■tos | ナノ
遅効性の毒


 そわそわとした落ち着かなげな街の大通りを、ミトス・ユグドラシルは歩いていた。橙色と黒の布地が組み合わさった垂れ幕やポスターが、街灯や看板からぶら下がり、店先には同じく橙色と黒を基調とした飾り付けがなされ、ところどころパーティーモールでアクセントが加えられていた。街のあちこちにオレンジ色の、大小様々な大きさの手作りランタンが置かれ、その殆どは南瓜で出来ている。顔の彫られた南瓜は、恐怖を与える表情というよりは、どちらかといえばひょうきんな表情が多く、大通りに面した店の大抵の間口に置かれていた。雑貨屋はこぞってパーティーグッズを取り扱い、織物屋や手芸専門店からは黒色の布が飛ぶように売れ、レストランや洋菓子店は季節限定で南瓜をベースにした菓子を焼いている。
 素朴な甘さを含んだバターたっぷりの焼菓子の香りが鼻先を擽り。ミトスは、来てよかった、と思わず顔を綻ばせた。
 ヘイムダールの出身である少年は、この街の騒がしさの理由を明確には知らない。街へ向かう道すがら物知りなクラトスに聞けば、祭りはシルヴァラント南部に位置する小国が発祥の地であり、その起源は彼の地の年始に執り行われていた収穫祭の一種であったと教えてくれた。ドゥルイドと呼ばれる司祭達は昼の短い日に祭りを執り行う。魔除けの火を焚き、作物や動物を供物としてささげ、火の周囲を踊り、暗闇の季節の訪れを告げる。人々は家へ閉じこもり、翌日祭りで焚かれていた篝火の燃えさしを炉床に入れて、新しい火で家を暖め、悪いものが家へ侵入するのを防ぐのだという。収穫祭と南瓜の関係性については、クラトスもまた首を傾げていたが、今のミトスはそれよりも。家へ閉じ篭もるはずの人々が、街中へ溢れかえり買い物を楽しんでいることのほうが気になっていた。
 賑やかしい大通りへ別れを告げ、物語へ出てくる魔女を髣髴させるような、黒い艶やかなローブと幅広の帽子を纏う小さなマネキンが押し込まれたショーケースの脇をすり抜ける。型紙やモールの切れ端が詰ったゴミ袋を跨ぎ、砂埃と跳ねた泥で汚れた狭い壁と壁の間をミトスは跳ねるように歩く。
 大通りには比較的安価で綺麗な宿なら幾らでもあったが、ミトスと彼の仲間達はその宿には宿泊できなかった。宿泊施設として州から営業の許認可を得ているような宿の多くは、扉の横に人間専用を示すプレートが施工してあり、それは滅多なことでは森から出ないエルフ達を思えば、暗に狭間の者はお断りだと示していた。この街を訪れることに最後まで反対していた仲間の一人は、その金属板に目を瞬かせた少年に、そら見たことかと言わんばかりの呆れを含んだ目を向け。よく磨かれたスチール板に目を奪われていた少年は、でも住み分けって大事だよ、と小さく嘯いた。
 実際、この街はそれである程度上手くいっているように思えた。少なくともこの街へ入ってから、路傍で散々蹴り回されて動かなくなった同族の姿を見掛けることもなければ、衛兵に意味も無く槍の石突で殴られて身体中を腫らした同族を見ることもない。決して差別が無いというわけではなく、不衛生でじめついた日陰のような場所での生活を強いられている状態は、まさに差別そのものだとわかってはいた。だが、旅をして今までに訪れた街の中ではここのハーフエルフたちの扱いは随分ましであるように、彼には思えた。最も、例によって神経質な同族の仲間が今の少年の胸のうちを聞けば鼻で笑い、少年の考えについて如何に甘いか、住み分けとは名ばかりのこの体制を如何に少年が直視できていないかを散々に指摘するのだろうが、幸いにも彼は今側にいない。
 街の中心部を走る通りから離れるにしたがって足元の石畳は罅割れ、原型を留めてないものとなる。ブーツの裏の溝へ砕けた石の破片が挟まり、じゃりじゃりと音を立てるのを聞きながら、ミトスは細い路地を何の確証も無く右手に曲がった。街に入ってまだ三日も経っていなかったが、道を間違えることはなかった。森育ちで方向感覚には自信があったし、仮に道がわからなくなっても勘で進めばいい。感覚に任せて道を歩いて、迷子になることは不思議となかった。
