No Smoking


▼ 32-2/4

 例えどれほどの非常事態だとしても、状況把握というのはやはり冷静な気持ちでせねばならないだろう。落ち着くように努めるのは、過酷なこの世を生き抜くための最優先事項だ。人間、平静を欠いたらお終いなのだ。

 さしあたって、どうやらわたしが連れてこられたのは、聳え立つ"赤い土の大陸レッドライン"の上――聖地マリージョアであるらしい。

 うん、わたしは冷静だ。先程強烈な接吻をかましたこの床とおんなじくらい冷えひえだ。

 さて、わたしの薄っぺらい知識によると、マリージョアに来るためにはまず"赤い港レッドポート"から"ボンドラ"という物凄い高度まで上昇するエレベーターに乗らなくてはならない。で、陸の上に到着すると今度はどでかいエスカレーターがあり――正式名称はトラベレーターというらしい――その先にようやく見えてくる巨大な建造物こそ"パンゲア城"。天竜人以外の人間が入ることを許されているのは実質この城のみで、センゴクさんとかそこらの王様ですら天竜門を越えて"神の地"に入ることは許されないとかなんとか。ここまでの知識はおおよそクザンさんからの受け売りなのでひとまず信用には足るだろう。
 ところがこのやんごとなき方々の住まう土地を我が物顔で闊歩するのは海賊、ドンキホーテ・ドフラミンゴ。失神しかけていたのでもはや記憶はないのだが、どうやらこやつはわたしの首根っこを引っ掴み、ボンドラだのトラベレーターだのを丸々すっ飛ばしてここ、マリージョアまで登ってきたらしい。生身での飛行はスモーカーさんにより体験済みだとはいえ、一度や二度で慣れるもんでもない。危うくショック死するところだ。わたしの心臓は人並みにか弱いのだ。

 閑話休題、そうしてドフラミンゴは誰の許可も得ずパンゲア城に上がり込んだかと思うと、いかにも会議しますよって風の広間を探し当て、これまた勝手知ったる様子で悠々と寛ぎ始めたわけである。わたしはといえば、この部屋に着くなり硬い床に放り出されたので、したたかに打ち付けた腰がやや痛い。という具合で現状確認は以上だ。


「――っつ……」

 床に両手をついて、わたしはようやくのろのろ顔を上げた。バルコニーに向かう扉は開け放たれており、ドフラミンゴは風が吹き抜ける窓際のソファを陣取っている。わたしはちょうどその足元に這いつくばっている形だ。ドフラミンゴの尖った靴の先がつむじを掠めたので、反射的に首を引っ込めてしまった。

「おォっと、悪ィな。箱入りのナマエちゃん相手には配慮が足りなかったか? フフ!」
 
 とは口先ばかりで、ドフラミンゴがわたしに手を貸す訳もなく。ピンクのモフモフした腕はソファの背もたれに回されたまま、微塵も動く気配がない。いや、下手に優しくされても怖いんだけどさ。

「あの、色々とお訊きしたいことが……」
「フッフッフ! 構わねェが、まァ一旦座れ!」
「っうわ」

 立ち上がろうとしたところで襟首を引っ掴まれ、無理やり隣に座らされた。わたしが尻餅をついた後も、男の手は馴れ馴れしく首元に残ったままだ。こんなのシリアルキラーと並んで肩組んでるようなもんである。普通に命の危機だ。
 だからと言って振り払うわけにもいかないので、平静を保つべく深呼吸。改めて部屋の内装を確認しておく。印象としては白くて広い、円形の部屋――城の塔の最上階に当たる部分なのだろう。くまさんの巨体が来たとしてもすっぽり収まるくらいに高い天井、正面の巨大な扉、その向かいには階下を一望できるバルコニー。部屋中央の円卓には、会議のために用意されたであろう椅子がぐるりと配置されている。事前情報と照らし合わせてみるに、この部屋で定期召集会議が行われるのは間違い無い……と思う。

