No Smoking


▼ 31-2/3

「ただいま帰りましたあ」

 ドアを開けていつになく大きな声でご挨拶。普段から人が居なくても言うっちゃ言うのだが、今回は特に気合を入れてひとつ。というのも、先ほど合鍵を差し込む前にドアの錠が空いてることに気づいたためである。つまるところ珍しくスモーカーさんがお早めな帰宅をなさったらしい。それにわたしの帰りもやや遅かったのが重なってなんともう7時前だ。帰り道、夕日が目に刺さりまくり眩しかったのなんの。

「スモーカーさーん?」

 靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて薄暗いリビングの方へ。いつものソファに後ろ姿を見つけられず、はてと辺りを一周見回すと、レースカーテン越しにベランダの影が動いたのが目に留まった。スモーカーさんなのは確実だが……何してんだろう。今日は洗濯物も干してないから特に問題はないけども。

 ベランダの方へ向かいカーテンをそっと開くと、正義の二文字が日陰の中にくっきりと浮かび上がっているのが分かった。スモーカーさん、やはりここにいたらしい。彼が手繰る葉巻の煙が、糸のように撚り合いながらまっすぐ空の方へ登っていく。夕凪というやつだろうか。スモーカーさんがこちらに気づいたらしく、ほんの少し振り返って横目にわたしを一瞥した。葉巻と口元に添えられた手でいまいち表情は見えないが、やんわりと細められた目元はわたしを歓迎してのものに見えた。
 ガラス戸を開いて、隙間から身を滑り込ませて外に出る。風が無いとはいえ、この部屋は西日が差さないので今の時間帯はそこそこ肌寒い。襟元をかき合わせつつスモーカーさんの隣に駆け寄ると、彼は煙混じりにようやくわたしへ「お帰り」と声をかけてくれた。

「玄関からの声聞こえてたんですか」
「あんだけでかい声で叫ばれちゃな」
「あはは、でもスモーカーさんにしたってずいぶん早いお帰りですね。何してたんです?」
「ん……まァ、ちっとな」

 言い淀んで、スモーカーさんはまた緩く煙を吐いた。彼が口にする葉巻は結構短くなっていて、わりかしもうすぐ火が消えそうである。まあ、そうなればこの人のことだから、どうせまた新しい葉巻を取り出すのだろうが。

「……」

 スモーカーさんはベランダの手すりに腕を引っ掛けて、静かに遠くを眺めている。建ち並ぶ家々の隙間に海が見えた。昼間に比べると精彩を欠いた水平線だ。夢中になれるほどのものではない。

「あの……なにかあったんですか」

 ガラス戸を後ろ手に閉じつつ尋ねてみる。

「何かってェと?」
「別に、特に具体的なことはないですけど。なんかちょっと黄昏てるみたいなんで」
「……何もないつったら嘘になるが、大した問題じゃねェよ。ただ、多少面倒なだけだ」
「ふうん」

 スモーカーさんは曖昧なことを言う。彼が具体的な説明をわたしにしてくれないのはいつものことではあるのだが、それをどこか歯痒く感じてしまうのは贅沢な悩みだろうか。や、彼の仕事柄ペラペラ話すわけにもいかないんだろうけどさ。
 スモーカーさんの隣に立ち、わたしには高すぎる手すりへ腕と顎を乗せる。景色には面白味がないし今のところ会話もないが、かといって今すぐ夕飯の支度を始める気にはなれなかった。部屋にこもらないぶん、葉巻の匂いもそれほど鼻につかない。てかスモーカーさん、ありがたいけどなんでわざわざ外で吸ってんだろう。なんかこの頃、彼が喫煙してる姿を見る機会が減っているような気はしないでもないが――。

「もしかして……なんですが」
「あァ、なんだ」

 スモーカーさんはあらぬ方向を眺めたまま、わたしの体感ではだいぶ上の空な返事をする。考えごとの邪魔かもだが、わたしにとっても命に関わる重要事項である。一応これだけ尋ねておこう。

「スモーカーさん、最近葉巻控えてます?」

「……」

 スモーカーさんが口を開いたので、てっきり返答が聞こえるかと思いきや、脱力と共に吐き出されたのは薄暮と同じ色をした紫煙のみである。目に入るのはだいぶ唖然とした感じの横顔だ。具体的には「いきなり何を言い出すかと思えばこいつ気づいてなかったのか」という感じだ。

「なんですか。自分が蛇蝎の如く嫌ってる物ことなんか極力考えないほうが精神衛生上いいに決まってるでしょう、折角目につかないのにどうしてわざわざほじくり返さなくちゃならないんですか」
「別に……なんも言ってねェだろう」
「けどよくよく考えてみればですよ。服に着いた残り香とかには正直言って何も変化を感じないから気付きませんでしたけど、最近あんま灰皿の掃除とかリビングの消臭とかに苦戦しなくなったなとは思ってたんです。となると、まじに本当に喫煙減らしてるんですかスモーカーさん」
「……」
「沈黙は肯定と見なしますよ。そうか……わたしの技術の向上がめざましすぎるわけではなかったんですね。いやだって、まさかスモーカーさんが葉巻を控える可能性なんて万に一つもあるとは思いませんって。というかどういう心境の変化なんですか。わたしが日夜喫煙の有害性を説いた努力がようやく実を結……」
「あのな」

