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とある少年兵の初恋


 ついていない。
 冷たい石の床に目を走らせながら、そう思っていた。白く、よく磨かれた床である。歳の割には落ち着いた目をした少年は、そこに後ろ手に拘束されたまま立ちつくしていた。顔の横に流れる青髪が、ベタベタと嫌な汗で張り付く。緊張しているということが、いよいよ思い知らされた。
 そう、ついていない。心中で繰り返して、強く目を閉ざす。数日ほど前まで包まれていた殺伐とした空気が、自然と蘇ったように感じて、少年は小さく身震いをした。命があるだけましだ、と始めこそ思っていた。だが、今はその命すら危ういのだ。テセアラでは、ハーフエルフが犯罪を犯せばどれ程軽い罪状であろうとも極刑は免れない。領主の屋敷への侵入。意図的なものではないにしろ、決して軽い罪とも言えないだろう。ましてや少年はシルヴァラントの兵服を身につけていた。
 あまつさえ、ここの領主は。思うなり、ゾクリと怖気が走り、少年は身を震わせた。

 所謂、初陣であった。
 少年の所属する隊は少年兵を集めた部隊であり、後方支援と兵糧や武器の運び入れ及び管理が主な任務であった。テセアラ側へ奇襲作戦を行う部隊へと物資供給に向かう途中、少年のいた部隊は襲撃を受けた。補給路として密かに敷かれた山沿いの林道で。テセアラからの奇襲攻撃は、シルヴァラント側の情報が敵国に漏れていたことを示していた。物資を奪われるわけにはいかず、指揮官の檄に武器を取った少年らへと、敵兵は容赦をしなかった。
 壊滅しかけの部隊に、しかし逃走するものはいなかった。そのように訓練されていた、というのもある。だがそれ以上に、合図も無しに逃げれば指揮官含めた数名の大人の兵に狙撃されることを皆承知していたのだ。戦い抜くしか生き残る方法はないと、少年らは知っていた。
 状況が変わったのは、隣に立っていた少年兵の一人が胸を突かれて声もなく崩れ落ちた後だった。独特の進軍の音に、それまで整然とした様子で戦っていた襲撃者たちが、立ち位置を変え始めた。走竜にしては軽やかな音。遠く正面に移る砂煙に少年は目を細めた。四ツ足のしなやかな動物。速く、伝説に聞く一角獣から角を奪ったような姿。大きい。
「……騎馬隊」
 背後で震えるように声が響いた。少年はただ頭のどこかで、あれが馬か、と考えていた。テセアラの極一部にしか生息しないという生き物。馬は走竜よりも遥かに速く、力は竜に及ばないながらも、死ぬまで走り続けると聞く。先頭を走る黒い毛並みの馬に、少年は呆然としていた。
「撤退だ、撤退しろ!」
 積み荷は捨てていけ。悲鳴じみた指揮官の撤退命令に、その時漸く我に返る。そして、ぞっとした。次いで何頭かの走竜の重い駆け出す音が聞こえた。指揮官が、自分達を置いて逃げ出したのだと気付いた。
 テセアラにも馬は稀少である。その馬によって構成される隊は、一つしかなかった。則ちテセアラ王室騎士団の、それも団長率いる一団しかない。
「テセアラの、魔人」
 怯えを含んだ声に、背筋が震える。呟いたのが誰なのかは解らなかったが、次に己が何をすべきかだけは解った。

