No Smoking


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 一枚板のカウンター席。輪郭を溶かすような暖色の照明が、バックバーのボトルラックを煌々とライトアップしている。灰皿で烟る煙草、取り留めもない会話、微かに流れる品のいいジャズ・ミュージック。ムードに満ちた空間で、座面の厚い重厚な椅子にスモーカー君と並んで座り、わたくしたちはそれぞれ粛々とグラスを煽っていた。
 少し高級なこのオーセンティック・バーは、若い頃からわたくしの行きつけであり、昔から何かにつけて訪れていたためにマスターとも顔馴染みだ。無論、スモーカー君と訪れるのもこれが初めてではない。それなりに値が張るのでなかなか誘うこともないのだが、今回ばかりは大盤振る舞いして頂こうとお構い無しに連れてきた。特に嫌な顔もされなかったため、スモーカー君もこの店を気に入ってくれているのだろうと思う。


「――単刀直入に聞くけれど」

 暫し閑談に耽りつつ、ぼつぼつ酒も回ってきた頃。タイミングを見計らって切り出した本題に、スモーカー君が目線だけをこちらに投げる。わたくしが今か今かと待ち望んでいた期待を乗せるように、言葉は自ずと口元から浮かび上がった。

「あなた、ナマエに惚れてるの?」
「あァ」

 即答だった。一体どう返すのやら、と考える暇すら与えられず、味気ないくらいあっさりと、スモーカー君に肯定された。

 ……出端を挫かれてしまった。そうだった、彼を相手にこちらの思惑が上手く働くことなどそうそうありはしないのだ。
 とはいえ、純粋に驚くことでもある。この間までは気付かないよう必死に見えたのだけれど……あの事件がきっかけか、頑固なこの男もいい加減に観念したらしい。年甲斐もなく好奇の目を向けると、スモーカー君はほんの少しばつが悪そうな顔をした。

「いつ自覚したの? ずっと否定してたじゃない」
「つい最近だ。しかしてめェのことだから気付いちゃいると思ってたが……おれァ分かりやすいか」
「それほどでもないわよ。あなたのそれは単なる親心というか、庇護欲に見えるもの。察しているとしておつるさんくらいじゃないかしら」
「つる中将か……」

スモーカー君は渋面で唸る。どうやら苦手な相手であるらしい。確かにおつるさんとスモーカー君はどことなく思考回路が似たタイプであるうえ、ナマエを巡る策略においては彼女の方がおそらく上手だ。そもそもナマエを宛てがう事でスモーカー君を大人しくさせようとしたのはおつるさんだそうだし、実際その企みは非常に上手く行っている。

「最近ナマエはどう?怪我したばかりで不安な時に限って、あなたと一悶着あったと聞いているのだけれど。……泣かせたりしてないでしょうね」
「まァ……それに関しては、反省してるが」
「……泣かせたのね」
「悪ィ気はしなかった」
「あなたって、本当……」

悪びれた風もないスモーカー君の横顔を見てすっかり呆れてしまう。ナマエに対してもこの享楽的な態度は健在らしい。思わず溜息を吐き出した。
 ……しかしナマエのことを思えば良からぬ傾向ではないのかもしれない。彼女は他人に弱みを隠そうとするところがあるし、なにより本人にその自覚がないところが問題だ。スモーカー君の前でだけでも肩の力が抜けるなら望ましいことなのだろう。

「まあいいわ。正直、あの子が泣くところなんて想像できないもの。それだけあなたが信頼されてるということなんでしょうね」

薄明かりの中、スモーカー君は灰皿から葉巻を取り、ゆらゆらと燻らせつつ煙を吸う。わたくしが肯定的な意見を述べたにも関わらず、白く揺蕩う靄の向こうに見えるその表情はやや苦々しい。

「あァ……完全に気を許されてる。始末に負えねェよ」
「それ、喜ぶところではなくて?」
「残念ながら最悪だ。一手間違えれば信頼が地に落ちる。まさかあそこまでの生娘たァ思わなかった」
「あら、だから好きなんでしょう」

揶揄うつもりで笑うと、スモーカー君は心外そうに眉を寄せる。別にそういう趣味ではない……とでも言いたげだ。わたくしとしてはこれも気になる話ではあるので、はしたないと分かりつつ今晩は無礼講だろうと立ち入った問いを投げかけた。

