No Smoking


▼ 33-3/3

 ――疲れた。

 ひとり、でかすぎる執務机に顎を乗せる。積み上げられた手配書の山、点々と散らばったインクの飛沫、そして空の灰皿に染み付いた葉巻の匂い。本日から早速スモーカーさんの執務室に潜り込んだわたしは、降り積もる疲労感に逆らえずにいた。

 なにせ、昨日ほどではなくとも、今日は今日で色々ありすぎた一日だった。ヒナさんの見送りではクロコダイルに遭遇し、普段より若干覇気のないクザンさんを追い立てて、センゴクさんとはシリアスめの会話を繰り広げ、おつるさんのところでは新たな消臭剤の開発に勤しみ――

「はあ……」

 完全にオーバーワークだ。ため息をついてぐいっと伸びをするも、スモーカーさん用のこれまたでかい椅子はこれっぽっちも軋まない。流石に海軍製は頑丈だ。わたしのウェイトが足りてないのはさておき。
 それにしてもまだかな、スモーカーさん。時計を確認すれば時刻は午後7時半。待ち合わせにはちょっと早かったようだ。夕方と言うにはすでに遅く、徐々に視界は黒々としてきている。さっきまでは薄暮の名残でしのげていたのだが、そろそろ照明を点けないと厳しいかもしれない。

 ……さてと。

 椅子をぐるりと回転させて飛び降りた。薄暗い執務室をのろのろ進み、入り口の横らへんにあるはずのスイッチを探す。探す……あれ、この辺じゃなかったっけ。おかしいな。くそう、もっと明るいうちにつけとくんだった。
 などと後悔しつつ、手当たり次第に壁沿いを這いずっていると、ようやく指にお目当ての感触。カチリ、とスイッチを入れるのと同時に、パッと目の前の襖が開かれた。いきなり増えた光量に目が眩む。

 眩しい……とはいえいいタイミングで来てくれた。目をしばたたいて、わたしは敷居の向こう側にいる影を見上げ――

「スモーカーさん、お疲れ様で」
「……えっ?」
「えっ」

 ――スモーカーさん、じゃない。

 わたしの正面、絶句したまま目を皿のようにしてこっちを凝視している、スモーカーさんよりも背が低く、いくらかすらっとした、清潔感のあるシルエット。ようやく慣れてきた目で顔を見た。マリンキャップの下にあるのは、どこかで見覚えのある……

「ぉわ、う、裏切りの」

 なんで。まさかの。裏切りのお兄さん。

 冷たい汗が背中を伝う。非常にまずい、彼はわたしがここにいることが一番ばれちゃいけない存在だ。このお兄さんを裏切り呼ばわりする所以、スモーカーさんとの同室が船員一同の知るところとなったあの事件を忘れるはずもない。

 お兄さんはきょとんとした顔でわたしを見た。まずい、ごまかせる気がしない。

「ナマエ? なんでこんなところに」
「あー、それはですね、あのですね、そのう」
「……さっきスモーカー大佐を呼んだよね」
「ぎくっ」
「こんな時間に一人で大佐の執務室……」
「ちちち違うんですこれは、あ!」

 カチ、カチ、カチ、チーン。察し。

 って感じの顔をしたお兄さんはものすごい勢いで踵を返した。に、逃してなるものか。わたしはいきおいお兄さんの腰にタックルをかまし、そのままトラバサミさながらにしがみつく。

「待ってくださいよどこ行く気ですか!」
「大丈夫、僕はなにも見てないから安心して。ただちょっとナマエがスモーカー大佐と本部で逢い引きしてたって噂を流すだけだから……! グスッ」
「は……じょ、冗談じゃないですよ! ちょっと大人しくしてください、冷静に話し合いましょう」

 鬩ぎ合うお兄さんとわたしの攻防。わたしはなんとかお兄さんを執務室へ引っ張り込むことに成功し、慌てて後ろ手に襖を閉じて、逃すまいとその場に仁王立ちした。お兄さんはのんきに「参ったなあ」などと抜かしているが、こっちの方がよっぽど参ったなあ、である。

「とにかく勘違いはよしてください! 別にスモーカーさんとはそういう目的で会うんじゃなくて……」
「いや勿論分かってるよ、昨日ドフラミンゴに拉致されたナマエを一人で出歩かせるのは危ないから大佐が家まで送り届けるとかそういう感じだってことは」
「め、めちゃくちゃ察しいいですね」
「でもそれはそれ、これはこれだよね」
「いやちょっと意味分かんないんですけど」

