▼ 27-2/2
「――ナマエ!」
ばつん、と混濁していた意識が定まったのが、手にとって眺められそうなほど確かな感覚で分かった。
わたしを呼ぶ声に瞼を起こすと、思いのほかすぐそばに焦りを滲ませた表情のスモーカーさんがいた。珍しく取り乱したようすでわたしの二の腕あたりを掴み、ソファ正面の床に片膝を突いてこちらを覗き込んでいる。……ああ、なにか違和感があると思ったら、柄にもなく葉巻を咥えてないのか。何にせよ、常ならぬ状況には違いない。
一体なにがあったんだろう、と眉を寄せようとして。そこでようやく震えている自分の手足と、整わない呼吸と、汗ばんだ前髪に気がついた。
「スモーカー、……さん」
「お前、……大丈夫、じゃねェな」
いつもの強面を歪めて、スモーカーさんはそんなことを言う。断定されるほどひどい顔をしてるらしい。
ああ、それで思い出した。確か起こされる直前まで、いつもの悪夢に魘されてたんだっけ。しかも寝落ちというよりかはほとんど卒倒に近かった気もする。全くもってとんだ災難、道理でこんなにしんどいわけだ。
スモーカーさんの肩越しに見える窓の外はすでに暗かった。随分長いこと意識を失ってたらしい。ああ、……やってしまった。うっかりすっかりサボってしまった。リビングテーブル上の灰皿で葉巻の真新しい香りが燻ってるから、一応この人が戻ってからそう時間は経ってないみたいだけど。しかしこのタイミングで夕飯が、とか言ったら、やっぱりいい顔をされないんだろうなあ。
「何があった」
彼の手へ僅かに力が篭ったのが袖越しに伝わる。完全に現実逃避していたわたしの思考を諌める硬い語調。茶化したくなるくらい真剣な眼差しが、まっすぐこっちを向いている。参ったな、……変に心配をかけてしまった。
どう誤魔化そうかと頭を悩ませつつ、スモーカーさんの手に支えられながら体勢を立て直した。震えを押さえ込むために拳を握り、何度か深呼吸をして息を整え、垂れ落ちてきた汗を拭う。強張った頬を動かして笑顔を作ると、どこか痛ましいものを見るような目を向けられた。……心外だ。
「はは、……大げさですよ」
「ナマエ」
「変な時間に寝ちゃったせいか、夢見が悪くて」
「他に理由があるんじゃねェのか」
「それは……まあ、なくはないですが。でもですね、ほんとに全然大したことではなくて」
「なら話せるだろう」
さっきからスモーカーさんの吐く言葉はどれも短い。だが有無を言わせず簡潔だ。何もかも筒抜けでいやになる。上手く誤魔化してしまいたいのに、彼は問い詰める声を緩めてはくれない。
「はぐらかすな。お前がこれだけ酷く魘されるのは、何かしら問題があったときだけだろうが。どうしても話すのが嫌ってんなら無理強いはしねェ。……だが、隠そうとするのだけは止めろ」
「……、」
「おれに、言えねェようなことか」
「…………いえ」
別に言えない、わけじゃない。言いたくないだけだ。だって火傷のこととか色々、誰よりも一番話したくない相手はこの人なんだから。
……とはいえ、怪我のことをいつまでも黙ってるわけにはいかないだろう。大体不安なのは単にわたしの気持ちの問題で、実際のところ彼があんな風に突き放してくることはもうないだろうと、頭ではちゃんと分かってるのだ。
……大丈夫、話すことさえ話したらそれで済むはず。わたしは詰めていた息を吐き出し、ややあって重たい口をこじ開けた。
「あの……きっと、スモーカーさんにとってはそんなに大したことではないと思うんですが」
「……あァ」
「ええと、……わたしの、左腕のことで」
左腕と聞くなり、スモーカーさんは俄かに険しい顔を見せた。が、それも一瞬のことだ。すぐさま表情を戻した彼に、目線で話の続きを促される。
「……今日、医療棟へ行きました。いつものように包帯を変えてもらって、その流れで、今回は治療の経過を見てもらうことになったんですが」
「不調だったと?」
「いえ、それが……診察してくれたお医者さんに、だいぶ治ってきてるから、包帯はもう巻かなくてもいいと言ってもらいました」
「……そりゃ、朗報なんじゃねェのか」