「聞きたいのだけどスモーカー君、ナマエに本気で手を出したいと思ってるの? だって一応ノーマルでしょう、あなた」
「……さァな。自分でもよく分かってねェ節はあるが」
「もしかして実はそういう趣味だったのかしら、それで今まで女性と深い関係にならなかったの?」
「ナマエじゃなきゃガキは趣味じゃねェよ。女にしても、おれァ面倒な関係は御免でね」

言っていることは最低だが、裏を返せばやはりスモーカー君は、ナマエ相手にそういう目で見ているということになる。見た目はほとんど子供なあの子を……いえ、外見に頓着しないのは彼の良いところではあるのだろうけれど。しかし実際問題というものがある。

「これは真面目な話よ、スモーカー君。下世話な話をするけれど、下手するとナマエは死ぬわよ」
「そうだな」
「危険すぎるわ」
「たっぷり慣らすが。それくらいの甲斐性はある」
「……かわいそうに、ナマエ」

引く気はゼロらしい、彼女には本当に同情する。何よりあの子は身体能力においてはもの凄くか弱いうえに経験も少ないだろうから、スモーカー君がその気になればどう足掻いたところで手篭めにされてしまうだろう。同居についてはやはり再考し直した方が彼女のためなのではないかとまで危惧してしまう。スモーカー君の理性に全てが掛かっているが、この男に辛抱なんてものがあるのかは非常に疑わしい。と白い目を向けると、彼はわたくしの懸念を一蹴するかのように薄っすらと煙を吐いた。

「安心しろ、同意を得るまで手は出さねェよ。嫌われる云々はさておき、あいつにこれ以上妙なトラウマを与えたくはねェ」
「――……そう」

殊勝なことを言うスモーカー君に毒気を抜かれてしまった。本当に、これでは野犬どころかまるで忠犬だ。……まったく、彼に「待て」をさせられるなんてあの子くらいのものだわ。

「相当ナマエが可愛いのね?」
「全体的に」
「……あなたがここまで徹底的に惚気るとは思わなかったわ。ヒナ不安になってくるくらいよ」

とはいえ、そんなスモーカー君の様子ときたらあまりにもしれっとしたものだから、本心かどうか疑わしく思ってしまうほどだ。せめてもう少し態度に出して上げれば、ナマエも触発されるものがあるかもしれないのに――なんて、もちろん言ってはやらないが。

「にしても……お前は妙に食いついてくるな。他人の艶聞に興味津々って柄でもねェだろうに」

 スモーカー君は灰皿に葉巻を落とし、グラスを控えめに口にする。彼とは酒の趣味も合わないので、それが美味いのかどうかをわたくしは知らない。

「友人の安否に関わることだもの、気にするわよ」
「それだけが理由じゃねェだろう。大方おれへの意趣返しのつもりか?」

 相変わらず鋭い。だが隠すつもりもない、わたくしは素直に相槌を返した。

「ええ、御察しの通り。いつまでもわたくしがあなたを助けると思ってたら大間違いよ。この件に関しては、全面的にナマエの味方だもの」
「だろうな。お前はおれの理になるようなことは極力しねェ主義だ。今晩聞いたことはナマエにゃ知らぬ存ぜぬで通すだろう。だからおれァこうしてべらべら話せる訳だが」
「本当にあなたって可愛くない男。わたくしをもう少し慮る気はないの?」
「お前がおれに惚れ込んでるうちはな」

含みのある口調でスモーカー君は口の端に小さく笑みを浮かべる。見慣れた人を小馬鹿にした態度。ほぞを噛んでじろりと彼を睨みつけた。

「知っててやってるの。最低だわ」
「なら止めりゃいい」
「見限ってやるわよ、その内」

付き合ってられないと舌打ちしそうになるのをなんとか堪える。やはり、幾つになっても憎たらしいところは変わらないらしい。勝手を狂わされたような感覚のままに酒を煽ると、灼けつくような熱がじわりと喉を下っていくのが分かった。ああ、嫌な男。しばらく辞めていたけれど、この感情に任せて煙草でも吸ってしまおうかしら。



「ところでヒナ」
「なによ」

 不機嫌にさせておいて宥めることもせずに、スモーカー君はふと話を切り出した。初めからフォローなど期待してはいない、諦めて溜飲を下げるのにも慣れている。見れば、彼の手にしたグラスの中で氷が小気味良い音を立てていた。

「一ヶ月後に赤い港レッドポートで開催される社交パーティーの件、耳に入ってるか?」
「ああ、あれね。わたくしも知り合いの貴族に誘われているわよ。この頃は忙しいから見送ろうと思ってるけれど」

