No Smoking


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 小さな躰で、酸素を失った魚のように喘いでいる。

 リビングはしんと静まり返っていた。聞こえるのはナマエの、噛み締めた唇から断続的に漏れ出す切なげな吐息だけ。彼女の額に浮く珠のような汗が、すべらかな柔肌を伝い落ちていく。瞼が震える。睫毛が揺れる。身じろぎするたびソファが軋む。

 おれはそれをただ、見下ろしている。

「……ふ、ぅ」

 柳眉がく、とひそめられた。青褪めた頬に雫が一滴、ぽたり、と正円の染みを作る。ぽつ、ぽつ、と更に二滴。寄り集まった粒が細い筋に交わり、ナマエの頬を伝い、耳の方へと流れていく。ぽたり、――どうやら、おれの髪から垂れ落ちているらしい。

 はた、と我に返った。

 そういえば、微かな呻き声を聞きつけて、様子がおかしいと頭も拭わずに脱衣所から飛び出してきたのだった。湿気った肌に張り付くズボンの鬱陶しさを思い出し、我知らず顔を顰める。肩に引っ掛けたタオルで乱雑に髪の水気を拭いながら、ソファの端に腰を下ろした。
 おれを待つ内にうたた寝でもしたのだろう、ナマエは酷く魘されている。思えば、夕食の時から口数も食欲も少なかった。疲労が溜まっているのか、どうにも本調子では無さそうだ。

 タオルで目元に掛かる髪ごと掻き上げると、細い指先がソファカバーに爪を立てているのが視界に入った。布地に食い込んだその手を引き剥がし、指の隙間を握り込む。手汗でじっとりと湿っている。だというのに珍しく、体温が低い。おれが風呂上がりだという理由もあるだろうが、まるで死人のような冷たさだと思った。体温を確かめたくて親指の腹でそっと摩ると、びくりと指先がふるえ、小さな呻きがまた上がる――。そわ、とうなじが粟立った。

「……、」

 ナマエ。

 喉まで込み上げた呼び声が詰まる。

 ナマエを救い上げる方法を、彼女を苛む悪夢の払い方を、おれはよく知っている。可哀想なナマエは苦痛に呻いている。だのにおれは、何故今、言葉を飲んだのだろう。好奇心でも意地悪でもないのなら、これは一体何だというのだ。
 視線が磔にされたようだった。ナマエの輪郭のかたち。仰向けに横たえた全身。頭をクッションに埋ずめ、右手はおれの手の中に、左手は腹の上に。短い呼吸に合わせて小ぶりな丘陵が上下する。ショートパンツから伸びる肉付きのいい太腿が、ほっそりとした白い脚が、裸足の爪先が、苦痛のやり場を探すように布地を掻いた。

 まるで喰ってくれとばかりに皿に盛られた、肉汁の滴るステーキ肉のようだ。酷く、旨そうに見える。

 ――ふと、魔が差した。

 明確な意図を持って、しかし行き先はなく、ただ徒らに手を伸ばす。身を乗り出し、ナマエの顔の中心、薄衣一枚ほどのすれすれを指で辿った。鼻梁、唇、顎、おとがい、喉、鎖骨の間の窪み。これではなく、また足りない。いつだったか、彼女がおれを抱きしめた時の、あの柔らかさに触れたかった。
 わんわんと反芻する耳鳴りが煩わしい。興奮に似た悪寒が背筋を冷やす。些細な警鐘を聞き入れるだけのタガは外れかけていた。指先がナマエを襟合わせをそっと寛げ、鎖骨と布の境目に滑り込む。ぬるい。吸い付くように湿った素肌をなぞる、刹那――

 引き結ばれていた少女の唇がわなないた。

「……っは」

 渇いた息が吐き出される。ぎくりとして、悪さをした子供のように固唾を呑んだ。依然、瞼は閉じられている。しかし夢中にあるはずのナマエの口は半開きのままだ。浅く呼吸を繰り返す、その吐息に紛れるようにして、彼女の唇が小さなうわ言をかたどった。

