No Smoking


▼ 38-1/4

「どうも」

 目が合った瞬間、見ず知らずの男が軽い会釈と同時に口を開いた。白いシャツ、水色のタイ。制服を着た海兵が、船の向かいに足を投げ出して座っている。

「……」

 返事はせず、船縁を支えに上半身を起こした。するとカサ、と擦れた音がして、見下ろせば胸ポケットに紙切れが入っている。手が縛られているため取り出せないが、十中八九スモーカーさんのメモだ。……やっぱり、あれが現実だったのか。
 となると、この海兵服の男はどうやらあの時ドアを叩いた訪問者で、不用心に鍵を開けたわたしを拐かした犯人に違いない。それじゃああの時言われた事故だのなんだのも、まさか本当に起こった出来事なのだろうか。不安に駆られ、わたしは咄嗟にかさついた唇を開いていた。

「スモーカーさん、は……?」
「いや……申し訳ない。あれは方便なんです。しかし、面白いですね……本気であの"野犬"の心配を?」
「嘘だった、ってことですか」
「いえ……嘘というほどじゃありません。ちょっとしたトラブルで、大佐が手が離せないというのは事実です。まあ……時間稼ぎのようなものですね」

 ほっとする、と同時に歯噛みした。ちくしょう、騙された。わたしって思ったよりばかなのかもしれない。不審者の良く使う手じゃないか。「君のお母さんが怪我したよ。病院まで乗せて行ってあげるよ」ってやつだ。見ず知らずの相手を信じたりするものかと幼き時分には思ったものだが、当事者になればあっさり平常心を失ってしまった。そんなわけはないって、ちょっと考えたら分かりそうなものなのに。

 ともかく状況を整理しよう。周囲はなんと360度、見渡す限りの水平線。このぼろいヨット以外船らしき物は見当たらず、ついでに出港したはずのマリンフォードは影も形もない。太陽は西に傾いていて、夕方にはまだ少し早いってとこだろうか。拉致されてから結構な時間が経ってるらしいが、とはいえスモーカーさんが家に帰ってくるのは夜。まだわたしの不在には気付いていないと考えるのが妥当だろう。今すぐの助けは期待できない。
 それから目の前の不審人物についてだ。視線を走らせ、手早く観察する。窶れた中年の男だ。目元は窪んでいて無精髭は生えっぱなし、キャップの下でひどく疲れたような顔をしている。自信なさげに丸めた背中のせいで、実際の背丈よりも一回りほど小さい印象を受けた。わたしの質問には紳士的な回答をくれたものの、感情や動機はまるで読めない。

 だが、……なんだろう。

「……あの。どこかで会ったことが?」
「さあ、どうでしょう。自分は初対面ですが……」
「あなたの顔に見覚えがある、ような」

 男がちらとわたしを見た。確かに初対面には違いない。が、その胡乱げな視線にはやはり見覚えがある。わたしの記憶にあるものより、かなり落ちぶれた感じではあるけれど。

「――もしかして、逃げたはずの内部犯では? 一度スモーカーさんに、確認のためと顔写真を見せられました。あなたに似てた、気がします」
「……物覚えがいいんですね」

 男は薄笑いを浮かべ、遠回しに肯定した。

 きな臭い話になってきた。後ろ手に縛られた拳を握りしめる。するとこの男はわたしの情報を横流しした張本人、ようやく相見えた因縁の相手なわけだ。言ってやりたいことは山ほどある……が、まだ肝心な部分がわからない。海軍を裏切って逃げたはずのこの男が、一体なぜ今になって――わざわざマリンフォードに舞い戻ってまで――わたしを攫ったりしたのかどうかが。正直、嫌な予感しかしない。

 ギイイ、と船体が軋んだ。進行方向へ向けて目を凝らすも広がるのは水平線ばかりで、未だ船影のひとつも見えてこない。焦りが募る。わたしは無事にマリンフォードへ戻ることができるのだろうか。

「――これから、どこに連れていく気ですか」
「ああ、……そうですね」

 尋ねると、男は進行方向を眺めたまま、ティラーを片手に口を開いた。観光客を乗せたツアーガイドのような気安さが、輪を掛けて不気味に見える。

「まず、こんなヨットでは目立つので……中継地で待機させている輸送船に紛れて乗り換えます。そこからシャボンディの職業安定所へ。到着したらディスコという男に引き渡します。その先のことは存じ上げませんね……私の仕事はそこまでという話なので」
「職業安定所、って、なんですか」
「ははは……。海軍のジョークですよ」

