買出し
住んでいるマンションから一番近いスーパーは、徒歩で10分程度のところにあった。コンビニであればもっと近いのだが、生憎と隣に並んで歩く男は既製品の惣菜が口に合わないという贅沢者である。
食事に対して文句が多いことに関してはユアンもまた同じでは有るが、同居している男は少し変わっていた。とある女性の死ぬほどまずい手料理には文句一つ言わずにいたくせに、出来合いの弁当やレトルトは殆ど口にしない。味などは"彼女"の作る料理よりも余程マシであろうに咀嚼をした途端に顔をしかめて箸を置く。最も、既製品を嫌うだけあり、食事は専ら自炊で済ませ、その腕前たるや文句の多いユアンを唸らせるほどであった。
同居している身としては有り難いことではある、と買い物袋を下げた己の左手を見詰めた。
白菜、韮、生姜、長ネギ、ニンニク、特売品の豚のミンチとラード、それから餃子の皮。鶏ガラスープの素は有ったな、と独り言の様に呟く男にユアンは、今日は水餃子かと検討を付けた。吐く息の白くなりつつある冬の入り。僅かに刻み生姜を入れたチキンスープベースの水餃子はさぞかし身に沁みる事だろう。二人分だけの買い物をしたスーパーのレジ袋。袋の持ち手が食い込む左手を、一度、握り直して、ユアンは右隣に立つ男を隠れ見た。
黒のスラックスに明るい色の長袖シャツ。落ち着いた黒の上着を風よけに羽織った男は、長い前髪で目元を隠して何を考えているのか解らない。ゆっくりとした歩みにやや揺れる腕。緩く開いた白い手は細そうにみえて案外しっかりしていることを、ユアンは知っている。
会話もなく、薄暗い道を黙々と歩く。街灯の少ない道は細く、人気も無い。手持ち無沙汰な右手を、軽く動かす。隣を行く男は──クラトスは気付いていない。
公園前に差し掛かる。夕方をやや過ぎた時間帯。数えるほどの明かりに照らされて無人の公園が浮かび上がっている。此処を過ぎて幾つかの家の前を過ぎれば、大通りに出る。それまでの間くらい、構わないだろうと。そう己に言い聞かせ、ユアンは手を伸ばした。急に掴むことは避け、きっかけをつくろうとするかのように右手の甲をクラトスの左手の甲に触れさせる。そのまま、指を撫でるかの様に滑らせて。
──スカッ。
「……」
クラトスの歩調とユアンの歩調が一瞬ずれ、クラトスが僅かに前に出る。
空を切った指先を引っ込めユアンは、いやまあ、こういうこともあると心中で呟いた。遅れた距離を大股で歩いてもう一度、今度は甲を触れさせることなく直に手を伸ばす。
スカ。
「……」
スカ。
スカ。
「……」
ガッ!
──スカッ。
「……!!」
「風が出てきたな、早いところ帰るぞ」
半ばヤケクソ気味にたたき付けるような勢いで伸ばした手も敢え無く空を掴み、業とかと疑うほどの速足でクラトスが前を歩いて行く。
取り残されたユアンは、己の腕を手繰り寄せるように引き戻して、顔の前まで持ち上げた手を広げてみる。特に、何の変哲もない。いつも通りの自分の手だ。分厚い、男の手である。しばししげしげと自分の手を見詰めてから、手を何度か傾けついでに握ったり開いたりを繰り返す。
「ユアン」
低く掠れた声が鼓膜を揺らし、ユアンは殊更ゆっくりと顔を上げた。視線は擦れて色の薄くなったアスファルトから、黒く伸びた影を遡って逆光になっている男へと辿りつく。いつの間にか路地の出口まで行き着いたらしい男は、名前を呼んだきり影の延長のように黙ってしまっていた。
自分が追い付くのを待っているのだと気付いたのは、冷たい風に手が悴んだ頃だった。感覚の無くなった手から、夕飯の食材を押し込んだ買い物袋が、どさりと落ちる。実際はそんなに時間が経ったわけでもないのだろう、長いことクラトスが黙って待っているとも考えにくい。しかし、感覚的にはかなりの時間馬鹿のように突っ立っていた。気付いて、落ちた袋を慌てて拾いクラトスの元へと向かう。卵が入っていなくてよかったと、よく解らないところで安堵をして隣に並んだユアンは、不意にクラトスが己にむけて手を差し出して来るのを驚いたように見詰めた。伸びる白い手に、直ぐに羞恥が追い付いてくる。
気付かれていたのか。則ち自分の成そうとしていたことを知っていて、この男は態と避けるように歩いたのか、と。羞恥は怒りに変わり、絶対に手など繋ぐものかとばかりに、ユアンは伸びる手を叩き落としに掛かった。
「貴様っ」
スカッ。
馬鹿にするな、と続くはずだった言葉は再び空振った右手とともに止まった。左手が軽い。クラトスの手は端から右手には向かっていなかったらしい。
「手が痛いのなら、そう言え」
荷物持ちくらい変わってやる。
そういったクラトスの顔は、なぜだかやけに格好よく映ってしまった。
*ユアクラです。
「レジ袋は案外食い込むのだな」
今度、エコバックを買いに行こう。
餃子を包みながら、そう話す同居人に、ユアンは違うとも言えずに一先ず、そうだな、と呟いたのだった。
[幕切れ]