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ベッドから跳ね起きる。
ここは、……。
乱れた息をけほけほ吐きながら、周囲を見回す。一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。ただでさえ夢と現実が混濁しているというのに、寝起きの眼と輪郭を暈かす薄暗がりでは、何もかもが曖昧に見えた。
はたと我に帰る。寝室に、ノックの音が響いている。わたしを引き戻した鋭い声だ。
「おい、ナマエ! 開けろ!」
スモーカーさんが焦ってる。わたしは未だ痛みの残る首を手のひらで摩ってから、びっしりと汗が浮いた額を拭った。両手、片腕の傷跡、だぶついた寝衣、ずり落ちかけたシーツと大きなベッド、その足元にはお気に入りのスリッパ……わたしに与えられているものを一つずつ、確認していく。
落ち着け、大丈夫だ。夢の内容は、隅々とまではいかないが覚えている。でもあれはただの夢だ。現実じゃない。目を閉じ、ゆっくり深呼吸してから、わたしは重たい身体を引きずって立ち上がった。
わたしの気配を察してか、既にノックの音は止んでいる。手探りでのろのろと鍵を開けると、薄明に切り取られる青褪めた陰がドアの隙間から差し込んできた。わたしは、高い位置にある彼の頭を仰いだ。
「起きたのか」
這い出してきたわたしを見て、スモーカーさんは――どうやら相当気を張っていたらしく――僅かに声を和らげる。ちょっとだけ眠そうだ。夢で見た得体の知れない彼よりも、ずっと人間味のある表情だった。
「スモーカーさ、ん」
口を開くと、想定よりも掠れた声が出る。そんなわたしの言葉を聞くなり、スモーカーさんは静かに眉を寄せ、はァ、と呆れ混じりにため息を吐いた。
「んな何度も呼ばねェでも聞こえてる」
「何度も、呼んでましたか?」
「あァ……ったく、なんだってんだ。尋常じゃねェぞ、お前、ここんとこ大丈夫なのか」
がしがし掻き上げられた前髪が、寝癖で軽く乱れている。日の出もこれからという時間に叩き起こされたためか、実に気怠げなご様子だ。
瞬き一つして彼に見入る。スモーカーさんって、わたしに対してこんなに無警戒だったろうか。思いのほか気を許されてる、と今更ながら実感した。なにせ夢の中のスモーカーさんはもっとこう、付け入る隙のない感じだったし、そのうえ優しすぎた。あれに比べると、今目の前にいるスモーカーさんのやや投げやりな態度にはむしろ安心感さえ覚える。わたしはこほ、と咳払いをひとつした。
「ごめんなさい、起こしちゃって」
「……そりゃ構わねェが、原因は分かってんのか」
「原因もなにも、夢見の悪さはいつも通りですよ」
「だといいがな」
本気にしてないようだ。スモーカーさんは額に当てていた手を下ろし、それから訝しむような目をわたしに向けた。何やら眉間の皺が深い。
「お前、声がおかしくねェか」
「え? あ、寝起きだから、ですかね。なんかさっきから、喉が……けほっ、息苦しい感じが」
確かに、喉から出てくるのは乾燥して張り付く感じのとは少し違う、絞り出すような掠れ声だ。起きがけから首周りに違和感は感じていたが、何故だろう。手のひらで喉を摩りつつ首を傾げた。頬に纏わりついていた髪が流れ、さらりと顔に掛かる――
「おい、」
「え、……痛っ!」
いきなり、バッと手首を掴まれ、強引に頭の上まで引っ張り上げられた。肩の骨が悲鳴を上げるもしかし、わたしの呻き声が聞こえなかったはずはないだろうに、彼は一向に力を緩めてくれない。抗議すべく顔を上げる……が、目が合うなりわたしの威勢はあっさり削がれてしまった。スモーカーさんが、物凄い剣幕でこちらを睨んできたからだ。唇が僅かに震えている。
「お前、こいつァ、なんの真似だ」
「な、なにがですか」