 相変わらずなんたる悪びれなさ。わたしとスモーカーさんのありもしないスキャンダルを流して一体彼になんの得があるんだ。いやほんと、これさえなければ普通に感じのいいお兄さんなのに。

「……ていうかなんでお兄さん、わたしがドフラミンゴに拉致されたのをご存知なんですか」

 襖の取手をぎゅうぎゅう押さえつけつつ、じろりと上目にお兄さんを睨む。あの一件については政府やらなんやらと色んな体裁があるので内々に片付けられたと聞いたのだが。あからさまに疑惑の眼差しを向けるも、お兄さんはあっけらかんとした様子でご自分の鼻のあたりを指差した。

「ああ、だって昨日、スモーカー大佐の家の周りを警護してたのは僕だからね。ものすごい音がしたからびっくりしたよ。急いで玄関の方に駆けつけんだけど、ベランダから逃げられて……」
「えっ。じゃあもしかしてあのときドアをノックしてたのってお兄さんだったんですか?」
「そう、あれ聞こえてたんだ。本当に焦ったよ、電伝虫で連絡入れたときの大佐ほどじゃないけど」

 なんと、そうだったのか……だとするとお兄さん、普通にわたしの恩人ではないか。単なる噂好きってだけで敵視ばっかりしてて申し訳ない気がしてきた。この人のおかげであのときスモーカーさんが間に合ったのだし、そもそも仕事とはいえきちんと警備しててくれたわけだし、ここは軽率な印象を改めてちゃんと感謝しておこう。うん。

 ……うん?

 何かさっきのお兄さん、ちょっと聞き捨てならない発言をした気が――

「いや、ちょっと待ってくださいよ」
「なにかな?」
「な、なんで……お兄さんが、スモーカーさんの家にわたしがいるのを知ってるんですか」
「あ、……」

 引きつる頬で尋ねると、お兄さんは失言に気づいたようにぱっと口を抑える。忙しなくうろたえる視線。勘違いではない。

 ――まさか。

「ごめんナマエ、隠してるつもりだったんだっけ」
「つもり……というか、え?」
「いや、僕らの間じゃもう暗黙の了解になってたから……大佐との同居なら、どうしても認めたくないナマエ過激派以外は皆察してると思うよ」
「は、……?」

 同居。皆察してる……って。

 ま、待ってほしい。まさかの想像に輪をかけて最悪の展開なのだが。わたしはてっきりお兄さんに追跡かなんかされたのかと、だがどうやら現実はそれほど悠長な話ではないらしい。
 とっくにばれてたって……一体いつ、どうして、こ、心当たりは全く――ないではないけど、そんなばかな。隠そうと頑張ってたわたしの努力は一体……。

「大丈夫だって、本気でナマエと大佐ができてるって思ってる奴はほとんどいないから。だからこう、ちょっとしたスキャンダルにも盛り上がるわけでね?」
「どうでもいいですそんなこと」

 なんの慰めにもならない言葉をくださるお兄さん。このミーハーめ。てかばれてるならばれてるで、もっと早く教えてくれたっていいのに……。打ちひしがれるわたしを見て、お兄さんは困ったように頬を掻く。

「けどさ、最近ナマエ、あんまり顔出してくれないから皆寂しがってるんだよ。知らない間にナース服のコスプレとかもしたんでしょ? 残念だなあ、教えてくれたら見に行ったのに」
「ああ、あれですか……って、えっ」
「あ、もちろんすごい似合ってたよ。そういえばあのセーラー服はもう着ないの?」
「なんでそれを」

 この人、まじで、口を開くたびにろくなことを言わない。かといってとても看過できる話題ではない。まさかあの時医療棟で会った海兵さんが口を滑らせ……いや、だとしてもセーラー服の存在は三大将ウィズ兄貴以外には知られてないはず――

「ほらこれ、最近僕らの間で出回ってる写真。実は僕も複製してもらっちゃってね」

 お兄さんが小脇に抱えていたバインダー(もともと資料を置きに来たのだろう)から数枚の写真を抜き取った。差し出されるのを待ってられず、とにかく急いでひったくる。

 ……間違いない、以前クザンさんたちに着せられたコスプレ姿のわたしだ。写真映りは悪くないが、いずれも全く記憶にないショット。どう考えても盗撮だ。
 この世に肖像権というものはないのか。というかこんなのを用意できるおっさんなんて一人しか心当たりがないのだが。