 全く笑えない。濁されたって分かる。なぜなら、わたしにはなんとなく心当たりがあるからだ。"シャボンディ諸島"、"職業安定所"、そしてディスコとかいう浮かれた名前。導き出せるのはかつてドフラミンゴとクザンさんとの会話で耳にした単語だ。そう、あれは確か――。

人間屋ヒューマンショップ……ですか?」

 男の顔色が微かに変化する。

「ご存知でしたか」
「まさか、ドフラミンゴの指示で?」
「ああ、……本当に、賢しいんですね」

 その微笑は、やはり肯定だった。悪い予感は的中したらしい。脳髄がじわ、と冷えていく。

「なんで……ドフラミンゴは、もうわたしからは手を引くと、元帥や大参謀の前で宣言したんですよ。釣り合いが取れるとも思えないのに、どうして」
「まあ……なんです、今回のことは私の独断専行ということになるんでしょうね。私が命惜しさに……己の尻拭いをするために勝手にしたことだと。まあ、海賊に下るというのはそういうことです」
「それが分かってて、なんでこんな真似を」

 分からない、一体この男の目的はなんなんだ。立ち振る舞いが冷静なだけに、その従順さは余計不可解だった。ドフラミンゴに忠誠を誓っているというわけでもなさそうなのに。わたしの疑問を受け、窶れた男はまたもうっそりと微笑んだ。

「ええ、自分も……板挟みで参ってるんです。手配されているわけではないとしても、海軍には戻れませんし……ジョーカーのことを知りすぎて、逃げたら逃げたで消されてしまいそうですし……。それで、交渉したんですよ。保護対象のお嬢さんを差し出したら、先日の失態を大目に見てもらえないかとね」
「わたしをどうこうしたところで、ドフラミンゴがあなたに手を差し伸べるとは思えませんけど」
「でしょうね……。だとしても、最後に忠誠を示しておけば、見逃してくれるのではないかと思いまして。海軍よりも、恐ろしいのはあの男ですから」
「……」

 俯いて唇を噛んだ。生き残りたいからと言う行動原理は、一応理解できる。だが巻き込まれるこっちはたまったもんじゃない。なんでよりによってわたしが、どこぞの海賊との取引道具に使われなくちゃならないんだ。もともとそんなご大層な立場ではないが、かといって土産ものみたいに扱われるほど人権を捨てたつもりもない。

「こう見えて、重要な仕事をしていたんです」

 男が再び話を切り出した。吹き抜ける風を受け、バフ、とヨットの帆が膨らむ。

「軍部のお偉方に知れたら、青ざめそうなことを沢山してきました。ジョーカーの幹部を新兵として手引きしたり、G-5への配属を手伝ったりね……。長らく、基地長へ本部の動きを伝えるのは私の仕事だったんです。あれは割りのいい仕事だったのに……」
「そんなこと、わたしに話していいんですか」
「勿論、良くないですよ。これは……自戒です。お嬢さんに話してしまったら、どうあっても逃すわけにはいかないですからね。勝手ながら、君と私は一蓮托生というわけです」

 絶句した。ふざけるなと言いたくなった。わたしにこれ以上ジョーカーの所業を吹き込んだりしないでくれ。今でさえ十分過ぎるリスクを背負わされているのだ。わたしは床屋の掘った穴じゃない。

「っ、あの。こんなこと言っても無駄かもですけど、良心は痛まないんですか。あなただって、腐っても海兵だったんでしょう」
「ははははは。……良心?」

 乾いた笑い声。虚ろな瞳。僅かにでも怖気付かないよう、男の顔をひたと睨みつけた。背筋に冷や汗が垂れていく。男はガリガリ、無精髭を掻いている。

「誰しも自分の命が一番可愛いものでしょう。私にはもう後がない……海軍の拷問も、いつ殺されるかと怯える日々も御免ですから、失敗したら死ぬしかありません。まったく、お嬢さんのせいで……私の人生は台無しです。いえ……迂闊だったのはあの連中なんですから、押し付けるのも酷なんですが、もう全員死んでしまったので……恨む相手が残っていないんですよ。あの野犬殿に吹っ掛ける度胸もありませんし……」

