■tos | ナノ
タージークの林檎


 空気はひどく乾燥していた。
 国内有数の商業都市を、北門から抜けて北北東へ。途中何度か竜車を乗り継ぎながら、白い石畳で舗装された街道を延々と歩くこと五日。北街道沿いの小さな集落に、一行は滞在していた。
 山脈に抱かれるような形で、ぽつりと小さく地図に載っていた集落は、紙面で見た以上に閑散としている。長閑、といえば聞こえはいいが、街道へ隣接しているにも関わらず旅客などは全くといって良いほどいない。活気とは無縁の静けさを湛えている村は、人目に付かないようにこの旅路を選んだはずの一行を、かえって浮き上がらせ。目立たせているような気にすらさせた。
 息をする度に、喉から水分を奪っていく空気へ、心底忌ま忌ましく眉根を寄せ。ユアンは軽く咳ばらいをした。張り付いた喉の奥を擦るように鋭い痛みが走る。錆びた鉄にも似た臭いが鼻に抜けた。冬の入り、旅装を解いていないにもかかわらず、風は身を切るほどに冷たい。長旅において荷を増やすのは賢い考えではないが、このまま北の街道を進むのであれば、今のものより少し厚めの外套を一枚。手に入れる必要がありそうだった。
「どうだ、クラトス」
 滞在している村の、背後に聳える山を一時間程かけて登り。木々の開けた場所まで、クラトスとユアンは足を運んでいた。見晴らしのいい山中の高台からは、冬枯れした集落とその近辺が見渡せる。二人の立つ高台より少し下の。なだらかな斜面へ広がる整備された果樹園──園内にまでは踏み入れていないため、植わっている樹木が果樹かどうかまでの確認はとれていないが、大方そんなものだろうと踏んでいた──や、目を引くような看板が殆ど見受けられないことから、村が宿場としてというよりも農村として生き残ってきたことを見るものに知らしめた。
 旅路として歩いてきたはずの北街道は、地図によれば集落を抜けてから山脈沿いに、そのまま北の王立保護指定地域付近まで延びていなければならなかった。
 だが、今眼下に白く浮いて見える件の街道は、不規則に曲がりくねり、蛇行を続けながら徐々に高度を上げ、数キロ先まで行ったところで山峡へ溶けるようにその姿を消している。
 手元の地図へ視線を辿らせたまま、クラトスが軽く眉を潜めた。現在地周辺を確認できるよう折り広げられた地図から目を離すなり、それをそのままこちらへと差し出す。使い込まれた軍用の地図は、何度か雨に濡れて紙自体がやや撓んではいるものの、厚手で丈夫であり──その分そこらの店で手に入る地図と比べて重いのだが、多少の水や湿気には耐えられることを考えれば、便利であった。
「やはり道を間違えていたようだ」
「何?」
 手渡された地図の、表へと出された面を何度か眺めて、ユアンは確かめるようにクラトスの視線の先へと目をやる。寒々しい冬の山は枯れ木の色を纏い、青年の上げた疑いの声へ否定も肯定も返すわけでもなく。ただ静かに、悠然と佇んでいた。


 ユアンとクラトスが頭や肩にかかった雪を払い落としながら、滞在している宿屋に戻ってきたのは、昼を回って一時間ほど経ってからであった。
 小さい集落にある宿は、一階を酒場兼食堂としている場合が多いが、この村の宿も多分にもれず集落で唯一のバーカウンター付きの食事処となっていた。
 否、これほどまでに滞在客がいないとなれば、本業が飲食店であり、余った部屋を遊ばせておくのも勿体ないということで、宿屋も兼ねている、というのが実際のところなのかもしれない。事実、二人は昨日この村についてから自分と仲間の姉弟以外で村に逗留している者を見たことが無かった。
「やあ、どうだったね」
 宿の戸を開いて最初に掛けられた声へ、ユアンの隣で濡れた手袋を外していたクラトスが顔を上げた。ええ、と短く、騎士が質問に対して意味を為さない返事を返す。
