■tos | ナノ
好きとは言えない


 愛だの恋だのを語るのは得意では無かった。昔から。
 一人だけ、本気で愛した女性は居たが、彼女は十六年前に鬼籍へと入っている。
 他の女性と経験が無いわけでは無いが、ただ、そこへ確固たる恋愛感情が動いていたかと問われれば──実に薄情なことながら──微妙なところだった。
 鼓膜を揺らした言葉へ軽く嘆息して、クラトスは瞑目した。執務室の、備え付けのデスクに向かったまま顔を俯かせて、じっと動きを止める。別段何か書き物をしたりしていたわけではないのだが、デスクチェアに腰を下ろすことは多かった。何となく、落ち着くのだ。
 どこか空々しい室内において、すっかり彼の居場所となっている椅子の上で、何度か足を組み直した。礼帯の巻き付けられた騎士服は、その動きに抵抗するように突っ張るが、さして気にはならなかった。
 白を基調とした彼の騎士服は、もう随分と昔に出奔した祖国のものである。最も、その服が騎士団で使用されていたのは数千前までであり、今はデザインも材質も違っているはずだ。
 その騎士団の仕事として、娼館へ行ったこともあった。他国の高官を持て成すような高級娼婦たちからは、貴重な情報を聞けることも多い。夜の外交官とも呼ばれることのある彼女らとの駆け引きは、実にスリリングで官能的でもあった。
 ただ、それは擬似的な駆け引きに過ぎず恋愛とは一歩間を置いたものであると、彼は理解している。
 デスクの上に置かれていたインク壷を手持ち無沙汰に一度手の中で転がして、クラトスは瞬きをした。やけに明るいマナ灯の人工的な光は網膜に焼き付き、瞼に残像として反対色を残していく。
 祖国へ居た頃は、そういったことと無縁だったように思う。色々と思い返して──彼はインク壷を天板へと戻し溜め息をついた。そういう時代では無かったのだ、といえば言い訳にもなろうが、あくまでも言い訳に過ぎない。同じ時代を共に駆け抜けてきた青年のはっきりした言葉に対して、無器用な真似しか──実際は、すら、と言った方が近いのだが──出来ない己が歯痒かった。
 今一度息を吸う音が聞こえて、クラトスはそれまで頑なに見ようとしていなかった方へと視線を投げやった。止めて欲しい、とも言いたかったが、実際にはその一音すらも声は出ることは無かった。
「本当に、決意は変わらないのか?」
 通信室を通じてデスク正面の転写モニターへ映し出された男は、最後に会った二年前と全く変わりのないように思えた。もっとも、相手はハーフエルフであるだけに、二年かそこらで風貌が変わるなどということはないのだろう。男は、変に真面目な顔をしていた。
「ああ」
 短く頷いたクラトスを見詰めて、男──ユアンは語調を落とした。解っているのか、と問うユアンはどこか思い詰めているかのような表情を浮かべていた。
「デリス・カーラーンがアセリアと接触するには、百年近い月日が必要となる」
「ああ」
 クラトスは先程と同じ言葉を繰り返して。己を見詰めたまま一瞬足りとも逸らされない常盤色の目から、逃げるように視線を彼の背後へと移した。
 木々の色は若く、側には苔の付着した瓦礫が幾らか見て取れる。その場所はかつて救いの塔が建てられていた場所だろうかと、クラトスはぼんやり考えて。他には有り得ないことへ思い至り、微かに自嘲した。
 この二年でデリス・カーラーンは随分とアセリアから離れた。この距離でも尚連絡を取れる施設があるとすれば、それはレネゲードのベース基地か、そうでなければ塔の跡地ぐらいのものだろう。或いは、今はもう使い物にならなくなったウィルガイアへの転送装置を改造したのかもしれない。
「クラトス」
 鋭く呼ばれた名に、クラトスは軽く首を振った。
「解っている」
「貴様は解っていない。人の寿命は短い。我々よりも遥かにな。百年の後にはロイドは──オリジンの契約者は、この世にはいないのだぞ」
 そこまで一息に言って、ユアンは一端言葉を切った。反応を伺うよう、睨付けてくる。
「あの子とは、きちんと別れをしてきた」
 ロイドは、納得はしていないかもしれないが、理解してくれた。
 きっぱりと言い切り見返せば、彼は数秒、クラトスを睨んで、苦々しく口を開いた。舌打ちでもしかねないほどに不機嫌に見える表情の、どこかへ焦りを含んでいるようにも見える。
「だが、それでお前はどうなる。デリス・カーラーンが最接近しようと、帰って来られなくなるのだぞ」
「元より、覚悟の上だ」
「クラトス!」
 鋭く、咎めるが如く名を呼んだユアンはまるで息を詰まらせたかのように一瞬の間を置くと、感情的に光らせていた眼をふっと伏せ眉間にくっきりと皺を寄せて、何かを深く考え込むように──或いは何かを堪えるように目を細めた。
 かつて仲間達と共に旅をしていた頃、よく見せていた仕種だった。理想を追い求める仲間達の、決して現実的とは言えない行動を、ひとしきり咎めた後で見せるそれと非常に似ていた。
 風が──ウィルガイアでは決して触れることのない風が木々の、未だ若い葉を一枚運び、ユアンの髪へと絡む。若緑へ彼女の面影を観た気がして、クラトスは懐かしく眼を細めた。
「言わなくても伝わる。否──」
 彼の呟きに、クラトスは怪訝な顔をした。
「……そう思い込もうとしていたのだな、私は」
「ユアン?」
 モニターの向こうで独り言のように落とされた呟きを、クラトスは聞き返した。時折ノイズが入り小さな音が聞きづらい。やはり通信可能距離の限度が近いということなのだろう。小声で零された言葉は雑音に阻害されて半分以上聞き取れなかった。
 視線を上げたユアンは、既に落ち着きを取り戻している。普段の皮肉めいた雰囲気は無かったが、先程までの焦燥のようなものは消え去っている。少なくとも、彼にはそう思えた。
「九十六年もすれば通信可能距離に入る」
 酷く単純なことのようにユアンが言うのを、クラトスは聞いていた。今度は、ノイズに消されることもなく、声ははっきりと彼の耳に届いていた。
「その時には、貴様の息子の話もしてやる。だから」
 そこで少し区切って、しっかりと視線を合わせる。強い視線だった。
「此処でまた話をしよう」
 やけに真剣な面持ちで告げたユアンへ、クラトスは思わず面食らった。返事を待たずに開かれる薄い唇へ、異様な程の緊張を感じ、同時に酷い耳鳴りに襲われる。
 酷く、耳を塞ぎたかった。


 静かになった部屋で深く息を吸って、クラトスは肺に酸素を溜めた。そのまま一瞬間を置いて視線を今はもう何も写っていないモニターからデスクの中央付近に落とす。汚れらしい汚れの見えないデスクには生活感のかけらも見て取れない。人間が使うには、向かないものだった。
「気の利かない男だ」
 ぽつり一人ごちる。今更のように告げられた言葉は、孤独の中抱えるには重過ぎる。
 まして、アセリアとの異常接近によってデリス・カーラーンの軌道が変わっている可能性もある。そうなればもう戻っては来れないだろう。ユアンがその可能性に気付いていないとも思えない。
 それでも掛けた言葉なのだとすれば──
「本当に、気の利かない男だ」
 クラトスはゆっくりと何も着けていない左手の甲を撫でると、天板へ肘を置いたまま組んだ指の上へと額を強く、押し付けた。


[幕切]


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