No Smoking


▼ 25-2/3

 ……懐かしいことを思い出した。

 ドレッサーの前に座り、化粧直しにと広げたコスメを手に取る。今晩は気合を入れなくてはならない。マリンフォードを発つ準備で忙しいなか、夕方までにやらねばならない仕事を片付け、一度帰宅する時間を取ってまで身嗜みを整える理由がある。
 けれどその理由に関わって、少々昔のことを思い出してしまったようだ。それは今となっては懐かしい、まだわたくしが若かった頃の思い出だった。


 思い起こせばスモーカーという男は、昔からよく目立つ人間だった。――それは主に、悪い意味で。けれど入隊当時からわたくしはどうしても彼から目が離せなかったし、それは多分周りも同じだった。スモーカー君はそれだけ何か周りを惹きつけるものを持っていて、それでいて他人に興味がないところがひどく憎らしかった。
 わたくしは元々プライドが高い方ではあったけれど、それを上手く扱っている自信もあった。女として舐められるわけにはいかないと実力をつけ、同期の中でも優秀な生徒としての立ち位置を手に入れた。対するスモーカー君は不真面目の烙印を押された劣等生。無遠慮で譲らない性格が災いし、かつても、そして今も、彼は一定数からそのような評価を下されている。

 けれどわたくしは、多分ずっと、彼への敗北感を募らせていたのだと思う。

 純粋な実力も、思慮も、生き方も。どうしてだかスモーカー君には敵わないという途方も無い感覚があった。彼は初めから、他人に左右されることがなく、確固として揺らがない。悔しかった。何でもいいから振り向かせてやりたかった。わたくしが一方的に彼の存在を気にするばかりで、スモーカー君はこちらなど歯牙にも掛けないことが、酷くわたしの自尊心を傷つけるのだった。
 でもそれを、わたくしは認めたくなかったのだ。まだ若かったわたくしにとって、気付かないふりをして振舞うことは、いじらしくもプライドを守る手段だった。それを……あの狡い男は図々しく、わたくしの護ってきた意地を踏み荒らすように、いとも簡単に突きつけた。あれは山ほどあるスモーカー君との関わりの中でも、かなり最悪の事件だったと記憶している。


「ふう……」

 いけない、こんなことばかり考えていると顔が強張ってしまいそう。力を抜いて、念入りに崩れた部分のファンデーションを拭き取り、もう一度重ねていった。鏡と睨み合いながら軽くコンシーラーを付けてパウダーをはたく。よし、完璧だわ。

 まあそれで、結局……わたくしはそのあとも彼に構うことをやめられず、何度もスモーカー君がクビになりかけるのを素直に引き止める役に成り下がることになったわけである。毎回、苦汁を舐めるような思いで――あんなことを言われたせいで、より強く屈辱を味わされているのだと分かっていても、なお。
 ああまったく、あそこまで可愛げのない人間というのはなかなか居ないのではないかと、今でも贔屓目抜きに思っている。

 いままで色々あった。なんとか、どうしても彼を組み伏せてやりたくて、ナマエに言えないような手段に訴えたことなんかもある。若気の至りだ、あまり思い出したいことではない。外見には自信もあったし、スモーカー君は女遊びも派手な方ではなかったから手玉に取れると思ってしまった。しかし肝心なところで取って返され、呆れ顔で「満足か?」などと言われた日には、あまりの屈辱に死のうかとすら思った。まるでわたくしの我儘に付き合ってやっているとでも言いたげな態度だ。
 それからも何度か関わることはあったものの、わたくしはまるでスモーカー君を靡かせることができなかった。そう、ただわたくしが、彼がひどく魅力的な男であると再認識させられるばかりで。

 たしぎを部下に取ると聞いたときも、もしかして彼の何かが変わるのではないかと淡い期待があったけれど、そんな都合の良いことはなく。彼とたしぎの仲を取り持つことはままあったが、あの二人が求める関係というのはそれこそ理想的な上司と部下のそれだ。スモーカー君も多少角が取れていい上司としての風情は出てきたものの、肝心なものが変わるまでには至らなかった。
 そもそもたしぎはあの柔和な性格で、女として扱われることを嫌う。わたくしと違って不器用な子であったので、女性であることを逆手に取ったり利用したりもできない。スモーカー君もそれを承知しているようで、部下としては目を掛けているものの、それ以上の感情は特に抱いていないらしかった。


「……よし」

 滲んだアイライン、ぼやけたアイシャドウをきっちりと整える。きつめに眉を引き直すと、鏡の中に居るわたくしは一層勝気な女になる。これがわたくしだと、確かにそう思える。悪くない。

