▼屠殺を待つ風見鶏 さり、さり、さり。
あたしの父が持っていた薪割り用のそれよりも、ずっとおおきくて分厚い戦斧。うらおもてを返すたび、鋭い白刃が真夏の太陽みたいにぎらぎら光る。ぬれた刃境に砥石を滑らせると、さり、さりと、想像していたよりもずっとかろやかな音がする。
目の前の巨漢は、真剣にやいばを研ぐあたしを所在なさげに見ていた。
加減を確かめるために、磨いた面にふれてみる。ふしぎと、冷たいはずの金属が生き物みたいにどくどく脈うっているように感じた。腕の断面に差しこまれた斧は癒着していて、肘から飛びだした柄にまでも薄く皮膚が張っている。だから、もしかするとあたしの磨いている刃先にさえ、血がかよっていてもおかしくなかった。強く擦るといたむかもしれないので、先ほどよりもやさしく磨くことにした。
さり、さり。静かな部屋で、かすかな摩擦音だけが鳴っている。なりふり構わず、手を動かす。 けれど、おおきな刃物をすこしずつ研ぐのは、思っていたよりも退屈な作業だった。目の前の男は、世間話につき合ってくれるほど気さくなほうではなかったので、あたしはいつもそうするように、昔父が飼っていたニワトリのことを思い出していた。このぎらぎらした斧を見ていると、かつてのことを自然と思い出すのだった。
あれは、茶色の羽をした、臭くて、あんまりきれいじゃないめんどりだった。首と尻をひょこひょこ振って歩く、みっともない鳥だ。ぽこぽこ卵を産んだけど、つるつるした殻の色まで茶色だった。それもいまいち、きれいじゃなかった。白いニワトリにすればよかったのに、と言っても聞いてもらえなかったから、父はあまり趣味がよくなかったのだ、と思っている。 あるとき、ニワトリが卵を産まなくなった。それ以前から卵を産むのは三日にいちどくらいになっていたし、茶色の卵もザラザラしておいしくなかったから、調子が悪くなったのかなと思って父に伝えた。卵を取りに行くのはあたしの仕事だったので、父はニワトリのようすを知らないだろう、と思ったからだ。父はそろそろ寿命かな、と言ってニワトリの様子を見にいった。あたしも父についていった。 トリ小屋の前で、父は片手に薪割り用の斧を持っていた。調子が出ない様子の不細工なめんどりを見て「こりゃ、だめだね。」と言い、父はポンとちっちゃな首を刎ねた。首なしのニワトリは、よろよろと一歩、二歩と歩いたあと、血をだくだく流しながらたおれて、動かなくなった。
その日の夕飯のチキンの水煮は、硬くて、筋ばってて、まずかった。ぶよぶよしたゴムを噛んでいるような気分になった。翌日には父が新しいめんどりをもらってきたけれど、それもやっぱり、趣味の悪いすすけた茶羽だった。
あたしはうんざりした。
たぷん、とたらいの水に手ぬぐいをひたして、鉄臭くなった手と、砥石と、斧をぬぐう。あれほど人間の血と脂でぎとついていた彼の斧は、今はもうぴしりと整っていて、まるで洗い立てのシーツみたいにぴかぴかしてきれいだった。 念のため、刃こぼれがないかと指で切っ先を辿ってみる。すると触ったところがジンジンしてこそばゆくなった。見れば、ひとすじ裂けた薄皮から、ちょっぴり血が滲んでいる。かゆい。
「仕上がりました」 「ご苦労」