 逃げる方向を誤ったのだ。
 二国を分けるかのように存在する分断山脈には、丁度山を割る形で国境線上に渓谷があり、その底を広い川が流れる。流れも速く水量も多いその川の名をアケロン、という。
 アケロン沿いにシルヴァラントと国境を接するテセアラ領アケルージアは、高い山脈と深い渓谷、そして海に囲まれた土地であった。自然の豊かなこの地は、穏やかな風土気候とは裏腹に屈強な私兵を有しており、実際に攻め込まれるようなこと自体は少ないものの、軍事力にも優れていると聞く。
 少年は俯いたまま、静かに呼吸をしていた。広い室内に気配はたった二つ。一つは少年本人のもの。そしてもう一つは、この館の主のものであった。
 よく磨かれた石の床に、さらさらときめ細かい布の擦れる音が響く。ゆっくりと気配は動き、少年の前を通りすぎて部屋の奥に進んでいった。かたり、と小さく音が鳴る。
「ここへ」
 泉に広がる波紋のような声だった。広がって、空気に溶け直に消えてしまうかのような声に、少年は下げていた視線を床伝いに上げた。床につく足は柔らかそうな布の靴に包まれている。足先の僅かしか覗かせることを許さない長い衣服は淡い水色の薄い衣を幾重にも重ねていた。ゆったりとした服に包まれた体は細く華奢で、窓から注ぐ陽光に今にも熔けだしてしまうかに思える。ふわり風をはらむ袖口から見える細い手には白いレース手袋が嵌められている。金の髪飾りで緩やかに纏めらた髪は、白い面に印象的な瞳と同じ、凝固した血液のような濃い、しかし光沢のある赤色をしていた。絵画の手本のように美しい女性は、椅子に手をかけたまま穏やかな笑みを浮かべていた。ほんの僅かに目許を緩ませ、口の端を軽く上げる。ただそれだけで、彼女はここに居て生きているのだと自分に知らしめる。
「さあ、どうぞ」
 片手で椅子を示し、座るように促す仕草に、少年はただ黙って見詰めるしかなかった。後ろ手に縄で括られた手の平に、じわりと嫌な汗が滲む。
 いっこうに動こうとしない少年に、女性は気付いたように、ちょっと目を大きくして、ごめんなさいね、といって歩み寄ってきた。身を固くした少年に構うことなく近付いた女性は、少年の背後に回ると細い指先を伸ばした。
 仄かに甘いような香りが鼻先を擽り、遠ざかっていく。同時に、腕へかかっていた締め付けが無くなった。
「お茶をいれましょう」
 息子の好きなお茶だから、貴方には少し甘いかもしれないけれど。と軽く背中に手を置かれ、促される。自由になった手を体の横に下ろした少年は、促されるままにテーブルの前まで進むと女性を振り返った。
 ごく落ち着いた雰囲気のまま、女性はテーブルの上に置かれたティーポットを持ち上げると、中身をティーカップに注いだ。カップの広い淵から柑橘の香りが周囲に広がる。女性は、そのまま、もう一つのカップにも茶を注いで、片方を少年の前に静かに置いた。
 黙ったままカップの中身を見詰める少年に、もう一度、どうぞ、と進めてから、女性は椅子を引いて少年の向かいに座る。優しい目だった。侵入者、それも拘束された敵国の兵を見るにしては、穏やかすぎる目をしていた。
「……捕らえないのか」
 突っ立ったままの少年に、女性は、座りなさい、と柔らかな口調でもう一度促した。外が騒がしい。人の荒げられた声と、引っ切りなしに足音が聞こえる。
「座りなさい。座って、お茶を飲むのです」
 命令然とした響きは無かった。少しだけ困ったように眉を寄せ、それでも笑みを湛えたままの女性は自分のカップに口をつける。洗練された動作だった。重さを感じさせない動きに、少年は釘付けになった。僅かに上げられたカップに喉が嚥下するのが解る。透き通るように白い、喉首だった。
 伏せられていた赤い目が。ゆっくりと長い睫毛が上がり、瞳が見上げてくる。
「……」
 僅かに引かれた椅子とテーブルの間に身を滑り込ませると、椅子に浅く腰をかける。温められたカップに手を伸ばして茶を口に含めば、仄かに甘くさっぱりとした味が喉内に広がった。案外己の喉が渇いていたことに気付かされる。
「落ち着きましたか?」
 お代わりはどう? ティーポットを両手で包み小首を傾げる女性に、少年は初めて正面から視線を向けた。微かに視点が揺れる。
「何故だ」
 外の騒がしさは勢いを増していた。
「追われている者は、シルヴァラント兵であり。検査によってハーフエルフだと判明しているはずだぞ」
 女性の目には、少しの変化も見て取れない。
「貴女は、ここの。アケルージアの領主だろう」
 ええ、と頷く女領主は相変わらず、静かな空気を纏っていた。少年の手元のカップにそっと茶を注ぐ。彼女の声が聞こえるだけで、周囲の喧騒は遠退くように感じた。
「確かにアケルージア公、と呼ばれることもありますが。それは私の名前ではありませんよ」
 白いレースの僅かな隙間から、所々ちらりと覗く指先は、ほんのりと赤みがさしていた。
「ステュクス・テテュス・オケアノス・ゲー・オケアニデス」
 ティーポットを下ろした手は重ねてテーブルの上に置かれた。袖から僅かに白い肌が見える。
「貴方のことは、なんと呼べばよいのかしら」
 どきり、と心臓が鳴った。

