No Smoking


▼ 39-2/3

 空と海の境目が溶けて、混ざる、一面の黒。

 わたしは、波の音を聞いていた。砂浜にめり込む素足が、刺すように冷たい潮騒の感触を伝えている。わたしは深い方へ、深い方へと、徐々に足を進めていく。泥濘のようにぬかるんだ頭で、なんでこんな場所にいるんだろう、などと考える。けれど足を止める気はしなかった。そうしてくるぶしを飲み込み、ふくらはぎを浸し、海面の弾力は膝を伝って腿へと。

 ――ああ、そうだった。

 どうやってここまで歩いてきたのかは覚えていない。けど、目を覚ましたら月が見えたのだ。蒼白に冴えた満月は、蓋の空いた缶詰に似ている。空っぽのそれを見て、今日、消えてしまおうと思った。

 吐息のような潮風に揺られ、前髪が優しく頬をくすぐる。まつ毛に乗った白い月のスポットライト。目の前には濃い蒼色をした細波の絨毯が広がっていた。完全な月光が無数の粒となって、埃のようにふり積もる。幻想的で貪婪な夜の海――わたしはこの光景を知っていた。
 わたしの命日の月の形なんて、きっと誰も覚えてない。そんなことはどうだっていい。でも、全てを失ったあの瞬間、目の前がきらきら光って眩しかったのは確かだ。あれはやけに明るい夜だった。わたしはずっとあの夜に怯えていた気がするけれど、その輪郭を掴んだ今、胸に満ちるのは恐怖よりも虚しさだった。失望にも似ているし、或いは罪責かもしれない。それは例えるなら、大切にしてきた宝ものが、ただの無価値な土くれだったと――そしてそのごみを、本当に価値のあるものをくれた人々に手渡してきたのだと――気づいてしまったような、そんな感覚に近かった。

 わたしは初めから知っていたはずだ。自分の心臓はとっくに止まっていて、ここに居るのは異世界という鏡に映り込んだ虚像なのだと。
 
「は……――」

 深く息を吸う。

 一歩、踏み出す。

 裸足で柔らかい砂を踏みつけた。まるで夢の中にいるみたいだ。腰に打ち寄せる波は、まるで胎動のように生物めいていた。身の毛もよだつほど巨きな脈拍。この底無しの深淵が、わたしが本来いるべき場所だ。

 急がなくては。この決意が揺らぐ前に。

 目を閉じれば、聴覚がよりいっそう鋭敏になる。揺らぐ潮騒。ザアザアと音が迫る。(――……)スピーカーのノイズにも、嵐の日の雨足にも似ている。徐々に音は距離感を失い、のどかな囁きに変わっていく。(……――!)さらさら、さらさら。それはどこか、指の隙間からこぼれ落ちる砂粒を、思い起こさせる――


「――ナマエ……!」


 潮騒の波間をすり抜けて、掠れた声が反響した。

 ああ、とため息を吐く。

 それは、わたしの胸を締め付ける懐かしい声だ。応えるべきではないと分かっていた。目にすれば後悔すると知っていた。それでも最期に一目焼き付けておきたくて、わたしはやおら振り返り、そして波打ち際の人影を見た。

 ――美しい光景だった。一面広がる黒い海と、白銀に染まる砂浜との境界に、男がひとり佇んでいる。星屑を散らしたような白砂に浮かび上がる背の高いシルエット。 揺れる短髪が月光に透け、鮮やかな蒼白に染まっていた。その下の表情が、物憂げな眼差しとか、いわくありげな頬笑みとか、穏やかな顔つきをしていたら、なおよかったんだけど。残念ながら現実は正反対だ。まあそれは、おおよそわたしのせいに違いないのだが。

