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崇拝


其は、真実に忠誠か。

長坂を行く大群衆を、夏侯惇は崖の上から見下ろしていた。
老いも若きも必死になって先を行く軍について行くその姿に、微かな既視感を感じる。

「此処までくると宗教ですね」

半ば呆れたような、溜め息まじりの韓浩の声に、夏侯惇はぼんやりとしたまま、「ああ、まったくな」と返事を返した。
砂塵によろめき、一層身を寄せ合う民衆。
彼らは、劉備こそが自分たちを導くものであると、劉備こそが仁徳の持ち主であり儒教の教えにある皇帝の位を禅譲されるべきものであると、信じているのであろう。
そうして、盲目的陶酔感を持って、ひたすらについて行くのだ。

「殿(しんがり)を行くということが、どういうことかも知るまいに」

それでも、劉備はお前たちに最後尾を行かせようというのか。
のろのろと進む民衆と、前を行く劉備軍の間は、徐々に開きつつある。
それでも、お前たちは奴らが信じられるというのか。
劉備は自分達を見放さないという、根拠のない信頼を。
どうして、持つことが出来る

「劉備を追えば、民を蹴散らすこととなりましょうな」

さして、困った。というような雰囲気を匂わせることもなく呟かれた声に、夏侯惇はギクリとした。

「張将軍」

韓浩が声の主を呼んだ。
色白の軽騎兵隊長は後方から馬を寄せると、何の迷いもなく落ちるぎりぎりまで愛馬を崖の淵まで進めた。左前足の蹄の半分程は、地から外れているようにも見える。

「早かったな」

俺達よりは随分と後に出陣した筈だが。
聞けば、「ああ」と返してきた。

「本隊はまだ着いてはおりませぬ。我が隊だけ、先に」

言う張遼に、夏侯惇は何処かほっとした。
まだ、本隊は着いていない。
孟徳は、劉備に従い付いて行こうとする民衆を見て、如何に思うのだろう。
聞いてみたい気もするが、聞きたくない気もした。

「攻め倦ねておいでか」

天下の夏侯将軍が一体何を倦ねることが御有りなのだ。
声には疑問と、微かな苦笑が織り交られていた。

「民は、敵ではない」

「武器を持てば敵でしょう」

冷ややかな目で民衆を見下ろす張遼に、夏侯惇は唐突にその背中を突いてやりたい衝動に駆られた。勿論実行に移したりは出来ないのだが。
夏侯惇は、微かに顔を右へと横向けた。
曲がりくねった峡谷を、蹌踉めき、倒れながら、這ってでも劉備に付いて行こうとする人々。次々と脱落者が出る中、軍は僅かに進軍速度を速めたようだ。

「孟徳は、」

「青州の黄巾と戦った時、無理に血を流そうとはしなかった」

息継ぎに一度区切った夏侯惇を、張遼は黙って待っていた。
夏侯惇は、肺に余った空気を静かに抜いた。
少しして、馬の蹄が地を踏む音がした。
かつり、かつり、と音は左の死角へと近付き、通り過ぎる。
咎めるような馬蹄の音に、夏侯惇は瞑目した。
期を逃せば、被害が出るのは前線の兵達だ。指揮を任される自分達ではない。

それでも。

それでも、民は敵ではないのだ。

農業は、国の本であり、民は国自体だ。
それが、曹孟徳の考えである。
己が真実どう考えていようとも曹孟徳の考えが尊重されるべきであり、また曹孟徳その人の考えこそが我が意志であるのだ。


橋に差し掛かった劉備達の背後に、いつの間に崖を下ったのか張遼隊が布陣していた。
北の生まれの者ばかりで編成された彼等は、相手が農民や商人であろうとも武器を持てば容赦はしない。
峡谷に叫声の響く中、隊に飛びかかる民から先に斬り伏せられてゆく。
劉備軍は進軍速度を緩める事はしない。
それでも、民草は必死になって劉備を守ろうとまでしている。


夏侯惇は散らばる屍に、長く息を吐き、此処に居ない主君を強く、意識した。


[幕切]


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