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一起去


一七九〇回忌(2010年)


 霧の深い道であった。
 足下も見えぬほどの深い霧の中を、ただ一言の言葉もなく歩き続ける。僅かでも手を伸ばせば指先でさえ霧に埋もれて見失うような場所を、ひたすらに歩き続けていた。見覚えがある場所なのかどうかも確認のかなわない視界である。にも関わらず、不思議と道に迷ったような不安感は心中になかった。
 川霧だろう、と夏侯惇は思った。白くぼやけてしまったような世界に周囲の風景は全くもって見えてこない。しかし、耳には確かにどうどうという水の流れる音か聞こえている。足下からはじゃくじゃくと砂を踏む音。川が近いに違いはなかった。それだけでは決して霧が川から流れてきているとの根拠にはならなかったが、それでも漠然と、この霧は川のものであるに違いない、と夏侯惇は考えていた。
 一向に薄れる気配のない霧の中を、黙々と足を運ぶ。どこに向かっているのか、明確には解っていなかったが、立ち止まろうとは思わなかった。昔、夢のなかで化け物に追われたことがあった。幼い頃のことである。眠る前に、意地の悪い従兄弟から怪談を聞かされたばかりであったから、恐らくはそれを夢に見たのであろう。夢の中の夏侯惇少年は、背後を追ってきている化け物から逃れようと夢中で走っていた。現実とは造りの違う家は、出鱈目に部屋と部屋が繋がっており、寝房の扉を開くとそこには庭が広がっていた。庭に飛び降り、現実には存在しない裏のわき道を駆け抜けて懸命に走る。捕まってはいけない。何の疑いも持たずに走った夢の記憶に、夏侯惇は、似ている、と思った。疑問も迷いもなく歩くこの感覚は、夢の中に似ている。交互に足を出して砂を踏む。先の解らぬ霧の中、一歩前には道がないということもあり得るのだと、想像してみたものの、特にこれといって何の恐怖も夏侯惇の胸中には浮かんでこなかった。
 一歩、また一歩と足を踏み出して、僅かに冷たさを感じる霧の間を進む。相変わらずどうどうと聞こえる川の音は、気持ち大きくなったように思えた。何を基準にしたのかはすっかりと忘れてしまっていたが、前方であると思っていた真正面に、何か大きな影がうつっているように、思える。足を止めぬまま、ただ僅かばかり歩調を緩めて、夏侯惇はその影を見つめた。
 漠然と、自分はこれを目指していたのだと納得する。
 歩を進めるごとに大きくなっていく影は横に広く、左右対称であった。耳鳴りの起こりそうなほどの水の音。踏み出した足が、ぺたりと滑らかなものに触れた感触に、初めて川に辿りついたのだと気付いた。足下は霧に包まれて相変わらず確認できないが、湿り気を含んだ感触はほんの少し柔らかであり、ごつごつとした堅さは持ち合わせていない。木だ。欄干は見えないが、おそらくは橋であろうと夏侯惇は推測していた。
 橋は長かった。徐々に影は大きくなり、形状も明確になる。横に広く構えているその影は、建物のように見えた。位置からして正面の門に直接繋がっているのであろう橋は、なるほど馬や荷も通るのだろう相当に幅も広く造られているようであった。
 一層に激しさを増す濁流を思わせる水音に混じって、微かな人の声が聞こえてくる。川の流れる音にも負けず僅かながら鼓膜を揺らした声は、何を喚いているのかまでは聞き取ることが叶わない。しかし、確かに人の声であった。

 夏侯惇は、死後の世界など信じていない。人は、死ねば土に帰るだけであると考えてきた。だからこそ、己の死後、陵墓には剣を一振り入れるのみにせよと息子達には言い遺していたのである。
 声には聞き覚えがあった。
 影に濃淡が生まれ、蔦の絡む城門が明確に霧の中姿を表した頃、門扉の真正面に人の影が二つ。論を戦わせていた。霧に霞む姿は、中背の男の影と小柄な影である。橋の袂まで渡りきった夏侯惇は、己が右目を疑いつつも小さく、孟徳、と呟いた。
 何故死んでからまで働かねばならないのか、と声を張り上げて主張する男は、疑う予知などまるで入り込めぬほどに、確かに曹孟徳その人であった。まとめきれぬ生え際の髪、吊り上がった目に映る強い意思、鼻筋に寄せられた皺、伸ばされた顎髭。三月ほど前に鬼籍に入ったはずの従兄弟が何故、と、とうとう足を止めた夏侯惇は、ある種の感慨と共に今度ははっきりと通る声で曹操を呼んだ。
 どうどうと流れる川を背に発した声は、だが曹操には届いた。驚いたように振り返り、直ぐさま意地の悪いような質の悪い笑みを曹操が浮かべる。深衣を纏った中背の男に一度視線を投げた夏侯惇は、かつてそうしたように、態とらしくも呆れた様な表情を作った。
「こんなところでまで揉め事か、孟徳」
「退屈せずにすむであろう、夏侯惇」
 目を細めて、遅かったではないか、と咎める従兄弟に、死人と違って忙しくてな、と夏侯惇は素っ気なく。しかし、同じように軽く目を細めていた。
「お前が何だかんだと放り出して死におったせいで、忙しくて敵わんかったわ」
 もう、お前の世話なんぞ二度とせん。
 言い切ると、曹操は、全くもって同感だと、からから笑った。


[幕切]



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