 ……やっぱり、やめておけばよかったなあ。

 あんな顔をした彼は見納めに向かない。訴えるような視線を受け止め、せめて伝わるように微笑んだ。もう、これで最後にしよう。これが最期の、アイ・コンタクト。

 意を決し、名残惜しいままに視線を剥がした。耳を塞ぎ、小さな切望さえ遮断する。わたしはもう振り向かないことを決めたのだ。この背中の向こうで彼がどんな顔をしているのかすら、考えないように努めよう。黒い海にちらちら光る月が描いた道導だけをまっすぐ見て、わたしはまた一歩踏み出した。
 これでよかった、と思う。どれだけわたしを引き止めたくても、この現実がどれほど残酷なものだとしても、あの人は能力者で、ここは彼を厭う海だ。彼方の白い世界と此方の黒い世界は隔たれている。白波が切り取る波打ち際を、あの明確な境界線を、彼は決して踏み越えることができない。わたしの名前を呼ぶばかりで駆けつけて来ないのがその証拠だ。でもそれでいい。死の匂いが充満したこの海は、あの人には全然、似合わないんだし。

 ――ざぶん。くぐもった、遠い音。

 波がわたしを避けながら打ち寄せる。けっして押し戻されることはない。一歩。飛沫が柔らかに飛び散り、わたしの纏う白い服を湿らせる。一歩。ずるり、と返す波に引き寄せられる。波に呑まれながら、さらに一歩。底冷えするような奈落がわたしを包む……


 ぐい、と腕を引かれた。

 息を呑む。一陣の風が吹き渡る。その煽りを受けたのだろうか、わたしは反射的に振り仰いでしまったのだ。刹那、鼻先に触れる、ほんの微かな煙の香り――ああ、分かってる。もはや見るまでもなかった。
 視線がぶつかる。苦しげに息を荒げ、らしくもなく頼りない足取りで、居るはずのない人が立っていた。さっきまであんなに遠かったのに。衝撃と、絶望と、身の程知らずの歓喜がぐちゃぐちゃと綯い交ぜになって、わたしの情緒を掻き乱そうとする。もう二度と目にしないと決めたはずの一対の双眸が、わたしの顔を貫いた。

「スモーカーさん」

 わたしが名前を呼んだ瞬間、彼は静かに目を見開いた。その眼差しの奥に、なぜか安堵の色が滲む。なんだろう、まるで振り払われることを恐れてたみたい――わたしがスモーカーさんに怯えるはずがないのに。けれど垣間見えた緊張の緩みは、すぐさま焦燥と苛立ちにかき消されてしまった。

「っ、ざけんじゃねェぞ、……」

 肩で息をしながら呻く彼の、わたしの腕を掴む手は驚くほど弱々しい。目の当たりにするのは初めてだが、悪魔の実の呪いがこれほど顕著なものだとは。なにせ海面はわたしの腰――即ちスモーカーさんの太腿が浸かるほど――の高さにある。能力者にとっては致命的な状況のはずだ。スモーカーさんは自分がこうなることを当然知っていたはずなのに、どうしてあの境界線を踏み越えて来たのだろう。

「なんで……ついてきたんですか」

 思わず眉尻が下がる。だって本当に……困ってしまう。急所を晒してまで来てくれたことが嬉しいのに、それが余計にわたしの罪悪感を駆り立てるから。

「立ってるのもきついんでしょう。追いかけてきたりしちゃ、だめじゃないですか」
「そう思うなら、引き返せ。おれたちの目を盗んで、よくも……抜け出してくれたな」
「……。ばかじゃないですか。こんな力じゃ、わたしを引き止められやしないくせに」
「は……お前こそ、おれを舐めすぎじゃねェのか。大体、悠長に人を呼ぶのを、お前は待っちゃくれなかったろうが」

 気怠げに、吐き捨てるような苦言を呈してくる。平静を装っているものの、足の踏ん張りが効かないのか波が寄せるたびに体がふらついていた。……どうしたものだろう。このまま振り払って進んだとして、スモーカーさんは諦めてくれるだろうか。

「――それで」

 いずれにせよ、喧嘩腰の会話では進展がないと判断したのだろう。彼はふう、と息を入れ、ほんの少し声の調子を和らげた。

「なんだっていきなり、自殺願望が芽生えたんだ」
「……言っても、分かんないですよ」
「元帥から話を聞いた」

 ……え?

