■tos | ナノ
映画鑑賞


 映画を見に行こう、といったのはクラトスだった。
 見たい映画が有るのだ、と。何処か楽しそうに告げられたのは木曜日の夜。同居しているマンションの一室へと帰宅した時のことであった。その日、一足先に家へと帰っていた同居人は、テレビをつけ珍しくもニュース番組ではなく邦画を見ていた。
 流れていたのは、老舗アニメーションスタジオが作ったアニメ映画の何作目かだった。内容はといえば主人公の少女が思春期特有の壁にぶつかり、苦悩しつつも葛藤の中から少しずつ自分というものを見出だしていく、といったよくある成長ものであったと。うろ覚えながらもユアンは記憶していた。
 クラトスはテレビの向かいに置かれたお気に入りの大きなソファ──彼はソファだけは良いものをと言って譲らなかった──に軽く腰掛けて自分の膝の上に肘をつく恰好で、だが決して画面から視線を逸らすことなくTVを見ている。
「こういう映画も見るのか」
 放送がCMへと切り替わった合間を見計らって、意外だな、と呟く。新作映画のダイジェストともPRともつかないような宣伝を食い入るように見詰めていた青年は、ユアンの声にふと顔を上げると唐突に、観たい映画が有るのだ、とそう言った。


 あの流れからいって、観るのはアニメーションスタジオの最新作だろうと推測するのは何もおかしな事ではないとユアンは心中で一人ごちた。
 とてもではないが声に出して言える雰囲気ではない。暗く静まり返った館内は、金曜日の夜だというのに殆ど人もおらず、奇妙な緊張感に包まれている。
 まして、声が上げられるか否か、それ以前に一座席空けた左隣へ座る青年へと訴えることは憚られる気がした。怖がっている、と思われる事が嫌だった。
 決して、ホラー映画が苦手なわけではない。怖がっているとでも勘違いされれば、確実にこの青年に馬鹿にされるだろう。
 どうしたのだユアン、今更怖じけづいたのか。この小心者め。
 そう言って、特に詰るような表情でもなく無表情に近い顔で煽る青年の顔が容易に想像できた。
 断じて、ホラー映画が苦手というわけではない。ただ、本当にアニメーションスタジオ配信の新作映画を見に来るものだとばかり思っていたために、想像していた雰囲気との落差が激しいだけなのだ。
 ユアンはひっそりと溜め息を吐いて右の肘置きへ付いているドリンクホルダーからコーラの入った紙コップを手に取った。観ると思っていた映画を間違えたまま、存外可愛らしい趣味だ、とからかった時のクラトスの怪訝な表情は、当面忘れられそうもない。
 唇にストローを軽く挟んで、吸う前に青年はもう一度、炭酸を泡立てないように小さく溜め息を吐いた。空席の目立つスクリーン内には観客は数人しか居ない。最もそれは、この映画と時間帯を選んだがためであろう事は青年も理解していた。同じ時間帯でも別映画の入場口は長蛇の列で、並ぶカップルを横目に映画館の端っこに位置する第七スクリーンまで足を運んだのだ。
 白いスクリーンには薄暗い建物の中、四人の男女が映し出されている。今だ、恐怖というよりは不安に近い表情で埃っぽい階段の手前に立ち、はぐれた友人を──止せば良いものを──二手に別れて探すつもりらしい。
 確か、制作発表の時に舞台挨拶をしていた主人公の俳優はこの四人の誰とも違った筈だ。三列ほど前のシートに陣取りべたつくカップルに、ユアンは苛々とストローを噛む。
 新進気鋭の実力派若手俳優を起用したとかで上映開始当初は中々話題なっていた映画だった。良くCMでも目にする俳優だけにユアンとて顔ぐらいは解る。そのTVで見慣れた顔が無い。ということは、はぐれた友人とやらを入れた五人の若者がこの映画最初の哀れな犠牲者となり、主人公の登場によって事件の明確化がなされ、事態の収集を謀るわけだ。
 大まかなストーリーを頭の中で組み立てて、ユアンはシートの背もたれへと完全に体重を預けた。顎をぐっと上げてスクリーンから視線を逸らす。灯りの消された照明機器が、高い天井にぶらさがり、スクリーンに映された映像の灯りによって薄っすらと陰影を浮かび上がらせている。ホラー映画特有の不安定な光源によって揺れるように映し出される照明は、やや丸みを帯びた形をしてずらりと並んでいた。
 巨大な目のようにも見えて何処か異様な雰囲気を醸し出すその光景に一瞬身震いをして、ユアンは、自分の考えを鼻で笑った。ふん、といつものように皮肉めいた笑いを漏らし、視線を横へと逃がす。手のカップはドリンクホルダーへと押し込み、そのまま右の肘掛へ頬杖を突いて視線は右側の空席へ投げた。館内はガラガラだという中、わざわざ同じ列へと並ぶものは居ないようだった。視線を向けた己の右隣のシートは何処までも空席が続き、暗い中、薄っすらとだが暗色系の壁も見て取れる。若者数人の嫌に主張する耳障りな悲鳴を聞き流しながら、ユアンは波打つようなデザインの壁をぼんやりと見詰めていた。