 暫く壁沿いに歩いていれば、タイルの剥がれた幅広の道へ出る。下層民と市民の明確な線引きが為されているのだったら、この道からだろう、とユアンは言っていた。線を越えて活動するものは少ない。互いに干渉しないことでいざこざが起きるのを避けているのだとすれば、一時しのぎとして効果があるということだ。勿論、それではハーフエルフの置かれている現状の解決にはならず、問題解決を先延ばしにしているに過ぎないのだとミトスは解ってていたし、この街の姿は決して少年の目指すところではなかった。ここでも狭間のものは歓迎されているわけではない。だが、其処に存在を認められている。追い立てられることが常である狭間のものにとって、ここが僅かでも羽を休める場所になるのではないかと、ミトスはどこか期待していたのだ。
 変色して異臭を放つ剥き出しの地面を踏まないように、所々残っているタイルを飛び石に見立てて踏みつける。苔とも黴ともつかない汚れで黒ずみ滑る石畳の残骸を二つ三つと飛び移って、道の丁度半分まできたところで次の足場を探していたミトスは、ふと、道の先へ人の塊が出来ていることに気がついた。

 安宿にしては大きな設備だった。鉄製の焼き釜の前で仕切りに火の調節をする男を横目に、ユアン・カーフェイは組んだ腕を解くことすらせず眉間に皺を寄せた。人気の無い宿は、泊まりの客よりも地元民の食堂としての利用を主な収入として見込んでいるのだろう。宿の主人の好意で使わせてもらっている黒い焼き釜が、宿の方針を象徴していた。そもそも、人間の泊まる宿ならば表通りへ幾らでもあり、仮に狭間のものが宿に泊まるというのであれば、此処よりももっと通りの奥まったところにある、もっと安い宿を使うのだろう。宿を取るだけの金を持っていれば、ではあるが。
 九時課の鐘が鳴るまでとの約束で使わせてもらっている宿の厨房は、グレーゾーンとはいえ貧民街へ構えられた宿にしては比較的綺麗に片付いていた。油虫くらいはでるかもしれないが、それは、それこそ宮廷の調理場でも似たようなものだろうと、ユアンは勝手に決め付けていた。相変わらず素晴らしく手際良く調理を進めていった人間は、料理の一工程の合間合間に洗い物や片付けを済ませ、今は焼き釜の火加減に掛かりきりである。
「ミトスが我々に何も言わずに外出したことが、そこまで心配か?」
 先の伸びたスペードのような形をした鞴の先端を釜へ向けて、男は慎重に持ち手を動かし風を送っていた。鞴の蛇腹を、火の色を見ながら押し縮める男は、此方へ語りかけてはいるが、視線は釜の中を見詰めたままである。ゆっくりと、風を起こす男の後ろ頭を見ながら、ユアンは不愉快そうに顔を歪め、視線を厨房の中から外へと逸らせた。
 木造の宿屋の一階は食堂となっていた。自身の直ぐ隣り、下腹の辺りに当たる高さのスイングドアの外側にはカウンターがあり、その先の食堂部分は建物の大きさの割に広く取られている。昼食時には忙しく動いていた宿の主人は、厨房を貸した後、表に準備中の札を掛けてさっさと奥へ引っ込んでしまい、今カウンター内は空であった。
 無造作に並べられた、見目よりも頑丈さを重視したような武骨な丸テーブルの殆どには上書きを重ねたような染みがうっすらと残っている。全部あわせても十にはならないテーブルをぐるりと見渡し、ユアンは一番隅のテーブルへ目を留めた。そこには至極不器用かつ危うい手つきで繕い物をする一人の少女の姿がある。淡い芽吹いたばかりの新芽を思わせる緑髪の少女は、小さく破れてしまった弟の服の裾を、恐らくは繕っていた。穏やかな表情で繰り返し針を手元の布へ突き刺す。糸を通すまでの距離は一定しておらず、酷く広い縫い目もあれば殆ど同じ場所へ目を打つこともある。裏から布を当てているはずの服の布地は何故か服の裏側へ合わせて引き込まれ歪な皺をつくり、当て布はその役目を放棄して一体何処へ消えたのか、服の裾は其処だけやけに短くなっているように見える。執拗に何往復もする針へ、ユアンは自分が繕ってもそこまで酷くはならないだろう、と遠い目をした。
 鼻歌でも歌い始めそうなほど上機嫌に、少女の弟が着ていた筈の見慣れた白い服を。見るも無残なダーツ入りのアシンメトリーなぼろきれへと作り変えていく少女を、ユアンは見なかったことにしようと心に決め、寄りかかっていた厨房に入って直ぐの薄べったい壁から背中を引き剥がすと、調理台の側へ退避した。
「よくもまあ、あれで指を刺さないものだ」
 ぽろりと零せば、男はやはり此方を見ないまま、マーテルか、と聞き返してくる。焼き釜の火で照らされた男の暗い褐色の虹彩の中に、ちらちらと明るい赤が揺れた。
「心配ならば、態々こんなところで管を巻かずに、様子を見に行けば良いだろう」