「それで、何が聞きてェ? 折角だから答えてやるぜ」

 肩に回されたドフラミンゴの腕が重たい。この海賊に会話の意思があること自体ビックリだが、退屈凌ぎに気が向いたってとこだろうか。ともあれ、聞きたいことはいくらでもある。目下の問題は、だ。

「会議の開始時間ってご存知ですか」
「さァ、知らねェな」

 即答である。……さて困った。どうも海軍と七武海の間の報連相は上手くいってないらしい。わたしが途方に暮れたのを察したのか否か、隣の男は邪気たっぷりに笑ってみせた。

「予定通りにことが運んでりゃ、海軍の連中がご丁寧に迎えを寄越しやがるんだが……今回はそうも行かねェらしいな、フッフッフ! 今頃おれを探して慌てふためいてんじゃねェか?」
「……人騒がせな方ですね」
「この程度可愛いもんだろ? おれにも七武海の立場があるんでね……直接手は出さねェさ」

 まるでヤンチャな悪戯坊主の如き発言だが、多分これは殺すか殺さないかって次元の話である。直接、って言い方からして怪しいものだ。さっき玄関で海兵さんに向けてた微妙な殺気も気のせいではないだろうし。
 ……そういやわたしが拐われたこと、ちゃんとスモーカーさんたちに伝わってるんだろうか。例え耳に入っていたとしても、聖地マリージョアに入るにはそれなりに面倒な手続きが必要なようだから、今すぐにと言うのは無理な話かもだけど。まあそれでなくとも手間取るだろう、まさか誰もスモーカーさんの自宅までドフラミンゴが突撃してくるとは予想していまい。そう、結局のところそれが一番の謎でもある。

「あの、なんでわたしの居場所を知ってたんですか」

 物は試しにと尋ねてみる。気さくにわたしの肩を抱きつつ(頼むから力加減だけは間違えないで欲しい)ドフラミンゴはまた笑った。

「どうした、質問は一つじゃなかったのか?」
「さ、さっきのは言葉の綾みたいなもんですから」
「フッフッフ、好きにしろ。だがつまらねェことを聞くなァ……散歩中に偶然見つけた、つったら信じるか? フフ!」
「信じませんよ。言う気がないならいいです。……わたしが何なのかはご存知なんですよね」
「あァ、よく知ってるぜ。センゴク直々の保護対象、名前はナマエ。これといって能のねェクソガキが、海軍の上役に上手いこと取り入ったそうじゃねェか。しかしどんな魔性の女かと思いきや……まさか"コレ"とは恐れ入ったぜ」

 人をガキだのコレだのと失敬な。誰から聞いた情報なのやら、一応間違ってはないもののおかしな脚色が入ってる気がする。それともあえて失言を誘ってるのだろうか。この男がわたしと会話する理由なんて、そのくらいしか思い当たらない。

「その、予めお伝えしておきますけど、わたしから情報を引き出そうとしてるなら無駄ですよ。わたしは何も聞かされてませんし、口を割る気もありませんし」
「んん? オイオイ、おれをそこらの海賊と一緒にするんじゃねェよ。どうして格下相手にこそこそ嗅ぎ回らなくちゃならねェんだ? 政府から口止めをされてやってるのはむしろおれの方なんだぜ、ナマエちゃん」
「……ならなんでわたしをこんなとこまで連れてきたんですか。政府だのなんだのとでかい話に巻き込まないで下さいよ。わたしが無力で無価値な一般小市民だなんてことは重々承知なんでしょう」
「フッフッフ! オイ、良いことを教えてやろう!」

 行儀悪く胡座をかいて上半身を倒し、ドフラミンゴはわたしの方へ顔を近づけてくる。人差し指をずいと突きつけられたので、思わずたじろいでしまった。噎せ返るような香水の匂いが微かに鼻先を擽る。……ムスクだろうか。

