No Smoking


▼ 36-3/4

 人間誰しも肝心な時に限って不都合を被るものだ。一般に成功よりも失敗の方が印象に残りやすいというから、統計で言えばさほど不都合に偏っているわけではないのだろうが、ともあれ日常において間が悪いことは度々ある。そして今のおれの状況は正にそれだった。

 今朝、朝食の並んだテーブルを挟んでナマエに一日の予定を尋ねられた。帰りがけに買い物に行きたいから、仕事が長引くようなら連絡をくれと言うのだ。おれは早めに切り上げる心づもりで了承した。そろそろナマエが自分で花屋に行くと言い出す頃だろうし、そうなればあの店員の対応は明白である。加えて、おれが付き添えば誘いを断るのではないかという打算もあった。
 しかし折もあろうにトラブルが相次いだ。武器庫の備品が足りないだとか訓練中の事故がどうとか、ともかく急務であるから今日中に片付けろとのお達しだ。ナマエには6時の時点で連絡を入れたのだが、すると「どうしても今日買いたいものがあるから先に帰っても良いですか」などと言う。収集の目処も立っておらず、そこで食い下がるほど過保護にもなりきれなかったおれは、不承不承一人での帰宅を許可した。それから仕納めもおざなりに、結局帰路に着いたのは時計の針が二周ほど余分に回った後のことだ。


 自宅、玄関扉の前に辿り着く。

 薄暗い通路に一人、ドアの隙間からは一筋の明かりも漏れていない。脳髄はやけに冷えていた。しかし冷静かと問われれば否であろう。それほど焦っているつもりは無かったが、道中の景色を思い出せないことからして余裕を失っていたのは明白だった。
 何かに急き立てられるような感覚に押され、温度のないドアノブに手を掛ける。嫌な予感がしていた。杞憂であることを祈りながら手首を捻る。が、ガチ、と何か固い感触に阻まれ、なめし革越しの手のひらは虚しく金属の表面を滑った。――鍵が開いていない。

「……」

 やけに動きの鈍い手で、鍵を取り出し鍵穴に挿し込んだ。鍵を開けると、今度こそ滑らかにドアノブが回る。咥えた葉巻から深く煙を吸い込み、ようやく扉を押し開けば、案の定足元に広がったのは人気の失せた玄関口だった。普段履き替えたがるナマエの靴は見当たらず、小さなスリッパだけが隅の暗がりに揃えて置かれている。
 どうやらナマエはまだ帰宅していないらしい。とすれば、おれが連絡したあとすぐ本部を出たと仮定して、2、3時間買い物をしている計算になる。はっきり言って異常だった。特にナマエの性格上、おれに余計な心配をさせるのは不本意であろうし、遅くなるようならそうと連絡してくるはずだ。連絡できないほどのトラブルか、よほどの理由が無い限りは。

 ドアの隙間に体を差し入れて、後ろ手に扉を閉めた。いつの間にか手汗が滲んでいる。結果は分かりきっているというのに、おれはリビングに向かってナマエの痕跡を探し歩いた。点けられたばかりで鈍い灯りに、部屋入ってすぐ左手にあるキッチンが照らし出される。シンク脇には綺麗に洗われた朝食の皿、コンロの上には空の鍋一つ。何の収穫も得られないまま部屋の奥へ視線を送るも、鎮座するソファやテーブルやカーテンはただ沈黙を返すのみだ。

 ……自嘲気味に舌打ちをした。

 ダイニングチェアの背を無造作に引く。椅子の脚を軽く蹴り上げ、そのまま半端にはみ出した座面へ重い腰を下ろした。それから軽く、目を伏せる。
 現実的に考えて、ナマエが未だ帰宅していないことには何かしらの理由があると見るべきだ。例えばもし、ナマエが花屋の男の告白を受け入れたとして。確か食事に誘うだの何だのと言っていた――男の目の前でおれに連絡を入れるのは恐らく、彼女にとって勝手が悪いだろう。

 肺まで入れた主流煙の所為か、疼くような胸焼けがする。思考が後ろに向かっている自覚はあった。だが現状、それ以外の理由に思い至らないのも事実だ。少なくともこの状況にあの花屋の男が関わっているのは間違いない。無論、ナマエが大きなトラブルに巻き込まれている可能性も否定できないが、そうと断じるのは幾らなんでも飛躍し過ぎている。