 一体どちらのことを指しているのか。鞴を降ろした男は相も変わらず感情の読めない声で冗談ともつかない言葉を舌に乗せ、ユアンは男の提案に口の端を引き攣らせる。用意していた薪を二つ放り込み、手馴れた様子で灰かき棒を操り薪を奥まで押しやって、もう一度火の様子を見てから漸く背を伸ばした男は、ユアンと然程身長が変わらなかった。人間にしては長身の男は、癖の強い赤茶けた髪を揺らして半分ほど振り返ると、頭ごと視線を此方へ向ける。指先へ付いた灰を調理台の上に畳んでおいていた持参のタオルで拭い、軽く畳み直す男が此方へと向けた顔は生物の観察でもしているように見え、それが更にユアンを苛立たせた。
「酒も飲んでいないのに誰が管など巻くか。そもそも何時私が奴らの心配なんぞしたというのだ」
 心配か、心配なら、と続けて二度も同じ言葉を口にした男へ、悪意にも似た意図的なものを感じ取り、ユアンは噛み締めた歯の隙間から声を捻りだすように言葉を返した。誰が心配なんぞ、ともう一度言えば、男は怪訝そうに小首を傾げ二度ほど瞬きをする間沈黙すると、手の中にあったタオルを調理台へ置いた。
 手入れのされた木製の調理台は、磨きぬかれた木だけが持てる特有の滑らかな手触りと光沢を放ちながら其処へ存在している。片付けられた調理台の上には先程置かれたタオルと木の盛り皿が一枚、それから重ねられた四枚の木の取り皿と同じ数のスプーン。革のナイフカバーの上にクラトスの愛用している刃渡りの長いユーティリティナイフが一本と、その隣りへ鈍い銀色をしたドリンクピッチャーとカップが四つ並べられていた。
「自覚が無いのか」
 ことも無げに告げた男へ、ユアンは心底嫌な奴だと鼻筋に皺を寄せた。
「心配なぞしていないと言っているのだ。人の忠告にも耳を貸さんような奴らの身を、何故案じてやらねばならん」
 幾ら火は熱いと教えてやっても、その身を焼かれねば熱さを憶えないような愚か者を、止めてやる義理は無い。ふん、と鼻であしらえば、男は興味深そうに目を細め、壁門でのことか、と呟いた。僅か三日前の出来事へユアンは一層眉を顰め、男は思案するように調理台の木目へと視線を走らせる。視線を這わせた後を指先で辿っていた男は、白い指先を途中で止めると、茶でも入れるか、と一言問うてきたが、ユアンは、いや、と無言で一度首を横へ振り断った。茶を啜る気分ではなかった。
「あれは、運がよかっただけだ」
 この街を訪れるのを、ユアンは終始反対していた。正確には、この国の中規模以上の都市部に立ち寄ることを、だ。小規模な集落であれば大抵は村を覆う壁自体が無く、如何に狭間のものを歓迎していなくとも検査など殆ど行われていない。これは多くの国にいえることではあるが、ハーフエルフに対しての行動規制法によって各都市或いは集落に立ち入るとき、身分を証明出来ない全ての人は、簡易の血液検査を受けなければならないとされている。だが、小村落などではその簡易の血液検査キットすら行き渡っていないのが現状だった。まして、簡単な木の柵で集落全体を覆っているようなところでは村への侵入が安易であることから番兵や自警団は魔物と賊徒にしか反応しない。堂々と村の門から入れば、簡単な耳のチェックぐらいはあるかもしれないが、それも全員は行われず、代表者一名で事足りる。ただ、そうして村に侵入できたとしても、後に種族を偽っていたことが村人達にばれれば、即刻村の広場へ引きずり出され、その村の権力者と司祭か神父の立会いの元で処刑されることになるだろうが。
「街道の宿で会った商隊が共に居なければ、我等もあの壁門で見た輩と同じ目にあっていたのだぞ」
 荷物検査と通行許可証の確認と発行の為に留められた古びた石の壁門を思い返したユアンは、隠すことなく苦虫を噛み潰したような顔をみせる。人の社会で生きてきたシルヴァラントの元将軍は、今滞在している国が狭間のものに対しての行動規制を掛けていることを知っており、通行許可証の確認時に荷物検査以外の検査が行われることも知っていた。
「そういえば、お前はこの街へ寄ることを反対していたな」
