No Smoking


▼ 28-3/3

 夜の帳がすっかり下り切った頃。外の空気を吸いたくなり、わたしは一人喧騒を抜けてだだっ広いバルコニーに足を運んでいた。

 手すりに置いた両腕に顎を載せる。そろそろ二次会への連れ合いが定まってきたのか、会場の活気は下火になってきており、当然こんなところに人の影はない。はあ、料理を取ったら適当に切り上げようと思っていたのに、うっかり船に戻るタイミングを逃してしまった。まあどうせこちとら海軍の警備のお仕事が終わるまでは帰れないのだ。閉場までせいぜいゆっくりさせていただくとしよう。
 欄干から見下ろす海は、折り重なる絹布のように黒々と凪いでいる。上空では三日月がうっすらと暗闇を引っ掻いているものの、海を照らすほど目映くはない。その代わり夜空へ纏わりつくように棚引く雲ときたら、白で縁取られたような鮮明さだった。しかしなんとなく視界が霞む……と思っていたが、これはどうも霧が立ち込めてるせいらしい。夜霧とはまた、珍しいことだ。


「――こんにちは、レディ」

 やにわに背後から聞こえた親しげな声。周りには誰もいないので、十中八九わたしのことだろう。
 それにしても、今日はよく人に声をかけられる日だ。まあそういう場所だから当然ちゃ当然なのだが、おちおち息抜きもできないとは……とちょっとばかりの面倒くささを覚えつつ、わたしはのろのろと背後を振り返った。

「あ……先ほどはどうも」

 外灯がないため、会場から漏れ出す灯りのみを頼りに彼の顔を確認する。たしかついさっき、わたしに話しかけてくれた若い男女の一団に紛れていた人だったはずだ。わたしより2、3は年上に見える(ということは同い年くらいだろう)身なりの良い兄ちゃんは、愛想のいい笑顔を貼り付けながらわたしの左隣に並び立った。

「今夜は楽しんでる?」
「まあ、思ってたよりは」
「はは、素直だね。こういう場に来るのは初めて?」
「分かります?」
「なんとなくね。なんといっても見ない顔だから……君みたいな綺麗な子を見逃してるはず無いのに」
「お上手ですね。……今日は一応、仕事で誘われてきたんです。ちょっと場違いで気まずいんですが」

 返事を返しつつも、あまり会話の内容は頭に入ってきていない。ふと、薄靄の向こう、バルコニーの下の街路を1組のカップルが歩んでいくのが目に入った。このパーティーで見繕った相手なのだろうか、などと邪推をする。そのうち、彼らの姿は道の奥に進むにつれて白く霞み、やがて影すら見えなくなってしまった。……段々、霧が濃くなってきている。

「そろそろこの会も仕舞いだね」

 そうみたいですね、と相槌を打つ。というか今何時くらいなんだろう……分かってたことではあるけど帰宅はそこそこ先になりそうだ。帰島してからも夜道を歩くので気をつけなくては。

「君はいつまでここに?」

 たぶん、撤収が始まるまでは残りますよ、と返す。てかこの兄ちゃん、終わりがけにしてはずいぶん悠長だな。折角の会合なのにこんなとこで油売ってていいのだろうか。さっきのご友人もいるだろうに――

「そう。あのさ、この後時間ない?」

 ……ん?

 はた、と反射的に彼の方を振り仰いだ。視線の先にあるのははなにやら期待するような顔。あれ、待てよ。まさかこれ、もしかしてもしかする……のだろうか。

「ええと、この後……というと」
「パーティが終わったあと。予定がないなら遊びに行かないか誘おうと思ってね。なんなら今すぐにでも僕は構わないんだけど」
「……なにをするんです?」
「酒を飲んだり、音楽を聴いたり、お互いのことを話したり、そういうことをするのさ。君のことを知りたいんだ。どうかな」

 く、くど――口説かれている。思わずぱちぱちと眼を瞬いていた。社交辞令かもしれないけどやっぱ間違いなく口説かれてるぞわたし。
 すごい、惚れた腫れたはこちらの世界に来てこのかたすっかり縁のない話だったのに、今になってなんだっていきなり。あれか、これがクザンさんの言う"化けた"……ってことなのだろうか。この兄ちゃん、当然のようにわたしはお酒を飲めると思ってるし、つまり二十歳より上に見られてることは確実である。やった、今まで外見が小学生だからと一目見てそういう対象外にされてきたわたしがついに……! ああ、なんか光明が見えてきた……この世界じゃロリコンしか寄ってこないと思ってたけどやればできるんだよわたしは。ありがとう今日の演出を担当してくれたおつるさん、わたしはこれからも強かに生きていきます。