 は、こんなばかな真似をしておいてスモーカーさんは怖いのか。いや分かってる、この男は小物なのだ。その相手にさえ、わたしの命は脅かされている。

「大丈夫です。おじさん、もう十分スモーカーさんに喧嘩売ってますから。今に殴られますよ」
「どうですかね……人質の君が居れば、逃げるくらいはできるかもしれません。ここは海の上です、能力者の弱点をご存知ないわけではないでしょう」
「スモーカーさんはそんなヘマしません」
「そうでしょうとも……」

 得体の知れない笑みだった。一瞬、不安を覚える。この男がスモーカーさんへ対抗できるほど強いようには見えないが、だとしたらこの余裕はなんだろう。万が一ドフラミンゴと通じているのなら、スモーカーさんへの対抗策を持ってる可能性もあるのだろうか。

「――ああ、ほら」

 風向きが変わる気配がする。怯むわたしを無視して、男は朗らかに振り返った。その先を見やれば、水平線にぽつりと浮かぶ島の影がある。すると、あれが……。

「見えてきましたね」

 男の声が明るくなる。黒々とした眼差しが喜色を浮かべて僅かに輝いた。やはり、あそこが中継地点で間違いないらしい。
 まずい。輸送船に移されてしまえば、スモーカーさんたちがわたしを探し出すのはきっと難しくなる。なんとかして時間を稼がないと。上手いこと逃げられたらそれがベストだが、拘束されている現状では難しいだろう。ああくそ、海軍からの助けはまだだろうか。このヨットは船脚が遅い、海軍艦の速度なら既に追い付いている可能性も――

「間に合いませんよ」

 わたしの切望を見抜いたのだろう。男は舵を取りながら、冷ややかに釘を刺してくる。

「仮に行き先が知られていたとしても、先回りは不可能です。タライ海流の際を帆走るくらいすればあり得るかもしれませんが……そんな無謀は海賊でもしません。渦に乗ってしまえば一巻の終わりですしね」
「……。ずいぶん、お詳しいですね」
「腐っても海兵だったので……運良く、風向きも味方してくれてます。君にとっては凶報ですね」

 果たしてそうだろうか。小さく差した光明を見て、わたしは口をつぐむことにした。



 それから数分。中継地と称された島は鬱蒼とした森林に覆われており、ほとんど無人島のように見えた。時折岸に着けられた空船や漂う魚網とすれ違うことからして、人の手は入っているらしいけど。

 さて、沿岸を進む船から見えるのは、人気のない寂れた船着場だ。男が船を岸に寄せるべく櫂を漕ぐ。ヨットは島の湾岸沿いを進み、鬱蒼とした森の影を抜けていく。どことなく、以前クザンさんと訪れたあの島と似た雰囲気だ。こんなに物騒な状況でなければ……だけど。
 男は周囲を警戒しながら慎重に櫂を漕いでいた。あれから彼の表情は一変して曇っている。ここにはわたしの待ち人がいない代わり、男の出迎えもないらしい。焦っているのはお互い様だということだろう。現状、わたしにとっては好都合である。

「何か予定外のことが?」

 白々しく尋ねてみる。男は一瞬、押し黙った。

「……さてね。少なくとも、君の期待は叶わない」
「それは吉報ですね」

 減らず口を叩く。ひりつくような視線がわたしを睨んだ。だがこの男は知らない。たとえ無謀でも、1パーセントの可能性を口に出した時点で脅しは無意味だ。スモーカーさんは助けに来る――間違いなく。そうなればわたしに今できることはただ一つ、助けが来るまで耐えるだけだ。ずっと前から、それだけは得意なのだ。

 日が傾きつつある。船は桟橋から数メートル離れた位置にある木陰に、着岸することなく停止した。

「――暫く、待ちましょう」

 男が呟く。風は凪ぎ、砕ける潮騒すらも静かな海岸だった。森の方から場違いに能天気な鳥の鳴き声が聞こえてくる。男は船底に櫂を置きやると、低くため息を吐き出した。
 係留ロープを繋がないのはいつでも逃げ出せるようにという警戒心からだろう。或いはわたしが逃げ出そうとするのを阻止するためかもしれない。とはいえ、縄抜けの技術などはないので相変わらず手足は拘束されたまま。やはり自由なのは口だけだ。

