No Smoking


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 花屋の店頭に、彩り鮮やかな花々が並んでいる。棚の上にある緑色のバケツ、花壇用のレンガ、片手サイズの小さい鉢植え。その場に膝を突き、黄色い花――チューリップか何かだろう――の手入れに勤しむ男の背中を見つけることは容易かった。
 ナマエは今頃今晩の献立に頭を悩ませている頃だろうか。考えつつ、街路を逸れて入り口に歩み寄る。ざり、と靴底が地面に削られた。

「いらっしゃいませ――」

 思いのほか、溌剌とした声音だ。その斜め後ろ、わざとらしく足を止める。花屋の男はおれの気配を感じて振り返るなり、少し驚いたような顔をした。

「お客さん」
「……精が出るな」

 男は曖昧にはにかんだ。

「ご来店嬉しいです。てっきり、もういらっしゃらないかと思ってました」
「おれが?」
「ええ、その、はい。なんとなく、なんですが」

 男はおれから顔を背けたまま、花の根元に銀色の鋏をくぐらせている。その真意を探って目を眇めた。いつからだったのかは分からないが、恐らく、こいつは気付いているのだろう。おれがここを訪れた理由を。

 街路の騒めきが遠ざかる。そよ風に揺られ、おれはそっと煙を吐いた。

「……思ったより元気そうだな」
「やっぱり」

 一瞬声を張ったあと、自分を落ち着かせるように言葉を切り、男はふう、と息を吐いた。表情は伺えないが、少し震えているように聞こえる。

「ナマエさんが花束を渡したいと言っていた相手は、貴方だったんですね。最近一緒に帰っていた海兵も、同居人、というのも……」
「否定はしねェ」
「そう、ですか。はは、……恥ずかしいなあ、もう」
「騙すつもりはなかった。黙ってはいたがな」

 店先の突き出した柱に身を凭せ掛けながら、にべもなく告げる。屁理屈と取られても仕方なかろうが、実際、全てはナマエが判断したことで、おれは終始傍観していただけだった。

「……あのとき、背中を押してくださったのはなぜですか?」

 相変わらず、男はこちらを見もせずに言った。先ほどに比べて落ち着いた声だった。

「断っておくが、おれとナマエは実際、同居人以上の間柄じゃねェよ。あいつに同伴してるのは仕事の一環であって、お前が心配してたようなもんとは違う。ナマエが花束を作ってた時、想い人にって態度にゃ見えなかったろう」
「……ええ。でも、ナマエさんはそうだとしても、お客さんは違うでしょう」

 やはり侮れない奴だ、と思う。隠す気はなかったが、かといって気付かれるつもりも無かった。おれの否定がないのを見て、男は自分の予感に確信を抱いたらしい。パチン、と花の根本が切り落とされた。

「ナマエさんに聞いてます。一回だけ同居人に代役を頼んだと。でも、彼女は貴方の二度目の来店をご存じないようでした。お客さんはなぜ、お一人でいらしたんですか。おれの勘違いでなければ、目的は様子見でしたよね」
「……」
「お客さんはおれの作ってた花束のこと、随分気にされてるようでしたし、予感はしてました。だから分からないんです。なぜあの時、励まして下さったのか。玉砕すると分かっていたからという風には、おれには見えなかった……」

 左手に束ねた黄色い花をバケツに移し替え、男は静かにそう言った。一瞬、沈黙する。背後から見知らぬ親子の談笑が聞こえてくるまでの刹那、あの時出なかった答えを逡巡した。ふと、目を伏せる。

「はっきり言って、おれ自身よく分からねェ」

 青年の薄い肩がピタリと静止する。薄く、絹のように流れた風からは、細やかな花の香りがした。

「だが、今思えば――」

 或いは、都合の良い解釈をするならば。

「あんたに後ろめたさを残したくなかったのかもしれねェな。お陰で、取り繕わずに済んだ」


 男は手を止めて黙っていた。

 子供のはしゃぎ声が聞こえる。覚えたての花の名前を、母親にねだっているのだろう。おれは両足に体重を載せ、差し込んでくる夕陽を仰いだ。長居するほど心易くもなければ、営業妨害になるのも本意ではない。そろそろ行かなくては。
 踵を返そうと靴底をずらす。自分が行くのは気まずいだろうと遠慮したナマエには悪いが、暫く顔を出すのは難しいだろうと、他人事のように考えた。ここ数日で、幾らか見慣れた緑色の葉から顔を背け、おれは足を踏み出した。

「ナマエさんに、またの来店をお待ちしていますとお伝え下さい」

 コト、と地面に置かれた銀の鋏。

 背中側からさっと立ち上がる気配がして、人懐っこそうな声を向けられた。一瞬、拍子抜けする。その声音はまるで、霞が取れたかのような清々しい表情をしていた。

「今度はお二人で」
「……あァ」

 ふ、と煙混じりの笑みが溢れる。珍しく、ナマエの言い分は的を得ていたかもしれない。陰鬱なおれと、あのナマエは、確かにこの日向には見合っていないだろう。
 片手を上げ、振り返らずに歩み出す。街路から駆け出してきた少女と、その母親とすれ違いながら、おれは地面に落ちる街並みの陰にそっと身を沈めた。

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