 今更思い出したように呟いた人間の男を、ユアンはじとりと一瞥した。火の入った厨房は熱気が篭もり、冬も間近だというのにユアンは暑ささえ感じていたが、焼き釜の前で此方を見遣る男は到って涼しい顔をしたまま、汗一つかいていない。明り取りの為にか──換気ではないだろう、あちこちから隙間だらけの建物に、果たしてどれ程換気用の窓がが必要なのか──丸く切り取られた壁からは貧民街を抜けてきた風が吹き込み、左の頬をなぶり通り過ぎていく。街の中でも日当たりも、衛生も良くない界隈を駆けてきた風は酸っぱさと苦さを含んだ、言いようの無い悪臭を引き連れており、ユアンは鼻の奥を突き刺すような鋭い臭いを嗅ぎ取っていた。
「貴様も出奔したとはいえ元貴族だろう。まして騎士団長を務めていたような男だ、ハーフエルフに対する行動規制法を知らんとは言わせんぞ。それとも、上流階級故に下々のことまでは感知しないとでも言い張るか? 似たような法は何処へでもある。この国とてテセアラや他国と同じだ。ハーフエルフへの差別を成文化していない国の方が少ない」
 最も、成文化していないからといって狭間のものを受け入れているのかと問えば、答えは否である。法によって人権を保護されているのは人間だけであり、そこに狭間のものが含まれている国などない。
 嘲るように言えば、テセアラで騎士団長を務めていた男は彼の挑発に噛み付くことなく、知っていた、と頷いた。
「しかし、ここの領主は、ハーフエルフに対する差別法撤廃を求める人権保護団体の後援者だった筈なのだがな」
「どうだかな」
 鼻で笑えば、男は訝し気なようすで此方を見返していた。無言で問いかける視線へ、ユアンは一度肩をすくめると、火の熱気から逃れるように窓の側へと身を寄せ、壁に寄りかかる。鼻を突く悪臭と僅かに含まれる湿気さえ我慢すれば、壁に穿たれた穴の傍は明るく、焼き釜に入った火のお陰で上昇した室内の温度から逃れるには丁度いい。寄りかかった壁は室内の壁と似てやはり薄く、背中をつけただけで振動は伝わり、この程度の薄さであれば蹴り破るのも簡単だろうと、ユアンは意味の無い予想をしていた。
「それでは壁門でのことはどう説明するつもりだ、クラトスよ。あの、手の甲に焼印を捺された子供の叫び声も、種族を詐称したという咎で壁門へ吊るされた男の姿も、貴様はたった三日で忘れたのか? 衛兵に食って掛かったミトスは、後数秒貴様が遅ければ槍に腹を突かれていただろう。まして、商隊の男が取り成さなければ、あの場には衛兵か我々か、どちらかの血が流れていたところだ」
 盾で槍の穂先を防いだ時の衝撃を思い起こしたのか、男──クラトスは軽く左の腕、肘から手首の間を擦り、眉根を寄せ、言葉に迷うような素振りを見せた。
「この国の法であり、領主は反発しているのだと、言っていた」
「ああ。あの商隊の男はそういっていたな」
 ミトスは奴の言葉を信じたようだが、と嘲笑を浮かべ、ユアンは窓の外へ視線を投げた。宿の裏側へ面した厨房からは貧民街でも一階層深い部分が露となっている。宿の表では砕けはしていたものの、辛うじて原型を留めて地面へ貼りついていた石畳は完全に剥がれて、黒く変色した地面が剥き出しとなり、路地へ面した短い庇の下へは老婆とも老爺ともつかない棒切れのような人間が一人座り込んだまま、身動ぎ一つせず俯いていた。細い路の先には真中の箍が壊れて外れた樽が転がり、風に吹かれて揺れている。人が全く居ないわけではない、死んだように静かな人の気配は、そこかしこに感じていた。
「ハーフエルフが人を謀れば絞り首。焼印も国の政策の一環だったか? 何処へ行ってもハーフエルフだと解るように手の甲へ焼印を捺せと。随分利口ではないか。領内でも行っているのであれば、さぞ区分けもしやすいことだろう」
 窓から見える家々の壁にはべったりと暗緑色の汚れがへばりつき、所どころ粉をふいたように白い斑点が浮いている。屋根の破れた家や、壁の下端が剥げ落ちている掘っ立て小屋も多く見られ、互いの住居の間が狭いお陰で辛うじて立っているような建物も決して少なくは無かった。建物と建物の間に掛かるやけに毛羽立った荒い縄には泥水で色をつけたのかと思うような布きれが幾つも引っかかっており、風に揉まれては縄ごとぶらぶら揺れていた。
「唯々諾々と国へ従い保身を続ける男の、一体何処へ信用を持てる。奴のあれは寛容さを見せ付けていい気になりたいだけだろう。金を持て余す輩ほど、塵屑にも心を砕く寛容な自分、を演じたがるものだ。金が欲しい輩はそれらしいことを叫びながら団体を設立し、世を騒がせて少しでも名を売りたい金持ちの新興貴族は中身も見ずに出資をする。金だけなら幾らでもだせるだろうからな。『貴族が義務を負う』だと? 売名行為もいいところだ」
