■tos | ナノ
前夜


 - 5 days ago -

 冷たい石の玉座へ座す青年は、嘗て少年だった頃の面影を残したままの、形の良い唇を歪めて微笑んでいた。彼の姉と同じ芽吹きを思わせる若緑の──だが彼女とは明らかに違う、無機質な輝きを湛えた──瞳を細めて、青年は投げ出した足の先へ跪く一人の男を見詰める。
「……御意」
 ほんの数瞬の沈黙の後、発せられた男の声には、何の感情も浮かんでいなかった。
 青年と男と、二人を挟むように二列に並んだ天使達が数名しか、広間には居なかった。揃いの鎧を身につけた天使たちは、槍を手に身動ぎひとつせずに佇んでいる。殺風景ともいえるほどに飾りひとつない室内へ、男の低く掠れた声はよく響いた。
 その無感動且つ短い返事に、いらえを待っていた青年も、彼の抱いている感情など何一つ読み取ることは出来なかった。だがそれでも、青年は己の足元で頭を垂れる男の後頭部を満足気に見詰めると、口元に薄っすら、先程まで湛えられていた試すようなものとは違う、何処か優しさすら感じさせる笑みを刷いた。
「五日後にはイセリアへ入ってもらう」
 良いな、と返事を促せば、やはり一言。男は御意、とだけ返す。
 男は何一つ、余計なことは口にしない。青年も、彼の態度に疑問も関心も持ちはしなかった。
「備えも必要だろう。下がってよい」
 青年の軽く片手を振るう動作へ、男は顔を伏していたにも拘らず、青年の動きを見ていたかのように、す、と立ち上がる。上座へ座る青年の顔を見ぬよう頭は垂れたまま踵を返した男は、そのまま真っ直ぐに広間から退室していった。
 男の首から繋がっている白と薄青色の組み合わさった燕尾の外套が扉の向こうへ消え、彼の持つ──ウィルガイアに於いて他に保有するもののいない──人間特有のマナが遠ざかってから。青年はゆっくりと、温かさも柔らかさの欠片すらもない硬い玉座へ背中を凭れ掛けさせていた。
 知らぬ間に、やや前のめりになっていた背中は伸ばされ、自然と顎が上がる。身の内を深い倦怠感が襲い、瞼を閉ざした青年は、深く息を吐くと同時に笑みを消した。
「もう直ぐだよ、姉様」
 ほろりと漏らして青年は、瞼の裏の新緑を追いかける。
 風に揺れ、エルフの里の。空気までが色付くような濃密な緑へ、淡く輪郭を溶かしたその緑髪は長く。穏やかな微笑を浮かべた白面に悲しげな影を落としている。
 姉が時折見せていたその微笑みは、確かに笑みであるというのに、いつも何かを憂いているようで、まだ幼かった少年を落ち着かない気分にさせていた。
「もう直ぐだから」
 もう一度、自身に言い聞かせるように零して閉ざしていた瞼を押し上げる。
 無性に、姉に逢いたかった。

 - 4 days ago -

 数枚の着替えと毛布を一枚丸めてザックに押し込んだだけで荷造りを終えてしまったクラトスの元へ、険悪な空気を纏ったユアンが訪れたのは青年に呼び出された翌日の深夜のことだった。
 声を掛ける手間すら省いて押し入ってきた嘗ての同志は、クラトスの足元へ転がったキャンバス地の荷袋を一瞥すると、余計に鼻筋へ皺を寄せた。
「行くのか」
 部屋へ設えられた大きなはめ殺しの窓から星を眺めていたクラトスは、明らかに機嫌が悪い男の声へ特に慌てるでもなく。殺風景な室内の、扉から一歩入ったところへ立つ男の姿を肩越しに確認すると、窓辺へ掛けていた手を降ろして静かに振り返った。
「少し、早めに出ようと思っている」
 丁度真向かいに立つユアンへ対峙する形になったクラトスは、話を逸らすよう横に視線を逃がすと、壁へ寄りかからせたままの荷を見遣った。固く口の縛られたザックはへばっており、人間が旅をするには明らかに少なすぎる。だが、四千年の間、人を──この十数年に於いては生きることすら──放棄していた彼には、旅で必要とされるものなど手元へ残っていなかった。
 天使化した身体には不必要であっても、旅人を騙る上では必要なものもある。イセリアへ着くまでにある程度荷を揃えておかねばならなかった。
「あれに手を貸すつもりか」
 抑えられた声音は、はっきりとした憤りを帯びている。男の苛立ちを耳で感じ取りながらも、しかしクラトスは答えなかった。
「此方を向け、クラトス」
 ユグドラシルの命を受けた地点で、男がこうして部屋を訪れるであろうことを彼は予想していた。だが、予想したところで、この男へ語って聞かせるほどの理由を用意しているわけでも、持ち合わせているわけでもない。
 草臥れたザックを見詰めていた視線を上げ真正面を見れば、男はクラトスの推測していた通り険しい顔をしていた。
「あれに同調出来ぬから出奔したのではなかったのか」
 強く、だが責めるというよりは問いただすような口調に、クラトスはしかし黙していた。静寂の中視線の搗ち合っていた数秒間、固いユアンの表情は徐々に苦い色を濃くしていく。
「クラトス」
「私はもう、疲れたのだ。ユアンよ」
 沈黙を咎めるユアンの声を遮り、彼は溜息をつくように言葉を吐いた。言い募ろうとした男の口元に、思わず視線を逃がす。これ以上言い争うつもりはなかった。
 先程よりも長い沈黙の後。そうか、とだけ落とされた声にクラトスがゆるりと顔を上げると、小さなモーター音を上げて閉まる扉の向こうで、ユアンの青い髪が揺れていた。

