No Smoking


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 一口に葉巻と言っても、その香りは千差万別である。

 特別詳しくないとはいえ、それなりに嗅覚が発達してるわたしにとって、煙の匂いを嗅ぎ分けるのはさほど難しいことではない。例えばスモーカーさんがいつもすぱすぱやってるあの葉巻は、海軍から支給されている安物だ。苦くて、飾り気のない、雨が降ったあとの泥みたいな匂いがする。そして彼が家でゆっくりしてるとき時折口にする、小さな木箱にしまわれたちょっぴりお高い葉巻。あれはあれで、埃の積もった書庫か、或いは樽の並んだ酒蔵のような、わりかし嫌いになれない芳醇な香りがするのだ。いい葉巻は匂い移りもそれほど酷くなくて、やっぱ高級品は違うなあと感心したりするのだが――……さて。

「……」

 今まさにわたしの鼻腔を浸している、バニラかなにかのフレーバー、香り立つような蜜の匂い。昨日のドフラミンゴの香水とはまた違う、色気のある品の良い甘味は、明らかに支給品なんぞとは格の違うそれだ。濃厚で、官能的で、少々あざとい――正直に申し上げれば、非常に虫の好かない匂いがした。
 わたしの視界に一人の男がいる。黒髪をきっちりオールバックに固め、お高そうなコートとお高そうなベストとお高そうな革靴を身につけた、顔面にでかい縫い目のあるフック船長。予習の甲斐あってピタリと言い当てることができる。そう彼はまさしく――海賊、クロコダイルだ。

「あら、サー・クロコダイル。あなたが船室から出てくるなんて珍しいわね。なにか問題でも?」

 マリンフォードの港、桟橋の上。わたしの左隣に立っていたヒナさんが、一歩前に出て対応している。クロコダイルは船の甲板に立ち――上背はおおよそ2.5メートルくらいあるだろうか――彼女を見下ろしながら、気怠げに煙を吐いた。

「ほォ……大佐どの、君は用がなけりゃ出歩いちゃァいけねェと仰るのかね。言っておくが、おれァてめェらの囚人じゃねェんだ……」
「それは失礼を、ヒナ反省。こちらも最大限の配慮をしようと思ってのことなのよ」
「おや……そうとは知らずこちらこそ失敬した。詮索されるのは嫌いでね」

 ヒナさんの影から男の顔を盗み見る。顔面を横断する大きな傷跡も含め、シンプルに顔が怖い。ヒナさん、よくこんなマフィアじみた海賊の前で堂々と振る舞えるものだ。チンピラっぽいドフラミンゴと違って、この男はいかにもボスらしいというか、カリスマが滲み出てるというか、不本意ながら葉巻を吸う姿も実に様になっている。
 しかし所詮クロコダイルの葉巻は一本(そりゃそうだ)。よくよく見るとシガーリングにはビー・エー・アール……"BAROQUE"の文字がある。聞いたことのない銘柄だが、もしやオリジナルのフレーバーなんだろうか。このやろう、そんなこだわりの品を咥えタバコみたいな手軽さで吸いやがって。中途半端に甘ったるい匂いと副流煙撒き散らすくらいだったら、ご自分の船のお部屋でのんびり吸ってりゃいいのだ。あのスモーカーさんだって高い葉巻はちゃんと大切に吸ってるんだぞ。いや別に規格外にヘビーなスモーカーさんを擁護するわけじゃないけどさ。

「おれからの要望は一つ、会議が終わったならさっさと船を出せ。いつまでもこんな場所に居たがるような海賊はそういまい?」
「遅れが出ていることについては謝罪するわ。すぐに出港の指示を出すからもう少しだけ辛抱してくださらない?」
「クハハ……構わんとも、別に無茶な要求はしねェさ。おれは船室に戻る……あまり待たせるなよ」

 クロコダイルときたら、やたらめったら居丈高な物言いだ。まるで高飛車お嬢様だ。ドフラミンゴもそうだったけど、海賊ってのは皆こういうもんなんだろうか。そりゃこの人らの場合、七武海に認められるだけの実力あっての自信なんだろうが……。
 ともかく、なんにしたってこの匂いはない。好きな人は好きなんだろうが、わたしからしたらタールとニコチンを振りかけたお菓子を鼻に詰め込まれてるようなものだ。ちょうど風下にいるせいかなんかこう頭が痛くなってきたし……ああ憎し葉巻、今すぐ弱酸性の消臭剤をぶちまけて相殺してやりた――

「それと……何の恨みがあるんだか知らんが、あからさまに敵意を向けられんのは不愉快だ。おれは協定は守るが、お互い穏便にやりてェなら手下の教育は徹底的にしておきたまえ」
「!……わたくしから言い聞かせておくわ」
「フン……身の程を知らねェ馬鹿ほど邪魔くせェもんはねェな」