 ぱっと顔を上げる。なにが……待ってほしい、話についていけない。彼がセンゴクさんから聞く話なんて、つまり"異世界"のことくらいだろうが、それにしたってなんで今さら。センゴクさんには口止めしてあるとはいえ、知ろうと思えばとっくに知れたはずだ。いやそんなことよりも、スモーカーさんはあの突拍子もない話を信じたのだろうか? 例え知られたところで、わたしの行動の動機に何一つ理解が及んだとは思えない。なら一体今、彼はなんのつもりで、どんな感情でこの話を……。

「あれが、お前が隠してた秘密なのか?」

 冷えた夜風が頬を打った。慎重で、疑いのない問いかけだった。スモーカーさんのその言葉には、なんの裏もないように思える。

「信じたんですか……?」
「んなこたァどうだっていいだろうが」
「答えて、ください。信じたんですか」
「口先でならなんとでも言える、って前置きした上でいいんなら答えてやる。おれはお前のことを欠片も疑っちゃいねェよ」
「……信じられません」
「だから、言ったろうが」

 溜息混じりに呟いて、彼は頑ななわたしを見つめながら、ほんの少し困ったような顔をした。

「一つ……教えてやる」

 駄々っ子に言い聞かせるみたいな声。月明かりの差し込む瞳が、今だけは淡い銀色に見える。鈍重な指先が、宥めるようにわたしの額を撫ぜた。

「おれは、お前の過去についてはそれほど多くを知らねェが、お前の人間性は重々把握してるつもりだ。異世界なんざと冗談で口にする性格じゃねェことくらい分かる。思い込みで語るほど馬鹿じゃねェってことも。だから信じた。腑に落ちねェのはむしろ、お前がこれだけ長い間おれに隠してきた、その理由だ」
「……え」
「初めて会った時、なぜ海に居たのか覚えてねェと言ってたな。お前は思い出すのを恐れてたんじゃねェのか。この世界に来る前、自分の身に何があったのか。お前が繰り返し見てる悪夢の全貌が何か。そしておれは……多分それを推測できる。おれに話せば答えが出る。だから話したくなかった、違うか」

 ――声が詰まった。

 否定の言葉しか用意していなかったから、あまりに淀みなく導き出された結論に、完璧に意表を突かれてしまった。確かに、わたしはスモーカーさんを侮っていたのかもしれない。彼はことのほか正確にわたしの現状を把握していた。むしろわたしでさえ曖昧にしか捉えていなかったあの予感にすら、明確な理由を与えたのだ。多分彼の言う通りなのだと思う。センゴクさんやドフラミンゴには簡単に告げられたのに、スモーカーさんにだけは言えなかった理由。それはあの悪夢の一端を彼は何度も耳にしているはずだからだ。この人はきっと、わたしを苛むものの輪郭の大凡を掴んでいる。でも、……だとしたら。

 スモーカーさんは、既にわたしの正体に気づいてるんじゃないのか。

 脳がすっと冷えていく。指先の感覚が失われているのは、海の温度に凍えているからか、それとも知られてしまったことに対する愁嘆のせいだろうか。まっさらになった思考は夏の終わりの蝉のように息絶えて、わずかにも働いてくれない。わたしが、散々守られてきたわたしが、何の意味も、価値もない存在だったなんて……最後の最後まで、教えるつもりはなかったのに。

「お前はもう、思い出したんだろう」
「それ、は」
「――何があった?」

 スモーカーさんが畳み掛けるように問う。

 ……言いたくない。捨てられたくない。今まで過ごしてきた時間が無駄だったと思われるのが怖い。図々しい願いだと分かっていても、彼の中でのわたしの価値が色褪せて欲しくなかった。そうだ、わたしはただそれだけが怖かったのだ。今まで、ずっと。

 嗚咽が腹の奥から込み上げ、唇がわななく。

 それでもこれ以上、裏切ることを選べない。


「――わたしは、多分、死んだんです」


 凪いだ波の音だけが、わたしとスモーカーさんの間に横たわっていた。途方もなく長い静寂が、二人きりの夜を息苦しさで満たす。

「……、」

 彼はわたしだけを見つめていた。月が落とした暗澹のせいで、表情の無い面差しが何を考えているのか、今のわたしには全く分からない。嘗てなく不安になった。本気にしないでくれたら、それが一番だと思う。でも、どうしたってわたしの望みは叶わない。

