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媽媽!


 夏侯惇は茫然としていた。
 子供じみた曹操の我が儘だの、奇人変人と名高い張遼の珍行動だのに振り回され、陰で媽だなんだと呼ばれることにいい加減嫌気が差していたのは、まあ何時ものことである。こめかみの血管を浮き上がらせながら、何時までも布団に懐いたままで一向に起きる気配がない曹操の尻をひっぱたいて起こすのも、まあ何時ものことであろう。
 ただ、そうして曹操を叩き起こして出席した軍議の途中、真顔で放った張遼の言葉と、それを更に茶化した曹操の言葉がどうにも癇に障ったのである。
 日頃の鬱憤を晴らすかの如く怒鳴り、やっていられるかとばかりに会議を途中退席して仕事すら切り上げた。官衛を出て、腹立たしさもそのままに馬を走らせ、遠乗りに出たのは今朝のことであった。
 思うままに馬を走らせ、日が暑くなり馬の身体から汗が吹き出して来たころ、漸く馬から降りた。綱を引き照り付ける陽気に辟易しながらも木陰を見付けると、木に馬を留めて、木陰の下、草の上に寝転んだ。よくよく考えて見れば、実に久方振りの休日であった。毎日、何かしらの用事で官衛へと赴いている。馬を走らせている内に怒りは冷え、やり過ぎたかという気持ちもあったのだが、休日返上で働いていることに思い至れば、まあいいかと、ゆるりと瞑目した。
 風が心地好かったのである。短い草が揺れて、横になった腕や頬に擦れるのが妙にこそばゆかった。繁った木の枝が、葉が、揺れて瞼に揺れるのが眩しかった。運ばれてくる渇いた土の匂いに、やけに気持ちが落ち着いた。
 しばらくして、頬に濡れた冷たさを感じた夏侯惇が瞼を押し上げた時、目の前には馬面が、ドンと構えていた。
 傾きかけの日に、陽気はなりを潜めており、着物の袖をはんで引く愛馬に、帰宅を促しているのだと思い至る。起き上がって、馬の首筋を軽く叩いてやると、夏侯惇は木に掛けていた綱を解いた。家人に心配される前に帰るか、と顔を上げて、彼は硬直したのだった。
 幼いころ、父に連れられて訪れた従兄弟の家で、部屋から一歩出た瞬間、自分が今どこにいるのか解らなくなったことがある。慣れない街に赴けば、振り返った瞬間に、己が今どこにいるのか解らなくなる。
 今まさに、夏侯惇はそれらと同じ感覚に陥っていた。
 辺りを見渡せば見渡すほどに、何処から来たのかが解らなくなる。許都はどちらにあるのか、馬に任せて駆けたこともあり、夏侯惇にはさっぱりと解らなかった。
 馬の、鼻息ともいななきともとれない声が、辺りに響く。取り敢えず、一人ではないことだけが救いだった。


「お帰りー、惇」
 家に着いたのは、すっかりと日の落ちた後であった。妙な疲労感と共にわが家に入れば、客人が来ていると使用人に告げられた。曹操である。
 姿を見せるなり笑う曹操に、夏侯惇は、ぐ、と掌を握りしめた。土に汚れた手の甲に、くっきりと血管が盛り上がる。曹操は、気付かない。
「遠乗りに出てたんだって?」
 久々の休みはどうだったー?
 固い床を、音を立てて大股に歩く夏侯惇は、無言のまま正面に近付いていく。
 ──ゴヂンッ!
「〒※§@&#%£****&↑→↓+□△△+LRLR────!!!?」
 頭を抱えて台に頭を突っ込む形で転がった曹操に、夏侯惇は、ふん、と鼻息を抜いて、そのまま斜め隣にどっかりと腰を下ろす。
「まあまあだ」
 完全なる八つ当たりに、一転夏侯惇は口の端を上げてにやりと笑うと、用意されていた杯を手にとるのであった。

[幕切]


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