「てめェでやったんだろうが」
スモーカーさんの様子を見るに只事ではない。慄くような眼差しはわたしの首に向けられている。
「あの……どう、なってるんですか」
「……鬱血してる。手形にくっきりだ」
「手って、わたしの?」
「お前以外に居ると思うか?」
彼は直接的な表現を避けているが、つまるところ――わたしは自分の首を絞めていたということらしい。それも物理的に。息苦しさ自体は夢の中でも起きてからも感じていたものの、しかし、ええ……? 結構な大ごとなのだろうが、全然実感が湧かない。寝相が悪いどころの話ではないのは確かだが。
「今日が初めてか? 原因に心当たりは?」
「え、や、分かんないです。息苦しくて起きることはときどきありましたけど……。最近は、これといって思い当たるストレスもないですし」
「てめェな、こんな時まで意地張ってる場合か? 御託はいいから全部吐け。こうも差し迫ってくりゃ、なあなあにもしてられねェぞ」
「だから、ほんとに何もないんですってば。ていうか腕しんどいんで離してくれませんか」
「駄目だ。両手とも拘束されたくなきゃ動くな」
ぴしゃりと却下してくるスモーカーさん。そんな深刻にならなくても。
聞く耳持たずなのでちょいと腕を引いてみる。案の定びくともしない。埒が開かなさそうだ。危機感に欠けている自覚はあるものの、こう頑なにされても困る。わたしはやれやれとため息を吐いた。
「分かりました。手は掴んでいただいたままでいいですから、とりあえず場所だけ変えませんか」
わたしがぶすくれた態度を取ると、スモーカーさんは何やら難しい顔をした。だが、この場での立ち話を避けたいという点は同意見だったらしい。彼は慎重に腕を下ろし――それでもわたしからすれば胸の高さである――リビング方面へ踵を返した。わたしは手首を掴まれたまま、大人しくソファの方まで引っ張られていく。 はあ全く、こんなとこで夢とおんなじ構図にならなくたっていいのに。
ソファの前に辿り着くと、クッションに残る凹みやわたしが使えと押し付けたブランケットの乱れから、ついさっきまでここでスモーカーさんが眠っていたことを意識して一瞬躊躇った。目を逸らして光源を追う。レースカーテンから透けて見える、まだ朝とも言い難い明け方の空は、あの夢を引きずってきたかのようなグラデーションをしている。
「そういや、今って何時くらいですかね」
「5時前だ」
「おわ、それはなんといいますか、すいません」
「なんだってそう悠長なんだお前は」
先に座れとばかりに肩を押さえつけられ、座面に尻餅をついた。ソファからはスモーカーさんの体温の名残りを感じる。彼はわたしの隣に腰を下ろすと、若干体をこちらに傾けつつ腕を組んだ。
「今度こそ包み隠さず答えろ。どんな些細なことでもいい。本当に思い当たることはねェのか?」
「まーまー、焦りすぎです。らしくないですよ。そう詰め寄られちゃ思い出せることも思い出せません」
「あのなァ、……おかしいのはてめェの方だろう。こんな時だってのに妙にのらりくらりと」
「だって全然実感がないんですもん。それに今はスモーカーさんが居るから、とりあえず危ないことは起こんないですよ」
ふわあと欠伸をしながら口にする。スモーカーさんは一瞬閉口し、それから訝しげに眉を寄せた。
「……まさかお前、眠いのか」
「はい?」
いきなり何を言うのやら、こんな時間なんだし眠くないわけないだろう。と思ったものの、先ほどからやけに呑気してるのは確かに睡魔の仕業かもしれない。
しばらく間をおいて「なるほど」と頷くと、スモーカーさんは肩透かしを喰らったみたいな顔をした。そして続けざまに重たげな溜め息。尋問じみた態度はひとまず改めてくれたものの、今度は呆れさせてしまったらしい。
「となりゃ、今のお前に何言っても無駄だな」