「すも、か、さ……」

 反射的に瞠目する。

 途切れとぎれの掠れた声で、しかし確かに、おれを呼んだ。それは皮肉にも――おれから身を守るためには最も効果的な言葉だった。脳髄を苛んでいた卑欲が氷解し、指先まで血の感触が巡る。

 ……ああ、

 返事をしてやらないと、と思った瞬間、金縛りが解けたように、あっさりとおれの口は動いた。


「ナマエ」


 バチン、と瞼が跳ね上げられた。

 膜を張ったような真っ黒の瞳がおれを捉え、くしゃりと歪む。今にも零れ落ちてしまいそうなのに、きっとナマエは泣かない。安堵に似た諦念を覚えながら、おれは襟元に触れていた指でそっと彼女の目元を拭っていた。

「は、っ……は、っあ、スモーカーさん」
「大丈夫か」
「っ、平気、です、……」

 ナマエが座面に肘を突いて上半身を起こす。腕を引いて支えてやると、ありがとうございます、と素直な礼を返された。それに居心地の悪さよりも妙な愉悦を感じる辺りが、我ながらいい性格だと思う。
 ともあれ、心配なのはナマエのことだ。大概疲労している自覚がないため、体調が悪いようならこちらから言って休ませなくてはならない。などと甲斐甲斐しく考えている間に呼吸を整えたらしく、ナマエは額の汗を拭いながらふうと息を吐き出した。

「あーと……その、すいませんでした。寝るつもりはなかったんですが……あはは、毎度のごとく夢見が悪かったみたいです。ここんとこ暫くは平気だったんですけど、やっぱり変な時間に寝ると良くないですね」
「ン……」

 生返事しながら、乱れた髪に手櫛を通す。おれの手を素直に受け入れたナマエは、「汗がつきますよ」と仄かな微笑みを浮かべた。口だけは達者に動いているが、やはりどこか覇気がないように見える。

「……お前、疲れてんのか?」
「え? いえ、今日は特別疲れるようなことはしてないと思いますけど」
「それにしちゃ、珍しく半端な時間にうたた寝してたみてェだが」
「うーん、考え事してたらどうも眠くなってきちゃったんですよね。ええと、なんでしたか……あ、そうそう、あの椿を見てたら昔近所の公園に植わってたのを思い出したんです。それで……」

 ナマエが指し示すのはリビングテーブルの上、花瓶に生けられた紅白の椿。一週間前に購入した時よりは幾分萎れてきたそれを見て、彼女は何やら思案げな顔をする。と、突如こめかみを抑え、電流でも浴びたかのように顔を顰めた。

「っつ」
「おい、頭痛むんなら止めとけ。無理して思い出すほどのことでもねェだろ」
「……ううん……」

 子供を諭すような口振りが気に食わなかったのか、少しばかり不満げな呻き声を向けられたものの、おれの言い分は素直に聞き入れてくれたらしい。ナマエは立てた膝に顎を乗せ、椿を睨みながらすんと鼻を鳴らした。軽く撫でた髪が一筋、彼女の頬にかかる。

「しかし、前より酷くなってねェか」
「なにがですか?」
「……いや」

 これに関しても自覚がないのだろうか。以前から自分の過去を思い出そうとするとパニックに陥るナマエであるが、こんな些細なことで拒否反応を示すほど過敏ではなかった筈だ。とはいえ、指摘してまた何かあっては事である。おれは疑念を胸に仕舞い込んで、手触りのいい柔らかな髪を軽く払い落とした。

「何もねェならいいが、無理はするなよ。リビングで眠られるとおれも困るんでな」
「う、はい、気をつけます。いやほんとに、調子崩すような心当たりはないんですけども」
「と言っても、お前今月はまだ生理――」
「ぉあ! ちょっ、ま、そんなん言うもんじゃないですよ、ていうか周期把握しないでください!」
「一緒に住んでりゃ嫌でも覚える。そもそも最中は貧血ですって顔に書いてるくせして今更バレないとでも……」
「人に言われるのは普通に恥ずかしいんですよ! いいですか、気付いたとしても知らないふりするのがデリカシーのある対応です。丸太のような神経をお持ちのスモーカーさんには圧倒的に不足してるものです」
「……」