 - 3 days ago -

 ユアンが部屋を出ていってから暫く、クラトスはぼうっとしていた。
 不意に我へ返ったのは、足元で空気を含んだ重い音がしたからだった。壁に寄りかからせていたザックはずり下がるように床へその身を投げ出し、床へ濃い灰色の影を落としていた。幸いというべきか、口を紐で締めていたお陰で荷は零れていない。
 倒れたザックもそのままに、クラトスは身体を引き摺るようにして無造作に置かれた寝台へと腰掛けた。寝台の傍ら、サイドテーブルの上の置時計は、いつの間にか日付が変わったことを示している。
 ユアンへ告げたことは真実であり、クラトスの内面の殆ど全てを占めているものだった。だが、ユグドラシルに手を貸そうと思ったわけではない、青年の掲げる計画へ同調などしてはいない。それを彼へ説明すること自体が面倒だっただけだ。重い疲労感と倦怠感は鳩尾の上の辺りで蟠り、胸を深く押し込むように違和感を訴える。
 諦めてしまったのだと、クラトスは息を吐いた。あの男とは違い、クラトスにはもうユグドラシルを──ミトスを救おうと足掻くだけの意志すら残されてはいない。己の魂は十数年前に家族と共に土へ還ったのだろうと思った。
 心は折れ、魂と引き換えに生じた深い虚無は、クラトスを酷く投げやりにさせた。そして、彼自身もまたその虚無感を受け入れてしまったのだ。
 ユグドラシルがそれでいいのならば、もういい。マーテルが生贄の少女の肉体を得て蘇り、青年の気が済むのなら、それで妻の愛した世界が元あったように一つへ戻ると言うのであれば、それでもういいと思った。
 だが、あの男はそうではないのだ。
 マーテルを失って尚、彼女の遺志を支えに立ち上がって見せたユアンは強い。それは、自分やミトスなど比べようもない。彼は、彼女の忘れ形見たる義弟の暴走を止めるべく対峙しようとしている。ディザイアンや、神子の守護についた天使達からの報告の中、見え隠れする背信者の存在に、クラトスは何時しかユアンの姿を見出していた。
 彼であれば、全ての準備が整い次第、行動を開始するだろう。そうなった時、彼はクラトスの命を奪いに来るはずだった。正面から戦いを挑むか、背後から一突きにするか。
 もうじき世界は一つに戻ろうとしている。ミトスかユアンか、どちらにせよ、クラトスにとってはその事実だけで十分だった。
 ただ、いま一つ願うことには。家族恋しさに泣く少年の涙を、誰か止めて欲しいと、クラトスはそう思った。

