No Smoking


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 ごぼり。

 耳元で、くぐもった音が聞こえる。沈むほど強くなる、浮遊感に似た圧力に、体が押しつぶされてしまいそうだ。口と鼻と耳の中、ざらりと液体が流れ込む。ひどく塩辛い。息が、できない。鼻の奥がツンと痛んだ。
 どれくらい時間が経っただろう。蒼く、冷たく、一面に揺蕩う静寂は、あらゆる平衡感覚を狂わせる。永遠のような、或いは……一瞬かもしれない。肺の中の空気は、ほとんど吐き出してしまったけど。

 どうかしてしまったのだろうか。自分でも驚くほど、感情が凪いでいた。スモーカーさんの、あんな顔を目にした後だからかもしれない。

 ただ孤独で、寒かった。

 ――わたしは、ここで死ぬのかな。

 いや、まさか。わたしが落ちたのは沿岸だった。きっと、ここはそれほど深くない。スモーカーさんも単独で助けに来たわけじゃないだろうし、部下の一人でも付いているなら間に合うはずだ。何よりわたしがこんなところで死んでしまっては、スモーカーさんが可哀想だ。きっと後悔させてしまう。あの人だけじゃなく、たしぎ姉さんや、クザンさん、ヒナさん、おつるさんや……みんな悲しむだろう。
 なんか……おかしいな。わたしは死にたくないんじゃなかったんだろうか。こんな時にも、考えるのは人のことばかりだ。案外、わたしって生き汚いわけでもないのだろうか。それとも、ただ必要とされていると思いたいだけだろうか。

 こぽ、こぽ、泡がまろび出る音がする。暗くて、冷たくて、苦しい。海の底、ぽっかりと大口を開ける空洞が、憐れな獲物が落ちてくるのを待っている。そんな錯覚。
 わたしはなぜ、こんなとこにいるんだろう。つい数時間前に、スモーカーさんの匂いに埋もれ、頭を撫でられていたのが嘘みたいだ。残念なことにこの現状では、あそこに帰るイメージは殆ど湧いてこない。いずれにせよ思いも及ばぬ展開だった。人生、何があるかわからない。

 でも今はこんなに苦しくて、このままでは押し潰されてしまいそうだから。そうだ、このまま幸福なことを思い出そう。そうすれば少しはこの恐怖を凌げるはずだ。
 ゆっくりと瞼を閉じる。低くて、ぶっきらぼうで、優しい、聞き慣れた声を思い出す。あの時――今朝はなんの話を、したんだっけ?

『嫌じゃねェよ』

 ああ、そうだった。珍しく歯切れが悪いから、わたしとの添い寝は嫌かと尋ねたのだ。あの時、僅かに目を逸らした、スモーカーさんの姿がリフレインする。それにしても、今思えばあの人、……ちょっと照れてたんじゃないだろうか。

『――お前って奴は、おれのことしか考えてないんじゃねェか?』

 わたしの部屋。伏せられた白い睫毛。わたしが差し上げた小さな花束を手に、呆れ顔で微かに笑っていた。なんだか様子がおかしかったから、この日のことはよく覚えている。

『お前の疵を、見せちゃくれねェか』

 スモーカーさんが正面に跪いていた。わたしの左腕を取り、するする包帯を解いて。まだ塞がりかけの生々しい傷跡に、唇、を……ハッ。これは思い出しちゃいけないやつだ。わたしの記憶随一のやらしいメモリアルだ。思い出すなら別のにしよう。