「そのはずなんですけど。でも――」
逸らした視線が手元に落ちていく。交換したばかりの包帯は、目眩がするほど鮮やかに白い。
「わたし、あんまり乗り気になれないんです。ほら、根性焼きの痕ってなんだかんだ目立つじゃないですか。別に、今更傷痕がどうのこうのと気にしてるわけじゃないんですが、できるだけ人様の目に晒したくないと言いますか、ですね。ほら、元ヤンだと思われたりしちゃ困りますし」
「……」
「それに、わたし自身としてもあんまり見たいもんじゃないというか、目にしちゃうと色々と思い出すこともあるというか。それでさっきも、考えてるうちに余計なことまで連想してしまって……少し、混乱したみたいです。包帯も、ほんとはもう要らないのに、結局巻いてもらっちゃいましたし」
視界の隅でスモーカーさんは黙ったままこちらを見ている。面食らってるのか、困惑してるのか、それとも呆れてるのか。まあこんな話を聞かされても対応に困るんだろう。結局自分がどうしたいのか、わたし自身もよくわかってないくらいだし。
いつの間にやら早口になっていた口を一旦噤み、ふうと息を吐く。まあ、彼も安心しただろう。実際、スモーカーさんが心配するようなことはなにもないんだから。
「まあ、たかがそれだけの、しょうもない話ですよ。……包帯はちゃんと取りますから安心してください、わたしのはただの考えすぎですから」
会話を切り上げ、この場から立ち去るべく腰を浮かせようとした。なにしろもう夜は遅い。ここから時計は見えないが、おそらくもう8時は過ぎている頃合いだろう。まったく、こんなことをしてる場合じゃないぞわたし、急いで支度をしないと明日に響くかもしれないってのに。今のやりとりで余計な時間を食ってしまったし、ここはともかくにも動かなくては――
「……ナマエ」
「な、んですか」
不意に名前を呼ばれて、思わず返事がつっかえた。もう、やめて欲しい。これ以上話をしたところで、お互い何の得にもならないだろうに。
でもスモーカーさんはやっぱり、わたしの望みを汲んではくれない。わたしの腕を掴んだまま、目つきがいいとは到底言えない眼差しで、探るようにわたしを見据えている。そして次の瞬間、その目が苦笑に細められるのと同時に、塞がれていた彼の口がゆるりと開かれた。
「……そう強がるんじゃねェよ」
「強、がってなんか」
「それとも、おれァそんなに不甲斐ねェか」
息を飲む。二の腕にあった彼の手がゆっくりと滑り降りていくのを、肌の感覚が伝えてくる。肘を通り過ぎ、包帯の上を慎重に辿り、そのまま座面に投げ出されていたわたしの手の甲へ。そうして左手が、彼の指先に絡め取られる。
「なァ、ナマエ」
な、……なんなんだ一体、さっきから。分からない、スモーカーさんの子供を諭すような声色の意味が、包帯の裾を撫で摩る少しかさついた親指の意図が、わたしには分からない。
彼の視線にかどわかされたように、混乱した頭が鈍く痺れている。それからほんの少し顔を近づけて、ゆっくりと目を眇め、スモーカーさんは低い声で囁いた。
「――包帯を、解いても?」
ぎくり、とした。
予想外の申し出に動揺して、何度か目を瞬いてしまう。意外だった。よもやスモーカーさんの方から、腫れ物に触れるような真似をしようとするなんて。
「それは」
「嫌か」
「いや、というわけじゃないですが……ただその、なんというか……気分の良いものじゃないですし、結構えぐいし、見た目もあれ、ですし」
「ナマエ、忘れちゃいねェだろうが、おれァ海兵だぜ。そういったもんは見慣れてるし、お前を相手に不快になるこたァまずねェよ」
「でも」
「おれに対する気遣いなら無用だ」
煮え切らないわたしに苛立つでもなく、スモーカーさんは淡々と食い下がる。彼はわたしの左手に両手を添えると、静かにそっと目を伏せた。
「なァ、……お前の疵を見せちゃくれねェか」
彼らしくもない、嘆願するかのようなその声に、わたしはどうにも、断る言葉を持てなかった。
するり、と、軽やかな衣擦れの音。
