながら情けないとは思うのだが、わたしは純粋でうぶな乙女なのだ。だって、どうしよう。これからどんな顔をしてスモーカーさんに会ったらいいんだろう。

 ていうかスモーカーさん、全然そんな感じじゃなかったじゃないか。いや、そりゃそういう面においては多分間違いなく子供扱いされてるし、百戦錬磨のあの人がそんなことを気にするわけがないんだけど。でもだって、ほんとのほんとに恥ずかしいのだ。この、スモーカーさんを意識してる状況自体がすでにむりだ。うう……わたしあの日、どんな下着だったっけとか考えてるのがもう既に嫌すぎる。スモーカーさんからしたらどうせ路端の石を蹴っ飛ばすくらい些細なことなんだろうけど、わたしにとっては青天の霹靂、驚天動地の大事件なのだ。あの人が全く気にしてないぶん、余計につらい。かといって誰を責めることもできないし。

 ――あ、なんかまた泣きそう。わたしの純潔はわたしの預かり知らぬ間に儚く散ったのだ。

 だめだ、このままじゃスモーカーさんが夢に出てくる。そしたら余計取り返しがつかないくらい、あの人を意識してしまうに決まってる。すべてにおいて最悪だ。何がいやって、スモーカーさんに対して、こんなやましさを少しでも抱いてることがいやなのだ。昨晩の彼は、あんなにひたむきにわたしを引き止めてくれたのに。わたしとスモーカーさんの関係は、もっとこう、プラトニックなものだ。だからこんなことを考えるのはあの人に対しての裏切りだろう。
 それなのに、どうしよう、わたしって変態なのかもしれない。今まで絶対に意識すまいとしてきたはずだ。考えるべきじゃないのに。こんなこと。

 わたしはスモーカーさんがどんな顔で、どんなふうにわたしに触れるのかを知ってる。だからその瞬間を想像することは、わたしの意に反してびっくりするくらい容易かった。まるでビデオテープのように再生される。どうしよう、停止ボタンが見当たらない。
 スモーカーさんの唇の感触を知ってる。腕の火傷の21回分は確実に。乾いた、薄い唇。スモーカーさんはわたしよりも鼻が高いから、顔を斜めにずらして、それでも鼻先が頬に触れるのだろう。近くで見た時は、吊り上がった眉が妙に男性的に見える。伏し目がちな眼差し。白いまつ毛は普段あまり意識に入らないけど、思ったより長くて少しびっくりする。ほんのり香る、大嫌いだった葉巻の匂い。彼の手がわたしの髪を撫でる。耳の後ろのあたりだ。スモーカーさんはいつも、そうするから。


「――ナマエ?」
「ひゃう」

 変な声と同時に飛び上がった。布の塊と化したわたしによるものの見事な垂直跳びである。
 まずい。布団に籠った熱のせいで汗がダラダラひどい有り様になってるが、顔を出すわけにはいかない。これは発作か心不全かそのへんのなにかだろう。危うくショック死してしまうところだ。助けておいて殺す気か。もっと臆病なうさぎちゃんを相手にするように接してくれなければ困る。

「どうした」

 布団の向こうから語りかけてくるのは、説明するまでもなくスモーカーさんの声だ。なんで来てしまったんだ。呼んでない。今ばかりは帰ってほしい。

「ど、どうもしてません」
「布団に包まって団子になってる理由は?」
「スモーカーさんは知らないでしょうけどわたしの寝相はこういうもんなんです。文句ありますか」
「仕様もねェ嘘つくんじゃねェよ」

 ううう何で大人しく引き下がってくれないんだ。タイミングが悪すぎる、あんなこと考えたせいでもう後ろめたいどころじゃない。顔が見れない。スモーカーさんには全部見抜かれてしまいそうで怖い。

「たしぎから何か聞いたのか」
「ななななななんも聞いてないですが!?」
「……お前、マジでおかしいぞ。大丈夫か」
「おかしくないです、全然、この上なく普通です。12時のランチのごとく普通でえっ」

 何かに押され、体がごろんと横転する。ベッドで仰向けになった体、ぱさりと布団がめくれてしまう。この人、わたしが骨折してること忘れてるんじゃないだろうか。なんて冷静に考えるまもなく、息が止まる。ベッドについた筋肉質な右腕。影を落とす上半身。わたしの顔を覗き込んでくる、わたしの想像そのままの面差し。