「何をう。確かにちょっと眠いですけど別に喋れないってわけじゃ」
「今はいい。詳しい話は夜に聞く」
またしても一方的な制止だ。反論しようと思ったものの、指摘されてから瞼の重みが気になってしまって強く否定できない。二度目の欠伸を咬み殺す。これたぶん、早朝だからというより、悪夢のせいでまともに睡眠を取れていないのが大きな原因な気がする。
しかしはい分かりましたと言うのもなんか癪だ。せめてもの抵抗で口を噤んでいると、お構いなしって感じに肩に手を回された。ぶっきらぼうな仕草だが、さっきよりはいくらか力加減に配慮を感じる。そのままぐっと抱き寄せられ、かと思えば上半身を仰向けにひっくり返され、わたしはいつの間にかキョトンと天井を見上げていた。頭の後ろにごつごつした大腿筋の気配を感じる。これはあれだ。ひざまくらだ。
「あ、あの……」
「今からならあと2時間は眠れるだろう。見張っててやるから横になるだけなっておけ」
スモーカーさんの指がさらりと前髪を撫でていく。ああいけない。これは身に覚えのある展開だ。いくら抵抗しようと思っても、スモーカーさんの気配は簡単にわたしを安心させてしまう。一瞬にして瞼が閉じかけ、慌ててこじ開けた。まずいまずい。
「や、まってくださいよ。まさかここで寝ろって言うんですか」
「一人部屋に追い返すわけにゃいかねェだろう。それともおれを寝室に入れる気か?」
「それこそまさかですよ」
「なら文句はねェだろ」
「ううん……?」
てかそういうことじゃないような。わたしが指摘したいのは部屋の話じゃなくて、わざわざこの体勢を取ったことに対してであって……。あーもう、頭の回転が鈍すぎる。スモーカーさんがしきりに髪の隙間を掻き分けてくるせいだ。
スモーカーさんの手を振り払うようにぐるりと寝返りを打ち、彼の胴部に顔を埋めた。薄手のワイシャツから、葉巻の匂いはほとんどしない。これはスモーカーさんの匂いだ。すごく、男の人って感じの。スモーカーさんは引き剥がそうとはせず、結局わたしの後頭部をゆるゆると撫でてくる。ねむい。
「今晩からどうする。実害が出ちまった以上、この件を放置するわけにもいかねェが……」
視界の外から、歯切れ悪いスモーカーさんの声が降ってくる。わたしはくぐもった声で返事をした。
「どうって、一緒に寝ていただくしかないでしょう」
「やけに物分かりがいいな。もっとごねるかと」
「まあ相手はスモーカーさんですし、匂い移りさえなければ今さら……って感じですよ。わたしからすると、渋ってるのはスモーカーさんのほうに見えます」
「……かもな。避けたかった展開だ」
「わたしと寝るの、やなんですか?」
頬をシャツに押し当てたまま、そろりと視線だけ上げる。やけに不安げな口調になってしまった。そりゃまあ、毎日仕事で朝も早いというのに、寝言がうるさいうえ寝相もよろしくないわたしと添い寝だなんて気が滅入るだろうけど。
スモーカーさんがわたしの顔を覗き込む。困惑と疑念が入り混じった、怪訝そうな表情をしている。が、口を開いた彼の声色は柔らかかった。
「嫌じゃねェよ」
何だか居心地が悪そうだ。ふ、と唇から笑みが溢れる。やっぱ眠いのかもしれない。こういう調子のスモーカーさんは、少し可愛く見える。危険思想だ。
「――ナマエ」
笑っていると、諌めるように名前を呼ばれた。わたしの頭をすっぽり覆い尽くす大きな手のひらが、柔らかに髪を撫でつける。目が合うと、スモーカーさんは緩く息を吐き、遠慮がちに口を開いた。わたしの言動に毒気を抜かれてしまうのか、神妙な態度を保つのに難儀しているご様子だ。
「それで、もう首は痛まねェのか」
「へーきですよ。そもそも、初めからそれほど痛むわけじゃなかったですし」
「こっちは気が気じゃねェってのに当の本人は気楽なもんだな。……」