「その様子じゃあ、あんまりいい結果じゃあ無かったってところか」
 一杯どうかね。カウンターの奥でにやついている声の主──宿屋の亭主へ、ユアンは一瞥のみ送ると、ふん、と鼻を鳴らした。亭主は、青年の反応に気付かなかったのか、或いは気にしなかったのか。透明なグラスを二つカウンターへ取り出している。
 未だ日の高い時間帯であるにも関わらず、一階の酒場は村人で賑わっていた。皆一様に作業着のような、茶けた地味な服を着て、テーブルを囲み、昨晩騒いでいた話の内容と似たような話題を繰り返し話している。
 カウンターの周りへ陣取っていた村人は亭主の声へつられてか、こちらを見やっていた。珍しいものでも見るように、奇異の視線を隠そうともしない。
 言いようのない不快感を覚えたユアンは、亭主の申し出に返事すら返さず、そのまま二階にとっている部屋へと直行するつもりであった。不躾な視線へ曝されてまで人間たちと話をするつもりなど毛頭ない。周辺の地理について、聞き込みは騎士へ任せ、自分はさっさと部屋へ戻ろうと。カウンター脇から伸びた階段へ足を踏み出しかけて、ユアンは動きを止めた。
「……ミトス?」
 視界の端に映った一群の中へ、良く見知った少年を見つけた。薄暗い冬の室内でも揺れる度、オレンジに近い色を放つ灯火を反射して光を零す細い金髪。自然と鼻筋に皺が寄っていくのを自覚する。
 亭主の立つカウンター席の端に陣取っていた少年は、二人が宿に戻るのを待っていたのか、ユアンがそちらを向くなり、嬉しそうにマグカップを支えていた両手のうち左手を上げる。
 やや遅れて、クラトスもまた少年の存在に気付いたようだった。手を振る少年を確認して驚くような表情を浮かべた騎士が歩み寄るよりも先に、眉を潜めたまま青年はかなりの大股で混雑する店内を横断する。酒場といってもさほど広くもない店内は、インターバルの広いユアンにとって、仮に端から端まで歩いたところで十何秒とも掛からないだろう。実際、混雑する店内を縫うようにすり抜けて、青年が少年の元まで辿り着くまでに何秒と掛からなかった。
 店の規模に少々合わない大きさのテーブルを囲む人々の肩へ、途中何度かぶつかりそうになりながらも上体を捻ってかわす。その度、驚いたように向けられる視線を不愉快に感じ取りつつ、荒くなる自分の足音へ気付いて、ユアンは更に顔を顰めた。
 宿の亭主に席を確保してもらっていたのか、少年の隣には二つほど席が空いていることが解る。
「ミトス」
「ユアン、クラトスも! 寒かったでしょう? あのね──」
 目の前まで来るなり、妙に嬉しそうに青い目を輝かせて、弾かれたように勢いよくまくし立て始めたミトスを、ユアンは片手を上げて止めた。不機嫌さを隠すこともなく、まて、と一言告げる。追いついた──といっても距離が開いていたわけではないのだが──騎士が、青年の背後で訝し気に立ち止まった。
「ここで何をしている」
 険のある声音に、ミトスがきょとんとする。
 何って、と呟くように言ってから、むっとするように少年は唇を尖らせた。
「折角待ってたっていうのに、そんな言い方しなくたっていいじゃない」
「待っていた、だと? ここでか?」
 指で床を示し、場所を強調するユアンにミトスは、他に何処があるのさ、と形のいい眉を潜めた。
 室内では、ランプや燭台へ既に火が燈してあった。今では当たり前のように普及しているマナ灯の白い光ではなく、旧時代に主流だったといわれる固形燃料や液体燃料を燃やして揺れる赤々とした炎──今では料理か野宿、簡易トーチ、火事、或いは戦争ぐらいでしか直に目にすることはなくなっていた。そのちらつきに照らされて浮かび上がる屋内は、猥雑で下世話な話が当たり前のように飛び交い、下品な笑いが周囲へと広がっていく。お世辞にもまだ幼い少年が、一人で居て良いような場所ではない。