 ユアンは悪し様に顔も知らない領主を詰り、底の知れた奴だとせせら笑うと、だがそれに騙されるものもいる、と零されたクラトスの言葉に一瞬口を閉ざして、すぐさま苦い顔をした。クラトスは半端にユアンの方へ向けていた身体を向け直すと、体重をかける足をかえ、険しい表情をしてみせる。
「新興貴族や若年の貴族の中には、確かに義務を態のいい売名行為と履き違えているものも多い。実績のない詐欺紛いの団体へ騙されるも同然で寄付する輩もいる。そうでないものも勿論いるが、その売名行為に気付かず騙される領民や国民もまた存在する。そして、それに騙されるものの多くは本来貴族が守らねばならないはずの、見抜く目を持たない弱者たちだ」
「全くおめでたいことだな。そうして餌食にされて大義の為の礎となったと妄信しながら死んでいくなどと。私は御免被る」
 一つ頷いて同意したクラトスへ、ユアンは本当に解っているのかと一つ溜息をついた。
「……ミトスは区分けというものがどういう意味を持つのか爪の先程にも解っていない」
 言って、軽く頭を振るい、ユアンは自分達へ黙って街へ繰り出した少年の姿を思い返す。彼の姉もまた彼の不在を聞いても薄く微笑み、大丈夫よ、などと曰っていたがユアンからすれば、自覚が足りないことこの上なかった。
「区分けによって起こるのは差別の明確化だ。視覚化されることによって、差別はより具体的になる。誰もが一目見て解る形を持たせてみろ、今にこの街の差別は酷いものとなる。住み分けだと? 隔離の間違いだ。下層階級の集まった貧民街にはハーフエルフばかりではない、人間もいる。だが見ていろ、狭い区画へ押し込まれて、フラストレーションが溜めればそのうちこの中でさえも差別は起こる。皆自分の下を作り、最後に起こるのはなんだ?」
「ミトスは、まだそれを直視できていないだけだろう。希望を、羽を休められる場所をどこかに求めたいのだ。何処を目指せばいいのか、具体的な目標も見つからないままの旅は、十四歳の子供には険しすぎる」
「だからお前は解っていないというのだ」
 きっぱりと言い切れば、クラトスは口を噤む。形良く整った唇が閉じられ、数度瞬いた暗い、だが底へ赤の光る目がさり気無く伏せられるのを見て、ユアンは眉を顰め、彼は解っていないわけではない、と考えを改めた。解っていないのではなく、彼はただ只管にあの少年へ甘いのだ、と、気付きはしたものの。だが、ユアンはそれを追求することはしなかった。
 彼は、ミトスの弱さを知っている。自分達が希望を寄せている少年が、実は只の十四歳の少年であり、時には疲れ果て膝を着きそうになることもあると。時に何処かへ妥協点が無いか、あの澄んだ青い瞳を不安そうに揺らして探してしまうのだということも。彼らは知っていた。そうして、間違った妥協点を見つけ出しかねないという危険性もまた、十二分に知っている。その瞬間に彼の少年は希望ではなくただ一人の、何処にでもいる少年へと戻るのだということを。
 同時に、自分達が如何に卑怯な存在であるかも、身に染みて理解しているのだろう。彼の甘さの由来はそれだと考えて、ユアンは何を今更と口の端を引き上げた。
「妥協すれば、それは既にミトス自身が求めた未来とは違うものとなる。今の世の中の何処にもないものを求めたのだ。具体的な目標など、端からあるはずもない。ミトスの中にある理想を求めたのだからな」
「ミトスが、変質するのが恐ろしいか、ユアン」
「それはお前の方ではないか、クラトス。私は、現実を見抜く目も、臆することなく真実を見詰める目も持たない弱者を頭上へ掲げて死ぬつもりは無いといっているのだ。ミトスの純粋さは武器だが、無知は弱点だ。それも致命的な」
 強い風が室内を回り、吹き戻ってくる。その風の悪臭に混ざって、甘く香ばしい香りが鼻先へ微かに触れた。バターとやや土臭い甘みの中へ、微かにシナモンの香りが絡まる。焼き釜から漏れ始めた焼き菓子の匂いは他の臭いよりも重さが違うかのように留まることなく部屋中へ拡散し始めていた。
 ユアンの表情に何かしらの変化を読み取ったのか、怪訝な顔をして小首を傾げたクラトスは、ふと匂いに気付いたように顎を上げて、それから焼き釜へと振り返った。釜の横へ二つ引っ掛けられた焦げ目のついたミトンの片方を右手に嵌めて、焼き釜の扉を開く。開いた扉から立ち上った熱気は風よりも強く甘い香りを周囲へと広げ、クラトスは熱から顔を背けつつ、料理の焼きあがり具合を確かめ、もう一つのミトンを左手へ嵌めていた。
