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喧騒。
ごった返す人の群れ。
発車時刻を告げるアナウンス。
ガタンゴトン、と電車が通り過ぎて行く音がする。ICカードのチャージをしている女性、駅員に行き先を尋ねている老夫婦、スマホを耳に当てたサラリーマン。駅中のコンビニエンスストアには、ずいぶん広範囲を網羅した観光土産がずらりと並んでいる。わたしは、旅行会社のパンフレットが陳列されたラックの隣で、改札口を眺めながらぼんやりと立ち尽くしていた。
――あれ?
「おひさー」
何かがおかしい。改札の向こうから駆け寄ってくる友人を見ながら、思わず顔を顰めてしまう。彼女はそんなわたしを見て、「なに、どしたの」と訝しむように首を傾げた。
「いや、……今日、って、なんの予定だったっけ」
「は? 久々に会って買い物行こうって話でしょ。中学出てから学校別れちゃって、しばらく会えてなかったから顔忘れちゃってるかも―とか言ってたけど、まさか当日の予定まで忘れてるとは」
彼女は呆れたようにぐるりと目を回し、それからわたしの反応を冗談と受け取ったのか、それとも人通りの多い改札で立ち往生するのを嫌ったのか(おそらく後者である)、早速ぐいぐいと歩き出した。5番出口はどっちだっけ、と口走りながら、頭上の案内板を探している。
「あ……」
肩に掛けた鞄の持ち手を握る。友人の後ろ姿を見失わないよう、慌てて後を追いかけた。あの一瞬、感じた違和感は何だったんだろう。今はすっかり薄らいで、殆ど、消えかけている。
――デジャヴ、だろうか?
「早く、早く」
わたしを手招きしているあの子は、確かに彼女の言う通り中学の頃仲良くしていた友達で、待ち合わせ場所のここは最寄駅から二駅ほど行ったところにある、近所で一番大きな駅だ。それにしても、なんだろう。確かに既視感のある光景だった。よくあること、ではある。でも、この得体の知れない不安感はなんなんだ。一体わたしは――
「おい」
たたらを踏む。肩を掴まれたのだ。背後から。
「待て、行くな」
頭上から響くのは低い声だ。振り返ると、そこには背の高い男が立っている。私服の黒いシャツを着て、すらりと長い脚に纏ったズボンの裾を革製の編み上げブーツに突っ込んでいる、目つきの鋭い、白髪の、外国人。
息を呑んだ。
「え……」
「うわっ!? 誰それ、知り合い?」
遅れを察して戻ってきてくれた友人が、わたしの背後を見上げてぎょっと目を丸くする。かくいうわたしも同じくらい呆然としたまま、肩に置かれた筋肉質な腕をちらと見て、もう一度その主に視線を合わせた。わたしの好きな、懐かしささえ感じる、あの褐色の眼差し。
「この人は、……うん、知り合い、だと……思う」
「え、ええ? いや、あんたこんな知り合いいんの!? まじ? 怖っ、めっちゃデカいし、イカつ……ていうか日本語通じてる?」
「残念ながら通じてる。こいつを借りても?」
「ううわっ! ええはいどうぞどうぞ」
「え、スモーカーさ……」
わたしの手を掴み、彼は振り返らず歩き出した。転びそうになって、歩調を揃えようと駆け足になる。状況が分からない。だって、おかしい。こんなところにこの人が、"スモーカーさん"が居るわけない。
「あとで説明してよー!」
混乱混じりの友人の声。わたしは最後に、肩越しに振り返ってそれを見た。しかしどうしてか、人の波に呑まれてしまったあとでは、あの子の声も、顔も、すっかり彼方へ消え失せてしまっていた。
人影の見えない、二人きりの車両の内側。
足元をたっぷりと照らし上げる精彩な斜陽。
振動に合わせ、吊り革が揺れている。
車窓の外を流れて行く光景には見覚えがある、はずだった。しかし、これが一体どこへ向かう路線なのか、まるっきり思い出せない。だというのに感情だけは訳知り顔で、この状況に対する不安も焦りも伝えてはくれず、霞がかかったような記憶を探ることさえ、何故か、どうしても、出来なかった。