 クロコダイルは額にしわを寄せて鬱陶しそうに告げ、ばさりと身を翻した。一体なんのことやら、それよりわたしはこの空気を今すぐ洗浄させていただきたい。確か今朝、ポケットに新型の小型消臭剤をつっこんできたはずだ。
 などと考えつつ男の後ろ姿を眺めていると、隣のヒナさんにちょいちょいと肘で小突かれた。見上げると、そこには若干責めるような眼差しが。

「ちょっと、ナマエ」
「え?」
「冷や冷やしたわ。まったくなんて顔してるの、あなた」

 クロコダイルが立ち去ったのを横目に確認し、髪をかき上げつつため息を吐く悩殺ヒナさん。何気ない仕草だというのに色気がすごい。わたしが男だったら目をハートにして気絶してるところだ。
 じゃなくて、もしやさっきの手下ってわたしのことだったのか。前にも後ろにも敬礼してる海兵さんいっぱいいるし、クロコダイルはこちらをチラリともしなかったから完全に他人事だと……。危なすぎる、まさか無意識のうちに七武海に喧嘩を売ってたとは。

「ごめんなさい、そんなに顔に出てましたか」
「親でも殺されたのかって顔だったわよ。あなた、喫煙のことになると本当に見境ないのね」
「一応、最近はだいぶ丸くなったと思ってたんですが……」
「まったく……けれどわたくしも油断したわ、ヒナ不覚。まさかクロコダイルが顔を出すなんて。アラバスタからこっち、一回もなかったのだけど……あなた、本当に持ってるわね」
「確実に不運の方ですけどね。昨日の今日でこれだとさすがに否定できません」

 一応わたしも、昨日のことがあったのでヒナさんの見送りに来るのには色々気をつけたのだ。ちゃんとスモーカーさんには許可取ったし、人通りの多い道を選んだし、オリス広場からは海兵さんに案内を頼んだし……なのだが、結果がこうではあまり意味をなさなかったらしい。ともあれ、クロコダイルがわたしにまったく一ミリも興味がなくて助かった。いやそれが普通のはずなんだけど、ここんとこ会う人会う人皆わたしのことを知ってたからなあ。多少自意識過剰になるのは許されたいところだ。

 さて、そんな会話の合間にも、ヒナさんは周りの海兵さんたちに出航の指示を出している。彼女と会うのは少しぶりなので名残惜しいのだが、どうやら長話はできなさそうだ。

「お忙しそうですね。すぐに船を出すんですか?」
「そうね……あんな風に急かされたら無視できないわ。これ以上待たせると次どんな嫌みを言われるか分からないもの」

 気が重そうに口にするヒナさん。クロコダイルからの嫌み……想像するだけで胃が捩れそうだ。七武海の接待なんて頼まれてもやりたくない仕事だろうに。

「ほんと、ご苦労様です。ていうかドフラミンゴもクロコダイルもどうしてこう、『このおれ様がしてやってる』みたいな態度なんでしょうか」
「それが海賊ってものなのよね。そういう連中でなくちゃ、こんなところまで生き残ってないわよ」
「なるほど。……おかげでなんとなく、スモーカーさんが毛嫌いするわけと七武海関連の仕事から外されてるわけがわかりました。ヒナさん、よく当たり障りなく対応できますね」
「まあ、多少の慣れはあるわね。だってほら、肝心のスモーカー君もあんなものじゃない」
「えっ、いえさすがに、スモーカーさんはあそこまで押しつけがましくないですよ」
「ナマエ……それ、あなただから言えるのよ」

 ヒナさんは呆れたように言って、その後少しおかしそうに微笑んだ。何か思い出すことでもあったのだろうか。わたしからすると、むしろ気兼ねのない間柄のヒナさんだからこそそう言えるんじゃないかなと思うんだけどな。

 ひゅうと軽い風が吹く。この風のおかげで葉巻の匂いはだいぶ流されてくれた。それにしても今日は天気もいいし、風も良好だし、なかなかの航海日和だ。
 見上げると、マストの上の海兵さんが、軍艦のセイルを下ろす準備をしている。とはいえあの帆を広げるのはある程度沖に出てからだ。本艦を内湾から引き出すための小型ボートが、船体をロープで繋いでいく。ヒナさんの部下というだけあって、流石の手際の良さだ。

「一つだけ聞いていいかしら」

 出港準備が整っていく様子を眺めつつ、ヒナさんがふと口を開いた。背の高い彼女を見上げつつ、なんなりと、と返事をする。

「あなたから見て、最近スモーカー君の様子はどう? あ、この質問に深い意味はないのだけど」
「スモーカーさんの?」

 はて、つまり世間話ということだろうか。ヒナさんはどこか面白がるような目をしているし、本人の言う通り深い意味がないというのは本当だろう。とはいえ期待に添えられるような面白い返答は思いつかないのだが……。

