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黒い天井


鬼神が、死んだ。
鬼神は、自分が目指していた物を、体現したような者だった。
鬼神は、いわば自分を構成する物だった。
────嗚呼、唯一つ。想いだされしは。


懐かしき、我らが白き大地よ。

「────ッ!!」
飛び起きて、同時にヒュウッと鋭く息を吸い込んだ肺に、激痛が走る。次の瞬間には息が詰まり、張遼は胸元を押さえて、寝台に蹲った。
痛い。
耐え切れない程の痛みと息苦しさに敷布を四肢で掻いてもがく。体は、苦痛から逃れようとでもするかのように勢いよく石の床へと転げ落ちた。
思うように呼吸の出来ない苦しみに、咽喉を掻き、胸を押して、のたうつ。見開いた瞳に涙が浮かんできた。次第に、胸を押さえる手や、突っ張ろうとする足が強張り始める。
また、か。
酸素が足りずに、意識は霞がかかったようになっていた。だが、脳の奥深くでは、未だはっきりとした意識が残っていて、そこは、ただ冷たく呟いている。これは、当然の報いなのだ、と。




遠くで、馬の嘶きが聴こえた気がした。



目が覚めると、そこにはここ暫く見てきた天井は無く、映ったのは今にも崩れてしまいそうな、そんな思いを掻き立てる風情の、天井だった。重い瞼をほんの少し上げたまま、瞬きもせずに天井を見詰め続ける。
黒い。
部屋に余り光が入らないからか、天井は暗いというよりは黒いと喩えたほうが近いように思われた。
「お。起きたのか?張遼。」
声がして、天井を見上げていた張遼の視界に、唐突に片目の男が映りこんだ。
驚いて、男を映したまま視界を固定した。黙ったまま瞳すらも動かさずに寝ている張遼に、男は眉間に皺を寄せて張遼の目の前で手をヒラヒラさせた。それでも動かない榛色の目に、眉間の皺を深くする。
「目を開けたまま寝る人間が居ると、話には聞いたことはあるが。」
僅かに顔を近付けて困惑する男に、寝てなどいない。と心中で零して、男に焦点を合わせてみる。男は、寄せていた顔もそのままに、一つしかない目を見開いた。
確か、この男は何度か見たことがある。
えらく軽装のその男は、ひょいと屈んで、少し前まで自分の手のあった位置まで顔を下げた。
男の、無造作におろされた髪が、硬質な音を立てて流れる。
「起きてるのか?」
質問に、視線を合わせることで返事をする。喋るのも、だるかった。
そのことを、幸いにも気付いてくれたのか、男は軽く笑みを浮かべておどけた様に声を上げた。
「驚いたのだぞ。火急の用でお前の家に行ってみれば、使用人には止められるし。部屋に入ってみれば、お前は倒れているし。」
医者に連れて行こうとしたら俺が何かしたのではないかと、お前の所の奴僕には疑われるし。
言って、男は張遼の額を軽く撫でた。その優しい手に、居心地の悪さを感じて、すい、と視線を逸らした。
寝台の隣には、小さな窓が備え付けてあった。外は、まだ暗い。
「火急のよう、とは?」
搾るように出した声は、いつもの僅かに高い、張りのある声ではなかった。男が、再び驚いているのが気配で分かる。
よくよく、驚く男だ。
張遼の出した声は、低く掠れていて酷く聞き取りにくかった。男の驚きようからすると、彼は自分の声を聞いたことがあるのかもしれない。逸らしていた視線を張遼は男の居る方に戻した。
男は、驚きを引っ込めると共に、今度は妙な顔をしていた。その表情の変化から目を離さないように気をつけながら、張遼は指先に力を入れて、体の動きを確認していた。
どことも分からないようなところに長居するつもりはない。
考えている間に、男は、ああ、と言って眉間の皺を解いた。
「いいや、なに。明日の出仕一番に軍議が入ってな。その準備で聞きたいことがあったんだが。」
まあいい。と、直ぐに続ける男に張遼は微妙な違和感を覚える。
不自然だ。
急ぎの用と言っておきながら、今問えばもう良いという。それに、何だ、この表情は。何か言いたげな男を黙って見詰めるも、男の方も黙ったままで、見詰める張遼を見返してくるばかり。
何とはなしに彼を見詰め続けて、ふと男の、青と薄青色の間のような、繊細な色をした衣の肩口に、微かに染みがあることに気がついた。
あの、色は。
「……将軍。」
「何だ?」
顔を上げると、不意打ちのように視線がぶつかった。
目を逸らすこともしない男に、一層気まずさを感じて、張遼は口を噤む。
開きかけていた口を、いったん閉じてしまえば出掛かっていた言葉は、どこかへと消えてしまった。言いかけて、直ぐに黙りこくった張遼の様子に、男の方は、それを張遼の咽喉の調子が悪いからだと思ったようだった。男は、聞きやすいように椅子を動かして近づいてきた。このままでは、埒が明かないと、張遼は半ばやけくそ気味に声を発した。
「何か、言いたいことが、ある、のでは?」
声は、掠れたまま。男は軽く目を見開いて後、思い出したように軽く吹き出した。
「よく分かったな。」
男は笑ったまま、いやな、と続けた。
「孟徳が、お前は喋れんのではないかと言ってたから、少々驚いたのだ。」
何だ、ちゃんと話せるのではないか。
まるで、安心したような笑みを浮かべる男に、張遼は若干冷めたような目を向けた。
なるほど、この片目は曹操に私の様子を見よと言われているのだな。
まるで親切そうな顔をして。頼ってくれ、といった雰囲気を出して、相手の本音を聞きだすのだろう。何か企んでいないか、本当に帰順しているのか、心の中では何を考えているのか、降将ともなれば目をつけられるのは当然のこと。丁原殿が死んで董卓に降った時もそうだった。董卓は、降った者達の殆どに見張り役をつけた。それは、何所に行こうとも、何時もついて回った。董卓は、誰かを信じることをしないどころか、疑うことしかしない男だった。その董卓が死んだ後、追われるようにして都を出た。
呂軍の、始まりだ。
呂布殿は、彼の御仁は、人に対して、疑うどころか興味を持つことも稀有だった。それでも、自分のことを、信じてくれていたように思うのだ。──丁原殿でさえ、まだ年若かった自分を引き抜いたあと、素行調査のようなことをしていたというのに、だ。──いかに長い間同じ主君を持っていたからといっても、問答無用で信じてくれているのが、嬉しかった。疑わないのか、そう問うたこともあった。何より、口下手な彼の御仁が、眉間に深い皺を寄せながら告げた言葉が、心地よかった。