「……どうかした?」
「あ、いえ。ただちょっと嬉しくて」
「そう? それは良かった」

 何か勘違いがありそうな気がするものの、若い兄ちゃんはどこか得意げに相槌を打った。まあいいか、別に嘘をついたわけじゃないんだし。
 そんな風に会話と時間が流れるにつれ、バルコニーを覆う霧はますます濃さを増してゆく。マリンフォードではこんな風な濃霧がかかることはないのだが、ここの土地柄なんだろうか。すいと宙空に手を泳がせると、白い粒子は重々しく流動して渦を巻いた。

「ずいぶん霧が濃いんですね」
「そうかな」
「ここではいつもこうなんですか?」
「ときどきだよ」

 彼は興味を持てないようにそう返す。そんなことよりもわたしの応答が気に掛かるようだった。

「ねえ、返事を聞かせてもらえる?」
「んー……そう、ですね……」

急かすように問われ、間を稼ぐべく曖昧に相槌を打った。さて、どうしたものか。

 悩む前から、手すりに置いた手にずしりと霞がのしかかってくるのを感じていた。引き留めるように纏わり付いてくるそれが、まるで意思を持っているかのような錯覚を覚える。こう感じてしまうということは、わたし、多分あんまり乗り気じゃないんだろうなあ。
 ……まあ、元より進んで付き合うほどの気力は残っていないし、おつるさんたちのこともある。この場ではとりあえず断っておくことにして、連絡先を交換するくらいでいいかもしれない。少しばかりきざだけど、悪い人じゃなさそうだし。

「ありがたいお誘いですが……」

 と、改めて断りを入れる前に、わたしが了承したと取ったのか、それともやや強引に引き止めようとしたのか――彼は「ねえ」と口にして、手すりに置いたわたしの左腕にそっと手を重ねた。握る手がドレスグローブの布地をくしゃりと歪める――

 それは特に危なげのない仕草に見えた、のだが。

「っあ」

 瞬間、反射的に血の気が引いた。うなじの辺りがぞわりと粟立ち、指先が緊張で引き攣り、治ったはずの傷跡が思い出したような疼きを上げる。
 おかしい、なんでいきなり――彼に害意がないことは分かってるし、なにより傷のことは既に克服したものとばかり思ってたのに。

 咄嗟に腕を引こうとするも、手首をぐいと掴まれて止められる。わたしの腕の強張りが伝わっているのかどうなのか、彼はこちらの現状にそぐわない嬉々とした様子でわたしの顔を覗き込んできた。

「どうしたの。緊張してる?」
「いえ、その、違くて」
「大丈夫、恥ずかしがらないで」

 な、何を言ってるんだこの人は。訂正した方かいい気はするのだが、焦りのためか上手く言葉が出てこない。下手に心拍数が上がってしまっているせいで何を言っても勘違いを招きそうだ。
 知らない指の感触がドレスローブ越しに腕の上を這う。抜き身のナイフを押し当てられているかのような緊張感を覚えているわたしに反し、彼の手つきは浮かれきった和やかさだ。顔を上げられずに唇を噛み、俯いて何とか耐える。ああ、もう、どうして気づかないんだ。来てくれるよねとか送るからとか遅くなったら泊めるよとか、耳元で何やら頓珍漢な誘い文句を囁かれているのを、上手く処理できずに適当な相槌で応えそうになる。どうしよう、このままじゃいけない。

 とにかく、手を離してもらわないと――


「――失礼」

 刹那、低い振動が背中を伝って聞こえた。

「な、……」

 わたしと名も知らぬ男の子の当惑の声が重なる。瞬間、まるで初めからそうしていたかのように、左肩に手のひらの重みがあるのに気がついた。わたしの背中を支える気配があった。若い兄ちゃんの釘で打たれたような視線が、わたしの頭上辺りに向いていた。

「取り込み中のところ悪ィが……付け入るようなやり口は頂けねェな」

 覚えのある声、言い回し、そして香り。周囲の霧がざらざらと背後に流れているのが分かる。そんなまさか、彼がこんなところに居るはずがない。
 こちらが状況の把握に手間取っている間にも、見慣れた革手袋はわたしの肩から二の腕、やがて前腕へと下っていく。今度こそ拒絶はなかった。そうして彼の手は人差し指から小指にかけて爪弾くように動き、妙に丁寧な仕草で青年の手を払い落とした。