「待つのはいいですが、わたしを迎えにくるのは真っ当な海兵さんですよ。ところで今、おじさんは何を待ってるんですか」
「……」
「教えてくれないんですね。さっきはあんなに色々、話してくれたのに」
「お嬢さん。そろそろ、意地を張るのを止めませんか?」

 無理やり話の腰を折られる。男は抜け目なくこちらを向いたまま、ベルトに差していたフリントロック・ピストルを抜き取り、火皿に火薬を詰め始めた。見慣れた海兵の標準装備だ。人に向けて撃たれるのを見たことは、まだないが。

「なんの話ですか」

 と、努めて冷静に応対する。まさかその拳銃を向けられはしまいとは思うが、銃口に鉛玉が込められるさまを見ると体は自然と強張ってしまう。

「助けは来ないと、認めたらいかがです」
「……わたし、攫われるのはこれが三度目なんです。つまり毎回助かってるってことですよ。わたしはわたしの経験則を信じます」
「仏の顔は三度までと言うでしょう」
「いえ。二度あることは三度あるんですよ」
「違う。今回に限っては起こり得ない」

 まるで自分に言いかせているようだった。男は銃を腰に戻し――気取られなかったことに安堵する――マストを掴んでふらりと立ち上がる。岸辺は相変わらず静かだ。そんな静寂を割く、バシャと水が跳ねる音。男が身を屈めてアンカーを投げたらしい。陸近くとはいえそれなりに深さがあるらしく、底に沈んだはずの小さな錨は濁っていて見えなかった。

「お嬢さんも従う相手を選んだほうがいい」

 身を屈めたまま男は言う。ボリボリと顎を掻く左手。その爪の隙間には垢が詰まっている。

「ジョーカーは君に興味を持っているようですし、今のうちに寝返っておけば後々後悔せずに済みますよ。海軍なんて、所詮政府の狗なんですから」
「唆しても無駄だからやめてください。わたしが、彼らを裏切るわけがないでしょう」
「威勢がいいのは構いませんが、一応忠告しておきます。どれほどの違法行為が跋扈していたとしても海軍は"職業安定所"には踏み込みません。政府と揉めたらお終いですからね。手遅れになるまで理解できないなら、そうして愚直なままいればいい」

 わたしが折れないことに、男はひどく苛立っているようだった。落ち窪んだ眼孔の奥で、こちらを舐めつける瞳が真っ赤に充血している。ストレスに耐えかねているのだろうか。

「君はまるで分かっていない……政府も海軍も、組織というものはたった一個人を守るために動いたりしないんです。自分の身を守れるのは自分だけだと分かりませんか。殺されるまで命乞いはしないと?」
「……わたしは別に、海軍を頼りにしてるわけじゃないんです。わたしは、わたしを大切にしてるあの人たち個人を信じてます。諦めたり、裏切ったりしないのは、生き延びたいとかそういうことじゃなくて、ただ……あの人たちが好きだからですよ」
「情だの信だの下らない。君のそれも口だけですよ。いよいよ殺されるとなれば頭を下げて無様に泣き喚くに決まってる……仲間や家族なんてどうなってもいいから自分だけは助けてくれと乞う……」

 少し、腑に落ちた気がした。その立ち姿はどこか哀れにも見えた。同時に怒りもあった。この男がこうなっているのは、彼自身の弱さのせいじゃないか。

「ずいぶんむきになるんですね。おじさんが寝返ったときも同じことを言ったんですか――」

 ゴッ、と鈍い衝撃。

 あまりに唐突で、理解が遅れた。頭が船底に叩きつけられ、口の中いっぱいに鉄の味が広がる。頬が熱い。ぐらぐら、する。唇の端から、何か垂れてる。

「……っあ、?」
「お嬢さんは利口だから、言葉が通じる相手を前にして、殺されることはないと勘違いしてしまったんでしょうが……」

 男がブラウスの襟首を掴んで引き倒す。首が強く絞めつけられる。おでこの真ん中にひんやり押し当てられた銃口。引き金に乗せた指。爛々と沸る、虚ろな四白眼と目が合った。恐怖が、追いついてこない。

「引き渡すのが死体でも、別に構わないんですよ」

 心臓がひとつ、軋む。

 まさか今、殺、される――




「そうかい、何が、構わねェって?」
「……え、」


 この、声。……怒りを孕んだ、静かな声。

「――ッ!?」

 取り乱した様子で振り返った、男の背中越しに見える。白煙に象られていく輪郭。確かになる重量に併せ、船がゆっくり傾いていく。鮮烈な白。さっきの一瞬、二度と出会えないことを覚悟したあの眼差し。ああ――どうやってとか、なんでとか、そんなの今はどうだっていい。