 と。太腿に、軽く重みが掛かるのを、ユアンは感じた。ぺたり、と左太腿の中ほどに掛かる僅かな重み。重くも軽くも無く、自分よりも少し温度の低い何かが、ゆっくりと太腿の上を移動する。上下に動くそれは、手だ、と反射的にユアンは思った。
 するすると、滑らかに動く白い手が己の太腿をじっとり撫で回す。時折指先に力を入れるように押しつつ移動した手は、少し浮かされて中指の腹だけを触れさせるような微妙な触れ方で今しがた撫で回した脚のラインをもう一度辿るようになぞり上げる。手は僅かに撫でる角度を変えて、内太腿へと指先を向ける。指ではなく手の平を押し当てるような動きに、ユアンは視界の端で左から伸びる白い手を確認してぞくりと鳥肌を立てた。素早く視線を壁へと逃がして、頬杖をついたままの右手で口元を隠す。嫌になるほど動揺していた。
 尚も脚から離れない手は、太腿から離れ足の付け根付近へと撫で上げる。白いクラトスの手がジーンズに寄った皺を辿るように触れる様を想像して、ユアンは奇妙な緊張感を覚えた。
 何を考えている、ここは公共の場だ。そう理性が否定するも、決してそちらを確認することは出来ない。そうしている間にも映画では何か新しい展開があったのか、館内にはいかにも業とらしい作ったような悲鳴が疎らに上がっていたが、生憎と全く内容は頭に入ってこなかった。心臓は強く脈打ち、空調の効いている映画館内だというにも関わらず、右手で覆った顔にはびっしりと汗の粒が浮いていた。手持ち無沙汰な左腕は、肘置きに張り付いたように動かない。
 ユアンはぎこちなく口元を抑えていた右手で顔を拭うと、汗の付着した手の平をクラトスからは見えない右腰の辺りに擦り付けた。何度か手を握ったり開いたりを繰り返して、逡巡した末コーラの入った紙コップを手に取り、噛み後の残るストローを銜えて中身を啜る。Mサイズのカップの中のコーラは殆ど炭酸が抜け、大量に放り込まれていた氷もいつの間にか解けて、薄く生暖かい只の砂糖水と化していた。どうにか落ち着きを取り戻したかった。
 咽喉に絡むような甘みを無心で飲み下す。撫でる手は相変わらず際どい場所を滑っている。ぺったりとくっ付いていた白い手が指を少し曲げて、足の付け根から這い上がるような動きを見せた瞬間、ユアンは思わずその手首を掴んでいた。冷たい手だった。
「止せ」
 自分よりも、平均体温が低いと言っていた。少し、冷え性の気でもあるのかも知れない細い手首を掴んだまま、相変わらずそちらを見ないようにして、周囲に聞き咎められないように極力潜めた声でユアンは静止を促した。手は、ひたりと動きを止めて、彼に掴まれるがままになっている。ふと、数列前のカップルが映画も見ずにくっついたり離れたりを繰り返す姿が目に入り、ユアンは何処か気まずい気分に浸されて握っていた手をぎこちなく離した。するりと滑らかな皮膚はユアンの手の平を擦って再び、太腿に落とされた。
 ぞわぞわと言い知れぬ感覚に襲われて、ユアンは堪らず叱責の言葉を上げた。
「……ックラトス」
 同時に、とうとう今まで避けていた左隣の席へと視線を飛ばす。
「どうした」
 何でも無いかのような彼の返答に、ユアンは唖然とした。
 否、ユアンが言葉に詰まったのは、彼のその態度ではない。ガラガラに空いた館内に、特大サイズのポップコーン容器を抱えて、第七スクリーンへと入った。どちらかの膝の上にポップコーンを置こうかと思っていたのだが、これだけシートが空いているのなら二人で三席使っても何ら問題ないだろう、と話をした。
 どうして忘れていたのだろうか。
 一人分のシートを堂々と陣取ったポップコーンの容器の向こうに、怪訝そうな表情をしたクラトスが居た。
「ユアン、それは誰だ?」
 誰だ、とたいして面白くもなさそうに向けられた彼の視線の先を辿ると其処に。シートとシートの間から伸びる白い手と、その隙間から此方を覗き、にたりと笑う自棄に薄べったい女の顔があった。


*ユアクラです。


 何事も無かったかのようにスクリーンへと興味を戻したクラトスの腕を引っつかみ、早々に映画館を後にしたのは、言うまでもない。



[幕切]


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