No Smoking


▼ 29-2/3

「は〜……ぁあ」

 でかいため息を深々と吐き出す。

 右手に鉛筆、左手に消しゴム、正面にはメモ用に纏めた紙の束。書類整理が一段落ついたので最近始めたとある日課に取り掛かるものの、いまいち身が入らないわたし。なにせ今日はとある事情により、ちょっとばかしおセンチな気分なのだ。
 そこで同じく書類に顔を突き合わせていた向かいのクザンさんは、どうやらわたしのため息を耳聡く聞きつけたらしい。もしかすると書類仕事の手を止める口実を探してただけかもしれないが、ともかく彼はわたしのため息に反応してひょいとおもてを上げた。

「どうしたのよ、ナマエちゃん。さっきから妙に元気ないじゃねェの」
「そうなんです、ちょっと聞いてくださいよ」
「おう」
「今日、なんの日か知ってます?」

 勿体ぶって尋ねれば、クザンさんはほんの少し考えるそぶりを見せてくる。しかしどことなくわざとらしいんだよなあ。しかもこれ、恐らくはいつものあれだ。例のろくなことを考えてない顔だ。そしてわたしのこういう予感はだいたい当たるのだ。

「んん……そうかナマエちゃん、おれァ分かってたぜ。つまりお前さん、今日は"あの日"――」
「違います。それセクハラですよクザンさん」

 言うと思ったよこのおっさんめ。全く、この血色のいいわたしのご尊顔を目ん玉ひん剥いてよくよく拝してほしいもんだ。もしかするとこういう返しを若干予想しつつも話を振ったのが悪かったのかもしれないけど……いやいや、やはり悪いのはどう考えてもクザンさんの発想の方である。わたしにはなんの落ち度もない。
 閑話休題、肝心の本題である。別にクザンさんに言わなくてはいけないことではないのだが、雑談でも筋立てというのは大事なのだ。というわけで、またこのおっさんがあほなことを言い出す前に咳払いをひとつ。

「じゃなくてですね。今日……というか今朝、ヒナさんが海軍本部を出航されるとのことで、港の方行ってお見送りしてきたんですよ」
「あァ……ヒナちゃんの転属今日からだったか。お前さん、結構仲良いたァ聞いてたが……それで落ち込んでんのね」
「そうです。わたしは寂しいです。すぐに再会できるって話ですけど、それでも今までのようにはお会いできなくなるでしょうし」

 前々から何度か話には聞いていたものの、実際に去って行ってしまうまで実感というのは湧かないものだ。仲の良い方との本格的な別れというと、ここに来てからはわたしにとって初めての体験だったので、なんというかちょっぴりしんみりしてしまったし。とはいえ「禁煙がんばってくださいね」とは、別れの言葉としてはあんまり適切じゃなかったような気もする。このナマエ、唯一の反省点だ。

「――つっても、海兵なんて基本的にそんなもんでしょ。上の指示であっちこっち駆けずり回ってよ……」
「そうですか? なんかわたし、どっちかというと皆さん、言うこと聞かないからって机仕事させられてるイメージが強いんですけど」
「はは、そりゃスモーカーんとこくらいだろ」
「クザンさんもですよ」
「……」

 完全に他人事だったらしく一瞬黙ったクザンさん。今ご自身の周りに積まれている永久に終わらない書類の存在をお忘れとは困ったものである。

「……まァ確かに、ナマエちゃんが来てから珍しく本部の動きが少ねェもんな。他の連中はなんだかんだ言ってもここが拠点なわけだし」
「そうですよ、お仕事だから仕方ないとは言え寂しいものは寂しいんです。わたしは来るものは拒みませんが去るものは全力で引き止めたいたちなので」
「そりゃ意外……ってわけでもねェか。無頓着に見せかけて寂しがり屋なのがナマエちゃんの可愛いとこだしな」
「そう言われるとなんか微妙に嬉しくないですね」

 といった調子で適当にクザンさんと言葉を交わしつつ、題字を思い出すごとに手元のメモへ項目を書き加えていく。完成を急ぐつもりはないので焦らずのんびりとやっているのだが、それでも手を動かしていれば量は増えるというもの。本日5枚目ほどになるそのページをぺらりと一枚めくる。

「そんなナマエちゃんに良い報せがあるぞ」

 ペンをくるくる回しつつ次の話題を出してくるクザンさん。会話をするのはやぶさかでもないので、わたしも作業の片手間に返事をかえす。

「ふーん、信用なりませんね」
「あららら、手厳しいじゃないの」
「普段の行いのせいですよ。自分の胸に手を当ててしっかり反省してください」
「んん……気が向いたらな。んで肝心のお報せなんだが、ちょうどナマエちゃんが大好きな"本部が拠点じゃない奴"が戻ってきてるぞ」

