No Smoking


▼ 27-1/2

 ――そろそろ包帯、取りましょうか。

 ここ最近はもはや日課になっていた医療棟での包帯交換。治療の経過を見てもらうために、今日はこぢんまりとした診察室にて、いつものお姉さんではなく担当のお医者さんによる診察である。その彼がわたしの包帯の下の火傷を見てそんなことを言ったのだった。

「え」

と、思わず声が出る。そんな自分の反応が意外だった。だって、なにも驚くような話じゃないのに。

 当然、火傷をしてから随分経つし、遠からず包帯が取れるのは分かってたことだ。昨日社交パーティーの件でおつるさんと顔を合わせたときにも、そろそろ修行が再開できますね、なんて話をしたばかり。そのはずが、実際に告げられた今、まるで虚を突かれたような気分になっている。怪我が快方に向かっているというのは本来なら喜ぶべきはずのことで、だから余計に自分の感情が不可解だった。……なんか、変だ。
 しかし人の良さそうなお医者さんはわたしの驚きを好意的に捉えてくれたらしい。わたしの腕を軽く触診しながら、彼は「問題なさそうですね」と穏やかに告げた。

「ある程度瘡蓋も張っていますし、菌が入ると言うこともないでしょう。あまり酷使したりしなければ問題ないですよ。包帯があると不便でしょうし、治りが早くてよかったですね」
「……」
「どうかしましたか?」

答えに窮してしまったことに気づかれたくなくて、いえ、とかぶりを振る。

「やっぱり痕は残るのかなと思って」
「……そうですね、こればっかりは」
「そうですか」

適当に口にしてはみたものの、多分わたしが気にしてるのはそれとは違う原因だろう。傷痕がどうこうと気にするような柄ではないし、別に肌を晒すような相手がいるわけでもない。

 ただ妙に、拠り所を失ったような気分が晴れなかった。包帯を解かれ、空気に触れられる素肌はどうにも落ち着かない。お医者さんの手に取られた左腕はなんというか、ずいぶん無防備に思える。
 ううん、……やっぱり、不安だ。それにこの後はクザンさんのところで仕事もするのだし、いきなり外すのはなんとなく忌避感があるというか。

「あの」

 左腕と、火傷の痕が目に入らないように視線を下げると、乳白色の床に投げ出された自分の足が頼りなげに視界に映った。細く息を吐いて、もごもごと煮え切らない言葉を続けていく。

「今日だけは……まだ、巻いといてもらっていいですか。これで最後にするので、その、念のため」
「構いませんが、まだ痛みなどあるんですか?」
「まあ、はい。少し」

嘘ではないが、とはいえ特筆するほどの痛みではない。ちょっとチクリとしたり、むず痒かったりする程度だ。包帯を巻く必要があるとは思えない。なのに、無駄なことをしてるのは自分でも分かってるのに、新しい包帯をと望まずにはいられなかった。

 なんか、やな感じだ。……今更なにを臆病風に吹かれてるんだろう、わたしは。

「――では、一応処置しておきますが。あまり頼りにしすぎないようにして下さいね。包帯に依存して手放せなくなるという症例もあると聞きますから」
「はい、……ありがとうございます」
「あまり思いつめないよう。お大事になさって下さい」

 わたしの情けない躊躇を汲んでくれたのだろう。彼は清潔な包帯を巻きながら、どこか子供のわがままを聞き入れるような寛容さでそんな言葉をくれたのだった。




 夕方。帰宅したわたしは、どうも調子が出ずにソファーに腰を沈めていた。

 薄暗くなってきた部屋、電気を点けるのも億劫で、ただただリビングテーブルの角をぼんやり眺めてみる。一応洗濯物は取り入れたし、消臭もしたし、買い物にも行った。のだが、いまいち夕食の支度に手をつける気力が湧いてこない。どうにもやる気が出ないのだ。相変わらず厄介になってる身だし、そんなこと言える立場じゃないんだけど。
 はあ、さっきだって気もそぞろに仕事をしていたせいか、クザンさんにまでどうしたのかと心配されてしまったしなあ。ナース服の件があって以降、今まで通り仕事をしなくなったあのおっさんのおかげで、やらなきゃいけないことも山積みなんだけど。……今日のわたしときたらてんで役立たずだ。

「……」

 それもこれも、理由すらよくわからないけど、多分この左腕が気がかりだからなのだろう。

 ソファの背に身を沈め、灰色の天井を仰いだ。このリビングは東向きの部屋であるため、夕方にはまず陽が入らない。こういう時だけ声が大きくなる秒針が、停滞した部屋の隅でチクタクと時を刻んでいる。それがどうにも耳障りだ。

 包帯のこと、……気が引けている理由に心当たりがないわけではない。

 そっと目を伏せる。わたしはあの事件の痕跡を直視することを、今の今まで避けてきた。包帯を変えてもらう際もなんとなく腕を視界に入れないようにしていたから、自分の火傷の痕がどんな形をしているのかすら、わたしはまだ知らないままでいる。記憶にあるのは、灼けつくような痛みが腕に落ちるあの瞬間が最後。だからこそ余計に、目の当たりにするのが怖かった。

