▼ 02-2/3
眠いのに寝れない。これも全部あの男のせいだ。
海の夜は驚くほど静かだ。陽が落ちた後でも晴れ渡るこの海域は、夜空を埋め尽くす星々のせいでずいぶんと明るい。換気のために開け放たれている窓から月光が射しこんで、木目の床を白く照らし出していた。
スモーカーさんの部屋は比較的広いとはいえ、必要最低限のものしか置かれていない簡素なものだ。そもそもこの軍艦は単なる移動用らしく、部屋が与えられているといってもさほど馴染みのある空間ではないらしい。備え付けのテーブル、ソファ、いくつかのチェストと隅に追いやられているベッド。部屋に置いてあるのはそのくらいだ。
布団からほんの少し顔を出すと、ソファの背中越しに白髪の後頭部が見えた。もくもくと立ち上る葉巻の煙も見える。もはや見慣れてきてしまったが、ほんと呆れるほど常に吸ってるなあ、あの人。ヘビースモーカー、というよりチェーンスモーカーのが適切かもしれない。
弱い灯りが彼の手元を照らしている。時折、紙をめくる乾いた音が聞こえてくるのが心地よかった。スモーカーさんは多分、海賊の手配書や新聞、なにやらよくわからない書類なんかを纏めて吟味しているのだろう。ああいう、あの強面に似合わぬ勤勉さは、素直に尊敬できると思う。スモーカーさんは偉いけど驕らない、ストイックな人であるらしいことは十分に承知している。
だが喫煙に関しては話が別だ。
なにしろ無神経だ。明かりを絞る心遣いは見せてくれるのに、わたしが一番問題にしている葉巻を口から離す気配は全くない。あっ、今新しいやつに火をつけた。
この部屋に吊り下げた大量のティーバッグはある程度の匂いは取り払ってくれたとはいえ、すでにスモーカーさんの手により回収済みである。部屋は葉巻の匂いと紅茶の匂いが相殺……されそうなところで惜しくも葉巻が優っている。あともう少し消臭に時間をかけていたなら……そりゃ見た目はちょっとあれかもだけど……匂いはしっかりとってくれたのに……見た目はあれだけど……。とはいえ灰皿に置いといたものだけは見逃してくれたあたりに、スモーカーさんの優しさを感じる。
葉巻に関しては文句の一つも二つも三つも四つも言ってやりたいところだけど、実はスモーカーさんがああしてめくっている謎の資料はわたしの現在の状況と今後の頼りを調べてくれている書類であるらしい。もちろん身元不明者の身辺調査は海兵の仕事として当然なんだろうけど、わたしの今後を案じてくれているのは彼の人情による計らいだと分かれば、さすがのわたしもどっか行ってくれと言うのは憚られた。
とはいえ葉巻のせいで眠れないのは事実。先のことを案じてくれるはよいが、現在のわたしの身も慮っていただきたいものである。
「スモーカーさん」
布団の端から目元だけのぞかせて、小さく呼びかけてみた。スモーカーさんはこちらを振り返らないまま、手元の資料をペラリとめくる。聞こえなかったろうか、と思っていると、
「……また寝つくまでの間は出て行けとでも?」
淡々とした口調の割には嫌味っぽい応答が返ってきた。
「それはもうやめたんです」
「それじゃあ何の用事だ」
「え? ああ、そうですねえ、えーと……じゃあ寝付けないので何かお話ししようかなあと思ったってことで」
「つまり呼んだだけか」
「そうすね」
「なら寝ろ」
つれない奴め。
「それがここ最近寝つきが悪くって」
「見てりゃ分かる。……だが慣れねェことばかりで疲れも溜まるだろう。ぐだぐだ言わずに眠っておけ」
「うーん、呼吸が快適ならもう少し穏やかに眠れるんですけどね」
スモーカーさんの気遣いを感じつつも、わたしはいつも通り恨み言をかます。その言葉を受けると、彼は紙束から目を離し、ほんの少し首を傾けてこちらを見やった。心なしか皮肉げな眼差しだ。
「お前は知らねェだろうが、おれもここ最近寝不足でな」
そのままふうと煙を吐くスモーカーさん。細い糸状になって、ゆらりと天井に立ち上っていく。
「スモーカーさんが寝不足? なんでですか?」
「……」
「……わたしのせいとか?」
「察しの通りだ」
まじか。心当たりがあるようで全くない。わたし関連の調べものに徹夜、と言うわけではなさそうだし、スモーカーさんは他人と同室だからどうのこうのと気にするような細い神経はしてなさそうだし……なんだ?