 ふむ、なにやらクザンさんもクザンさんで勿体ぶった話し方をしてきなさる。こういうのが大したことのない雑談を無闇に引き延ばすためのちょっとしたコツだ。こう毎日顔を突き合わせていると、お互いにそういう努力も欠かせなくなるのだ。
 はてさて、そんなことより彼が言ってるのは誰のことなのか考えてみるとしよう。ともあれ、わたしの好きな本部所属じゃない方となると、結構絞られるどころかほぼ一人しか思い当たらないのだが――

 と、タイミングよく次の瞬間、唐突に聞こえた遠慮のない足音。……に間髪入れず続いたパシンと襖を叩き開ける音。反射的に振り返ってみると。

「青キジの大将! この辺にくま公のやつ来てねェか!?」

 あーそうそう、いかにもこんな感じだ。というかまさしく本人だ。真っ赤な腹掛けにおかっぱ頭、背中に巨大なまさかりを担いだまんま金太郎スタイルの大男。こんな出で立ちが似合うのはこの世にただ一人、その名も戦桃丸兄貴くらいなのである。

「お……噂をすればってやつじゃないの」
「暫くぶりです、兄貴」

 慌てふためいて現れた兄貴に対し、クザンさんとわたしと二人揃って悠長なお手振りを返す。かくいう兄貴はわたしの存在が予想外だったらしく、こちらを見るなりぱちりと目を瞬かせた。

「ん!? ナマエ? 何してんだおめェ、ここで」
「何してんだもなにも、わたしがクザンさんとこのお手伝いをしているのはご存知でしょう」
「そういやそうだった。……けどそれも仕事ってわけじゃねェだろ? 何書いてんだ?」
「これですか」

 部屋の中に歩み入ってきた兄貴に指摘され、手元へ視線を落とす。いくつかの見出しとざっくりとしたあらすじ、ついでにちょこちょこ添えられたイラスト。この上なくわかりやすいメモである。戦桃丸兄貴も気になったらしく、ソファの横で立ち止まると興味ありげにわたしのメモを覗き込んできた。さっきまで慌ててたのにこっちのペースに乗っかっちゃっていいのだろうか。……まあ兄貴がいいならいっか。

「えーとですね、これは最近若干物忘れが激しいので、わたしの故郷のことを覚えてるだけ書き出してみてるんです。今日書いてるのは昔話編です」
「昔話? なんだこのおむすびころりんってのは……ここに描いてあんのはなんだ? 妖怪……か?」
「どうしたらこれが妖怪に見えるんですか、どこをどう見たってネズミじゃないですか」
「えっ」

 わたしの画力に感嘆したのか、突如絶句する兄貴。なにやら実務机の向こうから、クザンさんがほらな? みたいな視線を寄越してきているが、一体何の同意を求めてんだろうか。それを受けて兄貴、目線を彷徨わせつつ絞り出すように声を発する。

「おめェあれだな、意外と……」
「意外と、なんですか」
「いや、わいの口からはとても言えねェ。例え思っていたとしても面と向かって絵が下手ってのは流石に」
「思いっきり言っちゃってるじゃないすか。ていうか全然下手じゃないですよ、ほらこれとか結構いい感じに描けてますし」
「これ? ……こいつはなんなんだ?」
「喋る臼です。猿をオーバーキルする役どころです」
「……」

 兄貴はなぜか助けを求めるようにクザンさんを見やった。なんかわたしがおかしな子みたいな扱いになってる気がする。不本意である。何かがおかしいのは分かるが猿カニ合戦ってのはそういう話なのだ。その上クザンさん、さっきまでは面白がってたくせ、自分が喋る段になると途端に言葉を濁し始めおった。

「んん……ま、ナマエちゃんはわりとなんでもそつなくこなすからな。苦手なことの一つや二つあってもいいんじゃないの」
「別に苦手なつもりもないんですが」
「あ〜……いやホラ、お前さんの絵はちょっと味があるっつうか、個性的っつうか……だから、な?」
「な? ってなんなんですか」

 なんかものすごく失礼だぞこの人たち。クザンさん、わたしがこのメモを書き始めた数日前から内心そんな風に思ってたのか。ひどい。クザンさんなんか猿とか犬とかと一緒に鬼退治にでも行ってりゃいいのだ。それに多分、この人たちと現代日本人とは美的感覚が違うというのもある。カルチャーショックだかジェネレーションギャップだかそんな感じのやつだ。

「で、戦桃丸……"くま"がどうしたって?」

 クザンさんは露骨に話を逸らしてきたが、しかし兄貴にとっては肝心の本題だろう。茶々は入れずに見守ることにすると、兄貴は「あァ、そうだった」と困ったように頭を掻いた。

