■tos | ナノ
reaSon


後悔をし、続けたところで何も意味などない。気付いたのは、本当に今更であった。


 ヘイムダールに雪は降らない。
 それはエルフの里の奥。聖域とされるトレントの森とて同じことであった。時に忘れられたかのように安定した気候は四千年前から何一つ変わってなどおらず、ただ、同じ日を繰り返している。エルフ達に時間の概念がない、とされるのは偏にこの気候のせいだろう。今日が過ぎれば、また今日がくる。短期の時間的概念はあったとしても、長期的な時間など忘れてしまう、というのは解る気がした。もっともそれは、彼らに限ったことではないと、クラトスは知っていた。時間に取り残されて、淀んでしまえば、例え空気であっても腐ってしまう。
 迷うことも、何の導きもないままに進められた歩は、木々の開けた場所に踏み入って、ようやく止められた。静かな、潜むようなさざ波のような気配に包まれていたトレントは、しかし此処にきて空気をがらりと変えた。来訪者を物陰から覗く子供のような気配たちは消え、虚ろで空虚な空間が、ただ、そこにある。背の高い木々に包まれるように開いた場所は、まるで墓場であった。主の欠落した森は、木も、風さえも死んでいるのか、木擦れの音すらしない。
 以前、この地を訪れた時は、森に満ちた濃いマナに視界全体が滲むように淡く色づいて見えた。今も他の地に比べればマナ濃度がはるかに高いとはいえ、嘗ての圧倒されるほどのマナは感じない。四千年前のある日を境に起こった、トレントにおけるたった一つの変化。それが人為的なものであると、彼は知っていた。
 トレントの森の最深部。嘗ては精霊王の玉座とも呼ばれていた地を、ぐるりと見渡す。広場ほどの広さのある空間は、自然と木々が退けるように場所を空けていた。その中央よりも北寄りに、石碑が建てられている。成人男性と同じくらいか、やや大きい石碑は南に向き黙って佇んでいた。今は何の気配もしない石碑の表面をなぞるように見つめて、クラトスは、ゆっくり足を踏み出した。足音は隙間なく地を覆う苔に吸い取られ、クラトス本人の耳にも届かない。揺れる木漏れ日の下から、日の下へと出た瞬間、クラトスは僅かに目を細めた。
 長く木漏れ日の下を歩いていたせいで、直射に近い日光に一瞬目が眩む。だが、この眩しさもまた、クラトスは知っていた。
 もっと早くに決意さえしていれば、ミトスも彼女も失われずにすんだのだろうか。細めていた目をゆっくりと開く。反射的に俯けてしまっていたらしい視線を上げることなく、アンナ、と強く思い無意識に歩を止めた。鳥のさえずりさえ聞こえないエルフたちの聖域に思考の邪魔をするものは何もなく、クラトスはそっと目を伏せた。
 何度も思い返して、記憶の中、辿った光景は意識せずとも容易に眼の裏へと描き出された。

 ──緑の、煙るような濃い緑の中。振るわれた剣に千切れ、鮮血に染まりながら新緑が舞う。
 元の毛の色も解らないほど赤く染まり倒れ伏すノイシュ。その直ぐ後ろで、ぐったりとしたままの息子は先ほどから動いていない。
 重たげに揺れる草の上、血をまき散らして転がっているディザイアンの側では、何かが光を反射していた。
 何も聞こえない、異様な静寂の中で。ころして、と俯いたままの彼女の口元が、小さく動くのが見えた気がした。
 柄を握った指は強ばり、なま暖かく濡れた剣は彼女を貫いたまま動こうともしない。手に伝わった感触は、妙に重かった。

 今でも、その感触は手の平に残っている。ぐ、と右手を握りしめて直ぐにゆるゆると開く。緩慢な動きをする指を広げて、クラトスは視線を前へと戻した。沈黙を続ける玉座に、今は主はいない。
 少年の狂気を黙認することが間違いであったと、かつて気付かせてくれたのは妻であった。そして今。間違いは正せばいいと、そう言ったのは、あの時、守れなかったと思いこんでいた息子であった。弾力のある苔を踏みしめて、ゆっくりと石碑へ近づく。
 明日には、ロイド達も追いつくだろう。石碑の表面に指を触れさせ、ふと口の端に笑みを乗せる。ざらざらとした石の窪みに爪先が引っかかった。中指の腹に、じり、とした痛みを感じる。しかし、走った痛みに表情を変えることもなく、指先を石につけたままクラトスは手を下に滑らせた。じわり、石碑の表面に赤い筋が流れる。するすると線は滑り、指が窪みを辿るより先に地に落ちた。
 人間は間違いを繰り返す生き物であると、嫌になるほど思い知っていた。それは自分もまた、彼らと同じ種族であるからこそ言えることでもあった。今、自分の選んだ選択もまた、間違いであるのかもしれない。
「だが、それでも私は嬉しいのだ」
 アンナ。と、それだけ呟いたクラトスは石碑に彫り込まれた天使文字を見上げた。薄い白灰色の石碑には、今では殆ど使われることのなくなった古代文字が刻まれている。長い文言の綴られたそれは、根源を司る精霊について書かれていた。
 デリス・カーラーンの接近まで、マナを完全に枯渇させない為の応急処置であった。少なくなったマナでも何とか生き抜く為の手段として、取られた方法が世界の二分化であった。戦争によって減少してしまったマナで世界を支えきることはできない。苦渋の決断としてオリジンの力を使役して取った方法であった。精霊王の力によって二つに分かたれた世界を戻すには、やはり再び精霊王の力を借りねばならない。
 その為にはミトスを説得するか、でなければオリジンとの契約をなすより他はない。前者を行うには既に遅すぎ、後者を行うにはオリジンの封印を解く必要がある。
 世界を一つに戻す。ようやく時が来た。それを行うのは四千年の長きを共にした同士ではなかったが。クラトスはゆっくりと指先を石碑から離した。血を流した指先がうっすらと痛む。
 自分たちが途中で投げ出してしまったことを、ロイドたちは成してくれようとしている。クラトスは石碑の全体を眺めるかのように数歩後ろに下がると、改めて石碑を見上げた。
 ただ、静かに沈黙を守りながら佇む石碑。
 やり直すのだ、とクラトスは強く意識した。せめて最期までクルシスの天使として戦う。それは、助けを求めていたはずの少年の心を、見殺しにしたことに対する報いであり、クルシスの残党としての責任でもあった。クルシスの天使として戦い、そして果てた時、ようやくやり直すことが出来る。
 鋭く引っかけたように裂けてしまった中指の腹を、拳を握るようにして手の平に押しつける。血は止まりかけていたのか、ぬるりとした感触の中で、僅かに手に固く手応えがあった。
 数時間後、この手は剣を握ってるだろう。そして、戦いの後、体内のマナが放射され尽きるまで。その時間こそが自分のやり直すことが出来る最後の機会であり、ロイドの父親としてやり直すことの出来る時間でもある。
 ぞくり、とした悪寒のような喜びに微かに身を震わせ、クラトスは穏やかな笑みを浮かべた。


[幕切]



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