鷹揚に応えて、彼はあたしが磨きあげた自身の右腕をおもむろにかかげた。仕上がりを確かめるように軽く腕をあげ、テーブルめがけて振りおろす。使いこまれた木目の天板はバターのようにやわらかく斬れた。
「いい出来じゃねェか」 「父の言いつけで、いつもやっていたので」
うそだ。父はあたしに刃物を触らせるのをいやがった。あたしはいつも、薪割り用の斧を研ぐのを見ていただけだった。うそをついたが、男は満足げだった。
「おれが憎いか?」 「いいえ」 「ほう。父親と違って聞き分けがいいな」
彼はあたしの父親を知っていた。一度だけ会ったことがあるからだ。
父は牧場を持っていた。あたしの家は裕福なほうではなかったけれど、父は仕事にいそしみ、なんとか切りつめて上納金を支払っていた。ところがそんなある日、海軍大佐のひとり息子が、父のちいさな牧場をペットのオオカミの餌場に決めたのだ。 お金が工面できないとなると、父は海軍基地に出向き、わんわん泣きながら、「あなたの息子の不始末だから、お慈悲をいただきたい」とわめいた。本部大佐の手は斧でできていた。彼は「そりゃ、だめだ。」と言って、右手をはらい、ポンと父の首をはねた。極刑だった。 あたしはちょうどその場にいた。父に、なぜかついてこいと言われたからだった。父の血がべっとりついた右手の斧をあたしに向けて、男は「貴様も同罪だ」と言った。あたしはがたがた震えていた。こわかった。痛いのはいやだった。だから言った。
『あなたの斧は血だらけだから、きっと切れ味が悪くなっていると思います。何回も刃を引かれるのではたまりません。一度きれいに研ぎなおしてからではいけませんか』
なんの気まぐれか、男はあたしの要求をのんだ。
さり、さり、さり。
あたしはあたしが楽に逝けるよう、何よりも鋭く、この世で一番鋭く、そうなるようにねがってやいばを研いだ。感覚のない指で、じんわりいたむ頭で、キリキリする腹で、吐きそうになりながら磨いた。墓穴を掘る、なんて言葉が頭に浮かんでは消えた。あたしは自分の死に場所をつくっているのだ。これまで感じたことのない恐怖と、けれどせめて痛みを感じないように、という後ろ向きな願いが、のろのろと頭のなかを巡った。彼の斧はいつしか、薄ら寒い光をたたえて、おぞましいほどに澄んでいた。 これで限界だ、と何度めだか思った。あたしの指はもうすっかり動かなかった。うなだれて首を差しだし、断罪を待った。男が手をあげて刃渡りを確かめていた。心のなかで、苦痛なんて感じないうちに逝ければいいと、びくびくしながら祈った。あたしはぎゅうと目をふさいだ。
――そのとき、男はほう、と感嘆の息を吐いた。そして言った。
『まだ足りねェ。もっと鋭くなるように磨け。これから毎日だ。おれの右腕が完璧に研ぎ澄まされたときに、お前を処刑してやろう』
彼の斧を磨くのがあたしの仕事になった。
「ナマエ」
ふと名前を呼ばれて顔をあげた。
なにかいいことがあったのかな、と思った。機嫌がよさそうに見えたからだ。すると彼は手のひらを、正確には腕に埋め込まれた斧をくるりと返して、そのほれぼれするほど美しい曲線をあたしの首に添えた。いよいよ、あたしの首を切りおとす気になったのだろうか?
