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何も、お前が悪いわけじゃない。


曹孟徳の〈我が儘〉は今に始まったことではない。



年を経るごとに増えてゆく孟徳の我が儘に、俺はゆっくりと溜息を吐いた。
「で、今度はなんだ。孟徳」
「いや何。たいしたことではない」
そう前置きして始まる〈丞相〉の〈命〉を、黙って聞く。
こういうときの孟徳は、声こそ弾んではいるものの、目は何かを計るかのように、真剣なことが多い。
例え、どんな無理難題であろうとも、俺は断れないということを、知っているくせに。
それを、責めるかの如く。
口の端を上げ、いかにも楽しい、といった表情を作って。
真剣に、計っているのだ。
さあ、断れ。と。




「我が儘をいうな、孟徳」
それは出来ない相談だ、と。
そう言って、お前の言葉を、俺は単なる〈我が儘〉として切り捨てた。


「俺は一将兵だ。そのことを忘れるな」
孟徳が、何を考えていたのか。知っていながら、俺は切り捨てた。
俺がそう切り返すであろうことは、予想済みだったのか。孟徳は此方から目を逸らすと、俺に、完全に背を向けた。
「そうか」
もう、下がっていいぞ。
その時に孟徳の肩越しに聞いた声は、はっきりとした声だった。
少なくとも、俺自身の発した声よりは。
掠れもしていない、明瞭な声であった。
孟徳は、気付いていた筈だ。断る俺の声が、微かに震えていたことを。
俺の、この答えこそが、余程。
〈我が儘〉である、ということを。


俺は、外で名を呼ばう声に、「応」と、返事をして。
孟徳の幕舎を後にした。




年を経るごとに増えてゆく孟徳の我が儘に、俺はゆっくりと溜息を吐いた。
「で、今度は何だ。孟徳」
「いや何。たいしたことではない」
数日前、この戦に出立する前日も聞いた〈丞相〉の言葉に、俺は、またか、と手元の竹簡から顔を上げた。
孟徳の方から此方を訪ねてくるのは、普段は兎も角として、戦時は珍しい。
久しぶりに見る孟徳の戦装束は、陣幕を上げているせいで逆光となり、上手く見えなかった。
幕舎の入り口付近に突っ立ったまま、黒い影と化している孟徳は、暫くジッ、と此方を見ていた。
入れ、と促そうとも。
否、長居するつもりはない、と断られる。
仕方なしに腰を上げようとしても。
そこでよい、と止められた。
憮然として、座ったまま孟徳を見上げるが、太陽光がどこまでも邪魔をして、その顔を拝むことは叶わない。
「惇」
「何だ、孟徳」
まるで、世間話でも始めようか、というような、孟徳の声。
「この戦、おぬしは出るな」
「我が儘をいうな、孟徳」
それは、出来ない相談だ。
首を振る俺に、始めから断られると予想済みだったかの如くに、間を空けることもなく。孟徳は続けた。
「なれば、儂の近くに居よ」
「俺の配置は、先の軍議で決まっただろう。今更変えられる訳があるか」
〈命〉ではない〈我が儘〉に、俺は再び首を振る。
「余り前に出るのではない」
「本陣でじっとしておられんような、総大将ではないのであればな」
逆光に、徐々になれつつある目を凝らして、俺は、孟徳に軽口を叩いた。
孟徳は、その返事は予想していなかったのか、忌々しそうに呻いて身動ぎした。
「偶には、儂の命令ぐらい素直に聞いてみよ」
惇! という声に、やれやれと、広げたままであった竹簡を巻いて卓子に置いた。
「お前のそれは、我が儘というんだ」
主命とあらば聞いておるわ。
邪魔になる文房具を、手早く纏めて脇に寄せると、先ほど巻いた竹簡を、傍にある簡策の入った壷に挿した。
卓子の上に一つ、残された灯火皿を引き寄せて、火を、ふっと吹き消し腰を上げる。
今度は。
孟徳は、止めはしなかった。
「俺は一武将だ。君主の為に戦うのが役割だ」
目の前まで歩を進めて告げてやれば、孟徳は顔を逸らして、「だからおぬしには魏の官位をやらんのだ」と小さく呟いた。
狭い幕舎の中には、仄かに暖かい蜜蝋の、吹き消された火の残り香が、漂っていた。




嘗て、お前のただ一つの〈命〉を〈我が儘〉として切り捨てた時。
俺は決めたのだ。
俺の〈我が儘〉はこれ一種類にすると。
お前の〈我が儘〉はこれ一種類にすると。
主君の〈命〉を〈我が儘〉とするのはこれのみにしよう、と。
震える声で、誓ったのだ。




「よいか、惇。儂より先に死ぬのではないぞ」
言い捨てて、幕舎を後にした孟徳に、俺は恐る恐る息を吐き出した。
臣下・官位の問題では、ない。
互いに気付いているからこそ、固執するのだ。
己の野望に、俺を巻き込みたくない、お前と。
ただ、お前に置いていかれたくない、俺と。
なぁ、孟徳。
いっそ。
「お前が殺してくれたら、と」
いつしかそう。


[幕切]



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