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ポム・プリゾニエール


 夏祭りの夜は生憎と曇り空であった。
 固く踏み締められた土の上を、カラカラと下駄の歯を鳴らして歩く。遅い梅雨明けと、空に敷き詰められた雲のせいか、夜も随分更けてきたというのに気温は一向に下がる気配がない。ユアンは微かにため息を漏らすと、慣れぬ服装にほんの少し足下をふらつかせた。がり、と引きずられた下駄が砂を削る。
「ミズホのお祭りって面白かったね」
 左の、やや離れたところから弾んだ声が聞こえた。カラン、と軽い木の音を立てて燥ぐ様子が伝わる。ガオラキアを抜けて西に数キロ。ミズホの一族が住む村はあった。独特の風習と文化を育み、本来ならば余所者を拒むミズホの民たちであるが、今日だけは違う。ぽしゃぽしゃと、一定のリズムを刻んで聞こえる水の跳ねる音が、耳に心地よく響いた。
「服まで借りちゃって」
 浴衣ってさらさらして肌に気持ちいいね。笑みをこぼすようなミトスの声に、柔らかな声が、そうね、と返した。
「少々歩き難いがな」
 低く、聞き取りづらい声が彼女の意見の後に、ぽそりとつけ加えられる。小さな笑い声が二人分上がった。厚い雲がすっかりと月明かりを遮ってしまい、視界は殆ど利かないが、比較的近くから声が聞こえることから、皆そう離れてはいないのだろうとユアンは見当をつけた。
 ゆっくりと、背筋を伸ばすように腰に手を当てて胸を反らせる。ヨーヨー釣りに金魚すくい。輪投げに射的にとミトスに引っ張り回された体は意外なほどに疲労していた。正しくいえば引っ張られていたのはマーテルであり、ユアンはそれについていくのに必死だったのだが、それはそれとして特にミトスのお気に入りとなったヨーヨー釣りには長いこと付き合わされた。長時間体を曲げたような姿勢のままで固まっていた背骨は姿勢を正せば乾いた音を立てて鳴った。
 終始後ろからゆっくりと付いてくるのに徹していた仲間のうちの一人は、今もそうしているのか、ミトスのカラカラと比較的小刻みに聞こえる足音よりも少し離れた後方からのんびりと聞こえる。つかず離れずの位置で聞こえる足音は、静かだった。
 長雨から解放されて三日。一行はミズホの地に逗留していた。ガオラキア付近は、雷が多い。長雨の激しい雨粒に打たれながらも、暗い森を駆け抜けた一行は地図にも記載されていない小さな里に辿りついていた。それ自体は旅をしている上でそう珍しいことでもなかった──戦禍に巻き込まれた村が地図から消え、立て直されたあとも地図に記載されず放置される、ということは間々あることだ──が、そこに住まう民族に一行は驚愕した。幻の民、ミズホの隠れ里。知られては生きては帰さぬという彼らの里に、あっさり行き着いてしまったのだ。忍は暗殺に長けると聞く。ユアンとクラトスが息を飲み警戒と共に身構える中、ミトスとマーテルはあっけらかんとした様子で真っ正面から里に入っていってしまった。
 祭りの前で、血の汚れを出すわけにはいかなかったからこそ、入れて貰えたものの、そうでなければ疾うの昔に命を穫られていただろう。
 未だ幾分か湿気を含んだ風が頬を撫ぜてゆく。全く以て無謀な姉弟だと、ため息が出る。ミズホの民のことも、少し変わった文化の人々、程度にしか知らなかったのだろう。彼らと共にいる度、よくも今まで生き延びて来られたものだと、今までに何度驚かされたことか。純粋故に少々世間からずれた彼女らには。
 考えて、ふわりと風に乗って届く彼女の香りに、ユアンは一瞬どきりとした。砂糖菓子のような香りは、いつになく甘く感じる。微かに清涼感を伴い擽る香りに、か、と頬から目の周り、眉間にかけて熱があつまるのを感じた。肺までもが熱く、吐く息にまで熱をこもらせているように思える。
 こんなに暗いのだから、きっとばれはしない。何が、という疑問が、どこかで沸き上がってくる。汗ばんでいる左手を、低めに巻かれた帯の少し下のあたりに擦る。借り物であるということは、既に念頭から消え去っていた。