 ……認めなくてはならない。おれの望みがどうであれ、ナマエは、無条件におれを優先する訳ではないのだと。

 テーブルに肘を載せ、ふ、と細く息を吐く。静寂の香りが喉を刺した。微かな空腹を覚える間に、煙は薄明かりに混ざるように霧散して消えていく。ナマエは今頃、誰の目の前にいるのだろう。

 ――そうやって余裕ぶってる間にナマエをどこぞの男に掻っ攫われても知らないわよ。

 あの時、酔いどれのヒナにそんなことを言われたのを覚えている。余裕ぶっていたつもりはない。今この瞬間でさえおれは必死だった。おれが居ないと駄目なのだと、彼女の口から告げられことに、甘んじていなかったと言えば嘘になる。だがどうあれ、ナマエが繰り返し引いた一線はいつの間にか、おれの手に負えないほど厄介なものに化していたのだ。保護者だとか恩人だとか、その枠組みを越えようとする度に思い知る。お構い無しとぶち壊すには、おれ達はこの生温い温度に慣れ過ぎた。らしくもなく臆病風に吹かれたのだ。無理矢理踏み込めば、二度と取り返しがつかなくなるような気すらした。

 結局、ナマエはおれとの関係性が進展することを望んでいないのだろう。あいつは決して鈍い訳ではない。とうにおれの変化それ自体には気付いているはずだ。しかし、自覚的かどうかはさておき、彼女はことあるごとに「ありえない」と盲目的に否定する。そもそもナマエがおれをそういう対象として認識していないのは端から分かっていたことだが、それにしても異常な思い込みの強さだった。つまるところ彼女はこのおれを、信頼に足る、心の拠り所でいて欲しいと望んでいるのだ。ナマエの求める"スモーカーさん"像は、惨めな焦燥感に追われることも、無様な執着をすることもなく、浅ましい欲の押し付けもしない。おれにとってはあまりに残酷な仕打ちだ。

 ゆっくりともう一度、肺の中が空になるまで深く息を吐き出した。ナマエが帰ってきたらどうしようか。何があったのかと問い質していいものか、寧ろ思いつく限りの最悪を避けるべく目を塞ぐべきか。ああ、こんな女々しさがおれの早とちりなら、それに越したことは無いのだが。
 確信はあるのだ。彼女はおれから離れることができない立場にある。保護対象だのの現実問題もあるが、精神面でもそうだ。夜毎訪れるあの悪夢が解消されない以上、ナマエはおれを求めるしかない。

 だが、もし――



 ぼとり、

 いやに不気味な音だった。脊髄を引っこ抜いたような怖気が全身を貫いた。反射的に跳ね上げた視線が部屋の奥に引き摺り込まれる。褐色に濁り始めた花弁。リビングの奥、ソファの背、その奥のテーブルの端に生白い首が転がっている。
 血の気が失せた頭は冷え過ぎて痺れていた。いや、思い出した。数日前、一人で商店街に下りて花屋を訪れた際に店員の男から聞いていた話だ。椿の花がいつまでも散らないことを尋ねると、椿は花ごと落ちるようにして朽ちるのだと教えられた。知識として理解している。当然、その自然現象に恣意的な示唆を見出すほど繊細な質でもない。ただ、おれの焦燥を煽るに充分なきっかけではあった。

 弾かれるように立ち上がった。ダイニングの斜向かい、部屋の右手のドアを見る。寝室、即ちナマエの部屋に向かう扉だ。事あるごとに勝手に入るなと言い聞かされている、彼女が風邪を引いた日以来一切足を踏み入れていない部屋。例え同居人であれ、最低限の礼儀は守るべきだ。だが構うものかと、おれの体は迷いなく動いた。

 葉巻を片付ける余裕も忘れ、いきおいドアをこじ開ける。煙を押し流す空気の流れに混ざるナマエの匂い。その芳しさにぐらりとした。
 ナマエは普段から徹底して自分の香りというものを消している。わずかに残る石鹸や洗剤の匂いでさえ、おれと同じものを使っているわけだから、彼女自身に固有のものかと問われれば否だ。それでもこの部屋からは日向によく似た、どこか懐かしい、あの少女だけの香りがする。朧げになっていたナマエの輪郭が、現実的な質量感を伴って感じられるほどに。