隣に座るスモーカーさんをそろりと見上げる。彼が存在し得ないわたしの現実世界において、その姿はひどく特異に思えた。見慣れたあの白い髪も、彫りの深い横顔も、通路に投げ出されたびっくりするほど長い脚も、まるでファンタジーの世界から貼り付けたような奇妙さだ。服装と葉巻については若干のリアリティ――あるいはわたしの希望――を反映しているが、貧相な想像力の限界が窺える。
まあ、それも当然だろう。曖昧な記憶も、居るはずのない人物も、脈略のない展開も、おかしな時間の進み方も、やけに希薄な感情も。全てあり得ない話なのだ。つまり、結論を言えば、そう……
「これ、夢ですか?」
この人に聞いても詮無いことだろうけど、物は試しと尋ねてみる。スモーカーさんは窓越しに見える平らな景色を眺めながら、ふと眩しげに目を眇めた。
「お前の好きに」
「……まあ、間違いなく夢でしょうけど」
変なの。いつものスモーカーさんなら、何言ってんだと呆れ顔を返してきそうなものなのに。らしくもなく意味深な返答だ。これも夢だからだろうか。
膝の上で組んだ手に視線を下ろす。親指と親指を重ね合わせ、濃い影が面に沿って動くのを眺めた。……あ、そういえば左手に火傷の痕がない。これも夢である証左の一つといえよう。
「それにしても、スモーカーさんが電車の乗り方知ってるとは思いませんでした。そりゃ、夢だからなんでもありなんでしょうけど」
「海列車なら乗ったことがあるからな。まァ、ちっとばかし勝手は違うが」
「ああ、そういや前にそんなこと仰ってましたね。記憶に残ってたから出てきてるんでしょうか。夢にしては整合性がしっかりしてますねえ」
普段ならあれこれ言われそうなわたしの発言に対しても、やはりスモーカーさんからの指摘はない。夢だから、わたしの希望が反映されて悪態がマイルドになってるんだろうか。もともと取り立てて口数の多い人ではないけど、今日はいつになく回りくどい感じだ。
ガタン、車両が大きく揺れる。その反動でスモーカーさんの肩が頬に触れた。少し、距離を取る。
「ええとそれで、いったいなんの用事ですか?」
尋ねつつ顔を上げる。と、知らぬ間にスモーカーさんがこちらを向いていたので、不意に目線が合ってどきりとした。鮮やかすぎる陽光に染まる彼の半顔、軽く伏せられた眼差しは逃げ出したくなるほど優しい。面食らうわたしを見て、スモーカーさんはただ柔らかに笑んだ。
「……どう思う?」
「し、質問を質問で返さないでください」
「…………」
スモーカーさんは、やんわりと目を細めたまま黙っている。ともすると、夢だから、理由なんてないのだろうか。だとしたら、彼がここにいる理由は、夢の主であるわたしが考えなくちゃいけないのかもしれない。少なくともスモーカーさんは、わたしの答えを待ち侘びているように見えた。
「もしかして」
と、いつもの癖で、冗談めかして笑ってみせる。
「こんなところまで追いかけてくるくらい、わたしに会いたかったんですか。全く、わたしが別の世界から来たことも知らないのに、連れ戻そうとするなんて仕方のない人ですね。まあ、スモーカーさんってほら、意外とわたしのこと、大好きですし……」
尻すぼみになる声が震えてしまう。しくじった。言うんじゃなかった。なにせこれは夢なのだ。わたしが提案したなら、このスモーカーさんは、なんだってイエスと答えるに決まってる。
「あァ、そうだ」
案の定と言うべきか、スモーカーさんは肯いた。
「お前に会いにきた」
「なんで……」
「連れ戻したくて」
「……そう、ですか」
相変わらず、なおも穏やかな視線を向けてくるスモーカーさんから目を逸らす。危険だ。夢にせよ、いやだからこそ、まるでわたしがこんなスモーカーさんを望んでるみたいに思えてしまう。
「お前が呼ぶから、おれが助けに」
「呼んで……ませんよ。別に、助けるようなことだって、今はなにも……」
「だが、さっきも不安がってたろう」
「あれは、ただの……気のせいです」
口先だけで、我ながら意味のない抵抗をした。無性に居た堪れなかった。彼の言い分は不可解だったが、自分がスモーカーさんの庇護を期待しているの多分事実だろうから。ああまったく嫌になる。こんなふうに都合よくあって欲しいなんて、思いたいわけじゃないのに。