「貴女の館を、騒がせるつもりは無かった」
 敵兵から逃れるために林を駆けた少年は、林を抜けたところで渓谷に行き当たり、アケロン川の流れる深い谷底へと転落した。国境警邏を行う兵に救出された少年は、シルヴァラントの兵服を着ていたことから、そのまま拘束された。身体検査によって血液も調べられ、ハーフエルフだと身元がばれた地点で、少年は留置されていた建物から逃げ出していた。
 テセアラは、シルヴァラントよりもハーフエルフへの迫害が激しい。敵国の兵で、ハーフエルフだなどと生かしておくわけがない。どうにか助かった命を、こんなところで失いたくはなかった。
 逃げて逃げて、逃げ込んだ場所はこの館の庭だった。まさか、使用人に追われて、領主の部屋に駆け込んでしまうとは思わなかったが。
「ただ、」
 言ったきり押し黙った少年に、ステュクスは暫し間を置いた。言葉に詰まる少年を見詰めて、そっと視線を外したステュクスは、悲しい目をしていた。
「先の戦では多くの少年が兵として駆り出され、命を落としたと聞きます」
 国境線での戦いは、補給路を断たれたシルヴァラントの圧倒的不利となっていったようであった。次第に戦線を押し下げられ、戦場はシルヴァラント側へと移された。
 少年は、あの黒い馬を思い出していた。魔人、と渾名される男は身長二メートルを越す大男だと言われている。
 目の前の仲間の頭を砕いていった蹄。腰の後ろに回すように下げていた大剣を片手で操り、見る間に血場を広げていった男。少年兵であろうと容赦なく切り捨てたあの男は、団長、と呼ばれていた。
 テセアラ王室騎士団長。テセアラの魔人。
「よく、生きていてくれました」
 ステュクスの言葉に、少年は一瞬頭の中が真っ白になり、叫びだしたいような衝動に駆られた。何を、とただそればかりが頭の中を巡り、焦りにも似た苛立ちが胸の底に沸き上がる。
 しかしそれでも、私の仲間は貴女の夫に殺された、とは、どうしても言えなかった。あの男と、この目の前の女性が婚姻関係にある、ということが信じられなかった。
 少年は、ただ一度ばかり頷いて冷えはじめたカップをそっと手に取った。
「パラスが殺めた命を還すことは出来ません」
 それでも。言葉を続けた深い赤の瞳は、少しも逸らされることなく少年を捉えていた。
「貴方をここで守ることは出来ます」
 ユアン? 真摯に呼ばれた己の名前に、少年はゆっくりと顔を上げた。

 風上からは焦げたような臭いが流れてくる。汗に張り付いた髪を手で払いながら、少年は国境線を越えた林道を歩いていた。
 ステュクスによって擁護された彼は、アケロンの対岸まで密かに送られた。居られはしない、と思った。今年で三歳になる一人息子が好きなお茶なのだと、カップを見詰める彼女に、自分は堪えられないだろうと思った。
 茶で以って持て成せば、客人となる。領主の客人に手は出せない、と館の警備兵長は言っていた。思えば、彼女の部屋に飛び込んだとき、驚いた顔をした彼女は直ぐに棚からティーカップを二つ、取り出していた。しきりに茶を進めてきたのも、自分を守ってくれようとしていたのかも知れない。だからこそ、堪えられないと感じた。
 胸の悪くなるような異臭と火の気配に、ふと足が止まる。
 貴方の行く先に幸の多からんことを。別れ際、その言葉とともに額に与えられた温もりを、この先決して忘れまいと。ユアンは静かに目を閉じた。


[幕切]


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