「いいか、七武海っての政府の狗だ……味方にゃ噛みつかねェように躾けられてる。だがこっちとしちゃ当然、大人しく仲良しこよしってわけにもいかねェわけだ」
「海賊との友情なんか海軍の方々だって願い下げだと思いますけど」
「フフ! 生意気な口ききやがって。――ま、てめェの言う通り、油断ならねェのはお互い様さ。だからこそ、"弱み"は握っておくに越したことはねェ」

 なんやらきな臭い話だ。とはいえこの男が言わんとしてることは、今の状況と言い分から察するに。

「つまりその弱みとやらがわたしってことですか」
「フフ、大した自惚れじゃねェか。無自覚でも興醒めだがな……フッフッフ! 勘のいい女は好きだぜ」
「揶揄わないでください、わたしだって不本意です。それより、こんなことで海軍が動くなんて本気で信じてるんですか?」
「信じてねェよ、当然な。だから今試してる……。てめェみたいなのに熱を上げてる奴が本気で居んのかどうか、フフ、気にならねェか?」

 人差し指でわたしの下顎をぐいっと持ち上げつつ、ドフラミンゴは不敵に笑った。頭を逸らしてその手を躱す。香水の匂いが移りそうだ。

「……ずいぶんお暇なんですね。つまり、そんなちんけな嫌がらせをするために、使えるかも分からないわたしの居所を突き止めて拉致したわけですか」
「オーオー、言うじゃねェか……! 使えるかどうかは今に分かるさ。暇ってのは否定できねェがな」
「こんなことで確かめられるとは思いませんけど」

 とはいえ、わたしにとっては不都合なことに、ここまできて自分に利用価値がないと言い張るのは難しい。ドフラミンゴの思惑通り、今頃クザンさんやスモーカーさんは救出のために動いてくれてるはずだ。たかが数人、しかし大将を一人動かせたとしたら大袈裟にいって天竜人並みの権限である。今頃あのだらけたおっさんの規格外っぷりを感じるわたしだ。
 ……だがこの男、もしわたしが人質として使えると判明したとしてどうするのだろうか。まさか、今すぐお陀仏にはされないと思いたいけど。

「あの、もひとつ確認していいですか」
「おォ、言ってみろ」
「ドフラミンゴ……さんは今のところ、わたしに危害を加える気はないってことですよね?」
「あァその点は安心していいぜ。てめェに利用価値があろうとなかろうと、マリージョアで殺傷沙汰を起こすリスクには勝たねェよ」
「ふうん……?」

 はて、命の保証をしてくれるのは嬉しいが、海賊を名乗っておいて世界政府が怖いとは。先ほどからの態度に見合わぬ小心な理由だ。

「意外です。てっきりわたし、あなたはもっとこう刹那的というか、逆らう奴は全員殺す的な、立場とか世間体とか気にしない海賊だと思ってました」
「だとしたら"七武海"になんざなってねェさ。好きにやるには立場が要る……気に食わねェ奴を殺すってのは正解だがな、フッフッフ!」

 全然笑えないことを言ってくる。ううん……ドンキホーテ・ドフラミンゴ、いまいち掴めない奴だ。どこまでが冗談でどこまでが本気なんだか――まあ真に受け過ぎるのもあれだけど、今すぐ殺されることはないとわかっただけでも良しとしておこう。
 と、一息つく間も無く、いきなり肩の腕がぐっと重くなったかと思いきや、わたしを覗き込んできたドフラミンゴの顔面。ひゅっと息を飲む。いやほんと心臓に悪いのだが。見るからにしんどい前屈みの姿勢で、男は横柄に口を開いた。

「おれの番だ。一つ聞かせろ!」
「えっ、交代制なんて聞いてないです。大体わたし、口を割る気はないって言ったじゃないですか」
「聞きてェのは海軍云々じゃねェよ、ナマエちゃんのことだ。そのくらい答えてくれよ」
「……わたしの情報は高くつきますよ」
「ほォ、ならてめェの命と天秤に掛けるんだな」