『危険を感じたら――すぐに、おれを呼べよ』

 脱衣所で、背後から告げられた言葉。拉致事件の少し前、確か過保護すぎるスモーカーさんに苛立っていた時期だ。そんなこともあった、そういえば。

『おれァ、お前のそういうツラは嫌いじゃねェ』

 懐かしい、駄菓子を持ち帰った時の。今思い返しても度を越したセクハラだった。よくよく考えると、最近はあんまりしてこない。いい傾向だ。

『勘違いはしなくても期待はする――』

 スモーカーさんの執務室。わたしの冗談に怒っているくせ、妙に苦しげなのが印象に残っていた。あの言葉の意味は、未だによくわかってない。

 ふふ、それにしてもスモーカーさんのことばかりで笑えてしまう。まあ、一緒に過ごす時間が多いぶん、あの人との思い出は人一倍多いから。これは、不可抗力というやつなのだ。
 時系列はぐちゃぐちゃに、しかし記憶の隅々まで、なんだって思い出せそうな気分だった。まるで走馬灯のような――いや、本当にそうなのかもしれない。だとしたら笑えない話だ。

 脳裏で繰り返し、スモーカーさんの声を思い出す。

『お前がずっとおれの傍に居りゃいいだろう』
『もう少しで見逃すところだった』
『お前の名前はなんだ』

 わたしは、……。

『……落ち着け、ナマエ』
『ナマエ、もう少しこっちに来い』
『お前を喪うのが怖い、ナマエ』

 ……。スモーカーさん。

『……ナマエ。おやすみ』
『あまり困らせないでくれねェか、ナマエ』
『ナマエ、何浮き足立ってんだ』
『こいつは一体どういうことだ、ナマエ』

 ああ、――


『教えてやろうか、ナマエ』

『……おはよう、ナマエ』

『すまねェ、ナマエ』

『そうか、ナマエ』

『なァ、ナマエ』

『……ナマエ』

『ナマエ!』

『ナマエ』



『どこにも、行きゃしねェさ』


 泣きそうになった。

 かぷ、と、肺に入っていた最後の泡を吐き出した。目も、鼻も、泣いてる時みたいに痛かった。目尻から何かが溢れ出ている気がするのに、海は無慈悲に雫を溶かして、一粒だって形になりはしない。
 こぼれている。今まで与えられてきたひとつひとつ、大事にしてきたはずの何かが、少しずつ剥がれ落ちていく。胸ポケットからふわりと咲いた白い紙が、水中を揺蕩い、わたしを置き去りにしていってしまう。波間に溶けるように、否応なく、滲んでいく――



 ――ああ、そうだ。全部、分かっていた。


 この世界に来てから、不思議と、思い出せないことがあった。自分自身のこと。ルーツ、出身、家族、友達、わたしという個人に結びつけられたもの。わたしが今まで、どんなふうに育てられて、どこで暮らしていて、どんな学校に通って、どんな生活をしてたのか。そんなことが、思い出せない。今ならその理由が分かる。だって、多分もう、元の世界で生きていたわたしなんて居ないのだ。
 銀色の、2枚のタグに刻まれた、名前と、誕生日と、血液型。それが、わたしの全てだ。もはやそれすらも思い出せない。目を開けて、現実に追い縋っていないと、全てを忘れていってしまう。そんなわたしが、まともな命を持ってるはずがない。

 わたしの名前。スモーカーさんがいつも、呼んでくれるわたしの名前だ。それは、ある、のだ。間違いなく。ああ、なんで、さっきまで覚えていたのに。

 ここは昏くて、寒くて、怖い。

 わたしはやっぱり居ちゃいけなかった。

 わたしの存在は間違いだった。

 わたしは、――。

 知りたくなかった。何度も夢で、繰り返し突きつけられたはずだ。あの恐怖と、現実を。
 こんな感覚を覚えている。この世界の初めの1ページ、あの海の――少し、前。あれは、そう。きっと偶然に過ぎなかった。人生で一番、運の悪い日だった。夢の中のあの浜辺に落ちていたのは、虚ろな女の死体だった。頭をとぷりと水に浸して、四肢をだらりと投げ出して、色のない瞳を虚空に向けていた。わたしと同じ、顔だった。


 わたしはあのとき……死んだのだ。

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