わたしの左腕を支えつつ、彼は利き手で包帯の端を抜き取った。そうして、手の甲にある火傷から順々に、スモーカーさんの視線に晒されていくのが分かる。手首から腕へと巡りながら、わたしを護っていた白い帯がするすると紐解かれていく。
「……っ、……」
耐えきれずに、息がこぼれた。スモーカーさんは傷口がこすれないよう気を遣ってくれてるのだが、それでも肌を擽る布の感じが時折こそばゆくて、どうしようもなくぞわぞわする。彼に暴かれている現状への気恥ずかしさも相まって、いっそう居た堪れない気分にさせられた。……スモーカーさんがわたしの反応を気にかけていないのが唯一の救いだろうか。
スモーカーさんはごく真剣な様子で包帯を解いていく。彼の視線が上げられることはない、が、それでも普段と違ったこの距離感はどこかきまりが悪かった。性格に似てまっすぐな生え際の形だとか、不規則な瞬きに揺れる白い睫毛が意外にも長いことだとか、そういうフェチっぽいところばかりに気がついてしまうのも、大変よろしくない。勝手に気まずくなって顔を背けると、ああいよいよ視線のやり場がなくなってしまった。仕方ない、……諦めて目を閉じておこう。
暗い視界の中で、皮膚感覚が敏感に作用する。明瞭なのは遠くで香る葉巻の匂いと、いつもより早い呼吸の音。そうしているうちに、やがて静かな声が聞こえた。
「……ナマエ」
「あ……」
薄目を開いた。途端、最後のひと巻きが解け、わたしの膝の上に落ちる。包まれていた肌が、外気に晒される頼りない感覚。
我知らず、体が強張っていた。
スモーカーさんがわたしを見ていた。緊張をなだめるような声でもう一度ナマエ、と呼びかけられて、恐る恐る視線を落とす。すると、そこに――剥き出しになった前腕が、スモーカーさんの手の中に横たわって、いくつもの円い火傷を晒していた。
改めて、初めて、目を逸らさずにそれを見た。腫れ上がり、あるいは抉れた不気味な凹凸と、無造作に並ぶ赤、白、黒のまだら模様。つきん、と傷口に鈍い痛みが走る。
とても見るに耐えない。やはりそれはどうしようもなく惨めで、汚らしく、醜い痕跡たちだった。
「ぅ、あ……」
嫌な汗が滲み出て、頭の芯が冷え切り、代わりにじわりと目元のあたりが熱くなる。真っ先に芽生えたのが羞恥心であることを頭のどこか冷静な部分で意外に思った。見ないで欲しかった。見せるんじゃなかった。踏み躙られた事実を、刻み付けられた何かを、スモーカーさんには知られないままでいたかったのに――。
「あ、……あの、やっぱり」
舌がもつれる。そんな反応を伺われているのがわかる。嫌だ、最悪だ。なにせこの人は大体のことには勘付いてしまうから。こんな反応をしたらまた彼の罪悪感を煽ることになることは分かってるのに、わたしは何をやってるんだ。
今更無駄と分かっていて顔を伏せ、耐え難さから咄嗟に腕を引こうとした、そのとき。
「……逃げるなよ」
「え」
言うや否や、スモーカーさんがわたしの手を持ち上げて、するりと顔を寄せた。現状を整理している間も無い一瞬の初動。鼻先が触れ、手の甲にゆるく息がかかり、そして次の瞬間中指の付け根辺りの――彼が知る由もないがー一番はじめに焼き付けられたその傷痕へ、柔らかな感触が落ちた。
「……」
刹那、思考が止まる。ええと、いまの、は。
今のは……、
「――っな!」
思いっきり声が裏返った。続く悲鳴を上げる間も無く、続けざまに彼の唇がそうっと皮膚の表面を撫で、二つめの傷跡に押し付けられる。
うわ、や、やっぱり偶然でも、気のせいでもない。つまりはその、スモーカーさんは今わたしの手に、キ……っていや違う、そうじゃなくて。
「な、な、っなにをやって……!」
「痛ェか」
「痛……くはないですけど」
「ならいい」
いや、な、なにもよくはないのだが。
か……からかわれてるんだろうか。スモーカーさんときたらしれっとしたものだ。けど意図を確かめようにも、俯いたスモーカーさんの表情は読めない。訳がわからない。
動揺のあまり先ほどの羞恥心はすっ飛んで、それとは別の要因でぐわんと耳のあたりが熱を持つのが分かる。なんだこの状況、てかこの人、一体どういう思考回路でこんなことを!