『────────。』


「張遼?」
おい、大丈夫か?と心配そうな顔が間近にあることに気付いて、慌てて返事をする。目の前の男は、疑わしそうな顔をしていた。
不味いな、と思った。見張りの前で、隙を見せるのは、あまり好ましくない。少しでも疑わしいことがあれば、それは真実であろうと無かろうと、全て主君の下に報告が行くからだ。事実、それで酷い目にあったこともある。
張遼は、ぐ、と奥歯を噛み締めると寝台から身を起こした。
男が、慌てたように声をかけてくる。心配ないと小さく言って、床に足をつける。床の粗い木目が痛い。
心配ない。それは、半分本心だった。曹操軍に降ってから、しばしばこの発作に襲われていた。その後の眩暈や咳、息苦しさは酷いが、未だ死には至ってない。だから、大丈夫だろうというのが、張遼の考えだ。
最も、気絶するほどの発作は今回が始めてで、今後この発作に襲われて死に至らないという保障は何所にもない。
だが、張遼は、半ば死んでも構わないという考えでもあった。
「おい、無茶はするな。」
心底心配そうな男の声に、何処か苛々した。貴方には関係ないだろう、言いそうになって、言葉を飲み込む。無言で、立ち上がった。裸足の足に、床の木材のささくれが食い込む。
「まだ医士殿の診察は終わってないんだぞ。」
男は、困ったように言い、立ち上がった張遼の背に手を回した。どうやら、自分はふらついてしまっていたらしい。僅かに癪に障って、回された腕をやんわりと払う。男は、張遼の目に、何か感じるところがあったのか、ゆっくりと手を引いた。途端に、バランスを崩して壁に手をつく。近くの卓の上に置いてあった水差しが落ち、派手な音を立てて割れた。
「張遼!」
諫める声に吐き気を催しつつ。
ぐらぐらする頭を一度壁に打ち付けて、張遼はゆるりと足を運んだ。薄い夜着しか着ていなかったが、気に留めずに壁沿いに歩いた。


[切]


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