 - 2 days ago -

 此処へきて事態は急速に動き始めようとしている。
 ユアン・カーフェイはその徴候をはっきり感じ取っていた。
 ミトスは今回の神子をマーテルの器足り得ると考えている。その事が、奴の家族を殺してまで手元へ置きたがったクラトスを手放す切欠となっている。対して此方は魔導砲の完成まで秒読み段階にある。問題はエネルギーを効果的に増幅させる為に必要なハイエクスフィアの代替品が今だ試験段階であることだった。クヴァルの研究は足踏み状態が続いている。唯一の成功例とも言える培養体の失踪が原因といえばそうだが、だからといって無いものに固執するわけにもいかない。いざとなれば、己の装備するハイエクスフィアを使用するより他ないだろうと、ユアンは考えていた。
「後は、神子か」
「は」
 誰へ聞かせるわけでもなく漏らした声は、会議用の広い卓上で地図を広げ、指示を出す腹心の耳に拾われたようだった。卓より少し離れた場所へ椅子を置き彼らの様子を見ていたユアンは。顔を上げ、すっかり聴く姿勢で待つ部下を片手で払うと、独り言だと言い切った。部下達は目礼をして卓へ戻ると打ち合わせを再開したようだった。
 器を似せたところでマーテルが蘇るなどユアンは微塵も考えていなかったが、今神子の旅によってマナの流れを逆転させるわけにもいかなかった。牧場の移転によって魔導砲の存在がクルシスの目に付く恐れがある。四千年前に開発された魔科学兵器の存在が露呈すれば、ユアンの首を絞めることになるのは間違いない。ロディルが上手く隠し遂せるとも考えにくく、出来ることなら避けたかった。
 否、それならばまだいいと、ユアンは瞑目した。最も大きな問題は、環境だった。魔導砲を撃つには十分に大気中のマナ濃度を落とす必要があった。マナの濃い土地では魔導砲発射時に圧力が掛かる。魔導砲の耐久値が十分であればそれでも発射は可能だが、四千年前ですらマナの濃い土地で魔導砲を扱った記録は無い。魔導砲が暴発し大気中のマナと結合、誘爆すれば世界ごと心中することになるだろう。だからこそ、八百年掛けてマナの濃度調整をした衰退世界で開発を進め、足りないエネルギーを補う為にハイエクスフィアを必要としているのだ。
 衰退世界と化したテセアラで、再び千年近い時を掛けてマナの調整を行うつもりか。
 ユアンは極々静かに息を吸うと肺が膨らみきる寸前で呼吸を止め、目を見開いた。
 神子が精霊を開放するより先に始末せねばならない。クラトスが護衛につくのであれば少々厄介だった。或いは、暗殺のまたとない好機か。
「ボータ」
「は」
「神子は必ず大聖堂へ来る。そこで始末して輝石を回収しろ。魔導砲の増幅装置が必要だ」
「承知しました。ヴィーダルを向かわせます」
 計画は一息で無ければならない。一昨夜、疲れたとクラトスは言った。
 ユアンはまだ、疲れるわけにはいかなかった。

 - 1 day ago -

 夜明けを前にして、ミトス・ユグドラシルはふらりと姉の元を訪れていた。
 クラトスへ神子の護衛を命じてから、四日が経とうとしていた。命を受けた騎士は一昨日の朝方地上へ降りたと、救いの塔の監視につけた天使から報告を受けている。ユアンの動向はよく知らない。義理の兄であるあの男が、連絡ひとつ寄越したきり、何日も顔を見せないのは何時ものことだった。
 部屋の中央。神子の肉体へマーテルの精神を転す為に作られたポットからは左右へ曲線を描いて金属柱が伸び、潰れたU字型をした台座へ嵌め込むようにして、大いなる実りは繋ぎ止められていた。ほんのりと青い蕾のような実は緑がかった淡い光を放ち、中空から少年の他誰もいない広間を薄明かりで照らしていた。柔らかい光に包まれた実りの中、僅かに透けて一人の娘の姿が見て取れる。
「もう直ぐだよ、姉様」
 両腕を広げて実りへ向けて精一杯手を伸ばす。指先すら触れることの叶わない姉へ、ミトスは僅かに瞳を翳らせると自分を奮い立たせるように無理矢理笑って見せた。
「今度は、きっと上手くいく。神子の護衛はクラトスに頼んだんだ」
 喋るごとに、自分を肯定できるような気がして、ミトスは声高に続けた。
「ユアンは駄目だって言ってたけど、大丈夫。あいつは僕の言うことを否定したいだけだよ。いつだってそうだったじゃない」
 病気みたいなものだよ、と息を継ぐと少年は、また直ぐに言葉を紡ぎ始める。沈黙が怖かった。喋るのを止めれば話している間に得た心の置き場を失うように思えた。
「でも、姉様が目を覚ましさえすれば、ユアンだって納得してくれるよ。クラトスだって喜んでくれる。今は皆意見が別れてるけど、それも今だけさ。姉様が帰ってくれば二人も戻ってくるよ。姉様が帰ってくれば、僕のやり方が正しかったって皆理解してくれるし、我侭いったことだって許してくれる」
 姉の中心で静かに明滅する粒のような宝石を見詰め、ミトスは勢いを失った。
「姉様」
 輝くハイエクスフィアは、姉の精神を宿しているはずだった。ふつりと光を翳らせたように見えた輝石へ、少年は一瞬表情を曇らせた。
「大丈夫、心配しないで。皆元通りになるんだから。ねえ、また四人で一緒に旅をしようよ。もし疲れたっていうなら、旅は止めにして皆で何処かに住んでもいいよ。田舎にでもさ。僕、森の近くがいいな」
 歌うように少年が言葉を紡ぎ続ける中、夜明けは近く。神託の日はもうすぐ其処まできていた。