「部屋が紅茶の匂いで落ち着かないとか?」
「違ェ」
「わたしにしつこく食い下がられて禁煙するか夜な夜な悩み始めたとかですか?」
「……違ェ」
違うか。本気でわからないのだが。
「自覚がねェのか……」
呆れた、と言うよりむしろ憐れむような声色で、スモーカーさんは小さく呟いた。茶化しているようには見えないが、なんでそんな可哀想なものを見る目をされなくちゃならんのだ。ちょっとムッときたぞ。
「スモーカーさんにも他人の眠りを妨げている自覚はないようなので、その辺お互い様じゃないですか」
「……文句を言いたいわけじゃねェ」
苛立ったわたしの声を聞き、スモーカーさんはゆるくため息をついた。ならなんなんだ、と問おうとすると、彼はおもむろにソファから立ち上がり、
「え」
瞬きの間隙、真っ白の霞になった。突然ランプの光がふっと掻き消え、目が慣れていない暗闇の中、白煙が流動するのを肌で感じる。
いや、一体なんなんだいきなり!
意識も思考も何もかもがおっつかずに、慌てて上半身を跳ね起こす。呆然としているうちに、煙は揺らめきながらベッドのすぐ脇でスモーカーさんの姿を象りはじめていた。息を飲んで見上げる。部屋中のもやが月明かりで白く輝いて、まるで幻の中にいるような錯覚を覚える。近距離にある彼はいつも通りの仏頂面だったが、その表情に怒りの色は見当たらず、むしろ諭すような落ち着きばかりを感じていた。
「お前は口が減らねェが」
暗闇に浮かび上がるスモーカーさんの影。咥えた葉巻はまだ新しく、赤く仄かに火を宿している。なにやら真剣な声色に、緊張して背筋が伸びていた。正面からわたしに注がれる視線はぎくりとするほど直線的だった。
「そいつをおれの責任にするな。ナマエ、眠れねェ理由はてめェで分かってるだろ」
「……な」
眠れないのは、この人のせいだろう。違うとでも言うつもりか。
副流煙以外の眠れない理由? 思い当たらない。確かにここの船にきてからわたしはやたら寝不足ぎみだけど、それはまだ出会って日も浅い他人と同室だから、その相手がわたしの大嫌いな喫煙者だから、部屋中がたばこ臭いから……ほら、やっぱりスモーカーさんのせいじゃないか。
困惑するわたしを見下ろして、彼は気怠げに瞼を伏せる。低い、呆れ混じりの声だった。
「教えといてやるがな。どんな悪夢を見てるのかは知らねェが、お前は一晩中、聞いてるこっちの気が滅入りそうになるくらいには……魘されてやがる」
う、魘されている? わたしが?
まずもって夢を見た覚えは全くないうえ、まさかそんな体たらくをスモーカーさんに知られていたとは。わたしにだって羞恥心はあるんだ、嘘だろう、そんなの。静かに寝るのは得意だと思ってたのに。確かに最近、目覚めた時の倦怠感とか、冷や汗とか、気になってはいたけど。
「う、うう嘘ですよね?」
「んな意味のねェ嘘をついてどうすんだ」
「……そ、そんなはずは」
「おれにゃ自覚がねェ方が驚きだがな。昼間バカみてェに明るいのは空元気だとばかり思ってたが……ありゃ素か」
「そんな真剣に呆れないでくださいよ……」
頭を抱えて、わたしは情けない呻き声をあげる。もっと早く言ってくれたら、口にチャックでもなんでもつけておいたのに。わたしの寝言を黙って聞いてただなんて、なんとひどいやつだスモーカーさん。
「酷ェ無愛想かと思えば変なところで恥ずかしがるやつだな……いや、まァそんなこたァどうでもいい。おれが言いてェのは」
唐突に手首を掴まれる。力強いが乱暴ではない、手袋越しの大きな手だ。ぎょっとして顔を上げたわたしを、スモーカーさんはじっと見据えていた。ふわりと葉巻が燻る。この胸がむかつくような匂いを明瞭に感じたのは、初対面ぶりだな、と悠長に思う。
「……怖いなら怖いと、不安なら不安だと言え。お前は一度死にかけてるんだ。現状に必死になるのは構わねェが、自分にゃキッチリ目を向けろ」
これは……。
スモーカーさんの言うことを、どう解釈すべきなんだ。わたしは、……。
改めて思えば、死にかけたことは恐ろしかった。わたしは海面を見上げたあのとき、無様にも生にしがみついていた。全身を取り巻く死の重量を思い出すと、未だ肝が冷える。
それ以前にも、思い出したくないことがある、気はする。自分の命に対して。確かに何かを抑圧しているのなら、わたしの夢には自覚のできないものが現れているのかもしれない。なにか。恐れているのか、わたしは。
違う、今考えたいことはそうじゃない。
いや、それよりスモーカーさんは今、呆れるでなく、怒るでなく、単にわたしを案じてくれている、のか……?