 ある意味神経質な、気が行き届いた共同空間とは違う、一種の無造作がドアの向こうに広がっていた。ナマエには分不相応な大きさのベッド、掛け布団は朝飛び起きたそのままに乱れ、更には脱ぎ捨てたらしい寝巻きまで積まれている。サイドテーブルにはメモ帳やカレンダーや丸めた紙屑、インク、そして床に転げ落ちたらしいペン一本。足を引っ掛けたのか、カーペットの裾は軽く捲れていた。

 ナマエがどのように過ごしているのか、細かな仕草の一つ一つまで想起できる。鍵は取り付けてあるとは言えおれの心持ちだけでどうとでもできるのだが、よくも無警戒に過ごせるものだ。感心、とも達成感とも言えるが、彼女が我が家に根付いていることを認識するたびにこんな感情が湧き上がる。例えるならそう、与えられた狭いゲージを自分のテリトリーだと思い込むよう躾けられた飼い犬を見るような、そういう満足感に近い。ナマエに対して後ろ暗い支配欲を抱えていることを否定する気はない。
 己の悍ましい一面を垣間見たような気になる。結局おれは、ナマエの手足に鎖をつけて手元に置きたいだけなのだろうか。間違いだとも言えない。もし彼女が今回の一連でこの家を出ると言い出した場合、おれの叱責はあの花屋の男ではなくナマエに向くと、自分がそういう人間なのだと知っている。

 ――もし、ナマエがあの男を選んだとしたら。

 今でなくとも、いずれその時が来たらどうする。いや、既に手遅れの可能性すらある。ナマエは潔癖かつ誠実な女だ。直ぐにでもここを出ると言い出すだろう。だがおれは素直に飲み込めるほど善人ではない。現に、何としても彼女を逃すまいと考えている。

 冷静だった。頭だけが冷静に、ナマエをこの部屋に繋ぎ止める算段を立てていた。簡単なことだ。ナマエが帰ってくるなり手篭めにしてやればいい。

 卑劣な策だとおれ自身が一番よく理解している。だが確実に効果的だ。ナマエの性格を鑑みれば、あの潔癖さからして一度男に許した体を別の男に差し出せるほど器用な性格ではない。相当嫌われるのは確実だが、いや、それで済むならまだしも、最悪二度とまともに会話できなくなるかもしれない。だとしても、他所との繋がりさえ断ってしまえば、おれの手元に置いておくことはそう難しくない。
 何より、ナマエを無理矢理組み敷いて、あの柔らかな肢体を暴くのは、きっと抗い難い至福だろう。これまで散々焦らされてきた。控えめに咲いたあの白い花を、もぎ取って、地に捨てて、踏み付けにするのは容易いことだ。例え取り返しがつかなくとも、それが独りよがりだとしても、他人に奪われるよりはよっぽどましじゃないか――


「――スモーカーさん?」


 背後から。

 いきなり声を掛けられたこともあるが、帰宅に気付かなかった自身の余裕の無さに驚いた。振り返った先に、おれが求めて止まない小さな少女の姿がある。目が合った。走ってきたためか煤けた色の髪は毛羽立ち、瞳孔が見えないほど真っ黒の瞳は円く見開かれている。ナマエがそこに立っていた。これまで見たどれよりも大きな、純白の花束を抱えて。
 感情を乱される。顔が歪むのが分かる。目に映るナマエはどこまでも無垢だった。おれはその白さに辟易すると同時に、酷く焦がれてもいたのだ。

「……ナマエ」

 正気じゃない。彼女を目の前にしてしまえば、とても凌辱しようなどとは思えない。ああ結局、惚れた時点で敵わなかった。おれはこれまでずっと、ナマエを守ろうとしてきたのではなかったか。そんな当たり前の帰着が、何故だかすっと胸に落ちた。

 ナマエはしばし立ち尽くしていた。おれが寝室――つまりは彼女の自室――に踏み込んでいる状況に戸惑っているらしい。怪訝そうにおれの顔を見、部屋の奥に視線を移すと、ぎくりと顔を強張らせ――

「おわあ――!!」

 でかい悲鳴だった。何事かと顔を顰める間もなく、ナマエはおれの脇をすり抜けて部屋の奥まですっ飛んでいく。それから抱えていた花束をベッドの上に放り投げたかと思えば、窓際で背伸びしてカーテンレールに掛かっていたピンチハンガーらしき何かを引っ掴み、ばっと背中の後ろに隠しつつ、わなわなと震える声でこちらを睨みつけてきた。