「さすが"炎のアタっちゃん"、いい腕してるよ」
「誰ですかそれ……ていうかこれのこと、まさかスモーカーさんには知られてないでしょうね」
「さあどうだろう、たしぎ曹長に見つかったら確実に没収だからって皆隠してはいるけど、大佐は結構察しいいから時間の問題かも」
「ああ、もお……最悪です」

 わななく腕に任せてくしゃりと写真を握り潰すと、慌てたお兄さんにさりげなく回収された。……もう取り返す気にもならない。お兄さんはバインダーの上でしわを伸ばしつつ、嘆くわたしを見て実に不思議そうな顔をした。

「素朴な疑問なんだけど、どうしてスモーカー大佐に隠したいの?」
「なんでもなにも、スモーカーさんにだけは知られたくないに決まってるじゃないですか」
「うーん、乙女心ってよく分からないなあ」
「なぁにが乙女心ですか。わたしはただ……」
「いやいや、本当のところさ。前から気になってたんだけど、ここだけの話にしとくから教えてよ。ナマエってやっぱり大佐のこと好きなの?」

 ニコニコしながら言われましても。いやいや、女子中学生の会話じゃないんだから……なんかこう全身むず痒くなるしほんとやめて欲しい。

「そりゃ、好きか嫌いかで言ったら嫌いではないですよ。ていうかお兄さん絶対ここだけの話で済ませる気ありませんよね」
「大丈夫、誰にも言わないから。ほら、そういう好き嫌いじゃなくて……ね、分かるでしょ。同居してるとなるとやっぱり違うと思うんだな、僕は」
「なんなんですか一体……」

 ああもう、これだからばれたくなかったんだ。こう、一緒に住んでるからってだけで公認にされるのはわたしとしてもスモーカーさんとしても絶対良くないと思う。
 だって実際、同居しててもなんも起きてないわけだし、むしろ将来スモーカーさんに彼女とかできた暁には大人しくお子様の顔をしててあげようとすら思ってるくらいだし、というかわたしだっていずれは優しくてカッコよくて非喫煙者な彼氏が欲しいし……。
 そもそもあり得ないだろう、どんな目をしてたらわたしとスモーカーさんがそういう関係に見えるんだ。あんまり言いたかないけどどうあがいてもスモーカーさんがロリコンと化すではないか。

 しかしお兄さんは辛抱強くわたしの返事を待っている。どうも答えるまで話題を変えてくれる気もないらしい。仕方ない、こうなればその可能性は万に一つもないって事実を骨の髄まできっちり理解していただくしかあるまい。

「なら真面目に答えますけど、そういうのは当事者に対して失礼ですよ。わたしはあの人に感謝してますし信頼もしてますが、だからって安易に男女の関係に結びつけるのはどうかと思います」
「うーん、ナマエの言い分は分かるけどさ……じゃあその、本気で大佐には脈なしってこと?」
「逆に聞きますけど、お兄さんはスモーカーさんがひとまわり以上歳下のちんちくりんに片思いされたとして靡くような方だと思うんですか?」

 曲がりなりにもスモーカーさんは上司だ、流石のお兄さんもロリコン呼ばわりは出来なかろう。これで論破だ。勝ち誇るわたし。しかしお兄さんは悔しげもなく、顎に手を当てて少し首を傾けた。

「うーん、言うほどナマエは子どもじゃないと思うよ。僕だったら靡いちゃうけどな」
「えっ、そ、そうきましたか」

 よ……予想外の発言だ。いきなり色良い感じに言われるとちょっと照れるのだが。思わぬ方向へ見込みが外れたせいで、わたしは思わず言葉に迷い――



 ――スパン!