 - last night -

 山積する瓦礫を避けるようにして歩を進めた二人の前へ現れたのは、崩落した救いの塔と、夜闇の中マナの輝きによって僅かに光る、まだ小さな若木だった。
 世界が統合されてひと月が経とうとしていた。これ程長く留まる予定ではなかったと、クラトスは内心苦笑する。分かたれた世界が一つへ戻るさまを見届けた後、クラトスは体調を崩していた。マナを放出した折、一時的にマナの抜ける道のようなものが出来てしまったのか、体内のマナが酷く不安定だったのだ。アイオニトスのマナを取り込む作用が無ければ、ミトスと戦うどころか封印解放直後に死んでいただろうと、嘗ての同志に告げられた。最も、その同志とて自分と似たり寄ったりな顔色だったが。
 レネゲードの基地でユアンの顔色を見て、互いに死にそびれたものだと、揶揄しあったのが昨日である。体内のマナが低下していたのは何も自分だけではなく、ユアンは明言こそしなかったものの、クラトスは彼の不調の原因が己にマナを分けたことに起因するものだろうと薄々感づいていた。
 それから幾つか会話をして、深夜を回った頃にどちらからとも無く。大樹を見に行かないかと言い出した。何も夜間飛行を行うつもりは無かったのだが、如何せんまた今度と言うわけにはいかなかった。
 明日、クラトスはデリス・カーラーンへ向かう予定になっていた。

「共に旅をしていた時は、こんな結末を迎えることになると思ってもいなかった」
 歩を進めながら零したクラトスへ、ユアンは一瞬視線を寄越した。四千年前に見たのと寸分違わぬ、相手の心臓を一突きするような目だった。
「そうか。私はこうなる気がしていたがな」
 薄暗い夜の森に、潜められたユアンの声は、だが鮮明に響く。
「ミトスが道を外すことが解っていたと?」
 問えば青い髪のハーフエルフは、解っていたわけではない、と否定した。
「ただ、純粋な子供であるからこそ道を外し易いものだ」
 脆い幼子を担ぎ上げた地点で、何れはこうなる気がしたと、ユアンは続けた。
「それを諌めるべきは大人であるというのに、我々は諌めなかった。我々の怠慢がミトスを殺したのだ」
 前を見たまま、暫く無言で歩く。我々がミトスを殺した。正に今クラトスが考えていたことだった。それはロイドたちの前では決して見せることの出来ない、この男としか共有できない感情だった。
 ユアンは此方を見ないまま、嘗てそうであったように少しばかり先を歩き、飛び出た枝を圧し折り茂みへ放り込む。
「ロイドたちではない。殺したのは、ミトスを追い込んだのは我々だ」
 クラトスは軽く目を閉じると直ぐにまた目を開き、そうだな、と頷いた。
「だが、ミトスはもう勝手な大人に押し潰されることも。泣くこともない」
 それだけが救いだな、と彼にしては小さく呟くような声に、クラトスはもう一度、そうだな、と返した。

 崩れた塔の破片を踏み締めて、ユアンとクラトスは芽吹いたばかりの大樹の元へ歩み寄っていた。新たな名を付けられた若い大樹は、人々の希望を一心に背負うには頼りなく思えるほどに小さく、だが輝かんばかりの生命力に──マナに満ちている。
 その溢れるマナに触れたクラトスは何処か懐かしさにも似た既視感を覚え、どうか今度こそはと祈るように。そっと、目を細めたのだった。


[幕切]


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