「な、な、なに勝手に入ってんですかスモーカーさん、プライバシーの侵害です! し……下着干しっぱだったのまさか見てませんよね!?」
「はァ……?」

 んなもんに興味はない。いや、全く興味がないと言えば嘘になるかも知れないが、そもそもおれは今の今までその存在どころか、こいつがわざわざおれの目を避けて自室に干していることすら知らなかったのだ。
 お互い呆気に取られて沈黙が降りる。おれの反応を見てやや墓穴を掘ったことを察したのだろう。ナマエはもだもだと意味のない音を発したが、取り繕うのはすぐに諦めたらしい。赤くなった頬を片手で押さえながら誤魔化すようにため息を吐いた。

「ああ、もう……どうしたんですか一体」

 背中に物干しを隠したまま、ナマエは困惑を張り付けた声色で尋ねてくる。そんな彼女から視線を外し、おれはベットの上に放り出された巨大な花束をちらと見た。これを渡されたということは間違いなくあの男は恋心を明かしたわけで、すると受け取ったナマエは……乗り気、なのだろうか。

「それは?」
「え? あー、ええと……」

 おれの目線の先を追いかけ、ベッドの上の花束を確認すると、ナマエは困り顔で口ごもった。まさか言い逃れでもするつもりだろうか。

「ですから、スモーカーさんもご存知でしょう。いつものお花屋さんにもらったんですよ」
「……それだけか?」
「いやその、それだけではないんですが……つ、つまり、スモーカーさんからすると信じ難いでしょうけど、わたしってこっち来てからなんかこう、案外モテるんですよね。あはは……」
「……。で?」
「で……って、それだけですよ。ていうかスモーカーさん、まさか知ってたんですか?」
「まァ、……大体は」
「な、う、嘘ですよね? あ、でも確かに、スモーカーさんは前からなんか訝しんでましたもんね……いや、だって仕方ないじゃないですか。あの優しくて気の良いイケメン店員さんがまさかわたしなんかに、そんなつもりでお花くれてたなんて思いませんって……」

 しおしおと肩を落としつつ、ナマエは照れ隠しをするように頬を掻いた。どうやらおれの予想は間違っていなかったらしいが、しかし、反応が読めない。一体どういう心境なんだ、こいつは。
 ナマエがいつまで経っても先を続けようとしないので、焦れたのはおれの方だった。進んで掘り下げたい話ではないが、遅かれ早かれ知れることだ。そもそも彼女の帰宅がこれほど遅かった時点で聞くまでもない話ではある。判決を待つ罪人ような気分のまま、おれは極力素っ気なく口を開いた。

「……で、夕飯にでも誘われたのか。随分と帰りが遅かったみてェだが」
「え? いえ、確かに誘われはしましたけど行きませんでしたよ」
「は?」

 おれの動揺に対し、ナマエの不思議そうな瞬きが返ってくる。何をそんなに驚くことがあるのか、とでも言いたげな顔だ。しかしすぐにおれの表情から察し付いたらしい。合点が入ったようにああ、と頷くと、彼女は眉尻を下げて苦笑した。

「えーと、お付き合いの件ならお断りしました」
「……なんで?」

 我ながら間の抜けた声が転び出る。おれにとっては朗報、ではあるが。いや、しかし、理屈が通らないだろう。ナマエにとっては間違いなく過不足ない、条件の良い相手だと認識していた。彼女自身もしばしば、交際相手を持つことについては肯定的な発言をしていた筈だ。それなのに何故……。

「なんでって、そりゃあ」

 ナマエは当然のような口ぶりで肩をすくめた。

「だってわたし、スモーカーさんと暮らしてるわけですし……いやまあ、そりゃスモーカーさんとはそういうんじゃないですけど、世間体的には同棲……してるようなもんですし、とにかくこんな状況で男性とお付き合い出来るわけないじゃないですか」
「……いや、その言い分はおかしいだろう」
「なんでですか? だってわたし、一応保護対象なんですよ。どうしたって海軍にはお世話になるしかないし、一応管轄って扱いですからスモーカーさんのとこから離れるわけにもいきませんし、その辺のゴタゴタに付き合わせるのも相手に悪いですし。そこまでするほどの優先事項でもないかなって」
「だからって、んな……」