「おれは偉い。なぜか分かるか」
ちょっと考えた。わからなかった。
「わかりません」 「この島で一番腕っぷしが強いからだ」
あたしは足元で、いもむしみたいにごろりと倒れている海兵を眺めてみた。貴重な上納金を巨像の建設なんかに使うなんて、と嘆いていた人だった。脇腹のあたりがざっくり斬れていて、痛そうだ。
たしかに、彼の言うとおりだと思った。
「なるほど」
あたしがうなずいたので、男は嬉しそうだった。顎についている鉄製の金具のせいで口もとがはっきり見えないけど、あたしはなんとなく、この人は笑ってるのだと分かった。
「だからおれには、貴様の命を奪う権利がある」
そういうものなのかな、と思った。けどすぐに、それもそのとおりなのだろうな、と納得した。父はニワトリに、殺してもいいですかなんて聞かなかった。 首に当たっている凶器は心地よく冷えていた。夏の日の木陰みたいにひんやりしていた。男は斧の平たい面で、あたしの頬をひたひた撫でた。
「今は怯えねェんだな」 「あたしって、あんまりきれいじゃないから、仕方ないかなって」
あたしは茶色のニワトリに似ている。日に焼けていて、あんまり白くない。だから、きっとポンと首をはねられてもおかしくない。けど、あたしが研いだこの人の大斧は白くてきれいだから、茶色の卵しか産まなかったあのめんどりよりはましかな、と思う。 いきなり、男は不満げな顔をした。お気に入りの服が汚れてしまったときみたいな顔。あたしの首の皮が刃渡りの形に沿ってへこんだ。
「おれが、てめェごときに、大切な右腕を手入れさせるのはなぜか分かるか」 「わかりません」 「左腕で磨くのは大変だからだ」
確かに、そのとおりだと思った。
「だから、貴様が特別、優れてるからというわけじゃねェ。そこのところは勘違いするな」
そんな勘違いをしたことはなかったけれど、あたしはそのまま「はい」とこたえた。男はおもしろくなさそうな顔をした。なにかまちがえたかな、と思った。
「だが、偉いおれの武器の手入れを任されるような奴は、それ相応じゃなきゃならねェ」
彼の言うことは難しかった。とにかく、あたしがなにか足りないんだろうな、とだけ、ぼんやりわかった。だからたずねた。
「あたし、どうしたらご希望に添えますか?」 「海軍大佐専属の名誉をやろう」
その称号がいいものなのかわるいものなのか、あたしにはやっぱりよくわからなかった。でも、名誉というのだから、きっとわるいものじゃないのだろう。
「光栄だろう」 「はい。嬉しいです」 「お前は役に立つ、ナマエ。お前はこのまま、死ぬまでおれに奉仕しろ」
死ぬまで。はじめに言われていた通りのことだった。
「わかりました」
うなずくと、首から斧が離れ、手を引かれた。男が口もとの金具をずらしたので、いたいたしく砕けた顎が目に入った。あたしはふうん、と思った。骨が歪んでしまって、金具がないとうまく口が閉じられないのだった。少し、格好わるかった。
「忠誠を誓えるか」 「はい」 「このおれに」
彼は意外と、格好わるいのだ。あたしはなんとなく安心した。この男のひととあたしには、人間と、ニワトリくらいの差があると思っていたけれど、ほんとうは白か、茶色かくらいの違いだったのかもしれなかった。
「はい。貴方に、モーガンさま」
あたしはひざまずいて、こうべを垂れた。すると、視界のそとから彼の手がのびてきて、ぐいと顔をつかまれた。あたしにふれているのは、あの戦斧とちがって生ぬるい温度をした、ヒトの手のひらだった。上を仰ぐと、彼は、歪んだ顎で笑みをうかべていた。誕生日プレゼントをもらった子どものように、どこか嬉しそうにはしゃいでいた。 あたしはそうか、ときづいた。今この人は、白くも、きれいでもない、すすけたあたしを欲しがっていたのだ。白いやいばをさりさり磨くあたしではなくて。たぶん彼も、父と同じで、あんまり趣味がよくなかったのだ。だとしたら、それはすごくついてるな、と思った。たとえ屠られるとしても、もらい手があるだけで、十分よかった。
男があたしのほおを撫でる。
あたしは彼の手にしたがって、そして、目をとじた。
しばらく経ったある日、彼に「褒美として、何か欲しいものを一つやろう」と言われた。あたしは白いめんどりをねだった。彼は理解ができない、と言った顔をしたけれど、翌日には一羽の真っ白なニワトリをくれた。 白いめんどりは思っていたよりも、きれいじゃなかった。ギョロギョロした目は気持ち悪かったし、コッコッとばかみたいに喚いたし、糞の臭いが酷かった。なんだ、とあたしは思った。茶けてても、白くても、下品なのは変わらなかったんだ。あたしはがっかりした。けれど、どっちも同じくらい汚くて、不細工で、みっともないなら、あの茶羽が特別できが悪いわけじゃなかったのだ。過去の自分が得をしたような気分になって、あたしはいい気持ちで抱えたニワトリの背中を撫でた。
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