■tos | ナノ
世界の終わり


 朝から激しい雨が降っていた。
 一人暮らしのアパート。カーテンを開けると煩いほどの雨音が耳をついた。明かりの点いていない部屋の壁は、柔らかい白から今は精細を欠いた灰色へと変貌していた。たいして散らかっても居ない、けれど片付いているともいえないアパートの一室。普段なら日当たりのいい部屋は、しかし空を重く見せる濃い雨雲に陽を遮られて今は時間帯もわからないほどに薄暗かった。寝相で跳ね除けられた間布団を蹴って足元まで追いやる。昨日寝る直前までいじっていたせいでベッドから転げ落ちてしまっていた携帯を、寝転がったまま手だけを伸ばして拾い上げる。ディープ・レッドのスライド式携帯。スライドを押し上げるのも億劫で、寝起きのぎこちない指使いのまま握った携帯のサイドボタンを押した。一月前に買い換えたばかりの携帯の液晶画面が明るくなり、とうに昼を過ぎてしまっていることと新着メールの存在を知らせる。
 起き抜けの格好のまま直ぐにカチカチとボタンを押してメールボックスを開く。昨日の夜、寝る直前にメールを送った人物からの返信が来ていた。時間は深夜。メールを送信してからほんの10分ほどで返信が来ていたようだった。仕事が終わってからなら大丈夫だ。たった一言しか書かれていないメールに数回、目を通して、長い溜息を吐くと静かに床へと足を下ろした。
 相手の反応が気になって、昨日はメールを送ってから直ぐに眠ってしまった。顔を洗いに洗面台まで行って、自分の行動の矛盾に気付き苦笑する。以前の自分であればきっと返信が来るまで携帯を握って落ち着きなく何度も画面を確認していただろう。もどかしさを感じながら何度となく携帯を握りなおしていた筈だ。鏡に映る自分の顔は、以前と変わっていないように見えて、別人のようにも見えた。少なくともこの鏡に映る人物を見て、彼が「ロイド・アーヴィング」だと一体何人の知り合いが思うのだろう。目に暗い明かりを燈した少年が「ロイド」であるなどと、自分ですら信じない。蛇口をひねって、勢い良く流れ始めた水に指をつける。ひやりとした感触に頭の芯が覚醒していく。手のひらに少しカルキ臭い水を溜めて、思い切り良く顔を濡らした。
 蛇口から流れる水の音が窓を叩く雨音をかき消して心地よかった。
 インディゴのジーパンに薄くクリームがかった白のTシャツ。その上に荒いチェックの赤い半袖シャツを羽織る。携帯と黒い財布だけをジーパンのポケットに捻じ込んで、投げっぱなしにしてあった革のキーケースを部屋の真中にある折りたたみ式テーブルの上から拾い上げると、ロイドは部屋を見渡した。特に忘れ物はないか、戸締りはきちんとしてあるのか、部屋を出る前には一度振り返って確認すること。最近、人に言われて身につけた習慣だった。
 ジーニアスが知ったら、らしくないと言って笑うだろうか。もしかしたら頭の心配でもされるかもしれないと、年下の幼馴染の顔を思い浮かべる。暫く故郷にも帰っていないから、自分の知っている少年より、きっと身長も随分伸びただろう。顔つきだってもっと大人びているかもしれない。
 一昨日使った後、玄関の靴箱に引っ掛けたままにしていた透明なビニール傘をつかんで、ロイドは薄く笑った。チェーンを外して鍵をひねると、冷たいドアノブを回して玄関扉を押し開いた。