 やがて、薄く唇が開かれる。

 スモーカーさんは嘆息し、言葉に迷い――それから、哀れむように目を伏せた。

「あァ、……そう、だろうな」

 ――やっぱり、気づいてたんじゃないか。

 かっと顔が熱くなる。恥ずかしくて消えてしまいたい。わたしみたいな存在がこれまで、身の程知らずにスモーカーさんの隣にいたことが堪らなく耐えがたかった。死んだ、というのは正確じゃない。わたしは殺されたのだ。見ず知らずの男に蹂躙されて、穢されて、羽虫のように潰された。そんなわたしの末路すら、多分スモーカーさんには見当が付いている。
 スモーカーさんがぐっと手のひらに力を込めた。見逃してしまうほど朧げな握力。それでも彼が全身全霊で引き留めようとしていることが分かる。

「だが、だとしても、今お前がこんな真似をする理由にはならねェだろうが。折角拾った命だろう、素直に受け取っておけばいいじゃねェか」
「違うんです、わたしは」

 首を振る。感情が溢れ出す。上手く説明できない、この衝動をどう言葉にしたらいいのか。

「命拾いなんかしてないんです。ここに居るわたしは不完全なはりぼてで、まともな生き物じゃないってことが、本能的に分かるんです」
「理屈がねェだろう。お前は血の通った真っ当な人間だ。そいつはただの思い込みなんじゃねェのか」
「自分を育ててくれた人の顔も分からない。家族の人数も、仲の良かった友人も、住んでいた場所も、通っていた学校も、行きつけの店も、何一つ具体的なことが思い出せないのに、そのことに気づかないような人間が真っ当だと思いますか?」

 一息に言い募れば、スモーカーさんが小さくたじろいだ。もはやこれが何の為の言い訳すら分からないまま、わたしの口は溜め込んできた吐露を只ひたすら垂れ流していく。

「わたしは、なにもかもおかしいんです。わたしの人格を作る土台はなにもなくて、唯一わたしとして残ってる記憶はひどく惨めで、無様で、結局わたしはその程度の存在なんだと知らしめてくるんです。これまで、散々迷惑をかけて申し訳なかったと思ってます。本当に、許されないことをしてしまった。わたしにはスモーカーさんたちの隣に立つような価値も、資格も、意義も、なにひとつありません」
「待て。なんで、そうなる……」
「ごめんなさい、スモーカーさん。結局わたしがなんであれ、本来ここにいるべきじゃなかったのは確かです。わたしに出会わなかったスモーカーさんたちが、きっと本物だったはずなのに。わたしが台無しにしてしまった。できれば、わたしのことを忘れてください。ほんとはそれが、一番正しいはずなんです」
「……、お前、な――」

 ずる、と唐突に、スモーカーさんの手が力を失い、海の中に滑り落ちた。ざぶん、と大きく水飛沫が跳ねる。一瞬、うねりが被さってスモーカーさんの姿を見失い、ぎょっとして反射的に両腕を伸ばした。

「スモーカーさん!」

 彼の身体を抱き止める。地面に両膝をついたらしい、ずしりとした頭がわたしの左肩にのし掛かった。慌てて掴んだ彼の背中からは、咽ぶような呼吸が伝わってくる。転ばないよう、力を振り絞ってなんとかその体重を支えた。胸元にスモーカーさんのくぐもった吐息が触れる。

「あァ、くそ……」
「いい加減……っ、しんどいなら早く引き返してください、こんなとこで倒れられてもわたしは助けてあげられないんですから! これ以上海にいちゃだめです。わたし、スモーカーさんと心中なんてごめんですよ」
「残念だが、お前を置いては、戻らねェ」
「ばか、死にたいんですか」
「ナマエ」

 ぎくりとした。水中にあるスモーカーさんの腕が、縋るように腰へ回されたからだった。そして、途方もなく弱々しく抱き締められる。なんて、ずるい。わたしは彼自身を人質に取られているせいで、突き放すこともできないというのに。

「少しは、おれの話を聞け……」

 痛切で、訴えるような囁き。

 あえなく小さな油断をした。その時、彼の横顔がわたしの胸の中心、心臓の真上にそうっと押しつけられる。首に触れる額の熱。硬い耳殻の感触が、濡れた服越しに伝わってくる。わたしの紛い物の心臓が、ひときわ耳障りな軋みを立てた。