しかし彼の口からこんな話題が出るとは。わたくしは意外に思って眉を上げた。

「珍しいわね、そんなものに興味あるなんて」
「……ナマエが行くそうだ」
「あら、あの子が? 断るなんて惜しいことをしたわ、ヒナ残念。それにしてもどういう話でそうなったのかしら。もしかしてスモーカー君、付いていくの?」

お前は馬鹿なのか、とでも言いたげな冷めきった視線を投げられた。自分の社交性の低さとお貴族様嫌いを棚に上げきったその態度は如何なものだろうか。もちろん冗談のつもりではあったけれど。

「本気で聞いたんじゃないわよ。でもちょっと心配よね、ナマエはしっかりした子だけど、周りがそうは扱ってくれないでしょうし」
「つる中将と青キジが付き添うとは聞いたが」
「ふふ、大参謀と海軍大将を侍らせるなんてナマエくらいのものだわ」

思い浮かべてみて面白かった。ナマエが気兼ねなくあの二人に話しかけるのを見たときの周囲の反応は容易に想像がつく。どう考えても鉄壁の布陣だ、まともな人間なら喧嘩をふっかけたりなどしないだろう。

「なにが気掛かりなのよ。あの二人が付いているなら特に心配することはないと思うのだけれど」
「……いや」
「あらなに、もしかしてナマエの交流が広がると悪い虫が付くんじゃないかって懸念しているわけ? あなたってそんな可愛い性格だったかしら、その分だとナマエが社交パーティーに行くのに踏み切った理由も聞いていないんでしょう」

適当につらつら口にしてみたものの、反論してこないあたり図星であったらしい。なんてこと、スモーカー君がこんな子供染みた狭量さでもって、その程度の些事を気にかけるなんて。悦に入った笑みが口元に浮かぶのが分かる。

「ざまあないわ、そうやって余裕ぶってる間にナマエをどこぞの男に掻っ攫われても知らないわよ。わたくしとしては、そうなってくれたらどれほど面白いかと思うけれど」
「……お前も相当、捻くれた奴だな」
「あら、あなたにだけは言われたくないわ」

浮かれた声でそう告げる。スモーカー君が仏頂面で葉巻を吹かすのが可笑しくて仕方がない。たかがそれだけのことであったけれど、一矢報いてやった感覚は十分あった。悪い気はしない。
 さて、この話題でどこまでつつき回してやろうか――と画策しつつ、わたくしは嫌な顔をする彼を無視して、酒のペースを上げるのだった。



 それからスモーカー君を付き合わせて数刻。すっかり酔いが回ってきた頃、スローペースで呑んでいたスモーカー君にそろそろ出るかと声を掛けられた。そうね、と返して、わたくしに反して余り酒が進まなかったらしい彼を訝しむ。勿論スモーカー君はもともと強い方ではあるのだけれど、今夜に関しては見る限り、もう殆ど素面だった。

「もう一軒、行っておく?」

と、期待せずに提案する。

「遠慮する。酔っぱらいに絡まれるのは御免だ」
「誰が酔っ払いよ。素直に言いなさい、ナマエが寂しがるから早く帰ってやりたいって」
「絡むな。やっぱり酔ってんだろう、お前……」

スモーカー君の声がくぐもって聞こえる。彼の言う通り、相当酔っているのかもしれない。けれど別に思考が鈍っているわけではない。スモーカー君が呑み過ぎるのを控える理由も、これまでと違って帰りが遅くならないようにする理由も、その通りなのだと察しがついている。

「ふふ、いいわ。帰ってあげなさいよ。あの子はわたくしみたいに、あなたの人間として最低なところを知らないでいいんだから」
「……ヒナ」
「お気遣いは結構よ。分かる? 今晩のあなたはわたくしの財布だけしてくれればいいの」

ここまできて、スモーカー君に気遣われるなんて屈辱はない。わたくしの拒絶を当然のように受け入れて、彼はいつものように素知らぬ顔で立ち去ってくれる。そうでなくてはいけない。それがわたくしにとってのスモーカー君であり、それはもはや代え難い関係性だった。このままずっと、睨み合うような駆け引きを続けていけたらそれでいい。そんなことを思った。

 彼は刹那、気取られたように瞠目した。確かめる間もない、一瞬。――それは気のせいだったのだろうか。酒に爛れた視界の中、スモーカー君が微かに笑ったのだけが確かだった。

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