「うーん、そうですねえ……近頃はちょっと大人しいかなってくらいで、特に変わりないと思いますよ」
「……ふうん。踏ん切りのつかない男だこと」
「ヒナさん、何かご存知なんですか?」
「つまらない話よ。気にしなくていいわ」

 えー、そう言われると余計気になる。でもヒナさんの横顔はなんとなく答えてくれそうもない微笑みなので、なんとなく追求を避けて言葉を飲み込むわたし。ずるい方である。……あ、でもそういえば。

「ヒナさん、すごい報告があるのを忘れてました」
「あら、一体なに?」
「ふっふっふ、聞いて驚けですよ。いやもしかしたら信じて頂けないかもしれません。なんとなんとですね……この頃スモーカーさん、わたしの前で葉巻控えてくれるようになったんです」
「……葉巻を?」
「そうなんですよ、どうもわたしがこの火傷を作ってきてから気を遣ってくださってるようで……いや実は最近まで全然気付いてなかったんですけど。でもこないだなんかわざわざベランダ出て吸ってたんです。あのスモーカーさんが場所選んで喫煙するなんてちょっと信じ難くないですか?」

 ヒナさんはぱちりと長い睫毛を瞬かせる。かと思うと、彼女はおもむろに口元に手を運び、整った眉を微かに歪ませ――そして堪え切れないように一瞬肩を震わせた。

「……っ、フ」
「ヒナさん?」
「な、なんでもないわ。やっぱりあなたって最高よ、ヒナ感激。スモーカー君、相当あなたに嫌われたくないらしいわね」
「うーんそれは分かんないですが……喫煙者って時点で初めからマイナスなので、今更葉巻のことで嫌いになったりしませんけどね」

 と、雑談も盛り上がってきたところで、船の上手から「出港準備完了しました!」と声が上がる。

「……時間ね。あなたの話をもっと聞きたかったのだけれど、ヒナ残念だわ」
「わたしもです。ぜひまたお話ししてください」
「勿論よ。それじゃ、わたくしは行くわね」

ヒナさんは甲板を見上げつつ呟いて、階段型のタラップに足を掛けた。カツカツとヒールを慣らして登っていく後ろ姿が、ふとこちらを振り返る。

「あ、そうそう、ナマエ。以前言い忘れたのだけれど、見送りをするなら船が出てすぐ、湾頭に向かうのをオススメするわ」
「湾頭……っていうと、三日月型の沿岸の端っこの……あの辺のことですか?」
「ええ、そう。エニエスロビー行き以外の船は基本的に正義の門を避けて進むから、離岸した後も暫くは島沿いに進むの。湾内では船も徐行するし、それほど急がなくても真下を通るところを見送れるわよ」
「へーっ、なるほど、初耳です。たまにお子さんを連れた奥様とかが先っちょの方にいらしてますけど、そういう事情だったんですね」
「フフ、出征のときはもっと大勢集まるわよ。わたくし本部に家族は居ないから、ここを発つときはあなたが見送ってくれると嬉しいわ」

とお茶目にウインク。なんたる殺し文句だ、恋に落ちてしまう。ちょっとドキドキしつつわたしでよければ、と返せば、彼女はまたくすりと笑って正義のコートを翻した。


 岸のほうにいた海兵さんたちも乗り込んで、船のタラップがしまわれていく。ヒナさんの助言通り、わたしは離岸を待たずに船着場から引き返して湾頭のほうへ歩きだした。階段を上り、海面が低く見える高台へ。そして到着した湾岸の先端は、並んだ大砲がちょっと邪魔ではあるものの、水平線が真っ直ぐ見えるほどの見晴らしの良さだった。

「――あ」

 クロコダイルを乗せたヒナさんの軍艦が湾を抜ける。多少見下ろさなくてはならないものの、船との距離はかなり近い。確かにここ、見送りスポットとしては最適だ。今後役に立つかはわかんないけど、ヒナさんのオススメとあらば忘れないでおこう。

 見張り台の上でマストのロープを引きながら、ヒナさんは優雅にこちらへ手を振っている。桃色のロングヘアが青空に靡いているのがやけに鮮明に見えた。わたしも手を振り返す――。
 ああ、ヒナさんてやっぱり、びっくりするくらいカッコいい。船上の彼女には、女海兵という言葉がよく似合っていた。新兵時代からの腐れ縁なのにヒナさんに惚れない輩がいるなんてにわかには信じられない。

 カモメのシンボルが描かれた軍旗が上がる。

 わたしは彼女の船が水平線の向こうに消えるまで、しばらくその場に立ち尽くしていた。

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