 アパートから十分足らず。駅前の交差点を跨ぐ長い歩道橋を、半ばまで歩いて足を止めた。橋の白く塗られた欄干に手をかけると、大通りを急ぐ傘の群れが目に付く。駅構内まで繋がっている歩道橋を真っ直ぐ入ると、お気に入りのカフェ。逆に少し引き返して駅前通りの両側に伸びている橋の右に進むと、よく通っていたスポーツ用品専門店と牛丼屋。左に進めば大型ショッピングモール、誕生日にケーキを買った洋菓子店、それから偶にしか行かないファーストフード店とファミレス。都市部の高校に進学して一人暮らしを始めたのが二年前。それでもロイドの知っている店の数は同級生らと比べて少なかった。
 雨降りの、それも平日午後だというのに駅から出てくる人は多く、歩道橋を急ぐ人たちと傘の張り出した骨の先がぶつかって、くるくると手の中で柄がまわる。
 ビニールにボツボツ落ちる雨粒の力強さに、ロイドはふと顔を上げた。太陽を遮る灰色の厚い雲。落ちる雨粒を目で追うように視線を真っ直ぐ降ろす。ロイドの立っている歩道橋の真中からは駅の壁に大きく掲げられた電光掲示板のデジタル時計がよく見えた。オレンジ色の目立つ数字は、時間が遅々として進んでいないことを示していた。
 会社の終業時間は六時。それは出会って間もない頃に教えて貰ったことだった。残業することも多いから、いつもはもっと帰宅時間が遅くなること、よく朝帰りになることや、最近では会社に泊まることもそれなりに多いということ。聞けば大概のことを教えてくれる相手に、会社内の事情をそんなに無防備に教えてしまってもいいのかとからかい気味に聞くと、お前が聞いてきたのだろうと簡単に返されてしまった。
 自宅のあるらしいこの駅まで、会社から電車で十五分掛かる。これは聞いたのではなく、ロイドの予想だった。仕事帰りに会う約束をすると、駅に姿を現す時間は大抵六時十五分。それより遅いときはあったが、早いときはない。
 だから、単純に考えて十五分。だが、ロイドからしてみれば、なかなかに確証を持った結論だった。仕事帰りに見るスーツは、ファッションに明るくないロイドにも解るほど上等であるし、時折連れていってもらうレストランはいわゆる一流で、こっそり盗み見た会計の金額は高校生では滅多にみれない桁であった。不景気と叫ばれて久しい昨今、そんな高給を出せるような会社はロイドの知る限りではこの辺りにはそう多くない。
 丁度、二つ手前の駅の近くには世界的にも有名なクルシスの本社が建っている。あの会社からであれば、この駅に着くには電車の時刻的にも十五分ぴったりだったし、クルシスに勤めているのであれば、彼が金銭的に余裕があるということにも合点がいった。
 三時間以上の余裕をもって、ロイドはぼんやりと立ち尽くす。本来であれば彼は今日のこの時間、高校で総合学習を受けている筈であった。六月九日。本日の議題は高校祭体育の部においての参加種目について。少年の通っている高校では、一年から三年までのAクラスが赤組、Bクラスが青組といったように、クラス毎に組分けされている。だから、参加種目もそれぞれのクラス毎で均等に枠が決まっており、誰がどの種目へ出場するのかはクラス内で決めなければならなかった。最低でも一人一種目は出なければならない。
 靴を慣らすように左足の爪先で軽く歩道橋の床を叩く。側溝へと流れ込む雨水が飛び散り、ジーパンの裾を色濃く濡らす。
 以前はあれ程──スポーツ特待生として高校へ引き抜かれる程──まで心血を注ぎ、生き甲斐のように感じていたスポーツも、今の少年にとっては苦痛にしか感じず、鋭く舌打ちをして少年は足を歩道橋の壁面へ叩き付けるように蹴り上げた。