「ス、モーカーさ、なにを……」
「お前は間違ってる。だから、教えてやる。お前はものを、知らねェからな」

 歪んだ眉の向こう、不敵に吊り上がった口角は間違いなく強がりのはずだ。それでも彼は余裕たっぷりに笑い、そして、何食わぬ顔でこう言った。

「ここは、偉大なる航路グランドラインだ。何が起こったっておかしくねェ、常識外れの海だ。だから海から産まれた人間がいたとしても、些細な問題だと思わねェか?」

 ――……は?

 呆気に取られる。絶句する。いや、本当に、なにを言ってるんだ。意味が、全くわからない。スモーカーさんはばかになってしまったのだろうか。まさか、そんな適当な言い分でわたしの苦悩を一蹴するつもりじゃ……。

「ふ、ふざけないでください、なにをばかな」
「ふざけてねェよ。いいか、お前の常識ではどうだか知らんが、死んだ人間が生き返るなんざこの海じゃ特段あり得ない話でもねェんだ。お前は許されないだの間違いだのまともじゃねェだのと馬鹿げたことを抜かすがな、一体誰がんなことを決めたんだ? おれはお前の正体が何だろうと一向に構わねェ。だから気にするな」
「でも、そんなの、――」
「お前は生きてる」

 わたしの反論を遮り、スモーカーさんは断固として言い切った。応えるように、どくりと脈打つ。わたしの心臓の音を聞きながら、彼は静かに目を伏せた。

「あの海で、おれがお前を見つけた。おれが取り上げた。おれが与えた。おれが名付けた。だから安心していい。おれは、お前が生きてることを知ってる」

 唇が震えた。

 決壊してしまいそうな何かを、無理やり、意地だけで押し留める。素直にスモーカーさんの言葉に縋りついてしまえたら、どんなに楽だろう。生きてるならそれでいいやと思えるなら、それで済む話なのかもしれない。けれどわたしは、自分自身を肯定できないことが、途方もなく辛いのだ。わたしを責め立てるものがわたし自身なのだとしたら、この苦痛はそう易々と拭い去れるものじゃない。
 
「でも、わたしはきっと、どこか壊れてるんです。最近じゃもう、自分の名前も分からなくなるくらい、あやふやなんです。自分の存在に自信が持てない。消えなきゃいけない理由だけがいくらでも見つかります。それなのに、一体これから何のために、生きていけばいいのか」
「まァ、お前はこっちじゃ産まれたばかりだろう。名前くらい忘れちまうこともあるだろうさ。だから……何度だって教えてやる。お前は、ナマエだ」
「っ、本当にばか、なんじゃないですか」
「は、だとすりゃお互い様だな」

 スモーカーさんはひっそりと笑う。

「ナマエ、お前が認めなくてもおれが許した。おれが望んで傍に置いた。文句を言う奴なんざいねェ。お前はここにいていいんだ」

 下唇を噛みしめる。どうしたらいいんだろう。彼の言葉はあまりに心地良すぎて、今のわたしにとってはほとんど麻薬だった。拒絶しなくては。さもないと、わたしはこの人に、どこまでも依存してしまう。

「それでももし、お前がいらねェってんなら、おれに寄越せ。お前の頭からつま先まで、一挙一動、全部おれが貰い受ける。だから――」

 息が止まる。早鐘のような心音は既に気付かれてしまっているだろうか。
 スモーカーさんがゆっくりと顔を上げる。彼の両手が背中を通り、肩から正面に回り、そしてわたしの頬をそっと覆った。冷たい潮水とスモーカーさんの暖かい肌の温度がぬるく溶け合う。広い両手から雫が零れ落ち、わたしの襟元を濡らしていく。

「ナマエ」

 スモーカーさんがまっすぐにわたしの目を見た。柔らかい色の眼光が、逸させまいとするようにわたしの視線を絡め取る。何か、言おうとしている。今のわたしに必要な――なにを? わたしは何を期待してるのだろう、今更。こんなことを続けた所で辛いだけだ。やめなくちゃ。もうやめると決めたはずだ。