 そうでなくともこの店のテーブルに着いているのは人間ばかりだ。そう無意識の内に考えて、ユアンは険しい表情を更に険しくした。
 そう、人間ばかりなのだ。
 今度は意識的に。心中で繰り返し、ユアンはミトスの腕を取った。腕飾りを避け、手首を掴めば、服の上からだというのに親指と人差し指がぴたりと接する。旅を続け、騎士に剣を習っているにしては、細い腕だった。
 青年の行動へ驚いた少年は、ちょっと、と反射的に腕を引き戻そうとする。
「上階へ戻るぞ、マーテルは? 部屋か」
 質問は自己で完結させ、掴んだ腕を力任せに引っ張るユアンへ、ミトスが鋭く、痛い、と叫ぶ。次いで、騎士の低く咎める声が耳に届いた。周囲の視線が一気に集まるのを感じる。
「やめてよ、ユアン! 何なのさ」
 半ば椅子からずり落ちた恰好のミトスは、強く腕を振るうと、きっ、と睨んだ。力では適わない少年は、しかし、引きずられまいと足先を踏ん張って、腕を掴んだままの青年へと声を荒げる。掴まれていない右手は、カウンターの天板をしっかりと握っていた。
「ユアン、どうしたというのだ」
 嗜めるクラトスの声へ、視線鋭く顔をそちらへ向ける。
「どうしただと?」
 少年の腕を掴んだままの右手へ、押さえるように騎士の手が乗せられる。長く外気に触れていた為か、剥き出しの指はひやりとして驚くほど冷たい。
 そもそもの基礎体温が低いのかもしれない。集落の位置を確かめる為に二人連れ立って宿を出たのだから、外出していた時間は変わらないはずだった。
 体温の差に気付いたのか。眉根を寄せたクラトスへ、驚いたのは此方だ、と心中ぼやいて、ユアンは言葉を続けた。
「どうした、だと? クラトス。周りを見ろ」
 面白いものでも見るかのような、物見高い人間たちにいい加減嫌気が差してくる。嫌悪も露に吐き捨てた言葉へ、だが騎士は青年の言葉へ注視するかのように黙ったまま視線をずらす事も無い。最も、気配をたぐることに長けた騎士であれば、視線を巡らすまでもないのか。
「ここは、居て良い場所ではない」
 言葉以上の意味を込めて吐き捨てた科白を、正確に──或いは込めた意味以上の意味を──読み取ったのか、クラトスが瞳をぶれさせた。ミトスは、先程から黙ったままだ。店の客たちは見物へ徹するつもりなのか、店内に充満していた賑々しさはなりを潜め、客の殆どが自分達の言動に注視しているようだった。
 少し大袈裟すぎんかね、苦笑と共に漏らされる亭主の声に、ユアンは心の内で言っていろ、と毒づく。子供を心配する保護者、ぐらいに思っているのなら、それは大きな間違いだ、と。
 亭主へは一瞥たりともやらぬまま、返事代わりにユアンは鼻で笑った。
「兎も角、手を離してやれ」
 手首を傷める。動揺は隠して剣を扱うものの顔で騎士が曰う。沈黙を繰り返すミトスは、もう手を振り払おうとはしていないが、顔を俯けたままで相変わらず黙りこくっていた。
 ミトスの見詰める先には、砂が上がってザラザラとした木目調の床板がある。元々は濃い色であったであろう床は、砂や土で擦り傷が付き、落とされた雪が融けて染みを作っていた。
 俯いて、揺れる金糸の前髪の間から覗く唇は、強く食いしばっているように見える。
 ともすれば、泣き出しそうにも見える口元に、ユアンは思わず指先から力を抜いた──
「そんなだから」
「──っつ」
 力を抜いた途端、待っていたかのように、強く跳ねつけられて反射的に手を引っ込める。見上げてくる青い双眸はランプの明かりを反射してか、強く輝いて見えた。
「おい、ミトス」
「そんなだから、何も変わらないんじゃないっ」