 ぱちん、と目があった。

 スモーカーさんの顔が、至近距離に。

「うあっ!?」
「!?」

 瞬間、驚いた様子の彼の顔面目掛けて布団を翻し、ベッドの端っこに後退った。もう一度、今度はよりいっそうしっかりと布団を体に巻き付ける。どうしよう、今ので全てばれてしまったかもしれない。察しの良さでスモーカーさんの右に出る者はいないのだ。突っ込まれたら言い逃れできない。全部ばれたら、きっと呆れられてしまう。でもだって、ほんとに違うのだ。スモーカーさんに対してのこの感情は、全然そういうんじゃないのに……。
 どうあがいても思い浮かべてしまう。スモーカーさんの唇が、わたしの唇を塞ぐ。消せども消せども脳内に浮かんでくるビジョン。だってこれは妄想じゃなく、現実の、しかもすでに起こってしまった過去なのだ。ああ本当にありえない。目の前の、この男の人が、わたしに触れる姿を夢想する。こんな不埒なわたしを、今すぐに、早急に殺してくれ!

「お前、尋常じゃなく顔が赤ェぞ」
「ちがっ、違います、これはただの体温調節中枢により免疫機能を活性化させるべく引き起こされた発熱現象です。勘違いしないでください」
「勘違いしてねェよ。昨晩は早めに乾かしたはずだが、結局また拗らせたのか? 体温計ならそこだ。いい加減布団から出ろ、剥がされてェのか」
「か、風邪かもしれないので体を冷やすわけにはいきません。わたしを凍えさせたいのでなければ剥がさないでください」
「……はァ」

 よ、よかった、わたしの動揺はばれなかったらしい。スモーカーさんが心配性で助かった。いや、これは過去に風邪をひいたわたしの功労だろう。
 などと油断したのも束の間、スモーカーさんがベッドに膝を乗り上げ、何気ない仕草で右手を伸ばしてくる。ぎょっとして身を引いた。彼はお構いなしに布団とわたしの境目に手のひらを滑り込ませてくる。絶対よくない。それはまずい、って――

「や、やだやだちょっと待ってくださっ」
「ちったァ落ち着け、別になにも……」
「さ、触んないでください!」

 ぎゅうと目を塞いで悲鳴をあげた。彼には何の効力もなさないであろう制止の言葉。うるせェ、と一蹴されるのがオチだ。でもわたしを心配してるスモーカーさんを本気で突き放すことも難しい。せめて変な反応をしないように堪えようと唇を噛む。彼の指先がわたしの前髪を揺らす――

 そのはずが。

 しばしの沈黙。伸ばされたスモーカーさんの手が、いつまでも肌に触れてこない。恐る恐る顔を上げる。布団の隙間から、彼の強張った顔が見えた。

 ……あれ、なんで?


「――すまねェ」

 スモーカーさんはほんの少し、渇いた声で呟いた。

 彼はわたしから目を逸らし、そのままゆっくりと腕を引いていく。狼狽えて思わず引き止めかけた。だって、全然らしくない。ベッドから膝を下ろし、スモーカーさんがわたしのパーソナルスペースの外に出てしまう。1メートルそこらの、それほど大した距離ではないけど、それでもわたしとスモーカーさん本来の距離感と比べれば途方もなく遠い位置取りだった。
 困惑する。なんだってこんな、あれくらいの悪態は今までだって散々ついてきたのに……どうして今更気を遣われるんだ。だってわたしはそんなつもりじゃ、なくて――ああ、もお、昨日はあんなに近かったのに、なんでこんなことになるんだ。わたしが悪いのだろうか。わたしが変な態度をとったから? 全然、わからない。スモーカーさんのことも、自分のことも。

 スモーカーさんは何か言いたげに、しかしその言葉を飲んで、ベッド傍に置いてあった体温計を手に取った。渡されたそれを大人しく受け取って、どもりながらお礼を言う。スモーカーさんは「あァ」と味気ない返事をする。……沈黙が降りる。

 スモーカーさんは何も言わない。

 ――気まずすぎる。


 そのあと、迎えに来た船に乗っている間も、わたしとスモーカーさんの会話はどこかぎこちなく、よそよそしいものにすり替わってしまっていた。どうしたらいいのかわからないまま、けれど相変わらず彼の顔をまともに見ることもできず、わたしは小さな船室に籠ってマリンフォードへの到着を待った。それから結局家に辿り着くまで、スモーカーさんもわたしから一定の距離を置いて歩いた。夕飯は作らなくていいから休むようにと言われたので、部屋に入ってそのまま寝た。
 その翌日。おつるさんから届いた『暫く本部の女性兵舎に泊まり込まないか――』という打診に、わたしは二つ返事で飛びついたのだった。

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