「あ」

 解放された途端、自由が効くようになった腕を反射的に引っ込める。同じく男の子も退けられた手をびくりと跳ね上げ、わたしの頭越しに彼を見上げたまま、怯えるように目を剥いた。

「な、なん、お前……!?」
「見ての通り、そいつにゃ先約があるんでね。この場はお引き取り願いてェんだが……お坊ちゃん?」
「ひ……ッ」

 有無を言わせぬ問いかけに、彼はまるで化け物と出くわしたかのように息を飲む。そして青年は血の気の引いた唇を戦慄かせ、数歩後退り、踵を返し、這々の体で逃げ出した。明るい会場の方へと消えていく背中を眺めながら、可哀想なことをしたな、と頭のどこかで同情する冷静さは一応今のわたしにもあった。
 弁明しようにも時すでに遅し。しかしてその瞬間、わたしはやっと息継ぎの仕方を思い出したのだった。



「――……スモーカーさん」

 ようやく背後を振り返る。確認するまでもなく、そこに立っているのはばかばかしくも葉巻を二本咥えた強面の男で、その上当たり前のような顔で全く普段通りの格好をしていた。きっとこの人はドレスコードというものをご存じないのだろう。
 そろりと見上げると、スモーカーさんは悪びれた様子もなく平然と視線をつき合わせてくる。いや、今の下りがあってよくもまあそんな堂々としてられるもんだな……気まずいのはむしろわたしの方なのだが。

「あの……いつからそこに居たんですか」
「さァな。偶然霧が濃かったんだろう」

 スモーカーさんは臆面もなく葉巻をくゆらせている。だからなんなんだこの落ち着き払った態度は……しかも微妙に答えになってないし。

「てか、そもそも……です。前話したときは全然興味なさげだったじゃないですか、どうして"赤い港"に?」
「……帰りの時間を聞きそびれたんでな」
「だからってそんな、わざわざ」
「お前のことだ、放っておいたらどうせ迎えも寄越させやしねェだろう。前の事件のこともある、多少神経質になって何が悪い」
「何開き直ってんですか……。まあその、助かりましたけど」

 素直に感謝するのも少々癪なのだが、実際、あのまま流されてた可能性も否定できない。あんま聞いてなかったけど終盤は風向きが怪しかった気もするし。
 何はともあれ、あの兄ちゃんには申し訳ないことをしてしまった。いきなりスモーカーさんに凄まれるなんてトラウマものの恐ろしい経験に違いない。あの分だともう関わってくれることはないだろうな、とついついため息を吐き出していた。恨めしやスモーカーさん。

「あーあ、せっかく出会いのチャンスだったのにスモーカーさんのせいで台無しです」
「……あのガキか?」
「彼、わたしと同じくらいですよ。こんなこと滅多にないだろうに、勿体ないことしちゃいました。見たとこ同世代くらいだったし、多分お金持ちだし、一応悪い人じゃなさそうだったのに」
「それもどうだかな」

 スモーカーさんは不愉快さを隠す気もないらしく露骨に顔を顰めてみせた。どうもああいう金持ちのボンボンは鼻持ちならないらしい。

「さっきのは事故みたいなもんでしょう。そんなに敵視しちゃあの人も可哀想です」
「……まさかお前、ああいう手合いが趣味なのか」
「嫌な言い方しないでくださいよ。趣味とかじゃなく、わたしはものすごく年上とか喫煙者とかでない限りはとりあえず守備範囲内ですんで。とりあえず友達になるとこから始めます」
「……。そうか」

なんだろう今の微妙な表情は……。喫煙のことを遠回しに突いたせいとかの殊勝な理由でないのは確かだが。

「あ、でも見違えたでしょう。今日のわたし、男の子に声かけられちゃうくらいには大人っぽくしてもらいましたからね。スモーカーさんからしたら身の丈に合ってないように見えるかもですけど」
「まァ……確かに、馴染みはねェな」

 わたしをちらりと見下ろして、スモーカーさんは奥歯に物が挟まったような物言いをしてくる。うーん、この人がわたしをからかおうとしてるときは顔を見ればなんとなく分かるのだが、今のはどうもはっきりしない感じだった。
 まあからかわれなかっただけマシである。そもそもこの人からの気の効いたセリフなんて最初から期待してな――

「もう少しよく見せろ」
「ぅおわ!?」

 いきなり脇の下に手を通され、ひょいと体ごと持ち上げられた。抗議の声を上げるより早く、スモーカーさんはわたしの腰をバルコニーの手すりに引っ掛ける。落っこちないよう彼の腕を掴みつつ慌てて顔を上げると、身長差が狭まったせいで呆れたような彼の視線を間近に受ける羽目になってしまった。