だが、分かっていても、彼を拒絶するのは難しかった。スモーカーさんが伸ばした右手、その指の背にするりと頬を撫でられる。ほつれた髪を掬い上げる慣れ親しんだ仕草のまま、乾いた指の感触は耳殻を撫で、肌を滑り、顎の付け根の窪みへと下っていく。少し、くすぐったい。
「――帰り道を覚えてるのか」
出し抜けに、スモーカーさんが口を開いた。
「え……?」
「お前は思い出せねェはずだ。この道の行き先を」
脈略のない台詞に思わず戸惑う。まつ毛越しに見上げたスモーカーさんの面差しには、ふと真剣な色が兆していた。
「残ってんのはこの悪夢だけだ。あの時、あの瞬間、お前を繋ぐ縁は軒並み途切れちまったのさ。だからあの友人も、ただそこに至るまでの記憶であって、顔も名前も覚えちゃいねェんだろう」
「な、んで、そんな……」
「そういうもんだってだけだ。肝心なのはそこじゃねェ。いつまでも、何度も繰り返し、こんなもんに縋り続けるお前が問題なんだ。そこまでてめェの存在に確信が持てねェか。死にたくねェと希ったのはお前だろう。どうしておれを信じない」
「なにを、言って、いるんですか」
スモーカーさんの表情に変化はないが、突如、首元に触れている温度が見ず知らずの他人のものになったような錯覚を覚えた。怖気付くわたしを宥めるように、彼は親指の腹で頬の端を撫でてくる。
「さァな。おれは何も知らねェさ」
スモーカーさんは微笑む。頭が真っ白になる。分からない。彼が口にする言葉すべて、一つも理解が及ばなかった。
今更、疑問を抱いた。この、目の前にいるスモーカーさんは、いったい何者なのだろう。夢の中の登場人物に正体を問うなんておかしな話だ。だがこの人から受ける違和感は単純に、わたしの潜在的な欲求が反映されている、というだけじゃない。今の彼はどこか――
「――あ」
電車が速度を落としていく。不気味な緋色で満ちた車両内に、到着を告げる無機質なアナウンスが流れ出した。酷いノイズだ。次の駅の名前は、やはり、聞き取ることができない。
耳元からスモーカーさんの手が離れる。先ほどまで触れられていた辺りが凍えそうに寒かった。電車はますます失速し、甲高い金属音が鳴り響かせながら、ゆっくりと、やがて完全に停止する。
しゅう、と音を立ててドアが開いた。
「着いたぞ」
「どこに……」
こともなげに立ち上がったスモーカーさんを、尻込みしつつ見上げる。ここで降りなきゃいけないことは、わたしもよくよく分かっていた。目的地も、駅の名前も思い出せないのに沸き起こる確信。何かに目を塞がれ、選択肢を奪われているようなこの感覚。
「手を」
説明無しに、手のひらが差し出される。
その手と、彼の顔を交互に見て、唇を噛んだ。
――怖い。スモーカーさんがというよりは、この夢そのものが。わたしを連れ出そうとするこの手を取っていいのか分からない。この瞬間、わたしに判ることは何一つない。
「大丈夫だ。おれを信じろ」
わたしの不安を見透かしたような、スモーカーさんの声は耳に心地良く、強かだった。
わたしは知っている。この人に縋りたいという気持ちに逆らえない、きっとその必要もない。ああ、ほんと、困る。この夢における彼の役割がわたしに仇なすことだとしたら、その姿を模したのは大正解だろう。スモーカーさんを前にしたわたしはパブロフの犬だ。彼という笛の音に、もはや餌の有無は関係無かった。
殆ど無意識に彼を手を取り――はたと気づく。
この人はまだ、わたしの名前を呼んでくれない。
電車を降りると、先ほどまでの鮮烈な夕焼けは嘘のようにかき消えていた。手の中にまだスモーカーさんの指が収まっていることを確かめ、ほうと息をつき、空を仰ぐ。ただ、静かな薄明が空と地平線の境界を撫でていた。
気付けば、磯の香りがした。見えたのは岩礁の浮かぶ灰色の海だ。スモーカーさんに従うまま、いつの間にか堤防の上まで移動してきたらしい。この場に至るまでの道筋に、寂れた駅のホームだとか、飛び出し注意の看板だとか、公園の植え込みの椿だとか、赤錆がこびりついた鉄柵があったという感じはあるのに、歩いてやって来たという確証が持てなかった。浮き足立つような感覚。多分、これも夢だからだろう。
