No Smoking


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「う……ん……」

 明るくなってきた部屋がまぶた越しにも眩しくて、ゆっくりと意識が覚醒する。少し体がだるい気がしたが、それでも体調がだいぶましになったという感覚はあった。ええと確か、昨日わたしは、風邪をひいて日がな一日すっかり寝こけていたんだったか。記憶が曖昧だが、昨日のうちに深い眠りに落ちてしまったのか、いつのまにか翌日になっていたらしい。
 体は元気になったみたいだし、そろそろ起きて働かなくては。と思うものの、わたしの身をぬくめるのはなんだかずいぶん心地いい温度で、もう少しだけ眠っていたいなどとついつい自堕落な睡魔に誘われ……、

 ……ん? いや、なんだろう、これは。妙に……生々しいというか、なんというか。

 わたしの指先に触れる意外にも柔らかい髪のような感触と、触れ合う人肌の気配と、そして嗅ぎ慣れた葉巻の残り香。どれもわたしの寝室ことサンクチュアリには相応しくない何か――いや、そんなばかなことがあるか。
 薄々悪い予感はしているものの、このまま大人しくしていても仕方がないと、わたしは恐る恐る目を開けた。

「は…………?」

 おかしい。思いっきりわたしの腕の中にいるのは誰がどう見たってスモーカーさんその人である。一度見られてから希少価値を失ったのか、わたしの前で平気で寝顔を晒すようになったこの男、現在もわたしの胸元に頬を寄せるような形でしっかと眠っていらっしゃる。あり得ない、どこで寝ていやがるのだ、そんなにわたしを枕にすると寝心地がいいのか。こんなことは前にもあったような気がするがしかし、なんだってこんなデジャヴ。しかも、今回の事件現場はどう見てもわたしの部屋のベッドの上だ。

「な、な、な、な、な、……!」

大慌てで飛びのいて上半身を跳ね起こした。どうやらスモーカーさんをがっつり抱きしめた状態ですやすや眠っていたらしいが、この状況から察するに、どう見ても引き止めていたのはわたしのほう、のようである。いやいや、そんな訳があるか。わたしがスモーカーさんをベッドに引きずりこむだなんてばかなことをするはずがないじゃないか。うん。……多分。

 というかわたしがこんなに慌てふためいているというのにいつまで寝てるんだこの人は!

「――スモーカーさん! ちょっと、いったいなにがどうなってこんなことになってるんですか!」
「……うるせェな……」

 どうやら今の今まで完全に眠っていたらしく、わたしに叩き起こされた彼はひどく鬱陶しそうに唸りつつ薄く目を開く。少々眠たげにこちらを見上げたスモーカーさんは、わたしの顔を見るや否や、ひどく可笑しそうには、と鼻で笑ってみせた。起きて早々人の顔を見て笑うとはなんて失礼な野郎だ。

「元気そうじゃねェか」
「おかげさまで快調です!」
「そりゃ何よりだ……」

掠れ声でそう口にしつつ、子供をあやすかのごとくわたしの頭をぐりぐりと撫でやって、スモーカーさんは再び目を閉じようとする。意外に寝起きが悪いなこの人……いや確かに支度にはまだ早すぎる時間だけど、看病疲れさせてしまったのも申し訳ないけど、しかし今の流れで二度寝しないでもらいたい。

「ちょっとスモーカーさん、起きてください」
「……なんで」
「なんでじゃないですよ。聞きたいのはコッチです、なんでわたしの部屋で寝てるんですか!」
「顔が赤ェぞ、まだ熱が下がってないんじゃねェか」
「スモーカーさんのせいじゃないですか」

なんか適当にあしらわれてる気がするぞ。わたしの話、聞いているのだろうか。彼の顔を覗き込んで「ちゃんと説明してくださいよ」と責め立てると、スモーカーさんは眉を上げ、大層な呆れ顔でため息をついてみせた。

「はァ……相変わらずなんも覚えちゃいねェんだな」
「はい?」
「そろそろ記憶障害なんじゃねェかと心配になるところだが……いや、実際にお前、軽い記憶喪失なんだったか。まさかそのせいなのか、毎度お馴染みのこのパターンは」
「なにを言ってんですか、いきなり……」

 戸惑うわたしを見て、スモーカーさんはふと表情から呆れを消し、何かを閃いたような顔――いつもの、嫌な予感しかしない、あれだ――でにまりと悪戯っぽい笑みを浮かべてきた。

「昨晩、何があったと思う?」
「それが分からないから聞いてんじゃないですか」
「考えてもみろ。男と女が朝ベッドの上で二人だ、どういうことか、猿でも分かるだろう」
「は、……?」
「お前が随分殊勝なんでな、柄にもなく煽られちまった。少しは夜みてェに可愛く強請れねェもんかね」
「な、な、なな、なにを……!」
「まァ、冗談だが」
「さ……、最ッ低な冗談言わないでくれませんか!」

クザンさん並みに品のないセクハラだ。ドン引きだ。まじで最低だ。殴りつけてやろうかと思ったがわたしの拳はか弱いので、煙への腕押しなど無意味だとぐっと堪えておく。にしても今のは酷いぞ、そろそろ警察に通報した方がいい気がするレベル――いや待て、よく考えたらこの人海兵だし警察みたいなもんなのか。世も末である。