 そのまま、まだ火の消えていない焼き釜の中へ、慎重に両手を差し込んでいく。
 同時に、俄かに宿の表が騒がしくなり、宿の蝶番の、耳を劈くように甲高い軋みが厨房にまで響き渡る。
「心配ならば心配してやれ。見抜く目は、養ってやればいい。そうだろう、ユアン?」
 焼き釜へ腕を突っ込んだまま投げかけられた言葉へ、ユアンは、ふん、と鼻で笑って受け流した。クラトスは僅かに顔を顰め、余程熱かったのだろう、焼き釜から皿を引っ張り出すとそのまま素早く調理台の上へ乗せた。湯気を立てるそれは丸いパイ皿の上で十分に膨らみ、焼く前に溶き卵を塗ったのか格子状に掛けられたパイ生地は、こんがりと綺麗な焼き目へしっかり照りが出て、見た目にも香ばしい。
 ミトンを外し、調理台の上へ重ね置くクラトスの背中を眺めていたユアンは、姉に帰還を告げる少年の声に溜息を一つ吐くと、スイングドアを押してパイの甘い匂いが充満した厨房を後にした。

 勢いよく引っ張ると宿の扉は蝶番が甲高い悲鳴を上げ、ドアノブに吊り下げられていた準備中と書かれた板はドアにぶつかってガンガンと鈍い音を立てた。ほんのりと温かい小さな紙袋を抱えたまま、ただいま、と声を張り上げようとしたミトスは、宿の中へ漂う甘い香りにぱっちりした大きな目を瞬かせる。昼前に宿を出たときには無かった匂いにきょとんとして立ち尽くした少年へ、隅のテーブルに陣取っていたマーテルは気付いたようで、じっと思案顔で見詰めていた手元から顔を上げていた。
「ただいま、姉さま! 何してるの?」
「ミトス。おかえりなさい」
 穏やかな笑みを浮かべた姉に、ミトスは跳ねるようにテーブルの間を抜けると、彼女の座るテーブルへと近寄った。丸い木のテーブルの上を覗き込めば、そこには色とりどりの小さな布きれが広がり、随分細くなった手縫い糸のボビン巻が二つ、小さなソーイングセットの隣りへ引っ張り出されて転がっている。そのどちらもが白色で、ほんの少し色味が違い、最終的に選ばれたらしき片方からは糸の端が出ていた。彼女は手元の白い塊を己の目の高さまで持ち上げ、少年へ向けて広げて見せ、一寸困ったようにどうかしら、と少年へ問うた。
「この間、服の端が破けてしまったでしょう? だから、繕っておいたのだけれど」
 壁門で衛兵の槍の穂先が掠って裂けた服の裾は今や見事に塞がり、引き攣った悪趣味な刺繍のようになって盛り上がっていた。布自体は裏へ引き込まれているのか不自然なダーツが幾つも縒り、それを固定するような形で縦横無尽に走りまわった糸はかえって直しの跡を強調したし、広げた服の裾は繕った箇所だけが何故か短く、寄った布地は余計にダーツを大きく目立たせていた。一体何がどうなってこうなったのかミトスには全く見当もつかなかったものの、少年はそれでも姉を責める気にはならず、無意味に何度も頷きながら、独創的だね、と評するに留めた。
 その後丁度スイングドアを押して厨房から出てきた顰めっ面にミトスはただいま、と声を掛け、多少緊張した笑みを浮かべた。同じ狭間のものであるにも関わらず、ハーフエルフに対して同族意識も仲間意識も持たない男をミトスは少し苦手にしており、ついでに彼の眉間に寄せられた皺を見た瞬間、誰にも何も言わずに外出したということを少年は否応無く思い出させられていた。
「何処へ行っていた」
 少年の姉と同系の緑の目は、ほんの少し色が濃いというだけで随分と冷たい印象を少年へ与える。冷ややかな視線を投げつける男へ、ミトスは一寸口篭もると、えっとね、と言葉を探した。自然と視線は助けを求めるように並べられたテーブルの上から壁や床や天井に到るまでを彷徨い、室内を一周して、ふと手の中の紙袋で目が留まる。ほんのりと温かいそれは少年にとってこの街にきて最大の収穫であり、ミトスは同族の青年へ紙袋を差し出しながら、これ、と目を輝かせた。

 パンプキン・パイと共に厨房へ残されたクラトス・アウリオンは、パイをパイ皿から外すのに苦心していた。
 パレットナイフなど持ち歩いていないから、旅の最中に良く使う細長いユーティリティナイフを横に向けて、パイ皿とパイの間にゆっくりと刺す。生地の表面を壊さないよう慎重に刃先だけ押し込んで縁取り、一旦引き出すと、その隣りに刺しこむ。缶切りの要領で切ってしまえれば早いのだが、実行すれば先ず間違いなくパイ生地はぼろぼろに壊れてしまうため、クラトスは分厚いナイフの刃先を使って滑らすように切り込んでいた。