 スモーカーさんが口を開く。
 いけない。これを聞いてしまえば、きっと――

「頼む。おれのために生きてくれ」



 つ、と、何かが目の縁からこぼれ落ちた。

「あ……れ」

 ――なんだ、これ。

 伝い落ちた温度を、はじめ、海水に濡れた手のひらの仕業だと思った。そのはずなのに、スモーカーさんの顔が、視界が、何度瞬きを繰り返しても滲んでしまう。じんと鼻の奥が痛むのは、きっと海水が染みるから、そのせいに違いないのに。

「ちが、――」

 必死で息を吸い込んで、何とか、押しとどめようとする。なのに、止まらない。ぼろぼろ溢れ出す雫が、しとどに頬を濡らしていく。
 違う、だって、泣くつもりなんてなかった。これまで一度も、涙だけは見せたことがないのに。わたしの意思に関係なく、感情が流れ出してしまう。どうしよう、止まらない。どうしよう――

「あァ、お前……やっと、泣いたな」

 スモーカーさんが無邪気に目を細めて、歓喜に満ちた声で呟いた。

 頬を覆う両の手のひらが、一粒だって取り落とすまいとするみたいに、わたしの涙を拾い集める。その指先が、熱くて、懐かしくて、どうにかなりそうなくらい優しい。それが余計に切なくて、もうどうしようもなくて、滂沱を止めるすべを持ち合わせないわたしは、ただただ堰が切れたように泣いた。垂れ落ちる水滴がスモーカーさんの指を通り抜け、ぱたぱたと海面に落ちていく。

「なんで、そんな、こと、言うんですか」

 苦しい。胸が詰まって、上手く息が吸えない。

「わたしが、どれくらい苦しいか分かりますか」
「知るか。死ぬよりはましだ」
「ほんと、ひどいですよ、スモーカーさん」
「お前ほどじゃ、ねェさ」

 子供のようにしゃくり上げて喘ぐ。結局何ひとつ、解決してくれないくせに。わたしにとって、この世界で生を貪るのがどれほど辛いことか知っているくせに、それを自分のためにだなんて一言だけで、ぶち壊そうなんてずるすぎる。スモーカーさんのほうが、よっぽど、ひどい。

「わたしは、本当に、好きなんです。たしぎ姐さんや、クザンさんや、ヒナさん、おつるさん、センゴクさん、ガープさん、ボルサリーノさん、戦桃丸兄貴、サカズキさん、みんな。だからこれ以上、あの人たちの在り方をねじ曲げたくないのに」
「あァ、分かってる」
「あんな風に頼まれたら、困るじゃないですか。ほんとうは誰より、スモーカーさんに迷惑をかけたくないのに、引き止めるなんてずるいですよ」
「あァ、それも……分かってる」

 柔らかく頬を撫でられる。節張っていて、広い、スモーカーさんの手だ。涙が頬を伝い落ちる。わたしを溶かすその感触に、胸が潰れそうになる。
 こんなに寒く凍えた海を、ただひとりのスモーカーさんだけがカンテラの灯のように煌々と照らし出していた。その光になぜ、これほどまで焦がれてしまうのだろう。どうしてわたしはこんなにも、――

「大好き、です、スモーカーさん」
「……知ってる」

 スモーカーさんは少し寂しげに笑う。なぜだか傷付いているように見えた。それはまるで、フランス映画のワンシーンみたいに物憂げな微笑みだった。
 どうして、口に出してくれないのだろう。彼はこれまでずっと、そして今も、わたしに何かを求めていたのだと思う。それはわたしの手の内にあるものだろうか。あげられるものなら何だってあげたい。少しでも報いたい。教えてほしい。わたしはスモーカーさんへ、何を差し出せるのか。

「……何つう顔してんだ」

 言いつつ、スモーカーさんが眦を下げる。

「おれは別に、お前の奉仕を望んでるってわけじゃねェんだ。今は生きてさえくれりゃいい。お前の身柄については、おれが最後まで責任を持つ」
「最後、って……?」
「一生、死ぬまで」
「そんなこと、軽々しく決めて、いいんですか」