 く……口の回る海賊だなこの男。

 ドフラミンゴがにやつきつつ体を立て直す。つられて目で追うと、やはりでかすぎて見上げる首が痛かった。サングラスのせいで分かりにくいが、背筋がぞわぞわするので恐らく視線が合っているのだろう。すると、ドフラミンゴの口が一層深く弧を描いた。

「――お前は何処から来た?」
「どこって……」

 思わぬ問いに言葉を濁す。純粋に返事に困った。マリンフォードのスモーカーさん宅、というのが的外れなのは確かだが、とすればこれ、どんな返しを期待されてるんだろう。わたしの困惑を見透かしたように、男はまた機嫌良く笑い声を立てた。

「フッフッフ、センゴクがてめェを保護対象なんざにした理由はそこだろう。センゴクは拾った孤児を海兵にしちまうくらいにはお優しいが、なんだかんだ食えねェジジイだ。わざわざ目立つ肩書きを与えて、何の打算があるのか気になるじゃねェか!」
「孤児とか海兵とか何の話なんです? どうしてあなたがそんなこと知ってんですか」
「フフ! ちょっとした因縁でな。んなことより、質問に答える気はあんのか?」
「……」

 センゴクさん云々は気にかかるが、ともあれまずは返答を考えなくてはならないだろう。保護対象の所以がわたしのルーツにあるのは事実なのだが、問題はいつものアレだ。あまりにも荒唐無稽な"異世界"というワードである。信じるか信じないか以前に、舐めてんのかと思われてもおかしくない話だ。
 まあ、そうはいっても現状殺されることはないようだし、仮に教えたとしてもわたしが頭おかしいと思われる以外のデメリットは多分ない。ドフラミンゴと今後付き合いがあるわけでもなし、下手に嘘ついたりはぐらかして興味を持たれるよりはましな気がする。……ええい、ままよ。

「そのー……信じろとは言わないのでせめて怒らないで聞いてほしいんですけど」
「オイオイ、いつまで勿体ぶるつもりだ? 御託はいいからさっさと言えよ」
「なら言いますけど……実はわたし、ここじゃない別の――つまり異世界から来たんです」


 と、口にするだけなら簡単なのだが。

「…………」

  前髪の隙間からそろそろとドフラミンゴの表情を窺う。終始口と口の間に並んでたはずの白い歯が見えない。その時点でわたしは自分の軽率さを悟った。やっぱし言わなきゃよかった。ドフラミンゴはわたしを凝視したまま、文字通り閉口しているのである。この男の真顔が異常事態なのは確定的に明らか。ていうかブチ切れてるようにしか見えない。ぶわりと冷や汗が吹き出してくる。完全にやばい。まずい。

「ち、違うんです。いやなにも違わないんすけど、別にばかにしたとか調子乗ったとかじゃなくてですね。実際この話はセンゴクさんにもお伝えしてあることですし、信じられないのは分かりますけど一応わたしは本気で――」
「フッ」

 ふ?

 ドフラミンゴは顔を伏せている。何事かと凝視すれば、その肩が小刻みに揺れているのに気がついた。怒りのあまり震えてるとかいうのでなければ、……これは。

「フ……フ、フ……」
「あ、あの」
「フフ、フ、フフフ」
「ちょっと」
「フ――フッフッフッフ、フッフッフッ!」

 わ……笑ってるよ。感情がわからなさすぎて困惑しかないのだが、一体どこがどうツボにハマったというのやら。いよいよ堪えきれなくなったのか、ドフラミンゴは思っきし天井を仰ぎながら、豪快に大口を開けて器用にフッフと爆笑し続けている。ただただ怖い。なんというか、まあキレられるよりはましなのだが「フッフッフッフ!」……まだ笑ってい「フッフッフッフッフッフッフ!」……笑い止む気配はない。