 それに、自分で見たくないと言う以上に、他人に見せるわけにもいかなかった。この頃はまるであの事件がなかったかのような穏やかな日々を過ごしてるけど、あれが現実にわたしの身に降りかかった事実であることはこの火傷が疑いようもなく証明している。だからなおのこと、嫌なのだ。これを見るたびに、彼らにあんなことがあったのを思い出させるのは嫌だ。この火傷を見て、罪悪感を覚えさせるようなことを、わたしは望んでいない。

 ――特に、スモーカーさんには。


 瞼を起こし、リビングに視線を這わせた。深い紺碧がガラス越しに鈍く差し込んでいる。相変わらず、時計の針は冷静に鳴り響いてやまない。
 左腕を掲げて視界に収める。薄暗がりに溶けそうな輪郭ではあるけれど、疼くようななにかは確かにそこにある。この包帯の下に、煙草を押し付けられた痕が21箇所。実際のところ、繰り返し押し付けられた煙草の数は見た目よりも多い。

 あの時のことは、あまりはっきりとは覚えていない。思い出せるのは甘ったるさと焦げ臭さの入り混じった酷い臭いと、爛れるような熱だけだ。
 ……ああでも、特に痛かったのは記憶にある。手首の骨に近いところだ。煙草の火口を何度も同じところへ押し付けられて、「いい加減に吐け」だとかなんとか、言われたような気がする。焼いて、水を掛けられて、また焼かれた時も痛かった。途中からはあの海賊たちも、多分わたしの口を開かせることよりも、わたしを嬲ることを愉しんでいたように思う。

 浴びせられた最低な言葉たちを覚えている。曖昧な記憶の中にも鼓膜に張り付いた言葉は、全部、驚くほどはっきりと耳に残っている。ああ、一言一句、忘れられるものなら。

 時計の針が無機質な調子を刻む。単調なリズム。

 うるさい、耳障りだ。チク、タクと、一層脳に強く響いてくるその音と、ぐちゃぐちゃに入り混じって、堰を切ったように、押し留めていたはずの記憶が、耳元で喚き立ててくる。頭が割れそうに痛い。うるさい、――

「おいおい、気絶されちゃ困るんだよ」「神経まで行ったんじゃねェか」「もう痛みもねェだろう」「灰ごと擦り込んでやれよ」「左腕が終わったら次はどこがいい」「顔だと売りにも出せねェからなァ」「お前にも吸わせてやろうか」「泣き喚く灰皿ってのも悪かねェ」「そろそろ諦めろよ」「まだ欲しいのか?」「うるせェな、黙らせろよ」「泣いてりゃ可愛いもんじゃねェの」「焦げ臭ェな」「やべェなこいつ」「もう諦めりゃいいのに」「お前、次やれよ」「あーあー、勿体ねえ」「もうすぐ肘まで行きそうだ」「可哀想に」


 ――ああなるほど、覚えてなかったわけじゃない。単に思い出したくなかっただけなのだ、わたしは。


「……う…………お、ぇ」

 気持ちが悪い。吐きそうだ。首の付け根を押さえ込んで、喉元まで込み上げた胃酸をむりやり嚥下すると、嫌な酸味が鼻についた。最悪の気分だ。

 いつの間にか、小刻みに震えている指先に気がついた。肺も、喉も、瞼も、恐怖に引きつって、上手く機能を果たしてくれない。
 ――悔しい。あの男たちは腐りきった悪意でもって、わたしに恐怖心を刷り込むつもりで煙草の火を向けていた。あんな連中の、思い通りになっているのが悔しかった。わたしは強がっているだけで、あの人たちに蹂躙されたのは事実なのだと、知らしめられているようだった。わたしを助けてくれた海軍の――スモーカーさんや、たしぎ姉さんたちを信じているのに、それすら脅かすようで、わたしは……。

 どろり、と。部屋が薄暗い闇色に満ちていく。そろそろカーテンを閉めないと。それで、スモーカーさんが帰って来る前に、夕飯の用意をしなくちゃ。

 スモーカーさん。……なんでこんなにも。わたしはまた、縋ってばかりだ。

 意識が溶ける。瞼が鉛のように重い。嫌だ、寝たくなんかないのに。こういう気分のときは、絶対に悪い夢を見るから。スモーカーさん、が、いないと。なにもかも全部、忘れたままで、いたいのに。


 喉を塞ぐようなあの感触も。

 何もかも飲み込むような、黒い、深い碧も。

 這いずり寄る、冷たい何かも。

 全部、思い出したくもない。怖い。死にたくなんかない。あの冷え切った悪夢は、火傷の熱よりもずっとずっとそら恐ろしい温度で、わたしの中に蔓延り続けている。今なら分かる、わたしはこの記憶を思い出せないんじゃなく、ただ、思い出したくないだけなんだろうと。

 そう、これは、思い出しちゃいけないのだと。

 海面で弾ける泡の音が聞こえる。横たわるような夜の色が見える。喉にひりつく潮の味がする。

 誰かがわたしを組み敷いて、謂れのないエゴを押し付けて、謝りながら嗤っている。嬲るように、愛でるように、犯すように、愛しむように、哀しげに、愛おしげに、わたしの喉元に枷をかけては、ごきりと優しく捻りあげる。

「――誰か」

ああ、誰か、わたしを

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