 よりによってこいつが、あれほどひた向きな相手を、まさかこんなあっさりとした態度で振ったとは。おれもどうこう言えるほど相手を慮る質ではないが、それにしてもだ。

「もう、なんなんですか、そんなにわたしに親離れして欲しいんですか。わたしの将来を心配してくださるのはありがたいですけど、でもスモーカーさんだってわたしがいなかったらきっと寂しくなりますよ。そりゃー心変わりしてさっさと独り立ちせよというならそうしますけど」

 的外れな憶測ををぺらぺらと口にするナマエに食傷気味になる。おれはどうもこいつへの認識を違えていたらしい。いや、思い返してみれば、ナマエはもともと図太い奴だったのだ。近頃怪我や過去話などでやたらデリケートなので見誤ったのか。なんにせよ、ああくそ、結局おれの取り越し苦労じゃねえか。

「やっぱスモーカーさんの親心からすると嫁の貰い手は逃すなとかいつまでも脛かじりみたいなことしてないでとかそういうあれですか? それとももしかして花屋の店員さんを応援してたり――」
「おい、……もう黙れ」

 どっと押し寄せてきた安堵と苛立ちと徒労感のまま、おれは二歩踏み出した。ナマエはぎょっと目を見開き、しかし背中に隠した物のせいで振り返れないためか、窓際のサイドボードまでじりじりと後退る。また一歩。逃げ場を失った彼女との距離が詰まった。

「あ、……あんま近寄んないでくださいよ。これ片したいんで……ってかそういや葉巻、うぎゃ!」

 身を屈める。色気の欠片も無い悲鳴を無視して、ナマエの肩に額を押し付けつつ体重を掛けた。当然バランスを崩したナマエは、おれの服に縋りながらどさりとその場に尻餅をつく。二人分の重量に耐えかねて、ガタン、とサイドボードが大きく揺れた。

「痛つ……ちょっ、と、重いん、ですけど!」

 床の隅に上半身が重なる。抗議を無視し、俯いたまま目を閉じた。細い肩が動き、鎖骨の下あたりに小さな手のひらが添えられる。おれの身体を押しのけようとしたのか、しかしあまりに貧弱で退いてやる気にもなれなかった。それでもまだもぞもぞと落ち着きがないのは、反対の手でピンチハンガーをベッドの下に隠しているためだろう。存外、悠長だ。
 彼女の首元で息を吸う。ナマエの身体からは外気と花の余所余所しい匂いがした。

「……スモーカーさん?」

 動かないでいるおれにようやく異変を感じたらしい。動揺を飲み込んだような、遠慮がちな声が耳元で囁かれる。返事はしない。ただ彼女の存在を感じていた。匂い、声色、拍動、ぬるい体温。この状況に持ち込んだのはナマエへの些細な憂さ晴らしのためだったが、いざ触れてしまえば感傷に襲われるのはおれの方だった。惚れた弱みというやつか。揺り籠のようなこの安寧に、とても敵う気がしない。

「えと、……大丈夫ですか」
「……」
「あ……そういえば今日、お仕事大変だったんでしょう。珍しくお疲れ、ですね」

 胸元に添えられていた手が、おずおずと首の後ろに回る。ナマエのか細い指が、髪の隙間を撫でていく。身震いしそうになって、堪らず、息を呑んだ。

「あの、わたしの勘違いだったら流してくれていいんですけど、その……もしわたしがいきなり出て行こうとするんじゃないかとか、そういう心配をしてたんなら無用ですよ。そんな恩知らずなことはしないので」
「……そうか」
「そうですよ。それにその、こういう言い方をするのは悪いですけど、よく知らない相手よりも、わたしはこれまでのスモーカーさんたちとの関係のほうを大切にしたいんです」

 一息置いて、再びそうか、と返す。全く気楽なものだ。ついでのように添えられた複数形におれがどれほど苛立っているか知りもしないくせに。
 そっと頭を起こす。こちらを覗き込むナマエの顔は、額が触れるほどの至近距離にあった。あどけない眼差しに、おれの像が映り込んでいる。縁取る睫毛がはらりと揺れた。

「ナマエ」
「はい」

 身じろぐと、床に置かれた互いの指が微かに触れる。照れ臭かったのか、ほんの少し視線を右に逸らされた。

「もしおれへの義理立てや、保護対象のことがなかったら、お前はどうしてた」
「え……うーん、多分、それでも返答は同じでしたよ」
「なぜ。悪い相手じゃ無かったろう」
「それは……」