「だが、おれが居て安心しただろう、お前」
「それは……」
「違うか?」

 とん、と指の甲でわたしの頬に軽く触れ、スモーカーさんは穏やかに目を眇める。違う、とは言えなくて、わたしは言葉を詰まらせた。
 昨晩の記憶は曖昧で、正直なところぼんやりとした感情しか覚えてないのだが、それでもずっと不安だった感覚はある。スモーカーさんは素直じゃないが、つまりわたしが寂しがってたから一緒にいてくれたのかもしれない。よくよく考えれば、スモーカーさんからする葉巻の匂いもせいぜい残り香程度で、気を使ってくれたのか葉巻は寝室に持ち込まないでくれたのがわかる。あの、スモーカーさんが、だ。

 ……なんだか毒気を抜かれてしまった。セクハラに関しては度し難いものがあるが、色々迷惑をかけたのも事実だし、これ以上文句をつけるのはやめておこう。

「まあいいです。今回のことは、わたしが愚図ったせいってのが大きいと思いますし、不問にします」
「何様だお前は。少しは素直になったらどうなんだ」
「それはこっちの台詞です」
「ったく、――……っと、悪ィ」

 一言断ってから、スモーカーさんはわたしの頬に触れていた手を引っ込めて口を軽く抑え、乾いた声で一度だけゴホ、と咳き込んだ。明らかに風邪っぽい、らしくもない音に、思わずぎょっとしてしまう。

 ……え、まさかあのスモーカーさんが、風邪? いつもあんな格好してるくせに平気な顔してる免疫力の塊、学生時代は皆勤賞常連でしたみたいな顔をしているこの人が、風邪をひくなんてことがあり得るのか。そんなまさか、ばかは風邪をひかないという通説はどうなってしまうのだ。
 ともあれ、ほぼ確実に原因はわたしなわけで……どうしよう、この人には散々看病に付き合わせてしまった挙句に悪いことをしてしまった。仰向けのスモーカーさんを覗き込んだまま、おずおずと質問を口にする。

「わたし、もしかして風邪、移しちゃいましたか」
「……いや、これはおれの自業自得だ」
「? それ、どういう……」
「あれで、まァ、移らねェはずはねェよな」

……あれってなんなんだ。あれって。

「まァ気にするな。どうせすぐに治る」

 わたしの疑問に答える気は特に無いらしく、一人で納得したようなことを言って、スモーカーさんはのそりと起き上がった。ベッドが彼の体重で軋んで揺れ、あっという間に彼の頭がわたしより高い位置になる。

 そういえば昨日は仕事を休んでいたから、スモーカーさんは緩めのワイシャツに袖を通しただけの珍しくラフな服装だ。実はわたし、この人がちゃんとした私服を着てるのを見たことはまだ3回くらいしかない。何故ならマリンフォードに来てからこっち、彼にはほぼ非番がないからだ。ついでに言うとスモーカーさんは上半身服着ないがちというのもある。そんなわけでレアな彼の姿を改まって眺めていると、くあ、と欠伸をしたスモーカーさんの欠伸がまんまと移ってしまった。


「朝ごはん作りますよ。なにがいいですか?」

 スモーカーさんより先にベッドから降り、チェストの中に突っ込んであったヘアブラシを取り出して髪を撫でつけつつ問いかける。追って立ち上がったらしいスモーカーさんの声が、背中の方から聞こえてきた。

「病み上がりだろう、少しは大人しくしたらどうだ」
「なんですか、スモーカーさんだって久々にわたしのご飯食べたいくせに。大丈夫です、この手でも簡単なものなら作れますよ……、あっ」

髪を結ぶのに苦戦してるのがバレたのか、スモーカーさんは背中越しにわたしの手からブラシを引ったくり、手際よく髪をまとめてくる。普通に上手いので、髪ゴムを手渡して結んでもらうことにした。

「器用ですねえ、スモーカーさん」
「お前、本当にその手でできんのか?」
「できますよ。これについては、わたしがもともと髪を結ぶのが下手なだけなんです」
「……なら、いつも通りにしてくれ。お前の淹れるコーヒーの味は悪かねェ」
「あはは、それじゃ期待してください。ついでに喉に優しそうなのも作っときましょうか」
「任せる」

 それは今までのゴタゴタなんてなにもなかったみたいに穏やかな会話で、思わず笑みがこみ上げた。やっぱり日常というのはこうでなくては。一人で食べるご飯はあまり美味しくない、今日はせっかく早起きなのだし、少しくらい作りすぎたって平気だろう。
 パチンとゴムで留めた音がしたので、軽く頭に触れてみる。おお、久々にいい感じに髪がまとまった。振り向いてお礼を言うと、スモーカーさんはやれやれと言った調子で肩を竦め、そのままリビングの方へ歩き出した。

 待ってくださいよ、と言いつつ彼の服の裾を掴む。スモーカーさんに着いてドアをくぐり、日当たりの良いリビングへ足を踏み入れると、レースカーテン越しに――眩しいくらいに燦然とした、朝焼けに染まる空が見えた。

「――スモーカーさん」
「あ?」
「言い忘れてました。……おはようございます」
「ふ、……おはよう、ナマエ」

こちらを覗き込み、軽く笑いながら返事をくれるスモーカーさん。ちゃんと挨拶を返してくれるようになったのも成長かなと思いながら、わたしは後ろ手に寝室の扉を閉じるのだった。

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