 言い切って、立ちっ放しであったユアンとクラトスの間を擦り抜け、ミトスは青年の静止の声も聞かず、そのまま階段を駆け上がっていった。


「奴は解っていない」
 宿の亭主から教わった現在位置と、一本迷い込んでしまったらしい旧街道から新街道へ戻るためのルートを見直していた騎士は、青年の声に顔を上げた。本来三人部屋であった筈の部屋には、今は二人しかいない。三つ並んだベッドのうちの一つへ仰向けに倒れて、だるそうに喋るユアンと、部屋に備え付けてあったテーブルで地図を広げるクラトスの二人のみ。酒場を逃げ出した少年は、マーテルの部屋へ駆け込んでいるようだった。
 ユアンとミトスが衝突すること自体は珍しくもない。疑って掛かるということを知らない姉弟へ、注意を促すのは二人の役目であったし、ユアンは少々頭ごなしに物を言うところがあり、それはしばしば少年の反感を買うことがあった。その度に少年は姉の元か、或いは剣の師である騎士の元へと逃げ込んでくる。青年のことを大人気ないといえば大人気ないが、疑うことを知らない姉弟を、彼がそれだけ心配しているのだと、人間の汚さを知っている身としては理解できないでもなかった。
「ミトスのことか」
 解りきったことを敢えて聞き返して、クラトスは一度窓の外へ目をやった。
 四十二日周期で廻ると言われているセレネは夜空に白く輝き、今が既に真夜中であると告げている。
 結局あれからミトスは姉の泊まる部屋より一度も出てこず。今日はもう、姉の部屋で休むのだと思われた。クラトスは扉の元まで向かうと戸締りをする。硬いサムターンを回すと金属音の重たい音がして、鍵が閉まった。何度かハンドルを回して施錠されていることを確かめると、地図を広げたままにしてあったテーブルへと戻る。客室にもマナ灯はなく、スタンドランプによる炎の僅かな光量で地図を眺める。
 舗装された道を歩こうと思えば、最後に竜車から降りた停留所の辺りまで戻る必要がある。戻るだけで二日と少し掛かるだろうが、それよりも効率のいい道を、クラトスは宿の主人から聞いていた。
「あの二人のことだ」
 ミトスとマーテルか、返された言葉の意味を解き口の中で繰り返して、騎士は置いたままだった地図を手に取り、スタンドランプの明かりを最大限受けられるよう角度を調整しながら紙面を覗く。
 小さなランプ一つでは、明るいマナ灯で慣れた目には光量が足りなかった。
「大体酒場へ行くだなどと」
 呻るように、声を出すユアンを振り返るまではせず。苦い顔をしているのだろうな、と憶測する。地図を何度か持ち直して。そちらは見ないまま、そう言ってやるな、と呟く。身体を傾け、眉を顰める。
「何も悪いことをしたわけではないだろう。酒場といっても宿泊客にとっては食事処でもある。ましてやミトスが口にしていたのは、村の仕事を手伝った礼にと出してもらったジュースだと聞いている」
 林檎の。付け加える前に、そういうところが自覚が足りないというのだ、と声が荒げられる。跳ね起きたのか、だん、と床を踏みつける音がした。
 下の酒場から響いていた騒々しいまでの賑やかさが、一瞬静まりかえる。明日、宿の亭主に謝って置くべきだろうな、とクラトスは一度床に目をやった。八つ当たりにあったとは知らない一階の客たちは、先程よりも少しだけ声を抑えて宴会を再開したようだった。
「奴らは人間を信用しすぎだ」
 苛立たしさの滲んだ声だった。
 青年の言葉に対して、概ね同意できる言葉だと感じていた。ただ、果たしてこの集落の人間はそこまで警戒すべきなのか、ちょっと考えて、クラトスは上手く見えない地図を手にしたまま窓辺へ寄った。ちらちらと安定しないランプの灯りよりは、月明かりの方が余程頼りになる。
「ミトスの好きにさせてやれ」
 地図を指先で弾くようにして立たせる。ぱし、と紙の乾いた音が室内に響いた。