 こ、……このやろう。段々腹立ってきた。フの音だってゲシュタルト崩壊寸前だ。確かに笑うなとは言わなかったけど、こっちは真剣に話してたってのに……。

「フッフッフッフッフッフッフッフッフッフ!」
「――ドフラミンゴさん! いい加減にしてください、一体なにがそんなに可笑しいんですか!」
 
 らちがあかない。痺れを切らしてソファから立ち上がりつつ声を張ると、ドフラミンゴはゲラゲラ笑いつつもようやくこちらに視線を寄越してくれた。

「フッフッフ! ナマエちゃん、相手がおれでよかったな。危ねェ危ねェ、あんまりつまらねェんでよっぽどその首と胴体を切り離してやろうかと思ったぜ!」
「はっ?」
「はぐらかすにしても他に無かったのか? センゴク相手にも言ったとは、フフフ! その度胸だけは買うぜ。全く壊滅的なユーモアセンスだ、一周回って笑えたがな!」
「んな……」

 ひ、ひどい。なんでわたしが渾身のギャグでスベったみたいな扱いを受けなくちゃなんないんだ。しかもちゃっかり命の危機だったらしい。不当だ、心外すぎる、冗談でこんなこと言うわけないだろう。わたしだって最初からウケ狙いならもうちょっと面白いこと言えるぞ。ってそういう問題でもない。

「はあ……もういいです」

 いまだに止まらないドフラミンゴの笑い声を聞きながら、色々とばかばかしくなってきて肩を落とす。下手に立ち上がってしまったおかげですごすご座り直すのもできず、わたしは黙って行き場のない足を揃えるしかなかった。靴も履いてないので床が冷たい。あーあ、なんだって今七武海を前にしてこんな会話してるんだろう。とにかく、自分の出自について軽率に話すのは今後やめにしよう。と、わたしはかたく心に誓ったのだった。

「フフ……あァそうだ、ナマエちゃんよ」
「なんすか」

 まだなんかあるのか。うっかり無愛想な返事をしてしまいつつ、目線が高くなったぶん近づいたドフラミンゴの顔を横目に睨む。

「もう一つだけ聞きてェことがある。今度はくだらねェ冗談はなしだ、イエスかノーで答えろ」
「くだらない冗談なんか一回も言ってないです」
「フフ、そうツンケンするな。簡単な質問だ。お前、"ジョーカー"って名前に聞き覚えはあるか?」
「――ジョーカー?」

 最近どこかで聞いたような。

 と反射的に答えそうになって、ギクリとした。ドフラミンゴは胡乱な表情を浮かべていた。相変わらずの薄ら笑いではあるが、バルコニーから鈍く差す光は、男の顔にある傲慢の陰を色濃く切り取っている。なんだ、この妙な雰囲気……。

「あの、それは一体」
「おい! 二度言わせるな、"イエス"か"ノー"かだ」

 ドフラミンゴは予断を許さない。ここにきてなんとなくいやな予感がした。ジョーカー、聞き覚えは確かにあるがなんだったか、こういう時に限って思い出せない。重要なことだったはずだ。もしかすると、ついでのように尋ねられたこの質問こそが、この男の本当の目的なんじゃないのか――

「黙るってことはお前、知ってるな?」

 いつの間にか伸びていたドフラミンゴの手が、緩慢に頬を撫でた。三日月型の笑みが目前にある。

 どくりと凍るような動悸がひとつ。


「――待っ」
「ナマエ!」


 その声はこの大広間に意外なほど反響した。

「え」

 わたしが声のした方へ振り返るより早く、ドフラミンゴがわたしを突き飛ばすようにしてガタンと後方に飛び退いた。その反動で床に投げ出され、うっかり尻餅をついてしまう。腰への追い討ちに呻く間も無く、わたしとドフラミンゴの間を立ち塞がるように、触れそうな程濃い白煙がどうと吹き込んだ。
 刹那白に染め上げられる視界、肩を勢いよく抱き寄せられる感覚、押しつけられたジャケットの肌触り、そして――強烈な葉巻の匂い。