 痛みに歪む視界の中、紛れもなくスモーカーさんが、十手を提げて立っていた。

 やっぱり、と思うと同時にまさか、と思う。彼の姿は霧のように霞んでいて、能力者だと知らなければ幻覚だと思うところだ。身体を煙に変え、岸から飛んできたのだろうか。海の上は危険なのに。気配は全く無かった。いつ、わたしを見つけたのだろう。だって、いつもなんだかんだ、遅れてくるから……本当に、間に合わせるとは。

「っ、クソ……!」

 男の狼狽する声。拳銃が振り上げられるよりも速く、逆手に持った十手の柄が男の頭上を通り抜ける。身を屈めた男が間一髪躱す――が、スモーカーさんはすかさず手首を返し、振り抜いた棒芯と構えられた銃身を交錯させた。船体が大きく揺れる。白い影が瞬時に踏み込む。十手を滑らせ、鉤を男の肘に引っかけたかと思うと、彼は間髪入れず関節を逆方向に叩き折った。骨がひしゃげる音にゾッとする。知らなかった、あれはああやって使うのか。

「ガ……ッ、ァ」

 男の顔に、目に見えて分かるほどの冷や汗が噴出する。痙攣する指先から拳銃が転がり落ち、わたしの足元まで転がった。……撃鉄が上がっている。

「動くな!」

 鋭い命令が飛んできて、びくりと身を竦めた。スモーカーさんの表情に焦りが浮かぶ、その一瞬。十手に拘束されていたはずの男が、無理矢理腕を引き抜いて、わたしの方へ転がり込んできたのだ。
 床すれすれを駆け抜けた際に掴んだらしい、男の左手には一丁の拳銃。折れた右腕はだらりと垂れ下がっている。刹那、ガツ、と銃口を顎に押し当てられ、わたしの上半身は船のへりで仰け反っていた。背水、その上このまま引き鉄を引かれたら死ぬと分かる。男が足を掛けた反動で、ヨットが大きく右に傾いだ。

「私の、勝ち逃げ……ですね」

 刹那の膠着。冷や汗まみれの青褪めた顔で、にた、と男が笑う。船の対角線上に立つスモーカーさんはもう、見たことないくらいの怒りを貼り付けて、射殺さんばかりの形相で男を睨み付けていた。低く唸るように、歯を剥き出しにして、吼える。

「ふざけんじゃねェ、そいつを人質を取ればおれが手出しできないとでも――」
「まさか」
「な、ッ……!」

 激しい衝撃に、肋骨が悲鳴を上げた。

 ――わたしの脇腹が蹴り上げられるのと、スモーカーさんがひどく狼狽しながらこちらに駆け出すのと、ほとんど同時だった。
 わたしの目下から足場が消え失せる。驚くほど蒼く、透き通ったさざなみが、視界いっぱいに広がった。景色がゆっくり、流れていく。中空に投げ出されたまま振り向けば、ふいにスモーカーさんと目が合った。似合わない、怯えるような表情をしてる。

 重力が、わたしの身体を海面に叩きつける。

 まっすぐ伸ばされた、腕が見える。

「ち、ィッ――」
「スモーカーさ」

 どぶん。

 飛沫が上がる。頭から水の中に引き摺り込まれた。あまりに、覚悟していたよりもずっと海の温度が冷たくて、心臓が止まりそうになった。

 切れた唇の、傷口に染みる潮が痛い。無理矢理こじ開けた視界を、細かな粒子の気泡が真っ白に埋めていく。一瞬、スモーカーさんの手が波間を掻いて。呆気なくわたしの鼻先をすり抜けていった。
 どぷ、どぷと。耳孔に海水と一緒に流れ込んでくる。スモーカーさんが悲痛な声で、わたしの名前を叫んでいる。ああほんと、落ちたりしたら危ないから、敵がいる前でそんな不用心に身を乗り出しちゃいけない。スモーカーさんはただでさえ、能力者なんだから。

 わたしを呼ぶ声が、みるみるうちに遠ざかる。

 海面から差し込む光が、昏やみに霞んでいく。



 ――銃声が鳴り響いた、気がした。

prev / next

[ back to title ]