 甘いな、と嘲るように出された声へ、クラトスは漸く地図から視線を外してユアンを見遣る。
 部屋着に身を包みベッドの端から足を下ろしていた青年は、こちらを見てはいなかった。じっと正面の壁と床の中間辺りを睨み、そこに無い何かを嫌悪を露にした目でもって推し量っている。
「……人間など、信用できるか。何かあってからでは、遅い」
 食い縛った歯の隙間から漏れ出た声は、静けさの満ちた室内にあって騎士の耳にも届いていた。
 苦い、というよりは憎しみすら伺わせる声音へ、信用にたる種族でないのは確かだな、と。ぼそりと零す。騎士の言葉を聞き咎めてか、青年が胡乱な目を向けた。
 基本的には、という話しだ、と付け加えて、騎士は青年の目を見返す。自分が例外であるとは、考えていなかった。己こそ、人間の中でも、最も信用してはいけない類の人間であると彼は理解していた。
 少年やその姉に聞かれれば、言葉を撤回するまで二十分でも三十分でも説教されるかねないようなことだが、その思考は彼を捉えて離さない。
 理由さえあれば、生き物をどんな残虐な殺し方でも出来る人間など、信用すべきではないし、自分がそうであると理解しながら偽善染みた言葉を口にする人間ほど、厄介なものはいないと彼は知っていた。少年がどんなに言葉を尽くして否定しようとも。事実として、自分には少年と共に旅をする以前、戦争を理由として当たり前のように虐殺行為を繰り返してきた過去がある。そして、今はミトスらと共に戦争を止めるため、檄を飛ばしていた口と同じ口で停戦を訴えている。
「此処の者たちがお前にとって信用できるかどうかは、お前自身が判断すればいい」
 ただ、と。一旦言葉を切り、言葉を繋げた。
「ミトスもまた、自分が何を信用するか、自分で判断するだろう」
 すっと、視線を下げる。手元の地図をもう一度見直そうかと考えて、止めた。暗い中でいくら見返そうにも、新たに書き込まれた赤いインクをはっきりと判別できないのであれば、この確認作業はかえって間違った記憶を作り出しかねない。
 一つ吐いた嘆息に、青年が、は、と表情を強張らせた。
「私は、一般的な事実を口にしただけだ。謝らんぞ」
「そうだな」
 何に謝る必要があるのか、疑問に思いつつ。身体を完全に室内へと向ける。思いがけず、青年の気まずそうな表情を目の当たりにして、ほんの少し意外に思った。
「奴らが無用心だということは事実でもある」
「そうか」
 それを否定する気はさらさら無い。あっさりと肯定して、騎士は窓枠に寄りかかる。地図を軽く折り畳んで、テーブル脇に置かれたままのスタンドランプに視線を投げた。芯の短くなったランプを消すべきかと考えて、暗闇で真正面から見てしまった炎へ数度瞬きをする。
「……見えないのだろう」
 何がだ、と問い返す前に、静かな足音と共に傍まで近寄ってきたユアンの気配に気付く。
「貸してみろ」
 未だ白く残像の残る視界へ差し出された手の平に、青年が指しているのは地図のことだ、と気が付いた。狭間の者は夜目が利く。マナの輝きがそうさせるのだと、何時だったかミトスが言っていた。マナの柔らかい輝きは闇の中でもほんのりと周囲を照らし、人の見る世界よりも僅かに、夜を優しいものとするのだ、と。
 便利なものだと心底感心しながら、クラトスはユアンへと地図を手渡した。微かに手が触れる。
 その温度差に騎士は一瞬驚いて、しかし、この道か、と掛けられた声へ、直に気がそれた。
「宿の主人が言うには、地元の者しか使わない農道があるのだそうだ」
 脇道の口までそう遠くはない。明日、一度確認に向かうつもりだ、と説明し。地図上に新しく線の付けられている──であろう──辺りを指先で指し示す。示した場所にいまいち確証が持てず、地図の上を何度か円を描くように指を滑らせるクラトスへ、ユアンが、もう少し下だと呟いた。