 ミトスの良く通る高い声と、ユアンの無駄に大きな声はスイングドアの上をいとも簡単に乗り越えて厨房の中にまで響き、クラトスはパイ皿を少し回してまだ淵取りの終わっていない箇所を右に持ってくると、他に客が居なくて良かったと心底思った。別に逗留客が居たならば、先ず間違いなく苦情が来ていることだろう。十日ほど前に泊まった街道沿いの宿屋で、他のお客様もおりますので、と申し訳なさそうに伝えてきたひょろ長い宿の亭主の顔を思い返して、思わず眉を顰める。マイペースな姉弟は注意しにくく、常に不機嫌そうな表情を辞めず、声と態度のでかいユアンへは恐怖が先に立つのか、申し訳ありませんがお連れ様にお伝えください、と頼まれるのは大抵クラトスであった。或いは何も知らずとも無意識に種族を嗅ぎ分けているのかもしれないが。
 どうやらミトスは貧民街で行われた領主による、施し、を目にしたようだった。少年は相変わらず興奮した様子で捲くし立て、時折エルフ語の混じった話はクラトスにはよく分からないところも多かったが、兎に角熱弁を奮っているようだった。パイの端を潰さないようにどうにかナイフを入れ終わると、パイ皿を軽く揺らしてパイと皿の間に隙間を作り、平たい木の盛り皿を引き寄せた。長身のクラトスには宿の調理台は少々低く、心持ち中腰になりながらパイの入った皿を盛り皿へと近付け、パイの形が崩れないように注意を払い、パイ皿を僅かに揺らしてパイをずらすように滑らせる。パイを外すのに使ったナイフの腹をターナー代わりにパイを支えてやり、彼は意外と重量のあるパイを落とさないよう皿の上へ盛り付ける。
 捨てろ、と響いた声にクラトスは思わず手を止めた。釜の火の小さく爆ぜる音が聞こえて、それまでユアンの声にも怯むことなく喋っていたミトスもまた驚いたのだと気付かされる。宿全体は静まり返り、だがそれも一瞬のことであった、直に怒りに満ちた子供特有のきんきんと耳へ突き刺さる怒鳴り声が、先程の熱弁の倍の勢いで聞こえ始め、パイはパイ皿から外れて木の皿へと片端を落とし、細かな粉を作った。少しばかり下端の形を損なったパイにクラトスはナイフの腹に乗ったままの部分をゆっくり降ろし溜息を吐く。
 大きな声できゃんきゃんと喚いていたミトスの声は、唐突に何かへ遮られたように止まり、ミトスやマーテルの前では滅多出すことのない淡々としたユアンの声がクラトスの鼓膜を揺らした。殆どかすの残らなかったパイ皿をタオルの清潔な面で拭き取っていたクラトスは、もう一度ミトンを嵌めて空になったパイ皿をまだ火の消えていない焼き釜へ戻し、鉄の扉を閉めるとミトンを元あった場所へと戻した。
 食堂では収穫祭についての随分と凄惨な思い出話が、何の感慨も慨嘆もない口調で繰り広げられているらしく、人の社会で生きてきたハーフエルフの男が語る体験は少年からすっかりと喋る言葉を失わせてしまったようだった。戦争が長引き年々増え続ける浮浪児を処分するため、孤児たちを集めて毎年収穫祭の時期になれば振舞われていた毒入りの菓子。毒が入っていると知りながらも空腹に耐えかねて齧った子供が実に多かったこと。翌日現れた役人によって無造作に積み上げられ火へ掛けられる死体の山と、髪や爪が焼けた時の鼻を突く硫黄のような異臭について語られる頃には、ミトスの子供らしい伸びやかな声はなりを潜めていた。
 クラトスは一度食堂へと視線をやってから、ユーティリティナイフのカバーを指へ引っ掛け、パイの乗った皿の端へナイフを乗せると、落とさないようにナイフの腹を右手の親指で抑え、パイ皿を手に取った。まだ熱いパイの熱は、湯気と共に砂糖の焦げた香ばしい匂いと解けたバターと南瓜の甘い香りを立ち上らせ、ほんの少し入れたシナモンの、甘みを含みながらもすっきりとした香りが、髪の掛かった頬を優しく撫ぜる。ナイフの顎を抑えて固定するためのバンドへ人指し指を通し、ナイフは刃先を手前に持つと、下腹の高さのスイングドアを押して。クラトスは厨房を後にした。
「だから、物を貰っても容易に口にしてはならんと言ったのだ」
 食堂の有様は概ね創造していた通りであり、まず耳に入ったのはユアンの実に平坦な声だった。解ったか、と理解を促す男へ、金髪の少年は頬を青く褪めさせたまま目を見開いて長身の男を見詰めている。一方で、いつでも自分のペースを崩さないマーテルは少年の立つ直ぐ側のテーブル席へ座ったまま、少年が貰って帰ったのか、紙袋の中に入っていた四角く切ったさつまいもが沢山入った丸いスコーンを一口。頬張っていた。