 こういう些細なことでいちいち管を巻くこいつを見るたび、おれも焼きが回ったもんだと辟易する。全く、こんな青臭いガキのどこが良いってんだ。などと宣いつつ、ついさっき無防備な寝姿に唆られたというのだから笑い種だ。自嘲気味な内省をしながら、ナマエのつまらない説教を右から左へ受け流した。

「だからですね――……ちょっと聞いてますか、スモーカーさん」
「あァ、全く聞いてねェ」
「堂々と言わないでくださいよ。はあ……もーいいです。とりあえずわたし、汗べっしょりなんでさっさと風呂入ってきますね」

 ナマエは気怠げにそう言うと、ソファから滑り落ちるようにして床に降り立った。スリッパを手繰り、爪先に引っ掛けた彼女の足が、軽くテーブルに当たって花瓶を揺らす。そのまま頼りない足取りでおれの正面を横切り、ナマエは着替えの用意を取るためか自室へと引っ込んでいった。

「……」

 隣から失せた温度に小さな名残惜しさを覚えながら、気まぐれに視界の隅に映り込んでいた二輪の椿へ視線を移す。伸びた枝の高い位置に白、花瓶の口近くに紅。買い取ってから5日かそこらか――椿の花は重たそうにこうべを垂れているものの、しかし不思議なもので、未だに花弁の一片も散らしてはいないのだった。
 葉巻の無い口寂しさを誤魔化すように口角を撫でる。悪夢の原因を、これと断じていいものか。分からないが、やはり何かあの花屋とは妙な因縁があるらしいと、おれは再三になるため息を吐き出した。




 翌日の夕方。以前と同じ、閉店間際のこの時刻に、おれは性懲りも無く花屋を訪れている。

「あっ……いらっしゃいませ」

 今日も男はカウンターの奥で花束を編んでいた。とはいえ、その手元の花は赤、黄、紫と取りどりで、あの無垢な純白とは明らかに異なる色彩であったが。彼はパッと顔を上げておれを視界に捉えるなり、落胆と安堵が入り混じった曖昧な笑顔を浮かべるのだった。

「本日のご用件はなんでしょう?」
「こいつを包んでくれ。簡単にで構わん」

 返答の言葉は予め用意してある。店頭で適当に選んだ黄色の花数本をカウンターに放ると、男は「フリージア、いいですね」と微笑んで、慣れた手つきで花の処理に取り掛かった。
 実の所、今日はナマエに頼まれて来たわけでも、彼女の買い物に同伴しているわけでもなかった。つまるところ禍は口からというやつで、今朝真っ青な顔で這い出してきたナマエは、貧血と腹痛が重いからと自宅で休みを取ることに決めたらしい。そこで何故おれが一人ここを訪れたのかと言えば単純な話、あの椿について尋ねにきた……というのは建前で、実際は敵情視察というのが適当かもしれない。

「お客さん、暫くぶりですね。おまけの花、同居人の方は喜んで下さいましたか」
「あァ、……まあ、嬉しそうではあったな」
「よかった、それは何よりです」

 厳密にはぬか喜びと言うべきだろう。「ほらやっぱりわたしだけがおまけ貰ってるわけじゃないんですよ」などとはしゃいでいた能天気な間抜け面を思い起こす。おれが大量の花束を不審がっていることには気付いていたらしいナマエだが、いずれにせよとんだ見当違いだった。

「あんたこそ、花束は渡せたのか」
「いえそれが……あれからお会いできていなくて」
「そいつは残念だったな」

 白々しく宣って、それから口を閉じる。こんな分かり切ったことを尋ねて何の意味があるのだろう。この男が肩を落とす様子を見たところで、胸がすくわけでもあるまいに。

「あの、」

 おれがまた妙な感慨に苛まれるより早く、正面の男の手がふと動きを止めた。視線を上げれば、今ひとつ意図が読めない、神妙な眼差しが向けられている。

「ひとつお尋ねしたいことがありまして。深い意味はないんですが、その……お客さんの葉巻は、誰でも手に入れられる物ですか?」
「……葉巻?」
「はい。おれはあんまり詳しくないんですが、銘柄とか、色々あるんですよね」
「こいつは海軍の支給品だ。欲しけりゃ海兵なら誰でも手に入れられるが……それが?」
「海兵なら、そう……ああと、いえ」