「ふん、自警団なり討伐隊なりに待ち伏せされて吠え面をかくなよ」
 私はついて行かんからな。
 こちらを見ないまま皮肉るユアンへ、クラトスは、ああ、と頷く。
「だが、待ち伏せをするにしても農道では狭い上に足場も良くない。真っ当な指揮官のいる部隊であればまずもってこんな所に布陣しないだろう」
 真っ当な指揮官がいればの話ではあったが、真っ当な判断すらできないのであれば敵にすらなりえない。
 安全と思って問題ないだろう、一人で構わん。と、そこまで一息で言って。少し口を噤んでから、騎士は傍らで不機嫌そうに立つ男へと視線をやった。
「どうしたユアン、今日は妙に突っかかるな」
「何だと?」
 突っかかる、という言い方が気に入らなかったのか。ユアンの口元はやや引き攣り、白い歯が一瞬覗いた。また怒らせたか、と騎士が思うのと。彼よりも数センチ背の高い青年が、ぐらりと身体を揺らした後、蹴倒された扉宜しく押し迫って来たのは、殆ど同時であった。


 ユアン・カーフェイは丈夫である。
 それは、一行が身体の弱い女性や子供、マナや自然の気に弱く本来定住を常とする人間ばかりだということを鑑みて、比較的タフだ、というだけではない。自分にも他人にも厳しい彼は、自らを完全に管理している。その一つとして、彼は自分の限界というものを良く心得ており、決して必要以上の無理はしない。
 彼が丈夫だ、とされる所以はそのことにも起因していた。
「流感だそうだ」
 ぽかり、と目を開いたユアンへ、まず最初に掛けられた言葉はこの一言であった。
 特に心配の表情もして見せることなく、なんでもないようにそう呟いた騎士は、備え付けのテーブルの上へ置かれた小さな木の桶に手首の少し上まで浸していた。ざ、と手甲を外した白い腕を引き上げて、沈めていたらしいタオルを固く絞る。水の落とされる音がぼんやりと音を拾う耳に心地よかった。次いで、指は額へと伸ばされ、申し訳程度に乗せられていた生温いタオルを回収していく。冷えて色を無くした白い指先が細やかに動く様を見て、ユアンは、ふと今が冬も目前であると思い出した。
「そうか」
 捻り出すように発した声は、酷いものだった。
 何か食べられるか、と問う声に僅かに頷けば、クラトスは一度手を洗うと金属製のボウルを片手にベッドの脇へ椅子を置いて、そこへ座った。組んだ足の上にボウルを置き、器用にナイフで何かの皮を剥いている。器用に動く手元を覗こうかと頭を上げかけた青年は、身体を節々へ感じる痛みと倦怠感に、大人しく頭を枕へ戻した。
 既に昼が近いのか、いつからついているのかも解らないような雨染みで汚れた窓硝子の向こうは、昨日と打って変わったように晴れて明るかった。村人も今日は仕事をしているのか、賑やかしい声は一階の酒場ではなく、外から微かに響く。
 降ろした頭を横向けた青年は、ボウルを抱えたまま無言で手を動かす騎士を何とはなしに見詰める。ベッドから見上げるせいか、いつもは長い前髪に隠れているクラトスの表情は露になっていた。見るものに厳しい印象を与える眼光も今は伏せられ、その形を潜めている。こうして見れば、案外幼い顔立ちをしている、そう思って。物珍しさも相まって、さりさり、と小気味のいい音と連動するように微かに揺れる赤鳶色の髪とその下の白い面を、じっと見ているうち、唐突にかちりと。髪と同じ赤みの強い目に視線がぶつかった。
 驚いたように一瞬瞠られた目は、直ぐに目元から力が抜かれる。知らない間に止められていた手元の動きは再開し、ごく自然な所作で視線が逸らされた。
「ミトスとマーテルが心配して、二人とも看病すると言っていた。あの二人に感染っても困るから、私が看ると言ったのだ。朝まで散々ごねていたのだが、二人とも騒ぎ疲れて寝てしまった。お前としてはマーテルではなくて残念だったろうが。まあ、我慢しろ」