だ、大体、なにを似合わないことしてくれてるのだ。こんな甘ったるいシチュエーション、少女漫画でも今日びお目にかかれない展開というか夢見すぎって話……いや憧れはなくもないけど、じゃなくて、だからと言って相手はあのスモーカーさんであるし、しかも彼が触れたのはどう考えても火傷の位置だし、こんなものへ口付けるなんて、全くどういう神経をしてるのか。というか、それなのに、それなのにどうして、わたしは手を振り払えないでいる、のだろう。
そうしている間にも唇は肌を掠め、すぐ隣にある三つめの火傷、そして四つめの小指側へと。
「……っ、モーカー、さ」
やめてくれと訴えようとして、上手くいかない。スモーカーさんの仕草がただただ耐え難いほど優しいから、うまく拒絶することが適わない。
そして五つめ、親指側の手首。その横に並んだ六つめ。腕の側面にある七つめ、斜め上の八つめ、その横の九、十、十一。
「なんでこんな」
答えはない。ただ何かを塗り変えようとするかのように、スモーカーさんは一つずつ丁寧に唇でなぞっていく。いいのだろうか。こんな、彼らしくもない献身を享受して。こんなの、冗談とかの域をとっくに超えてるだろうに。
十二、十三、まだ前腕の半分。十四、十五、唇を噛みしめ、漏れ出そうになる息を飲み込む。十六、十七、ぎゅうと目を瞑る。十八、十九、そして肘裏の二十。
「……、?」
彼が動きを止めたので、滲む瞼をそろそろと起こした。スモーカーさんと視線がかち合う。ああ、わたしはきっとどうせ、ばかみたいに逆上せた顔をしてるんだろう。
そうして彼は見せ付けるかのようにして、二十一個め、二の腕に差し掛かった位置にある最後の火傷を、そうっと上唇で撫でやった。
「ナマエ」
気が済んだようにそう零した、スモーカーさんの甘やかな吐息が肌の表面を滑る。熱の伝播した眼差しに、へんな気分になりそうだ。
って、そうじゃない、ほんとに冗談じゃない、しっかりしてくれわたし。流されちゃだめだ。いきなり、こんな、妙な雰囲気に充てられてなるものか。
「っ、なんっ、なんですか、一体……!」
「これを……くれねェか」
「は」
「お前の傷痕を、おれに」
囁くようにスモーカーさんは言う。何を言ってるんだ、一体。真剣な声色からして冗談というわけではないらしいが、だとしてもまるで要領を得ない言葉だ。
「意味、わかんないですよ。……なんですか、皮膚移植でもさせる気ですか」
「まさか。口約束の譲渡でいい」
「それじゃ、あげたことにならないのでは」
「いや、十分だ」
「説明が不十分すぎるんです」
何が言いたいのやらさっぱりだ。毎度のことながら、ちゃんとした説明をする手間が相当惜しいらしい。相変わらず勝手だ、この男は。
「というか、なんだってそんなこと言い出したんですか。はいどうぞとはいきませんし、それに大体、この傷は……あの悪党たちに付けられたんですよ」
「……だが、責任はおれにある」
「責任、って」
「お前の怪我は……おれのせいだろう。元々は」
「……! ちが」
まずい、こうなるから傷の話題はあれほど避けたいって言ったのに。不安を覚えて思わず声を荒げると、スモーカーさんはハッとしたように握る手へ少しだけ力を込めた。
「落ち着け、大丈夫だ。この件について、おれはもう気に病んじゃいねェし、二度とお前にあんな仕打ちをするつもりもねェよ」
「え、……でも」
「違う。安心しろ、ってのはどの口がって話だろうがな。だが、少なくともおれが責任を負いたい理由は、ただ……癪に触るからってだけだ」
……? それじゃ、事件のこと、気にしてるわけじゃなかったのか。本当にそうなら助かるのだが、とするとつまり結局……なにがどういうことだろう。