堤防を降りて、ぬめった岩場を慎重に歩いた。潮溜まりを跨ぎ、岩陰のフジツボやフナムシの類いを避けながら、スモーカーさんに手を引かれて干潟の方へ進んでいく。白く泡立つ波が、音を立てて砕ける。
あ。また、デジャヴだ。わたしは以前ここに、こうやって誰かと、来たことがあるような――
「ぅわ、」
「気をつけろ」
よそ見していたせいか、ぬかるんだ岩の隙間に足を取られかける。視界も足場も悪い。わたしの体を支えるスモーカーさんの強靭な平衡感覚がなければ、とっくにすっ転んでいたことだろう。ぼんやりしていた意識を奮い立たせ、スモーカーさんの背を見上げた。
「あの」
波の音に掻き消されないよう声を張る。スモーカーさんは振り向かないまま、後ろ姿の上顎が僅かに傾ぐのだけが見えた。
「どうして海に?」
「……覚えてねェなら、それでいい」
「いいって、なんでですか?」
どぷん、と水泡が翻る音。
スモーカーさんが足を止めた。いきおいぶつかりかけて、よろめき、慌てて周囲を見回す。視界を遮っていた岩陰を通り抜けたらしい。彼の肩越しに、小さな干潟がぽっかりと広がっているのが見えた。消波ブロックの影と、ぽつぽつ光る街明かりが、水平線を複雑に折り曲げている。
「ここ、は……」
不意に、心臓が早鐘を打った。
既視感、じゃない。記憶だ。わたしはこの景色を覚えている。分かる。今度こそ判る。もう少しで思い出せるはずなんだ。
棒立ちのスモーカーさんを追い抜き、手を解いて、浜辺へと一歩足を踏み出す。靴裏にこびりつくのは砂というよりほとんど泥だった。胸が苦しい。呼吸が浅い。脳が焼き切れそうに熱い。こめかみがズキズキ痛む。ぐらぐら、目眩がする。なのに、熱に浮かされたように、足だけは前へ前へと、進もうとする。
「待ってくれ」
首筋を掠める感触があった。先ほど振り解いたはずの、人肌の温度が肩に回る。足を止めざるを得なかった。狂おしいほどの引力が拮抗する。背後から、スモーカーさんに抱きしめられたからだった。
「本当は、少なくとも夢の中だけでは、お前を逃がしてやりたかったが。お前の記憶には、もうここに至る道しか残ってねェ。他に選択肢はなかった」
暖かな、スモーカーさんの腕越しに見た。波打ち際に何かが打ち捨てられている。大きな塊だった。ちょうど人ひとり分くらいの大きさの。
あれはなんだろう。生き物とは思えない――
「見るな」
「あ……」
スモーカーさんが、わたしの目を覆い隠す。
途端、激しい衝動に貫かれた。駄目だ。そんなことをしないで欲しい。まだ思い出せていないから。あれが一体なんなのか、わたしは知っているはずなのに。でも本当は怖くて仕方がない。引き止めていて欲しい。思い出したくない。あれから目を逸らして、このまま縋ってしまいたい。
身体がばらばらに裂けてしまいそうだった。わたしを引き止めようとする、彼の手を引き剥がせない。節ばった手の甲に爪を立てて引っ掻いても、その傷は僅かに烟るだけだ。
「見なくていい。思い出したくねェことを、無理やり思い出さなくていいんだ」
「スモーカーさ、」
ガチン、と奥歯がぶつかり、言葉が途切れる。震えているのか、わたしは?
「目を覚ませ。そうしたらおれが守ってやれる」
「スモーカーさん」
「おれを呼べ。今すぐに。早く」
「ス、モーカーさん、スモーカー、さ、ん」
彼の言葉を疑いもせずに。
スモーカーさん、と繰り返し、咽ぶように喘ぐ。
視界が滲む。もう、殆ど息ができない。ひどい。こんなに苦しいのに、どうしてわたしが呼ばなくちゃならない。スモーカーさんが一言でも、わたしを呼んでくれたなら、こんなに不安にならないのに。わたしの名前。わたしの名前を、そう、分かってる。わたしはもう思い出せない。だけど、彼はまだ、わたしのことを覚えてくれているはずだ。
ぐるり、視界が暗転する。波間に沈み込む。気泡が破れる。わたしの生命線が捩じ切られていく。
「スモーカー、さ」
ぶつん、と意識が途切れた。
「――ナマエ!」
途切れた意識が繋がる。いきなりチャンネルが合わさったかのような、焦点が定まったような、そんな感覚。瞬間、わたしは目を覚ました。
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