「あ……」

 ようやく現実に引き戻された気がした。煙幕が引いて視界が開け、先ほどまでドフラミンゴが座っていた位置に十手の先が向けられているのを確認する。床に膝をつき、左手でわたしを抱え、七武海相手に物怖じもせず蛮勇を向けているひとりの海兵。紛れもない、スモーカーさんだ。

 スモーカーさん。今来てくれなかったらどうなってたことか。無意識のうちに抑えていた首を撫でる。よかった、まだわたしの頭と胴体は繋がってる。
 感極まって副流煙まみれの空気を胸いっぱい吸い込んでしまったが、悠長に命の無事と再会を喜んでいる場合ではない。ていうか普通におかしい。どんな手を使えば海軍本部からこんなに早くすっ飛んで来れるんだ。この人絶対入城手続きとかしてないぞ。

「ス、スモーカーさ……ぐあ!」
「ドフラミンゴ、てめェは一体どういうつもりだ……!」

 スモーカーさんが頭上で低く吼える。わたしの頭を物凄い力で押さえつけてくるので、らしくなく速い彼の心音が伝わってくる。切羽詰まる気持ちは分かるが、潰れたわたしの鼻の心配もして頂きたい。くるしい。それに、いくら海賊とはいえ、王下七武海相手に揉め事を起こしたら減給とかじゃ済まないのでは……ああどうしよう、次から次へと問題が増えていく。

「フッフッフ、いきなりご挨拶じゃねェか……」

 スモーカーさんの腕から這い出すようにして振り返れば、倒れたソファの向こうから、煙を払うようにしてドフラミンゴの姿が立ち昇る。わたしとスモーカーさんの姿を目に留め、男は面白いものでも見たかのようににたにたと口角を上げた。

「ン……お前、"野犬"スモーカーか! 噂に違わぬ無鉄砲ぶりだな、味方相手にそんなもん向けやがって……」
「てめェらを味方だと思ったことは一度もねェよ……! 大体先に手を出したのはドフラミンゴ、お前の方だろうが。こいつは海軍側の人間だぞ」
「フッフッ、そいつは悪ィな。偶然捕まえたそのかわい子ちゃんがお前らの愛娘だとは知らなかったんだ」

 なにを白々しく……。あ、今スモーカーさんも舌打ちした。あからさまな嘘だが、さっきの質問タイムの様子からしてドフラミンゴ相手に追求するだけ無駄だろう。スモーカーさんもそう判断したのか問い質すことはせず、十手を順手に持ち替えてわたしごと上半身を引き起こした。
 張り詰めた糸のような空気の中、わたしを庇ったままスモーカーさんは動きあぐねているように見える。お互いの一挙一動から目を離せぬ状況、だというのに、余裕綽々のドフラミンゴは悠長に視線を背けた。……足音がする。

「にしても……ずいぶん騒がしいご到着じゃねェか、ゾロゾロと余計なもん引き連れてきやがって」

 ドフラミンゴが指摘するなり、入り口の扉からどっと人が雪崩れ込んできた。先陣を切るのは、というか逃げるように飛び込んできたのは順当にたしぎ姉さん。そしてその後ろに続くのは、黒服の役人たち数名である。

「スモーカーさん、強行突破なんかしたらまた問題に……あっ、ナマエさん!」
「待て海兵! 貴様ら何処の所属だ!? 政府関係者といえど会議の参加者以外マリージョア出動は許可されておらんぞ!」
「なっ、待て、ドフラミンゴが何故ここに……!」
「海軍が監視しているのではなかったか!?」

