■tos | ナノ
心は帰ってこない


 恋人、という言葉をきっぱり否定されたユアンは、酷く驚き思わず言葉を失った。
 いくら丁寧に梳いても風が吹けば跳ねてしまう強情な癖っ毛を、森から抜けてくる春風に好き勝手させたままクラトスは立っていた。濃紺の傭兵服へ身を包み、元騎士はこちらを見ようともしない。穏やかな陽光が、木々の枝間から溢れて彼の足元で踊っていた。
 男は、ふと己の立つ直ぐ脇へ頼りなげに──それこそ、本当に世界を支えるマナを生む大樹の若木であるとは誰も思いも寄らない程にか細く──生える低木の枝を、そっと一本引くと、手持ち無沙汰であるかのように、その硬い葉の表面に指を滑らせる。人差し指に乗せ、親指の腹で葉脈を辿るように撫ぜながら、じっと顔を伏せた男。四千年の間に、互いを取り巻く環境や立場、或いはその間柄は随分と変わって来たが、互いに掛け替えのない存在であるのだと、ユアンは自負していた。
 それをいとも簡単に否定し、それきり視線を余所へやってしまったクラトスへユアンは苛立ちを隠さぬまま、ぎり、と男を睨みやった。
「恋仲になったつもりはない、だと?」
 男の言い放った言葉を繰り返すが、それでも相手は視線すら返して来ない。
「肌を合わせておいて、恋仲になったつもりはないと言うのか?」
 肉体の関係を持ちながら、恋人という言葉を否定するのか。
 敢えて言葉を濁さず叩き付けた科白に、クラトスは漸く視線を戻してきた。玩んでいた葉を、ひと撫でして離すと、赤茶けた──というよりは凝固した血の色に近い虹彩をこちらに向ける。
 かちりと合わされた目はやけに落ち着いており、何の感情も見て取れないことへ、ユアンは一層苛立った。
 今までの関係も、気持ちも、全て自分一人のものであったとは考えたくない。
 憤りにも似た苛立ちを隠さず睨みつけるユアンに、しかし当然とも言うべきかクラトスは特に怯んだ様子も無く淡々と口を開いた。言葉を選ぶような考える様子も見せず、それどころか何の感情も浮かばない忌ま忌ましい天使どもと同じ表情で声帯を震わせる。
「私は、お前に好きだなどと一言たりとも言ったことはない」
 その様子は、ユアンを余計に苛立たせた。
「貴様ッ」
 何の感慨も無く吐き出された言葉へ、一気に頭へ血が上る。
 二人の間に置かれていた数歩の距離を二歩で縮めて、クラトスの胸倉を掴む。無理に引っ張ったせいか、服の合わせを留めていたホックが音を立てて、ずれて外れた。
 隙間から、ちらと覗く白い肌に、ユアンは一瞬どきりと鼓動を強くする。視線は日に焼けない白へ捕われて──情けない話だが──殴ってやろうかと固めていた利き手は上げかけのまま、不格好にも空へと留められた。
「お前もだ」
 ユアン、と名前を呼ぶ声が耳に残る。
「お前もだ、ユアン」
 無気力に、諦めきったような色を浮かべたクラトスの瞳を覗き込んで、ユアンは、思いがけず目を見開いた。完全に、振り上げられた手は止まってしまった。
 天使は、決して泣かない。
 それは戦争兵器として強化された人間に、涙は不要だからである。感情は足手まといと成り兼ねない、と。古代大戦時代における科学者共が判断した結果は、前線兵に対しての感情自体の制限と──指揮をとる天使への感情的緊張時における、《涙》の制限であった。
 司令官は作戦指示や、危機的状況下での戦略的判断力に支障をきたさないよう、感情への制限は受けない。しかし、その表現は範囲制限をされた。それこそ、指揮官や司令官へ涙は不要という判断だったのだろう。
 だから、クラトスは決して泣きはしない。涙の気配すらさせない。
 上に立つものは、味方にこそ、涙を不用意に見せて良いものではない。司令官或いは指揮官のそれは隊全体の、ひいては軍全体への士気に関わってくる。
 クラトスは泣かない。それは、四千年前から長らくそうであったし、それは今でも変わらないことであった。
 強く風に吹かれて、目に入りそうな長い前髪に、髪と同じ赤みの強い──しかし髪よりも幾分色の濃い睫毛が、何度か瞬かれる。
 ユアンは、ぐ、と奥歯を噛み締めると、上げたまま時機を逃した利き手を静かに下ろした。胸倉を掴んだ左手は離すことなく、ただ不要な力だけを抜く。
 強く後悔の念を抱いていていた。何に、と問われれば後悔すべき事柄は多過ぎ、明確なただ一つの答えは出せない。
 言葉にせねば伝わらないことがある。長い付き合いのなか、語らずとも理解されていると思っていた。
 結果として、それは間違っていたのだろう。
「……私は、嫌いな相手と同衾するような趣味は持ち合わせていない」
 それでも、心のうちを、真正面から伝えられないのは、今更だ。
「そこまで悪趣味でもない」
 己の重い口が歯痒い。
 だが。それもまた、今更だった。
 その証明のように。帰ってきた返事は、そうか、の一言だけであった。
「……何故、一人で決めてしまう」
 片眉だけ上げて、話が見えない、とでも言いた気なクラトスを、ユアンは見詰めた。
 離れ行くデリス・カーラーンへと単独で向かおうとしていた彼の動向を、ぎりぎりで伝えてくれたのは他でもない彼の一人息子であった。
 二人の関係、と言うようなものは一切話していないが、彼の息子は自らの父親とユアンが四千年来の知人であるとは知っている。ロイドは、誰にも何も告げず、残されたクルシスの天使らと共に星を後にしようとしている父を案じてだろう、クラトス出立の直前で連絡を寄越してきた。
「何故、私に何も言わない?」
 問いつつも、その答えは聞くまでも無かった。
 恋人に一言の相談も無く旅立つ気かと咎めた折に、きっぱりと返された言葉を思えば、答えは解りきっている。
 己がそうさせたのだ。
「なにを、だ?」
 部分的に強調された問い返しに。思わず口ごもったユアンの目と一瞬目を合わせた後、つい、と視線を逸らせたクラトスは、手を重ねるようにして。ユアンの手を外すと、器用に片手で服の合わせを正した。
「クラトス!」
 名を呼んだところで、森から少し離れたところで待っている筈の息子の元へと、クラトスは足を向ける。こちらの返答を待つ様子も、まいて、こちらからの問い掛けへの応えは一切無く、特徴的な燕尾のマントを風に流しながら、背中は去って行く。
 それぞれにやるべき事は有るはずであって、それらの事柄──或いは解決すべき問題──は、手を取り合って共に立ち向かうことでも無ければ、馴れ合いながら進めるべき事でも無い。彼がデリス・カーラーンへ向かうというのであれば、ユアンはこの惑星へ残り、為すべき事をせねばならない。それもまた解っていた。
 ただ、何を、の問い返しへ無意識に逃げを打った己は、待っているとは言えはしない。
「──くそっ」
 共に行こう、などとはもっと言えない。
 徐々に小さくなっていく背中を、ユアンには止めることすら出来なかった。


[幕切]


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