 暑さのせいだ。頭の芯まで熱く、己がこんなに胸を高鳴らせているのも、すべてはこの暑さのせいに決まっている。浴衣の襟も既にぐっしょりと汗で濡れており、なま暖かい風に吹かれる度、冷えて項にぞくりとした感触をもたらしていた。強く脈打つ心臓の音か、妙に耳についた。胸の内で、二つの言い訳を繰り返しながら、ユアンは静かに隣へと手を伸ばした。
 軽やかな話声と下駄の音。音と音の合間を埋めるように、遠く市から聞こえる人々の歓声。ミトスとマーテルの他愛もない話が耳の奥で転がる。宿屋の代わりとなっている里長の家までまだ距離がある。隣に立っているはずのマーテルの手を、ユアンはそっと握った。ふいに、彼女の声が止まり、ミトスが不思議そうに彼女に声を掛けた。
「何でもないわ」
 耳に残る穏やかな声に、ユアンは繋いだ手に指を絡めた。
 しなやかに長い指は、かさついていた。長旅の苦労のせいか、少し骨ばった手。ユアンよりも体温が低いらしく、ひやりとした印象を受ける。女性に多いらしい冷え性、という奴だろうとユアンは考えていた。思っていたよりも手が大きい。最も、それは女性にしては高い身長のせいかもしれない。黙りこくってしまった彼女に愛おしさがこみ上げ、相手の親指の背をなぞるように指を滑らせる。綺麗に手入れされた爪はつるりとして指触りがよかった。撫ぜた瞬間に、微かに反応を示した手は、不意にユアンの手を握り返してきた。ぎゅ、と握られた手の、予想外の力強さに思わず面食らった。
 力強い。
「怖いのか、ユアン」
「ぎぃあああああああああ!!」
 予想だにしなかった近場からの低い囁きに驚き、ユアンは文字通り飛び上がった。十センチは飛んだかもしれない。悲鳴と突然の動きに相手もまたびくりと体を震わせた。何? 訝しげなミトスの声が耳に届く。
 パン、パパン。曇り空に上がった一瞬の閃光と火薬の臭い。先ほどから立ち止まっていた背後の気配は嬉しそうに歓声を上げ、少し離れたところで首を傾げていた少年は直ぐに興味が移ったのか、目を輝かせて背後を振り返った。
 もう一度、空に打ち上がった輝きに隣に立っていた男の姿が照らし出される。怪訝な顔をして立つ男は、射的の残念賞として貰った林檎飴を律儀にも舐めていた。
「クラトス! 何故、貴様が私の隣にいるのだ!」
「何を言っているのだ、ユアン」
 夜市から戻る折りすでにこの並びだっただろう。淡々とした低い声に手を振り払う。行動を読んでいたかのように何の抵抗もなくあっさりと離された手を、どうしようかと一瞬考えて。しかし、結局どこにやることも考えつかず、ただ体の横に降ろす。顔をしかめたクラトスはいつものように腕組みをしていた。左手に持ったままの林檎飴が浴衣につかないように左手首だけこちらを向いている。甘い芳香を放つ林檎飴は、艶やかな表面を保ったまま、かじられた様子はない。
「大丈夫か?」
「誰も怖がってなどいない!」
 仮にそうだったとしても、誰が男の手など握るか。先の言葉を思い出し、声を荒げる。
「そうではない」
 ぱらぱらと音を立てて夜空に散る花火が断続的にミズホの、独特の夜景を照らす。余りの大声に、マーテルとミトスがこちらを振り返った。淡い黄色をした浴衣が、彼女の緑髪によく似合っている。
「ユアンってば、怖いの?」
「まあ。駄目よ、ミトス。誰にだって苦手なものはあるのだから」
「風邪でも引いたのではないか?」
 手の平が熱かった。気遣うような訝しげな低い声。
 三人口々に好き勝手をいう様子に、ユアンは全力で否定するべく、違う! と口を開きかけて、
「ばっくしょい!」
 クラトスに向かって派手にくしゃみを散らした。
 山場を迎え、一斉に打ち上げられた花火の燐光に照らされて。林檎飴の表面に付着した水滴は、儚げに光って見えた。


[幕切]

*手違いから後書きを保存していたリンク先が削除されてしまいました。申し訳ございません。


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