 なんとなく頼りにならない役人さんたちは、予定外のドフラミンゴの姿に困惑している様子だ。同じくこちらの状況を察したらしいたしぎ姉さんは、海賊を警戒して刀に手を添えた。それを見て慌ててたしぎ姉さんを止めようとする役人たち。まずい、聖地で役人と揉め事なんか……ああ、頼むから降格処分とかやめて欲しい。いやほんとあとでセンゴクさんあたりにフォローしてもらえるといいのだが。

 ……と肝を冷やしていると。


「おっと……ごめんよ。そいつらの入城はおれが許可したもんで……始末書はあとで書かせるから、あんたたちは一旦引いてくれねェか」
「た、大将……青キジ!?」

 役人たちの間に割り入るようにして現れたのはクザンさんだ。海軍大将の登場に、さすがの役人たちも及び腰になっている。さすがだ。おかげでスモーカーさんとたしぎ姉さんの将来が救われた――のだが、いや待って欲しい、なんでクザンさんまで出てくる大ごとになってるんだ。みんな揃ってドフラミンゴの思惑にまんまと乗せられてるんじゃないか、という一抹の不安。
 案の定、ドフラミンゴは実に面白そうに笑いつつ、倒れたソファを跨いで一歩踏み出した。スモーカーさんの体が緊張する。その動きに伴い、クザンさんも静かにたしぎ姉さんの前へ出た。

 七武海と海軍大将。二人の大男が睨み合う。

「オーオー……! てめェの出る幕かよ、青キジ……大将に会議の予定はねェはずだぜ」
「あららら、火に油を注ぐつもりはねェんだがな……向こう見ずな部下にゃフォローが必要なもんで……」
「フッフッフ、ここまで来てしらを切るか? 青キジ、用事があるのはあの嬢ちゃんの方だろう」
「おれの"部下"だ、間違いねェよ……。お前さんこそ好き勝手してくれるじゃねェの。ここまで舐められちゃあ海軍の立つ瀬がねェよ」

 クザンさんはのらりくらりと躱しつつ頭を掻く。でも何か、いつもと様子が違う気がした。ドフラミンゴの言う通り、スモーカーさんたちのフォローだけならわざわざ彼が出てこなくてももっと穏便に済ます手があったはずだ。今回の件で政府からの小言も増えるだろうに、クザンさん、なんか……怒ってる、のか?
 途端、ドフラミンゴは出し抜けに笑い始めた。嘲っているとしか思えない態度に思わずビクついてしまう。こちらとの温度差は余りにも大きい。どういうメンタルしてたらこの面子と空気で笑えるんだ。

「フッフッフ! こいつはどういう冗談だ!? 揃いも揃ってガキ一匹に必死じゃねェか! フフ、大した心身掌握術だな。参考までにどうやってこいつらを洗脳したのか教えてくれよ、ナマエちゃん!」
「な……」
「構うなナマエちゃん。おいスモーカー、早くその娘連れて……」
「あァそうか。なんだ、その嬢ちゃんはお気に入りの慰安婦か? んなガキが相手とは海軍の連中も趣味が悪ィ……それともそんなに"良い"のか?」
「……!」

 クザンさんの顔が強張る。間髪入れず、たしぎ姉さんが弾かれたように刀を抜いた。今にも飛び出さんばかりの勢いだ。しかし今の発言はどういう……

「ドンキホーテ・ドフラミンゴ! 多方面に対する侮辱です、今すぐ撤回してください!」
「たしぎ姉さ……おふ!」
「……黙れ、天夜叉」
「ス、スモーカーさ、くるし」

 もがくわたしを気遣う余裕もないらしく、スモーカーさんの腕にはいよいよ力が篭る。いまいちドフラミンゴの言わんとすることがわからなかったのだが、たしぎ姉さんの様子からして相当な発言だったらしい。怒りのあまりかスモーカーさんの指が肩に食い込んでくるし、クザンさんの足元にさえすらうっすら霜が降りる始末だ。しかし当のドフラミンゴは可笑しくてたまらないらしく、なお一層高らかな笑い声を上げ、