 ぶわ、と背中側から吹き込んだ外気がうなじを撫でた。振り返るより早く背中にぶつかったのは嗅ぎ慣れた匂いの塊。真正面のお兄さんは、わたしの頭ふたつ分くらい上を仰いでぎょっと目を見開いた。
 次の瞬間肩を引かれ、続けざまに響いたのは低い振動。どうやらお兄さんに宛てたものらしいと、声を聞いたらすぐに分かった。

「……何をしてる」
「あ、ス、スモーカー大佐、お疲れ様です」

 お兄さんはさりげなくバインダーを背に隠し、右手のひらをおでこに当ててびしりと敬礼する。さすが、頭の角度から肘の形まで完璧だ。

 振り返って背後の様子を伺った。わたしの動きに併せてスモーカーさんもこちらに顔を向けたらしい。視線が合う。
 すると彼はなぜか僅かに目を見張って、次に眉を顰めつつおもてを上げた。

 ……なんだろう、わたしの顔になんかついてたんだろうか。スモーカーさんはお兄さんを睨んだまま、訝しげに口を開く――

「――お前」
「し、資料を返却しようかと思ったのですが、執務室に保護対象を待機させているとは存じ上げなかったもので! 誠に申し訳ありませんでした、では、僕はこれにて失礼します!」

 やたら早口にそう言って、お兄さんは頭を下げながらわたしたちの横を通り過ぎ、敷居の向こうから襖の隙間をピタリと閉じて姿を消した。
 ……お兄さん、スモーカーさんが苦手なのだろうか。なんか最後の方、ちょっと顔色が良くなかった気がするし。

 閉め切られた襖の境目を眺めつつ頭を捻っていると、ふとスモーカーさんの指が頬を掠めた。不思議に思いつつ顔を上げる。スモーカーさんは相変わらず剣呑な表情で煙を吐いていた。

「……何の話をしてたんだ?」

 先ほどと同じような問いを掛けられる。しかしお兄さんには問い詰めるって感じだったくせ、相手がわたしとなるとこの人も相当甘い。となると、実は海兵さんたちの勘違いの元って、スモーカーさんご本人なのかもしれないなあ……。

「ナマエ?」
「えっ、と……しょうもないことです。そ、それよりスモーカーさん、ここには暫く誰も出入りしないって言ってたのに、あれ大嘘だったじゃないですか」
「……それに関しちゃ悪かった。おれの不手際だ。次はねェから安心しろ」
「そ、それはどうも、ありがとうございます」

 わたしの顔をじっと見つめるスモーカーさんはいまいち気もそぞろだ。なにを考えてんだろう。観察するような視線が痛くてつと目を逸らした。

「えと……と言ってもまあ、もう待ち合わせる意味もないらしいんですけどね。同居のこと、とっくにバレてたみたいですし」
「あァ……だろうな」
「やっぱ知ってたんですかスモーカーさん」
「隠せていると思ってたお前の方がおかしい」
「いっ、いやでも、スモーカーさんだって良い気はしないでしょう。いくら部下の方っていっても自宅の位置まで知られてるなんて」
「いくらなんでも場所までは割れてねェよ。家まで着けてくるような奴が居るなら流石に対処するが」
「あれ、……いや、確かにそうですね」

 お兄さんの説明で思い違いをしてたのだろうか。わたしてっきり、彼はスモーカーさんちの場所を最初から知ってたものとばかり……。
 まあ、いずれにせよスモーカーさんの采配なわけだし、居候のわたしが出しゃばる必要もないのだろうが。というか現状、この人が隠そうとしたことはおよそ隠せてて、ばれても良いと思ってたことは大体ばれてるわけだから、所詮わたしの独り相撲だったのである。はあ……。

「人の口に戸は立てられぬ……って言いますけど、ほんと身に染みて感じました」

 足が疲れてきたので、閉じられた襖にもたれかかって息をついた。せめてあの写真だけはばれないよう祈るしかない。少なくともあんな格好を進んでしているわけではないという弁明だけはさせていただきたいところだ。そしたらスモーカーさん、いよいよクザンさんを殴り込みに行きそうな気はするが。

 ちらりと頭上を仰いだ。こうして隣に立って並ぶと、改めて彼の背は高すぎて困る。今後一生縮まることはないであろう差だ。因みにスモーカーさんは、先ほどからずっとこちらを見下ろしている。首、疲れないのだろうか。

「――ねえスモーカーさん」

 身を乗り出し、スモーカーさんの顔を覗き込む。少し確認したかった。初めの頃はもっとこう、スモーカーさんってお前なんか相手にしてたまるか、って感じだったのだが、最近はあまりそういう否定をされてない気がしたからだった。

「一応、これは一種のジョークと受け取って聞いて欲しいんですけど」
「……あ?」
「もしですよ。もしも……わたしがスモーカーさんに色恋的な意味でアタックしたとしたら、靡いてくれる可能性ってどれくらいありますか?」