 名前を呼ばれて、振り返った相手を見て漸く、時間の経過というものを自覚した。
「……随分待たせてしまったようだな」
 無自覚に欄干へと寄りかかってしまっていたらしく、上着はぐっしょりと重く色を変えている。ああ、と上着の前を右手で摘んで、少し持ち上げて離す。べしゃり、とTシャツ越しに張り付く感触が気持ち悪い。
「いや、そうでもないよ」
 顔をしかめている相手に、そんな顔すんなよ、と笑う。傘を肩へ引っかけるように差して振り向き、欄干へ背中から寄りかかる。歩道橋の下を、トラックが勢い良く走り抜けていった。
「ロイド、やめなさい」
 相変わらず人の多い歩道橋の上で、立ち止まっているのは随分と迷惑だろう。特に、向かい合うように立っている為か、人の流れに多少の滞りが出来ていた。時折、舌打ちとも溜息ともとれないような音を残して、二人の間をすり抜けて行く者も居る。
「危ない。それに風邪を引くだろう」
 わざとらしく小首を傾げたロイドの様子を、やけに神妙な顔をして、少しだけ黙った後。男は、来なさい、とだけ低く言い残して先を歩き始めた。歩道橋の左右で自然と流れが分かれているのは、ここが駅から繋がっているからだろう。駅から遠ざかるように流れへ乗る。
 高そうなスーツを纏っている割に、差している傘は半透明のビニール傘というアンバランスさへ、ひっそりとロイドは笑みを漏らした。最も、上背のある彼はそこらで売っているコンビニ傘では小さいらしく、彼の使っている傘は実は普通のビニール傘よりも大きい。
 前を行くスーツの後ろ姿を見て、ロイドは一瞬足を止めた。直に少年の気配が離れたことへ気付いたのか、男もまた釣られたように僅かに振り返り掛ける。革靴が、水溜まりを跳ねさせながら向きを変え、狭い傘の内側に隙間が出来る。
「ロイド?」
 どうした、と問われるよりも先に、少年は自分の持つ傘よりも少し広いビニール傘の中へと飛び込んだ。ボッと傘へ張ったビニール同士がぶつかって、ロイドの持っていた傘の骨は揺れ、派手に雨粒をばらまく。周囲の人々から非難の視線を浴びせられたが、少年は気に留めた風でもなく自分の傘を外へ傾けた。
「ロイド」
 窘める様に眉を顰めた男へ少年は、解ったってば、と自分のビニール傘を閉じる。困惑した表情で完全に足を止めてしまった男へ、ロイドは悪戯が成功した子供の様に笑って見せた。
「別に良いだろ、腕疲れちまったし」
 なあ駄目か? と問えば少年の目の奥を探るかの様に、男は黙ってこちらを見遣る。暖かみのある赤茶けた目が、真っ直ぐ見詰めるのを、少年は身動ぎ一つせず見返していた。人が溢れ行き交う中、二人同じ様に足を止める。
 す、と男は視線を伏せた。男のその仕種は、彼が自分の我が儘を許してしまった時に見せるものだと、ロイドはよく心得ていた。
「サンキュ」
 男が何かを言うよりも先にそう言って、少し広い傘の下を一歩進む。溜め息のように吐息を吐いた男は、それでも文句を言う気配すらなく少年が傘からはみ出してしまわないように傘の柄を挟んで隣へ並ぶ。土砂降りに近い大きな雨粒はばらばらと傘布を叩いていた。
「……今日は制服では無いのだな」
 思い付いたように零された言葉へ、ちらりと相手の顔を盗み見ると、男は真正面を向いたまま、特に説教をしようという雰囲気でもなかった。ロイドはそのことへ少しだけ安心して、ああ、と頷く。無意識に僅か下がった視界は前を行く黒のスラックスが靴底から跳ねた水でズボン裾を濡らすのを映している。
「学校はどうした?」
「休校」
「……」
「……自主休校」
 言い直せば、男は一瞬だけ視線をこちらへくれた。
 白状する少年を、男は責めはしなかった。ばつが悪そうに視線を傘の外へと向けた少年へ、男が僅かに目元を緩める。
 少年の覚悟とは裏腹に、宥めるかのように、隣から右手で傘を持った手と逆の手が伸ばされ、雨に濡れようとも強情に起立した少年の髪を軽く数回撫でた。
「だ、もう。寄せって」
 彼が、ロイドに対して父親のような態度を取ることは少なく無かった。
 ロイドは今自分の頭を撫でている手の薬指へシンプルな銀色の指輪が嵌まっていることを知っていたが、彼の家へ何度か訪れた折に、奥さんらしき人物と鉢合わせたことは一度もなかった。
 ただ、自分への態度を見るに、もしかすれば彼には子供が要るのかも知れない、と少年は思っていた。
「足は」
 切られた言葉を先へ促すように、うん? と問い返す。二人とも足は止めないまま、ゆっくりとした歩調で歩道橋から駅前の通りへと降りていった。
「足はどうだ?」
「ああ。結構、調子いいんだ」
 と、少年は一瞬曖昧な顔をして、だが直に笑顔を浮かべて見せた。
 そうか、と一言返した男は、考えるように少し口を噤むと、だが、と続けた。
「そういう時が危ないのだ、気をつけなさい」
「……解ってるよ」
 それよりさ、と少年は話題を探すように視線を余所へ逃がして、態とらしく声を弾ませた。
「男同士で相合い傘ってどうなんだろうな」
 周囲を気にする様子もなく、何処か面白そうに問うロイドへ、男は不可解そうに眉根を寄せた。ついでに顔も完全に少年の方へ向けて、今更な少年の言葉へ呆れた声を上げた。
「……お前が入って来たのだろう」
「うん、そうだけどさ。周りからどう思われてんだろうとか、思わないか?」
「……どう、も思われはしないだろう」
 家族か、親戚か。兄弟、とは思われにくいかも知れないが。
「そっか」
 駅前の通りは、家路へ向かう人や外食へ赴く人々で混雑していた。中には、並んで歩く男女や、今時、と冷やかされることを覚悟した上で照れ臭そうに相合い傘をしている恋人たちもいる。
「なあ」
 呼んで、立ち止まればやはり間を置かずに少年の異変へと気付いて、男は振り返った。腕を伸ばし少年が濡れてしまわないように離れてしまった距離──といっても一歩も無いが──を埋めた彼は、足の事が有るからか、怪訝なものから一転心配そうなものへと表情を変化させる。
「ロイド?」
「好きだぜ、クラトス」
 小さく。息を潜めるようにして呟いた声は雑踏に紛れ、殆ど聞き取れはしなかった。最も、声を零した少年自身相手にそれが届くとは思っていなかったのだ。
 色取り取りの傘がぶつかりながら通りすぎて行く中で、うっかり聞き取ってしまったのか男──クラトスはぽかんと、今まで一度も少年の見たことがないような間の抜けた顔をしていた。何と返せばいいのか解らないといった表情のまま、そうか、とクラトスが零す。
「そう、だからさ。今日、どっかで飯食おうぜ」
「……何だそれは」
 その為に呼び出したのか、と一気に呆気に取られたようすのクラトスへ、意識して元気良く肯定の声を発する。
 仕方の無い奴だと吐かれたため息へ、ロイドは何も伝えないままくっきりと、いつもと寸分違わない笑みを浮かべて見せた。


[幕切]


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