「んな粧し込んでるくせに、可愛くねェ声出すんじゃねェよ」
「ば、あぶっ、危ないんですよいきなり! ここ結構高いんですから、絶対に離さないでくださいよ」
「安心しろ、離しゃしねェ」

 言いつつ、スモーカーさんの片腕が背中に回される。距離が詰まり、不可抗力とはいえわたしの脚の間にも彼の体が割り入ってきた。よ、予想外に近い。のだが、自分で要求した手前離せとも言いづらい。
 会場の遠い喧騒を残し、彼との間にふと沈黙が降りた。この微妙な位置と体勢、そして黙り込んだスモーカーさんにまじまじと見られているこの状況。うう、正直気まずい。目を逸らそうとすると、それを遮るように頬に手を当てられた。ぎくりとして咄嗟にもう一度視線を合わせる。彼はわたしの耳から頭の方へ――髪型が崩れないくらいの慎重さで――指をくぐらせ、どうにも読みきれない表情でそっと目を眇めた。口の隙間から僅かに煙が溢れる……

「黒が似合うな」
「――へ」

 かちり、と彼の親指が耳飾りを掠めた。

「お前は元から器量好しだが、本当に……随分と大人びて見える。もう少しで見逃すところだった」

ちょ、……ちょっと待ってほしい。思いっきり動揺というか、照れてしまったじゃないか。いきなりなんだってんだ、なぜに今に限ってこんな率直なんだこの人。

「ま、前はまだ早いとかなんとか言ったくせに」
「……んなこと言ったか?」
「言いましたよ」
「なら撤回する」
「は、あ」

お、おかしい。全然柄じゃない。スモーカーさん、人をおだてたりなんかする性分じゃないだろうに。
 冗談ぽく流してしまいたいのは山々なのだが、彼が妙に真面目くさってるせいでこれまたやり辛い。おかげで絞り出すようなわたしの応答は、どうにも尻すぼみなものになってしまっていた。

「なんか今日は、らしく……ないですよ」
「あァ……もしかすると、焦ってんのかもな」
「……? あたっ」

 ごつん、と額がぶつかる。そろりと見上げればスモーカーさんはなにやら遣る瀬のないご様子で、くっと眉を寄せるその顔は、溢れかけた何某かの感情を無理やり押し込めようとしているようにも見えた。

「……スモーカーさん?」
「少し、喋るな」

スモーカーさんはそう言って瞼を下ろす。目と鼻の先より近い距離、今にも彼の白い睫毛の先が触れそうだ、と思う。スモーカーさんが小さく息を吐くと、憎らしい葉巻の香り――なんだか久々に嗅いだような気もする――がツンと鼻に沁みた。

「……あの、スモーカーさん」
「喋るなつったろ」
「言うことを聞く筋合いはありません」
「……」
「てか受動喫煙が深刻なので、早く離」
「ナマエ」

 遮るように名前を呼ばれる。ゆっくりと瞼が開く。

 透き通るような茶褐色が、今は光の加減で鈍い金色に見える。まるで獣のそれに似た鋭さに射すくめられた気がした。スモーカーさんに野犬とかいうあだ名をつけた人は、存外彼のことをよく知ってたのかもしれない。彼はそんなふうに目を逸らさないまま、薄く口を開いた。

「お前に聞きたいことがあった」
「?」
「が……馬鹿馬鹿しくなったな。……ナマエ」

 もう一度、わたしの名前を呼んだ拍子に彼の体がわずかに傾ぎ、互いの鼻梁が触れ、思わずぎくりとした。わたしとスモーカーさんの吐息が混ざりそうになるのがわかる。ちょっとこれは、よくない……。

「あの、近、いんですが」
「……葉巻が邪魔だな」
「今更気づいたんですか。わたしは前から知ってましたよ、葉巻なんか全生物にとって邪魔モノです」
「うるせェ、お前にゃ情緒ってもんがねェのか」
「スモーカーさんにだけは言われたくないです。ああもう煙たいですね、いいから少し離れてくださいよ」

 スモーカーさんの肩をぐいと押しのけると、彼は思いの外あっさりと身を引いた。意外だ、絶対てこでも動かないと思ったのに――と思いきや。

「うわ」

 背中に回されていた手ごとぐいと持ち上げられ、一瞬浮遊感に襲われた。不安定な体を支えるべく咄嗟にスモーカーさんの肩に手をつくも、引き寄せられたせいで上半身ごと彼の胸元へ激突する。腰に回された腕、ふらふら揺れる足。つまるところ、わたしは思いっきりスモーカーさんの腕に抱え上げられていた。