「それがちょっと不味いことになってんだ。昨日、定期召集前にPX-0の試運転しておこうって話で、わいが奴を護送してきたんだが……あの野郎、本部に着いた途端まだ日があるからってどっか行っちまって。昨日町の方は捜索したんだけど結局見つかんなかったんで、今本部も虱潰しに探してるところだ」
「あららら……お前さんも大変だね。となるとくまの奴、もうマリンフォードにはいねェんじゃないの」
「確かにくま公の能力を考えるとあり得ねェ話じゃねえけど……だが、せっかく護送してきたのにそれじゃ、わいの働き損じゃねェか……」
「まあまあ……とにかくくまなら大丈夫でしょ。海軍と仲良くする気はねェらしいが、あいつは政府の指令となりゃちゃんと従いはするからな」

 ふむ、はっきり言って話には1ミリもついていけてないが、しかしどうしても一つ気になることがある。むしろ今の話を聞いて気にならない方がおかしい。彼らの会話が一段落付くタイミングを見計らって、兄貴の腰布の裾を引きつつ声をかけた。

「ねえ兄貴、くまって……本物の熊ですか?」
「? 当然だろ。わいが連れて来たんだから」
「そうですよね。兄貴といえば熊、熊といえば兄貴って相場は決まってますしね」
「流石にそこまでじゃねェと思うけど……」
「ていうか、その熊って話せるんですか?」
「うーん……話せるやつかって言われたらそうでもねェが、そりゃあ最低限の会話はするぜ」

 なるほど、まあこの世界なら喋る熊が居たっておかしくはないだろう。猛獣が逃げ出したとかいうやばい事態なのに少々悠長すぎる気はしたが、言葉は通じるみたいだし。
 それにしても戦桃丸兄貴、数ある動物の中であえての熊セレクトとは。手元のメモの『金太郎』の文字をなぞってから、不躾ながらじろじろと彼の頭てっぺんから爪先までを改めて見る。この格好に加えて熊……なるほど、名前はどっちかと言えば桃太郎だけどやっぱりそういう……でもあれは史実だし、他人(?)の空似みたいなもんなのかなあ……。などと邪推していると、彼はわたしの視線を受けて居心地悪そうにたじろいだ。

「な、なんだよ」
「やっぱ相撲とか取るんですか」
「は?」
「いえなんでもないです。こういう偶然の一致はどの世界でも起こりうるんでしょう、きっと」
「何言ってんだナマエ?」
「こっちの話です、忘れてください」

 ぱたぱたを手を振って適当に誤魔化すと、兄貴は訝しげに首を傾げつつもまあいいかと聞き流してくれた。今はそんな与太話よりも本題の方であるらしい。

「とにかく……大丈夫だとは思うけど、くま公を見かけたら下手に声かけたりせず、わいとか青キジの大将とか他の海兵でもいいから伝えてくれよ」
「勿論です。わたしも命は惜しいですからね、見つけたら速攻逃げますよ。最悪、死んだフリとかで対処しますんでご心配なく」
「死んだフリって、おめェな……」
「ナマエちゃん、なんか勘違いしてるような気もするが……まァひとまず、妙なことに関わらなきゃ問題ねェってことだ。……」

クザンさんはおざなりに会話に入ると、暫し間を置いてから何かを思い出したようで、少し厳しい表情をこちらに向けてきた。なんだろうか、と首を傾げる。

「……お前さん、もう関わってりゃしねェよな?」

 一瞬でえ、という顔をしてこちらを振り返った兄貴。わたしがトラブルメーカーだとでも言わんばかりの視線が二つ、息を飲むようにこちらを向いている。いやいや、いくらなんでも心配しすぎだ。

「いやいやまさか、さすがに気づきますって」

 と、クザンさんの問いに苦笑を返す。するとお二人は分かりやすく安心したような顔をして、「ナマエちゃんなら知らない間にやらかしててもおかしくねェからな……」とか「こいつ、変なとこで物を知らねェし」とか非常に失礼な会話をし始めた。この方々、再びわたしの実年齢を忘れつつある気がするぞ。まったく、そんな熊とかいうでかめの猛獣に出会ったのに気付かないようなあほがこの世にいるはずないだろう。ばかにしちゃいけない。

 ……ん?

 そうしてから、わたしの頭にふと思い浮かんだ昨日のあの出来事。……まさか、あれは妙なことのうちに入りはしないだろうな。うーん、でもあれ熊どころか人だったし、口振りからして関係者ぽかったし、悪い人じゃなかったし、大丈夫だろう。今日もあそこにいるのだろうかとぼんやり思い浮かべながら、わたしはクザンさん達に抗議すべく、再び雑談に参加するのだった。

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