疑問符を浮かべるも、スモーカーさんは答えもせず目を伏せるだけだ。彼の平たい指の腹が、肌の表面をゆるく撫でていく。少しだけ、くすぐったい。
「あの、……スモーカーさん?」
「なんだ」
「聞きたいのはこっちです。さっきからずーっと……そんなにお好きなんですか、この火傷」
「ハ……んな酔狂な趣味はねェよ」
「はい?」
スモーカーさんは自嘲気味に笑って、わたしの左腕へと視線を落とした。それから、もう一度、優しく傷あとを撫でられる。
「誰とも知らねェ輩に、こんなもんを、……」
独り言のような呟き。なんだろう、この人にしては妙に歯切れが悪い。瞼を伏せ、顔を顰めるその表情は、何かを悔いているようにも見えた。
「なァ、ナマエ」
今日何度目かしれない、わたしの名前を呼ぶ声。目が合った。かき乱すような眼差しが密やかに歪む。
「理由がいるなら、いっそおれが灼いたと思えばいい。お前は何一つだって、あの連中にくれてやっちゃいねェよ」
「……なにを、言ってるんですか」
「分からねェか」
「――え、ぁ」
くるりと手首を返され、ソファに上体を押し付けられていた。
おおよそスモーカーさんで占められた視界、状況に理解が追っつかず間抜けに彼を仰ぎ見る。スモーカーさんは座面に膝を乗り上げ、ひどく真剣な表情でわたしを見下ろしていた。
「……案外、おれァ嫉妬深くてな」
「……!? ちょ、スモーカーさ」
「先を越されたようでむかついてんだ。おれなら、こんなちゃちなやり方じゃなく……もっと奥の、深いところまで、お前の身体に刻み込んでやるのに」
「な」
ほ、んと、なにを言っているのだ、一体。
するり、と。躰に落ちたスモーカーさんの指が、服の布越しにわたしの腹を辿ってくる。指先を追うように押し付けられた手のひらが、燃えるように熱い。彼はそのままわたしの体の中心を伝い、下腹部にある内蔵のかたちを確かめるみたいに、つつ、と優しく撫ぜ下ろしていく。彼はひどく切なげに、は、と息を吐いた。
「何もかも小せェな、お前は」
「ど、どういう、つもりで」
わなわなと唇が震える。分からない、スモーカーさんがなにを言わんとしてるのか。どうしよう、どうしたらいいんだ。
感じ入ったかのように滲む視界に妙な錯覚を起こしそうになる。どくどく、心臓が直接鼓膜を打ち鳴らす。熱を持った頬が燃えるようだ。冗談じゃない。こんなの絶対、からかわれてるだけに、決まってるのに。
「んな顔で……あまり煽るもんじゃねェよ」
スモーカーさんが目を細めて笑う。燻る何かを堪えるような、どこか妖しげな眼差しで。今まで見たことない。こんな顔してるスモーカーさんなんか。
「聞け、ナマエ」
聞きたくない。わたしの中の何かが警鐘を鳴らしている。違う、間違ってる、そうじゃない。
「おれは、……」
まずい、なにかこれは、大変にまずい――
「――う……うぉあ!」
というわけで、わたしは素早く足を引っこ抜き、つい、スモーカーさんの顔面めがけて全身全霊の低空ドロップキックをかましていたのであった。
「てめ……ッ!?」
綺麗にキマったわたしの一撃。流石に不意打ちだったのか、あっさり煙と化したスモーカーさんはがっしゃんとテーブルの角に飛散する。なんかだいぶ痛そうな音がしたが奴は煙だ、構ってる場合じゃない。
「……っの」
「ぎゃ、こっち来ないでください!」
気化したまま早くも体勢を立て直したスモーカーさん。しかしわたしもタダでやられる女ではない、すかさずソファの背中側に回って距離を取った。ゆらりと輪郭を取り戻した彼の首から上が恨みがましげに睨んでくるが、ええいなんだその顔は、怒りたいのは断然こちらの方である!