 ナマエは少し言葉を選んでいるようだった。どこか困った様子にも見えた。

「わたしが、相応しくないからです」
「相応しくない?」
「あ、いや、何と言いますか……例えばの話なんですけど。これから先、あのお兄さんに限らず、誰しも本来出会うべきはずの相手がいるとしたら、わたしにその立場を奪い取る権利はないだろうと思うんですよ」
「……何、言ってんだ?」
「ん……と、つまり、わたしがここにいるのって、結構なイレギュラーじゃないですか。この世に運命というものがあるとして、本来居るはずのないわたしが引っ掻き回すのはあんまり良くない気がするんです。そりゃあ、願望自体はありますけど……まあだから、友人としてならともかく、男女交際というのは今後も無理なのかもしれませんね」

 眉を顰める。理解不能だ、どうかしている。自信が無いとか、自己肯定感が低いとか、そういうレベルではない。確かに彼女がここに来たのは類い稀なる偶然によるものではあるが、もはや自分だけが別の世界の人間のような口の利き方ではないか。

「お前は何でそう、……」
「?」
「んなことを言い出したら、誰ともやってけねェだろうが」

 ぱちり、と瞬きが一つ。目と鼻の先にある、ナマエの眼差しが真っ直ぐにおれを見る。その口元が綻ぶのを、おれは間近で見つめていた。

「でも、スモーカーさんはずっと、わたしと一緒にいてくれるんでしょう」

 面食らった。ナマエは一縷の疑念もなく、身を委ねるような微笑みを浮かべていた。やはりおれの意中の相手は悪魔の手合に違いない。思わず、首を垂れて溜息を吐いた。
 こんなことまで口走っておきながら、どうしてこいつはおれを好きじゃないんだ。その言葉に何の裏もないことを理解しておきながら、多少なり舞い上がった自分が嫌になる。今の流れでおれを引き合いに出すのがどういう意味なのかを少しでも考えたかと問いたい。いっそいい加減にしろとどやしてやろうか。

「あ、そうだ。スモーカーさん」

 ナマエが能天気な声を上げたので、顔を起こしてじとりと視線をくれてやる。彼女は素知らぬ様子で身を乗り出し、両手でベッドの上の花束を手繰り寄せた。
 今思えば、あっさりと振られても花束はきちんと渡しただけ、あの青年は根性があったと言えよう。思わせぶりなこいつに乗せられた被害者同士、心底同情する。

「帰りが遅れたの、これを作ってたからなんです」

 ばさ、と胸元に押し付けられたのは小ぶりな花束だった。どうやらあのでかい花束の影に隠れていたらしい。華やかさはないが落ち着いた色合いの、まさしくナマエの趣味といった感じの見た目をしていた。

「結構いい感じでしょう。このもさもさした海藻みたいなの、スモークツリーって言うんですよ。見た瞬間に、これはもうスモーカーさんに差し上げるしかないと思いまして、店員さんにアレンジメントから教わったんです。スモーカーさんも帰り遅くなるみたいだから大丈夫かと思って連絡入れなかったんですけど、間に合いませんでしたね」
「……これが、今日どうしても買いたかったのか?」
「あはは。ねえスモーカーさん、今日何の日か知ってます?」
「いや……」
「ヒナさんから聞いたんですけど、今日はスモーカーさんの同期が海兵に就任した日らしいですよ。何周年だか知りませんけど、それに託けてお祝いです」

 頭痛を堪えて眉間を抑える。自惚れ以前に今回こそはっきりと呆れが来た。お前には人の心がないのか、とか、これまでの十数年でこんな日を祝ったことは一度たりともない、とか、今の一連において突っ込みたいことは山ほどあるが、全て引っくるめてこれだけは言わせてもらう。

「――お前って奴は」

 それも、別方面へ支障が出るくらいには。

「おれのことしか考えてないんじゃねェか?」
「あはは、違いないです。わたしの生活はスモーカーさんを中心に回ってますからね」
「はァ……」
「なんですかそのため息は。今のはわたしにそこまで想われてるなんて光栄ですと咽び泣くとこですよ」

 このいじらしくも小憎たらしい少女をどうしたものだろう。判明したことといえばヒナの言う「どこぞの男に掻っ攫われる」などということは、恐らく今後一切起こり得ないと言うことくらいだ。つまりは結局、おれの苦労はこれからも変わらないらしい。

 兎にも角にも、あの花屋の男には同情よりも謝罪の方が相応しそうだ。手の中にある花束を転がしながら、おれはそんなことを考えた。

prev / next

[ back to title ]