 ぺらぺら喋っているとそこでスモーカーさん、やっとまともにこっちを見た。がっつり潜められた眉間が、彼の感情の機微を実に分かりやすく示してくださっている。

「おれァ葉巻を控えてるんじゃねェ、お前の目に付くところで吸わないだけだ」
「はい?」
「……お前の日頃の主張はともかく……おれはんな怪我をした奴に煙を呑ませるほど無神経じゃねェよ」
「えぇ……?」

 いやいやスモーカーさんは(特に喫煙に関しては)結構無神経だぞ、という文句はさておき――今の発言を省みるに、どうやらこの人は、こないだ根性焼きを山ほどこさえてきたわたしに遠慮して吸っていないだけということ……らしい。ということはだ。

「つまりわたしのためってことですか」
「言っておくが、お前に恭順したわけじゃねェぞ」
「だとしてもですよ、ちょっと有り得ませんね。明日辺り天変地異が起こるかもしれません」

 スモーカーさんはこの上なくうんざりした表情で目を逸らし、明後日の方向にもくもくとため息を吐き出した。やり甲斐ねえなって感じの態度である。
 でもわたし、確かにあのとき押しつけられた煙草の甘ったるい匂いは若干トラウマではあるが、スモーカーさんのそれとは全然同列に捉えたことがなかったので、なんというか意表を突かれた感じなのだ。言われてみれば普通なら気になるかもしれない。そりゃどっちも憎らしくはあるのだが、そこはほらベクトルが違うというか……。それにわたしがあれだけ口酸っぱく言ってもこたえなかったくせに、あの海賊たちを意識して(何か違う気がする)葉巻を控えたとなると、ちょっぴり複雑である。とはいえしかし、スモーカーさんが他人を意識して自粛するなんて事実があるだけで十分とんでもないのであるが。

「まあ理由はその……ともかくとして、ありがたいですよ。一応禁煙には詳しいので、わたしに協力できることがあれば仰って下さいね」
「協力ね……」
「スモーカーさんの名誉のためにあんまり言わないでいましたけど、煙草依存の原因はニコチン以外にも口唇期固着というものがありましてですね。口に何か咥えてないと落ちつかないから吸うんだとか。だからそういうタイプの方にはキス魔が多いとも言います」
「……」
「そんなわけで口寂しいと思うんで、以前量産した禁煙飴くらいなら差し上げられますよ。他に欲しいものあれば、手の届く範囲ならなんでも……ぐわ!」

 言いかけると、いきなりスモーカーさん、わたしの頬を挟むようにして顎を引っ掴んできた。上半身を残して後じさりしつつ、ぱちりと瞬きして彼を見る。かくいうスモーカーさんときたら腹立ててるのかと思うほど完膚なきまでの無表情。なんだなんだ一体。

「あ、あの……?」
「相手がおれだからいいがな、そういう台詞は何求められても文句ねェときだけ言え」
「は? どういうことですか」
「てめェの発言をよくよく思い返すんだな」

 それだけ言うと、スモーカーさんはわたしの顎を振り払うように手を離し、再び憂鬱そうに葉巻をくゆらせつつ視線を風景へ投げてしまった。
 痛くはないが、なんとなく掴まれた頬をさする。うーん……わたし、そんな咎められるようなこと言っただろうか。やっぱ遠回しに乳離れできてないですよといったニュアンスのことを言ってしまったのがよくなかったろうか。いや、でも多分スモーカーさんそんなこと気にしてないよな……ええとわたし、さっき何言ったっけ。口寂しさの話と、禁煙飴の話と、あとは……。

「ナマエ」

 頑張って思い出してたところにいきなり声をかけられ、引き出しかけていた記憶が霧散する。ああもうまったく、思い返せって言ったのはスモーカーさんのくせに。と恨めしく思いつつ見上げると、彼はほぼ燃え滓になった葉巻の先を革手袋越しの指で揉み消しながら身を翻した。どうやら部屋にお戻りになるらしい。

「話しておきたいことがある。付き合え」
「それは構いませんけど」
「除け者にされて不満そうだったろう。面倒ごとの内容を教えてやるから拗ねるな」
「す、……拗ねてませんよ別に」

 別にほんとにそんな拗ねたりしたつもりはないぞ、失礼な。とはいえ、さっき微妙な感情を抱いていたのがばれていたというのは少々恥ずかしいところだ。最近わたし、前より図々しくなってきてるような気がしなくもない。よくない傾向だ。あんまり面倒くさいこと言ってスモーカーさんに愛想を尽かされないよう、改めて気をつけなくては。
 スモーカーさんがガラス戸を開けたので、彼の背中を追ってリビングに足を運ぶ。外気に晒された指先が冷えてきたので、戻るにはちょうどよいタイミングだ。しかしわたしに話しておきたいことって一体なんだろう――。

 戸を抑えてくれたままのスモーカーさんの腕の下をくぐる。わたしの背を押すように吹き込んだ一陣の風が、悪戯にカーテンを巻き上げた。

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