「泣きたきゃ泣けばいい」
子供に言い聞かせるような挙動で、スモーカーさんはぐしゃりとわたしの頭を撫でた。ほとんど押さえつけるような圧力に「うわ」と口端から声が漏れる。
「一人部屋ならもう少し気楽だったろうが、その辺は船の都合上、悪ィな。いや、だが指摘されてなきゃ気付かねェんだ、むしろよかったのか」
「ちょ、頭、なんですか」
「お前みたいなタイプのやつァてめェでてめェを追い込んで勝手に潰れるからな。そのくせ生存願望の塊ときた、もっと上手くやれねェもんか」
「スモーカーさんは、なんでそんな、親身に」
「あァ? そりゃ、お前が青臭いからだな。おれァガキに弱くてな……」
独り言のように呟いていたスモーカーさんは、ふとわたしをまじまじと見つめ、その表情を変えた。目つきの悪い瞳を少し開いて、驚いたような顔をする。
「……顔を見たのは、初対面ぶりだな」
改めて気づいたとでも言うような声。そういえば、スモーカーさんの前ではタオルやらスカーフやら布団やらを駆使して吸煙を抑えていたのだった。たしかに素顔を晒すのは初対面ぶりである。
というか……あまりじろじろと……。
……ん?……。
……ハッ。
「……うおあ!!」
「!?」
そのときのわたしの情緒不安定ぶりはかなり極まっていたように思われるが、そう、わたしは枕を振りかざし、スモーカーさんの顔面めがけて、思いっきり投げつけた。突然すぎてあのスモーカーさんですら反応が追いつかなったらしい。華麗なる直撃に煙が舞い、枕は障害物を突き抜けて向こう側に飛んでいった。昼間の意趣返しのつもりはないが、心の中でガッツポーズを決める。
「な、んのつもりだ、この……!」
形を取り戻すスモーカーさんの首から上。自分がやったとはいえその絵面はあまりにも怖い。
「それはこっちのセリフです。スモーカーさんがベッドに近寄ったら匂いが移るじゃないですか!」
「はァ?」
「もうほんとここだけはと思って必死に頑張ったのに、それに頭にまで匂いが、悲しいですわたし」
心底呆気にとられた様子のスモーカーさんはぽかんと数回瞬いて、ようやくわたしの意図が掴めたのだろう。自分の頭をなで付けるわたしを見て、もう諦めた、と言うように眉間を抑えた。
「もういい……ちったァ殊勝になるかと期待したおれが悪かった」
「わたしはいつも殊勝です。あ、というか言わせていただきますけど、わたしはスモーカーさんのいうほどガキじゃないですからね。身長が低いのも童顔なのも人種的な問題であって……」
「……はァ。もういい、寝ろ」
過去最高に深々とため息を吐き出し、スモーカーさんはくるりと踵を返す。全く勝手な。構ってきたのはそっちのくせに……いや、はじめに話しかけたのはわたしだけど。
「!」
スモーカーさんがピタリと足を止める。まだなにか用事だろうか。
「……なんだ、ナマエ」
「なんだって、なん……」
背中にでかでかと書かれた正義の文字が歪んでいる。ぴんと張られた皺の先を見やると、スモーカーさんのジャケットを掴むわたしの手。
はっ、無意識に手が。
「えっ、いやあ、あのこれは」
「いつも殊勝、なァ」
にんまりと、わ、笑いやがったこのやろう。ていうか初めて見たぞ。スモーカーさんって笑うんだ。
慌てて手を離し、ぱたぱたと払う。なんだろう、わたしってこんなに脳と体が切り離されてる人間だったっけ。また恥をかいた。
何か言い返してやりたいと口を開き、しかし今晩はどうにも調子の悪いわたしは、また墓穴を掘るまいと口を閉じる。はあ、もういいや。なんだかんだ、スモーカーさんは現在のわたしのことを心配してくれているのだ、と分かったし。
「……もういいです、認めます。わたし確かにちょっと落ち込んでるのかもしれないです。そのせいで眠れないのかもしれません、死にかけましたし」
「あァ」
「なので、取引しましょう」
スモーカーさんはまたわたしの突拍子も無いセリフに疑問符を浮かべる。なんでそうなる、という顔だ。
このナマエ、スモーカーさんが超のつくお人好しってことは存分に理解した。いいとも、それならこちらとて遠慮なく利用してやる。
「もう就寝前の喫煙に関しては文句を言わないと誓います。その代わり……――」
そうしてスモーカーさんは、「おれにゃなんも利がねェだろう」と渋りつつも、結局了承の言葉をくれたのだった。
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