 窓から差し込む陽光は、思いの外室内を明るく照らしていた。夏場の、刺すような強さは具えていないものの、室内の温度をある程度高めるぐらいには役立っているのかもしれない。今が寝起きであるということを差し引いて考えても、やはり寒いことに変わりはなかったが。
「お前は」
 大丈夫なのだろうな、とまでは言えず。ユアンは言葉を途切れさせる。
 思わず飲み込んだ言葉が、荒れて熱をもった咽喉に詰まりえがらっぽく感じられて、不快であった。
「私ならば大丈夫だ」
 皆まで言わずともなされた返事に、聞こえるか聞こえないか程度の小さな声で、そうか、と返し、ユアンは横向けていた顔を上へ向ける。木が剥き出しの天井は、雨漏りの跡が染みとなっており目を引いた。何の形に似いている、ともいえないその跡は、天井裏で水が流れたのか窓とは反対側の方へ線を描いていた。
「……妙に大人しくて気持ち悪いな」
「それは悪かったな」
 一呼吸置いて零された言葉へ、思わず噛み付く。
 視界の端のクラトスは、ちらと視線だけを此方へ遣し、笑いを堪えたような顔をしていた。押さえ切れなかった感情は目尻から溢れて、笑みを象っている。
「いや、すまない」
 ボウルの中で響いていた音が変化し、僅かに浮かされたユーティリティナイフが、何かをさくり、さくりと切り分けていった。
 本当に悪いと思っているのか、と疑わしい目を向ければ、笑うというよりは微笑みに近い表情を浮かべた騎士と目が合う。今日は、よくよく視線が合う。普段は視線の合うことなど滅多に無い相手だから余計にそう感じるのかもしれない。
「思ったより元気そうで安心した」
 面食らったように固まるユアンへ、騎士がナイフの先を差し出してくる。強靱性セラミックスの刃の上へ乗せられた白い果物が目の前へ突きつけられる。軽やかで清涼感のある香りはその場に長く留まることはなく、さ、と消えていった。
 反射的に頭を後ろへ逃がすよう枕に押し付けて、おい危ないだろうが、と文句を言う青年に、騎士はミトスからだ、と言った。
「ミトスから?」
 腕を軽く押しやると、クラトスはあっさりと腕を引っ込めた。ベッドの上へ身を起こしてから聞き返せば、彼はやはりちょっと考えるように黙って、いや、と口を開く。林檎はナイフごとボウルの中へと戻されていた。
「……私はマーテルから渡されたのだが、マーテルはミトスから渡されたらしい。ミトスは村のものから貰った、と言っていたそうだ。お前が倒れたと聞いて差し入れてやれと持ってきてくれたらしい。だから、そうだな。村のものからだと言った方が正しいか」
 ボウルを片手に持ったまま、クラトスは隣のベッドに投げてあった上着を引っ張り寄せ、そのままユアンに渡した。
 身体を冷やすな、と付け加えられた小言は聞き流し、ユアンは上着を羽織って、ボウルの中から櫛切りにされた林檎を一つ、手に取った。
「随分と遠まわしなことだな。……しかし林檎か」
「この村の特産品だそうだ」
 特産品。ああ、と高台から見下ろした傾斜面へ広がっていた果樹園を思い出す。遠目から見下ろしても、よく整えられていたように思う。そうか、あれが、とユアンは摘んだ果物をまじまじと眺める。未だ酸化の始まっていない果物は、皮を剥かれ、白い肌を晒していた。
 口元まで運ぶと、林檎の爽やかな香りが鼻先を擽り。ユアンは、未だ残っていた熱が、すっと下がるように感じた。


[幕切]


*手違いから後書きを保存していたリンク先が削除されてしまいました。申し訳ございません。


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