 一体何が言いたいのか。雲行きの怪しさに一抹の不安を覚えつつ、無言のまま返答を待った。訝るおれに気づいたのか否か、男は誤魔化すように慌ただしく作業を再開しながら、若干の早口で返答を紡ぐ。

「実はその、花束を渡したい相手が、ですね。最近……といってももう少し前だったかな、とにかくある時期から、来店の際にほんの少しだけ、その方から葉巻の匂いがするようになりまして」

 ほんの少し目を眇める。こいつの言う相手がナマエで間違い無いのだとしたら、恐らくおれと帰るようになったことが原因だろう。近頃ナマエの前では喫煙を控えているものの、帰路に限っては吸いっぱなしにしているため、葉巻の匂いが移っていたとしてもおかしくない。しかし、あの消臭狂いに自覚はあるのだろうか。気付いてるとしたらとっくに非難の言葉を浴びせられていそうなものだが。

「とてもご自分で吸う方には見えないですし、多分、道中どなたかとご一緒されてるんじゃないかなって。もしかしたら、その……お付き合いされてる方ができたのかもとか考えてしまって。それで、葉巻の匂いがお客さんのものと似ている気がしたものですから……あ、勿論お客さんを疑ってるわけではないんですが」
「……」
「只の可能性ではありますけど、でもここしばらく来店されてないのはそういう事情かもしれないなと。でも、もし相手が海兵の方となると、おれじゃとても太刀打ちできませんね、はは……」

 微かな苦笑と落胆が耳に届く。こいつは、何故こんな話を、よりによっておれに聞かせる気になったのだろう。偶然にしては出来過ぎている。いや、よしんば勘付かれているのだとしても、おれにとっては歓迎できる話の筈だ。この男が都合よく勘違いをして身を引くと言うのならそれに越したことはない。と、頭の冷静な部分では理解していたのだが。

「――分からねェさ。相手が何だろうと、別に殴り合いで決まる話でもねェんだ」

 その時、一体自分がどういうつもりだったのかは分からない。黙秘をよしとするほど恥知らずになれなかったのかもしれないし、なけなしの良心の呵責だったのかもしれないし、ともすればこの男に同情しただけなのかもしれないが、少なくとも口から出た言葉は実に嫌味のない激励の文句だった。
 おれの言葉に男は意表を突かれたらしい。彼は目をきょとんと丸くして、幾度か瞬きをしたあと、ふっと短く息を吐いた。照れ臭そうに頬を掻くその邪気のない笑みは、やはりおれに妙な居心地の悪さを与えてくる。

「おれ……次彼女が来たら、とびきり大きな花束を用意して、思いの丈を伝えようと思います」

 声色は穏やかだ。その手の花束がおれの注文であることを忘れたかのように、男の夢見がちな眼差しは架空の白い花々の輪郭をなぞった。

「受け取ってもらえなかったら潔く諦めます。でも、今更焦ったって遅いかもしれませんけど、まだ可能性はゼロじゃないですよね。もし受け取ってもらえたら、そのときは」

 刹那、瞑目する。間違いなく、こいつの背中を押したのはおれだった。余裕など、ナマエがおれとの現状維持を選ぶ確信など有りはしないのに。寧ろ、ナマエが断る理由も無ければ、おれなんぞよりもよっぽど相応しい相手に違いない。この男が僅かなりナマエを不埒な目で見ているようなら、あんな奴はやめておけと容易に軽蔑できたものを――

「勇気を出して、食事に誘ってみようと思います」

 ああ全く、こんな下卑た妄執を抱えた誰かに比べて、随分と行儀の良いことではないか。

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