「わ、わた、わたしはですね!」
「……」
「スモーカーさんにとってはどこからが冗談か知りませんけど、こういう、その……ことは、ほんとに好きな人としかしないって決めてるんです!」
「まだ何もしてねェだろうが」
「何かしようとしたじゃないですか!」
「何か、たァ……」
「何かは何かです、ちょっとは頭を冷やしてください! どこをどう見たらわたしがそういう対象に見えるんですか。全然趣味じゃないでしょう!」
「お前な」
じりじりとソファ越しに睨み合うわたしとスモーカーさん。先ほどの展開を経た上ですぐに歩み寄れるほどわたしはばかではない。無言の攻防、一体わたしはなにをしてるんだろうか。
しばしそうしていたものの、このままでは埒があかないと見たのだろう。やがて彼は浮かせていた腰を床へ落とすと、どこか投げやりに口を開いた。
「……分かった。今のは冗談だ。本気にするな」
「冗談なのは分かってます。本気じゃないくせにそういうことするスモーカーさんの倫理観が問題なんですよ! 溜まってるなら溜まってるで、ちゃんと相手は選んでもらわないと」
「お前、……相当、筋金入りだな」
スモーカーさんはなにやら苦々しげな表情だ。なんの話かよくわからないが、失礼なことを言われてるのは薄々察しがつく。というか反論されないということはやっぱりそういうこと、だったのだろうか。……、あまり深く考えないことにしよう。
まあいいや、とりあえず冷静になってくれたぽいし、先ほどまでの妙に妖しげな空気も今のやりとりで消え失せた。ふう、まったく、スモーカーさんてば以外と見境ないんだろうか。勘弁してほしい。
やや項垂れて眉間のあたりを押さえているスモーカーさんに、蹴っ飛ばしてすいません、と一応謝りつつ、ソファの後ろを出て歩み寄る。彼は胡乱げにわたしを見上げると、諦めたように大きく息を吐いた。
「で、忘れちゃいねェだろうな」
「は? なにをですか」
首を傾げつつスモーカーさんの隣にしゃがみこむ。
「……さっきおれがしたことだ」
「あの、蒸し返さないでください」
「違ェよ、腕の方だ。足りなかったならもう一度やってやるが」
「丁重にお断りします。じゃなくて、どういう意味ですか、そもそもなにがしたかったんです一体」
「先におれの質問に答えろ。忘れてねェな?」
「……そりゃあ、そこまでトリ頭じゃないですし」
「なら、覚えておけよ」
覚えておけ、と言われましても。さっきの一連の行為のことなら、当分忘れたくても忘れられないだろうと思うが。と口に出さずとも分かりやすい顔をしてたのか、スモーカーさんはこちらを見て、どこか満足げに瞼を細めた。
「お前が覚えているうちは、その傷はおれのもんだ」
「はあ?」
「他の誰に見せなくても構わねェ、だがおれの前では隠すなよ」
訳がわからん。どういう理論なんだ一体。大体わたしはくれるか、と聞かれただけだし、なのにいつも間にかあげたことになってるのがおかしいし。そしてやはり何が言いたいのやら、さっぱり謎である。
「なにがどういうわけでそうなるんです?」
「こうでも言わねェと聞かねェだろう。お前の感情は理解できる。……屈辱も、羞恥心もな。だが家でくらい遠慮するなつったのもお前だろう」
「……そんなこと、言った覚えは」
「だろうな」
見透かしたような言い草だ。それに……結局、なにもかも説明は無し。はあ、もういいや、その点については諦めもついている。傍若無人なスモーカーさんの考えることなど、予想するだけ無駄な話なのだ。
はたと思い出して時計を見ると、なんともう9時を回っていた。体がようやく空腹を思い出したのか、胃のあたりがきゅうと鳴く。これに関してはわたしの責任か、とついついため息を吐いた。こうしてまた幸せが逃げるのだ。
「あーあ、今日は散々ですよ。スモーカーさんはわけわかんないですし、ご飯も作れてないし、もうめちゃくちゃお腹すきましたし」
「なら……偶には、どこか食いに行くか?」
「……お言葉に甘えていいですか」
二人で外食なんて、初めてなんじゃないだろうか。どこへ行くのか、とか、財布の中身はどれだけあったか、とか、考えだしたどうしようもない主婦……じゃなくて家政婦脳に、そこで思考を追い払うように腕を引かれた。そんな時に限って、改めて、広い手のひらだ、などと思う。
「構わねェさ」
スモーカーさんがそう言って笑うので、わたしはなんだかようやく、肩の荷が下りたような気がした。
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