 ――あ、固まった。

 直後、変なところから煙を吸い込んだのか、スモーカーさんはそれはもう盛大に咽せた。
 珍しいこともあるものだ。安心して欲しい、これはなんの裏もない単純な好奇心なので別にフラグを立てる気はないのだ。

 すぐに呼吸を整え、葉巻を咥え直したスモーカーさんは、苦虫を噛み潰したような顔をこちらに向ける。すっごい嫌そうだ。

「てめェ、一体どういう脈絡でんなことを……」
「だから冗談だと思ってくださいって言ったじゃないですか。純粋な興味です」
「……はっきり言って最悪の趣向だ」
「そこまで言われるほどですか。ひどいですね、お兄さんはお世辞でももうちょっと優しかったです」
「おい違ェよ、そうじゃねェ――つうか、なにを言われたのかいい加減に」
「あーもういいです。めちゃくちゃ不快なのはよくわかりましたから」

 スモーカーさんの態度は相変わらずで、やっぱりなと安心したような、失礼だなと不満なような、なんともいえない気持ちだ。まあわたしも同じ質問をされたらこういう反応になるとは思うけど。

 ……と、いきなり視界を埋め尽くした黒い影。

「っ、待て」
「!」

 緩くもたれかかっていただけの身体が押しつけられ、襖ががたんと大きく揺れる。たじろいで見上げると、スモーカーさんは頭上の長押に手を掛けて、ちょうど真上から威圧的(不可抗力かもしれない)に見下ろしてきていた。いわゆる壁ドンというやつである。しかし身長差がありすぎてもはや壁サンドだ。前も後ろも壁だ。
 身を竦めつつなんですかいきなり、……と文句を言おうとしたが、スモーカーさんが実に苛立たしげな視線をくれたので、思わず言葉を飲み込んでしまった。

「誰の入れ知恵だか知らねェがな、お前その気もないくせに思わせぶりな質問をするんじゃねェよ。おれを勘違いさせてェのか」
「や、だから何度も冗談って言ったじゃないですか。現にスモーカーさん勘違いなんかしてませんし……その気がないって分かってるなら問題なくないですか」
「あァよく分かってる。だが勘違いはしなくても期待はする。――質問の答えを教えてやろうか」

 な、なんでこんなに怒ってるんだ。多分この人、今回は珍しく本気で頭に来てる。そんな逆鱗に触れるほどの失言をしたのかわたし。

「そ、それはもう聞きました」
「最悪つったのは仮定条件の話だ。言っておくが、おれは据え膳を差し出されて断るような男じゃねェぞ」
「はあ? なんですかそれ」
「だから――」

 唐突に途切れる言葉。素早く横に逸れる視線。

 スモーカーさんは予備動作なしに反対側の襖を叩き開けた。


「あ……」

 木製の廊下、敷居のすぐ向こう、床に蹲るようにしている人影。耳に手を当て、物凄い引きつった顔でスモーカーさんを見上げている――

 ――う、裏切りのお兄さん。

 どうやらおもいっきり聞き耳を立てていたらしい。なんという怖いもの知らずな。さすがのわたしもビックリだ。気配を察知した当人のスモーカーさんでさえ呆然、って顔だ。さしものお兄さんは冷や汗をだらだら垂らしつつ「お、お邪魔しました!」などと的外れなことをぬかして脱兎の如く去っていった。

 お終いだ。確実にまた碌でもない噂が立つ。

 呆気にとられたわたしたちのしばしの無言。壁とスモーカーさんに挟まれたまま、そろそろと顔を見合わせる。すると彼は口を開きかけ、閉じ、長々と息を吐き――近距離で煙を吹きかけるのはやめていただきたい――俯きがちに眉間を押さえた。

「……。もういい、ありもしない仮定の話なんざしたところで意味もねェしな」

 そう、実に虚しげに仰られる。最近彼に向けられることが多い、諦めたような視線だ。

 うーん、お兄さんに水を差されたおかげでなんとも消化不良な感じになってしまったが……まあ、きっと過保護なこの人のことだから、さっきの口説いてるとも取られかねない軽率な発言を咎めたのだろう、多分。スモーカーさん以外にはあんな質問をしたりしないので安心して欲しいものだ。
 とにかく、ああいう冗談は相当彼の気に障るらしいと分かったので、今後はもう少し慎重になるとしよう。スモーカーさん怒らせると怖いし。

「帰るぞ」

 と声がかかる。スモーカーさんは軽くわたしの髪を払い、返事も待たずにすげなく背中を向けたのだった。

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