「フフ! オイオイ、落ち着けよ。ここで戦争でも起こすつもりか――」

 ――と、そこで言葉を切る。

 役人たちの集団が再び騒然とし始めるや否や、彼らを割って現れたのは待ち兼ねた海兵の集団だ。センゴクさんを先頭に、続くおつるさん、奥の方にはヒナさんもいる。よく見たらくまさんもだ。
 目眩がするほどの勢揃い。わたし完全に場違いすぎて塵になりそうだ。しかしこの現場はセンゴクさんたち的にも予定外だったらしい。そりゃそうだ。センゴクさんはクザンさんを見、ドフラミンゴに視線を移し、最後にわたしとスモーカーさんを確認すると、眉間を抑えつつ深々ため息を吐き出した。

「貴様ら、一体何をしている……」

 ……心中お察しする。

「フフフ! よォ、センゴク。なァに、少しばかり愉快なガキを拾ったら、どうもあんた公認の保護対象とやらだったらしくてな。フッフッフ」
「くだらんマネをするな、海のクズが……」

 え、センゴクさんらしからぬ口の悪さなのだが。ドフラミンゴがそこはかとなく胸糞悪い奴なのはわかるし、そもそも相手は海賊なのだが、それにしてもなんというか……やたら喧嘩腰というか……。
 とそこで、本調子でないセンゴクさんに代わっておつるさんが前に出る。たしぎ姉さんとクザンさんを追い越し、彼女は誰もが入るのを躊躇いそうな部屋の中央につかつかと歩みを進めたかと思うと、あっさりとドフラミンゴの正面に立った。おつるさんの実力を疑うわけではないが、お一人で大丈夫なのだろうか。あのピンクのモフモフに比べると、おつるさんの背中はどこか小さく目に映る――

「叱られたくなかったらおやめ、ドフラミンゴ」
「……!」

 って、えっ。

「この惨状はあんたの仕業だね。あんたから目を離したのはこちらの落ち度だから咎めないが、あたしの弟子に手を出したら承知しないよ」
「……弟子だと?」
「ああ。それにあの子は"保護対象"……正式に海軍が管轄してる相手だ。ここで不利になるのはあんたの方だよ。それとも、この場で"いい子"にさせられたいかい?」

 わ、わ……我が師匠、なんてかっこいいんだ。

 あの悪逆非道のドフラミンゴを相手に、まるで悪戯っ子を諭すかのような対応。余裕たっぷりの脅し。そして当のドフラミンゴ、あんだけ強気だったくせ、おつるさんが出てきた途端借りてきた猫のように大人しくなってしまった。
 なんということだ、一瞬ハラハラしてしまった自分を殴りたい。大参謀の名前はやはり伊達ではないのだ。あとおつるさんにとってわたしって保護対象の前に弟子なんだな……ってなんかこんな時にあれなのだが感激してしまった。一生ついていきます。

「フフ、あんたにゃ敵わねェな、おつるさん」

 恭順を示すようにドフラミンゴの両手が挙げられる。一瞬、目が合った気がした。

「……あんたの弟子と知っちゃ滅多なことはできねェ、おれはこの件から大人しく手を引くぜ」
「そうかい。ならさっさとこの部屋を片付けな。じきに会議の開始時間だよ――ほら、さっさとしな!」

 おつるさんの鶴の一声に急き立てられ、固まっていた役人たちが一目散に動き出す。

 そうしてこちらに駆け寄ってきたのはたしぎ姉さんと遠くにいたヒナさん、そしてらしくなく表情の硬いクザンさん。十手を下ろしたスモーカーさんとようやく視線が合う。締め殺さんばかりだった彼の腕が思いやりを取り戻してくれたので、わたしはやっと肩の力を抜いたのだった。

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