「――ちょっと、離れてって言ったのに近づいてどうするんですか!」
「顔が赤ェぞ」
「誰のせいですか、誰の」
「……安心してんだ。お前が相変わらず子供でな」
「失礼な」

 スモーカーさんがようやくいつも通りの皮肉を口にしたのに内心安堵しつつ、やれやれとため息を吐く。さっきから何を好き放題してくれてんだこの男。消臭剤は売り切れているため、匂いがもう取り返しがつかないところに来てしまった。訴えてやりたい。まあ先ほどの謎の距離感に比べれば抱きかかえられるくらい今更騒ぐことでもないのだが、いやこの考え自体おかしい気もする。
 しかし、この頃のスモーカーさんはちょっと接触が多過ぎる気がしてよくない。多分、誘拐事件のゴタゴタがあってから距離を測りかねてるのだろう。基本的にはペットが可愛すぎて構い倒したくなるのに似た感じだと思うので、変な間違いだけは起こさないよう気をつけてもらいたいものである。わたしはいつか来たるラブロマンスまで純真を貫くと決めているのだ。喫煙者なぞお断りである。

「……帰るか」

 ふとスモーカーさんが口にしたのは、問いというより確認だった。この状況的にいやですと言っても連れてかれる気はするけど、まあ、帰る場所も同じなのだし、匂い移りも限界値だし、一応迎えに来てくれたわけだし、素直に頷いとくことにしよう。

「そうですね。もう遅いですし」
「そんじゃァ……」
「あ、待ってください。その前におつるさんか誰かに声かけとかないと」
「青キジの奴ならとっくにこっちに気づいてるぞ」
「えっ」

 まじか、会場の方を見てなかったせいもあるけど全然気づかなかった。あのおっさん、ちゃんと仕事してたとは。
 ほら、とスモーカーさんが顎をしゃくった先を見ると、確かにバルコニーのガラス越しに背の高いクザンさんの姿が見えた。わたしと視線が合うと、彼は呆れ顔で笑ってはたはたと払うように手を振ってくれる。どうも好きにしろとのことらしい。

「いつから見てたんですかね」
「初めからだ。お前が心配で目を離せねェのはおれだけじゃねェってことだろうさ」

クザンさんに見られていると知っててああいうことをしてたのかこの人。一体どういう心境なのだ、今に始まった事ではないが謎過ぎる。
 改めてわたしを抱え上げているスモーカーさんの横顔を見た。やはりこんなところにこの人がいるなんて似合わない感じだ。なんだかんだ、今日は彼がいないところでも、何かにつけてスモーカーさんの話をしていたような気もする。不本意だ。ああでも、人伝に聞く話は少し別の彼の一面が知れた気がして……悪くはなかった。

「……どうした?」

 スモーカーさんが怪訝そうに問う。それがなんとなくおかしくて笑えてしまった。

「あはは、なんというか……わたし、自分で思ってるよりスモーカーさんが好きなのかもしれません」
「あ……?」
「今日、多分スモーカーさんのいいところを知ってる人って、きっと知らない場所にも沢山いるんだなと思ったんです。スモーカーさんにとっては周囲の評価なんてどうでもいいことなんでしょうけど、わたしは結構嬉しかったですよ」
「何の話だ」
「スモーカーさんに助けてもらったことがある人の話です」

 あえて説明を省くのはちょっとした腹いせである。スモーカーさんはそれ以上言及はしなかったが、ほんの少しだけ居心地が悪そうな顔をした。

「まァいい。……それじゃ、せいぜい見納めておけよ」
「? はい」

 見納めるとは一体どういう意味でのものだろうか、と思いつつ同意する。スモーカーさんは軽く眉を上げて、ふうとこれ見よがしに煙を吐いた。
 今や、夜霧はすっかり晴れ渡っている。スモーカーさんはバルコニーの手すりに一歩歩み寄った。なぜそっちへ、と疑惑を覚えるより早く、彼は憎らしいぐらい長い脚を欄干にひょいと引っ掛けて身を乗り上げ、わたしの体をきつく抱え込むと――

「え、あの、スモーカーさんまさか」
「……離すなよ」
「ちょ、ば、待ってくだ――うあぁあ!!」

 白煙が夜空に舞い散るのが滲んで見える。

 "赤い港"の湾岸に、哀れなわたしの悲鳴が響き渡った。

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