スモーカーさんはわたしの毛先を捏ねくりながら、慎重に言葉を選んでいる。暫しの逡巡――それから再び疑問を投げかけられた。
「今も、どんな夢を見たか覚えてねェのか」
「なんですか、いつもはそんなこと聞かないのに」
「……てめェの首を締めたくなるような夢と分かってりゃ、もっと早ェうちに聞いてたさ。それに……妙なことを言うが。最近になって、お前がうわ言でおれを呼ぶようになったんでな」
「え……」
スモーカーさんを見上げながら、ゆらゆらと目を瞬いた。いや、わたしが寝言で彼を呼んだ、というのはわかる。さっきも聞いた話だし。けど、最近になって、の言い方からすると、つまりそれは、今回に限った話じゃないってことだ。全然記憶にないけど、それって、なんか、すごく――
「おい……何を照れてんだ」
「う、うぬぼれないでください」
ぎくりとして顔を背けた。耳が熱いのは分かってたけど、うー、やっぱ赤くなってるらしい。
だって、そりゃ、この人がわたしの頼りなのは事実だけど、自分のコントロールの及ばない部分までとは(しかも本人に聞かれてたとなれば)、当然恥ずかしいに決まってる。ていうかまるで、スモーカーさんのことがめっちゃ好きみたいじゃないか。語弊がありまくる。それもこれも、夢の中でスモーカーさんが呼べなんて言うからだ。あーもう。
「で結局、どうなんだ。覚えてるのかどうか」
「……」
「話せねェような内容でも?」
別にそういうわけじゃない。ていうか、名前の話題の後でそうだと言えば、まるで疚しい夢でも見たかのようである。断固、弁明させていただきたい。
「いえ、ところどころなら覚えてます。故郷の夢でした……スモーカーさんも、出てきましたけど」
ちらりと視線を送る。沈黙で続きを促された。
「……だからって別に、これといって特別なことはありません。電車にのって、海にいっただけです。まあ、スモーカーさんが、駅にいるときは笑えましたけど」
「――……」
「絶対にありえないことなのに、変にリアルで……でも、それほど悪い夢じゃなかったです。だから、これといって問題はありません。なので、もー、いいでしょう……人の夢の話ほど、退屈なものって、ないですし……」
そこで、再び眠気の波がきた。スモーカーさんのちょうどジャガイモくらいの硬さのお膝に頭を委ねながら、うとうとと船を漕ぐ。ああ、いよいよ本格的に寝落ちしそうだ。
「……スモーカーさん」
「あ?」
ふわふわした声で呟くと、何か考え込んでいたらしい、不意を突かれたようなそっけない声を返された。一体、なにを思ってたのだろう。教えてくれないとしても、わたしを心配してのことなのは確かだ。
この人がわたしに黙っていることと、わたしが彼に隠していること。その両方数えたら、一体どちらが多いのだろう。いずれにせよ、きっと卑怯なのはわたしの方だ。わたしは、スモーカーさんと違って、自分を守るためだけに口を閉ざし続けている。この人は、多分、わたしが話し出すのをずっと待ってくれているのに。
「ごめんなさい」
ぽつり、と呟く。
薄目を閉じた。頭を撫でていたスモーカーさんの指はいつの間にか止まっていて、広い手のひらの温度がじんわり染み込んでくる。暖かくて、落ち着く。
全て打ち明けたところで、この手のひらや、何もかも、今更何が変わるとも思えない。それなのにわたしはまだ怖いのだ。信じてもらえないことを恐れてるのか、良からぬことを思い出すのが不安なのか、それとも、……。
「……ナマエ?」
もう、すっかり瞼がくっついてしまった。スモーカーさんの声が、快く耳孔を伝い落ちていく。遠いその音を聞きながら、わたしは彼の気配と温度にひどく安心して、久しく穏やかな眠りについたのだった。
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