 パイを持ち食堂へ出てきたクラトスは、マーテルのテーブルの上へ白い布の塊を見、そしてそれがミトスの服の残骸であると見て取ると、ミトスのことだから彼女が少々不器用なことをしても怒りはすまいが、と少しだけ眉を寄せ、ミトスを挟んでマーテルの向かい側へある四人席のテーブルへとパイを下ろした。
「大丈夫か、ミトス」
 一声掛ければ、ミトスは弾かれたように細い金髪を揺らして此方を振り返り、騎士の名を呼び詰め寄ってくる。ぶつかりそうな勢いで駆け寄った少年は、腹の辺りで交差しているクラトスの革帯を握り締め、引っ張りながら懸命に顔を伺う。パイを先に下ろしていなければ、この少年の頭は黄色い南瓜のフィリングと壊れたパイ生地で汚れていただろう、パイをテーブルへ置いてから話しかけて正解だった。革帯を握りこんだ少年の手は前後に揺らされ──最も、まだ幼い少年に引っ張りまわされた程度でぐらつくような柔な鍛え方はしていないが──ミトスは常に自分の味方をするクラトスへと恐怖か、或いは煽られた不安を訴えているようだった。
「クラトス。ねえ、ユアンってば酷いんだよ」
「誰が酷いというのだ、誰が。それとも毒を食って死にたいのか、お前は」
 脅すことないじゃない、と顔だけ振り向かせて叫んだミトスへ、ユアンも負けじと誰が脅しただ、と叫び返す。腕を組んだまま眉根を寄せて、だが不愉快とは言い難い表情をしたユアンへ、クラトスは取り合えず落ち着くように訴えた。ミトスの頭を軽く撫ぜてやれば、ユアンは直ぐさまそれを見咎めて、眉間の皺を深くする。
「甘やかすな、クラトス」
 実に心外であった。
「まあ、おいしそうね。このパイ」
 反論しようとクラトスが口を開く前に、隅のテーブルを陣取っていた筈のマーテルは何処をどう通ったのか、ミトスを挟んで隣のテーブルへ乗っかったパンプキン・パイを、スコーンの入った紙袋を抱えたまま、楽しそうに──或いは嬉しそうに──覗き込んでいた。湯気を立てるパイに至極簡単な感想を述べてミトスの後ろ、ユアンとミトスの間へと陣取っている。一人、何処までもマイペースな彼女にユアンが鋭く、マーテル、と名を呼んだ。どれだけも離れていない場所で上げられた大声に鼓膜が震えたのが解り、クラトスは思わず眉を顰める。
「お前も偶には人の話をだな……いや待て、何を口にしている」
「スコーンよ、ユアン」
 ユアンの言葉から、食べかけのスコーンを手にした彼女に気がついたミトスが当然といった顔をして答えたマーテルへ、小さな悲鳴を上げて、姉さま、と叫び飛びついた。マーテルは自分の手からスコーンをもぎ取ろうとする弟へ何を勘違いしたのか、目を丸くして驚いた後、紙袋の中からまだ手の付いていないふっくらと丸く膨らんだスコーンを一つ取り出して、ミトスへ手渡すと、にっこりと笑う。全てを許すような、慈悲の女神もかくやと思わせる微笑みは、そもそもそのスコーンはミトスが貰ってきたのではないのかという疑問すらものの見事に失わせた。
「ちょっと硬いから、気をつけて食べるのよ、ミトス」
 渡されたスコーンを持て余し気味に両手で持った少年は困ったように眉を下げてで姉を見上げている。
「そうじゃないんだってば。もう、姉さまったら」
「人の話を聞いていなかったな」
 慌てるミトスと、幼子を叱りつけるように口調だけ尖らせてマーテルを叱るユアンへ、クラトスは思わず苦笑を零した。実際に火へ捲かれるのを思えば随分と甘い火傷である。だが、舌を焼く程度の熱さでも、火の熱さを知ることは出来るだろう。結局のところ程度は違えど彼もまた少年らには甘いのではないだろうかと、ふと思い至って。クラトスはいまいち噛みあわない会話を繰り返す三人を、席に着くように促し、厨房へ四人分の取り皿とカップを取りに戻ったのだった。


[幕切]

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ユアンの危惧していた通り、仲間達の少年への甘さこそが「毒」であり、ゆっくりと蝕む毒は4000年経って少年を殺すに到ったのである、という話でした。


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