 スモーカーさんが意表を突かれたように目を開く。それから彼はおかしな冗談を聞いたような顔をして、ふっと穏やかな微笑を吐いた。

「ずいぶん前から、決めてたさ」



 どちらからとも知れず、わたしたちは岸に向かって歩き出した。

 はじめは、よろめく彼の肩を支えながら。海が浅くなるにつれ、徐々に確かになる足取りを感じつつ、進む。水面は腰から腿、そして膝へ。やがて、逆転していた立ち位置が、いつの間にか元の形を取り戻す。スモーカーさんがわたしの手を取る。パシャパシャと水面を踏み、飛沫を跳ね上げながら、彼の背を追いかける。
 地面にめり込んだ彼の靴先が、張り付いた砂で白く濁った。スモーカーさんがあっさりと境界線を踏み抜いたのだ。わたしはふと足を止めた。掴まれていた腕がするりとほどける。ばっと彼の背が振り返る。白波の間際で、わたしはスモーカーさんと向かい合った。

 波が、追い縋るように足の甲を撫でていた。

 スモーカーさんが待っている。少し、不安げに。

 ……あーあ、わたしは結局、この人に甘いのだ。その顔を見た途端、一瞬芽生えた躊躇なんて霞のように掻き消えてしまう。わたしは境界線を跨ぎ、乾いた砂浜に足を踏み入れた。
 その瞬間、伸ばされた腕にいきおい体を抱き上げられる。わ、と叫んで彼の首にしがみついた。その両腕が全くいつも通りの力強さなので、わたしは心底から安堵する。わたしの肩を抱きしめ、髪に頬を埋ずめると、スモーカーさんは不機嫌そうな声で呟いた。

「お前と居ると、恐怖ってもんを思い出す」
「ごめんなさい」
「……生きた心地がしなかった」

 スモーカーさんが深く息をつく。濡れた肌同士が触れ合って、ぬるい温度を伝えてくる。

「もう二度と、馬鹿な真似はするな」
「わたしは本気でしたよ」
「だから馬鹿って言ってんだろうが」
「ふ、……ふふ、そうですね」

 ようやくいつも通りの横柄さを取り戻した彼を見て、今更勿体ない気分になった。あそこまで弱りきったスモーカーさんなんて、一生に一度見れるかどうかのレアものだったろうし、ちゃんと見物しておけばよかったなあ。
 スモーカーさんの肩に頭をもたせかける。あんなに長いこと海に浸かっていたのに、相変わらず彼の体は暖かい。その体温を感じながら、わたしはいつかの雨の日を思い出していた。あの時迎えに行ったのはわたしで、今回とは真逆の立場だったけど。もしかしたら今頃になって、あの時距離を置こうとしたスモーカーさんの気持ちが理解できたのかも知れない。

「なんかすごく疲れました、スモーカーさん」
「当たり前だろうが。大体お前、自覚はねェだろうが骨折れてんだぞ」
「どうりで胸が苦しいと思いました」
「はァ……」

 彼の溜め息を聞き流し、ふわあと気の抜けたあくびを一つ。散々泣いたせいか、目元がやたらと腫れぼったくて眠たい。殆ど閉じかけの瞼を何度かしばたたき、わたしはそろりとスモーカーさんの横顔を見上げた。

「このまま眠っても、いいですか?」
「風邪引くぞ」
「じゃ、ついたら起こしてください」
「……好きにしろ」
「寝てる間、ちゃんと……守ってくださいね」
「あァ、一緒にいてやるよ」

 スモーカーさんの指がわたしの湿った髪を掻き分ける。その声や仕草や表情のそのどれもがあり得ないほど優しくて、わたしをひどく切なくさせた。生前のわたしに、これほど無条件にわたしを求めてくれる人が果たして居ただろうか。スモーカーさんが大好きすぎてどうしよう。このままじゃずぶずぶ甘えてしまいそうで、少し不安だ。けど今は疲れたし、あとのことはとりあえず元気になってから考えよう。

 塞いだわたしの瞼に、彼の唇がそっと触れる。

「おかえり、ナマエ」

 その声を聞きながら、込み上げた最後の一粒には気づかないふりをして、わたしは心地の良い安寧にようやく身を委ねたのだった。

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