 ええそう、それもこれも、今となっては昔の話。流石にこの歳にもなると、色々なことが解ってくるようになる。例えば執着と恋はイコールでないことも、彼を変えようとすることはわたくしの傲慢でしかなかったことも。かつての激情はなりを潜め、現在では燻るような思いで「都合のいい同期」を、これもまた変わらない彼のおかげで続けさせられている。
 けれど未だに、わたくし自身の手によるものではなくても、あの男が一泡吹かされるところが見てみたいと思うことはあるのだ。そう、あわよくばスモーカー君がいっそ恋にでも落ちて、一喜一憂して振り回されるなんてことがあれば、わたくしの屈辱も苦労も、少しは報われるというものを――なんて、思っていた直近の話だ。

『はじめましてお姉さま。わたしはナマエと言います。色々あってスモーカーさんの健康管理係をしている者です』

 そこにいたのは可愛らしい女の子だった。ちょこんとスモーカー君の椅子を陣取り、彼を舐めきった不遜な態度で、そんなふうに名乗りを上げた。

 そのときは――これはナマエには本当に申し訳なかったと思っている――てっきり、スモーカー君がとうとう子供を育てることになったのかとか考えてしまったものの。しかしスモーカー君の様子には具体的にどこがこう、というわけではないが、何か初めて見る新鮮さがあった。なにかこの女の子が、彼にとって特別な存在であるのだと。長い付き合いだ、気がつくのは容易かった。
 思い返せば、わたくしが使いっ走りに調査させられたあの海域も、ナマエを拾った場所であったのだと思う。スモーカー君は初めから、ナマエに対して随分目を掛けていたのだろう。

 それから何度か彼女と話す機会を得て、色々と分かったことがあった。禁煙、消臭に対してのこだわりだとか、実年齢の衝撃だとかもあるけれど、なによりもナマエがとても魅力的な少女であること。スモーカー君が気にいるわけも良くわかる。溌剌としていて、気骨があって、年齢以上の思慮があって、それでいて捻くれていなくて。そして何よりも可愛い子だ。見た目もそうだが、特に纏う雰囲気に、守ってあげたくなるような柔さと脆さがあった。
 そんなナマエに対して、悔しさはなかった。そもそもあの子はとことん人に好かれやすい性質だし、例に漏れずわたくしもナマエを純粋に好いている。スモーカー君をどうこうすることをとうに諦めているわたくしにあるのは、むしろ期待だった。そしてわたくしの期待通り、次第にスモーカー君が深みに嵌っていく様が目に見えて分かるのが可笑しかった。本人も予想外だろう、あのスモーカー君が、まさかこんな小さな女の子に――なんて。

 だからこそ予感していた。ナマエに何かがあったとき、スモーカー君の平静が崩れるのではないかと。

 ナマエがベッドに寝かされていた。その腕の凄惨な拷問の跡を目にして、彼女に手を伸ばした時の、そのときのスモーカー君の顔が。それは……なんと言えばいいのか。ともかくそれは、わたくしの知る限り、彼が生涯するはずのなかった表情だった。恐怖、怯え、不安、痛み――後悔。幻覚かとすら思った。わたくしに隠すこともできずに、彼はそんな無様な表情を晒していた。
 その表情を見たとき、わたくしが得たのは痛快さよりも、ただただ目を逸らしたくなるような苦痛だった。こんな様のスモーカー君をたしぎに見せるわけにはいかないと思ったし、見ていたくもなかった。彼とナマエを置いて部屋を出たあとも、憔悴したたしぎを支えながら――自分が果たして、何をしたかったのかを問い直した。それからいまここに至るまで、わたくしはこんな内省を繰り返している。


「――……」

 チークを乗せて血色を良く見せる。もう殆ど仕上がっているけれど、何か圧倒的に物足りない印象がある。女の武器、一番大切な唇を彩る色彩が足りていないのだから当然だ。簡単な話。

 結局わたくしの結論は、こうだ。つまるところわたくしはシンプルに、スモーカー君にやり返すきっかけが欲しかっただけなのだろう。あの男に散々舐められてきたぶん、きっちり仕返したいだけ。彼が不幸になるところを見たいわけではない、それほど歪んだりはしていない。そう、単にわたくしは面白がりたいだけなのだ、ナマエに翻弄されているあの男を。
 他人の機嫌をとることも知らないあの男が、せいぜいナマエに振り回されればいい。なにせあの子はわたくしの大切な友人でもある。スモーカー君が知らない彼女のあれやそれやも知っていたりして、立ち位置としては完全に有利だ。ああ本当に楽しい。一体どうしてくれよう、どうやってこれまで散々弄ばれた恨みを晴らそうか。

 今晩は久々に、彼と飲みにいく約束を取り付けた。あの日のツケの返済だということだし、きっと彼の奢りになるだろう。ナマエとは目を覚ました後も色々あったようでここのところ忙しかったようだけれど、それももう解決したのだとたしぎから聞いている。
 いい加減はっきりさせてやろう。いつまでも自覚しないスモーカー君を見るのも一興ではあるけれど、今のうちに先手を取ってやるのもまた面白い。

「……覚悟なさい」

 口紅を引きながら鏡の中の女と視線を合わせる。反射するガラス越しに、なかなか魅力的な悪い微笑みが見えた。

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