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Gae Bolg


 繰り出された剣先は鋭かった。
 迫る突きを盾の曲面で逸らすように受け止め、滑る刃を横目に剣を左下方から斜めに斬り上げる。相手の右脇腹を狙った剣は、しかし高い金属音を伴って、振りの初動で受け止められた。
 噛み合った剣の刃が震えるのを、男──クラトスは感じ取っていた。
 周囲の景色も判然としない暗闇の中。不思議と相手の動きは見えていた。細身ながら、素早い身のこなしと、まだ未熟だが天性の勘とも言うべき瞬間的な判断力でもって、若き双剣士は執拗に食い下がる。
(そう、若い──。)
 まだ少年の域をでないのではないか、とクラトスは不意に感じた。明かりの乏しい暗がりで、周囲の状況は愚か、相対する相手の顔立ちなど見えもしないが、影のように暗闇より尚黒く浮かび上がる体つきは。服の上から見てもまだ出来上がりきっておらず、何度となく打ち込んでくる技も随分荒削りである。
 基礎だけは何処かで教わっているようだが、と膠着した状況のまま、クラトスは相手を観察する。その殆どを実戦で磨いたのであろう型に嵌らない少年の剣は、一合打ち合うごとに鋭さを増していた。今はまだ、かつて戦場を駆けていた男との間には歴然とした経験の差が存在しているようではあるが。
 互いに間合いの内側へと入り込んでいるせいで、仮に剣を引いたとしても、そのまま振ることは叶わない。一瞬。逡巡した少年の、剣持つ右手が引かれたのを感じ取り、クラトスは少年が跳びずさるより素早く盾を引くと。かち合った剣は動かさないまま、接近した状態から、小さく盾を突き出すように、少年の顔面を打ち据えた。
 力比べをしたところで、細身の少年に勝ち目はない。少年が遅かれ早かれ引かざるを得なくなるということは、男もまた想定済みだった。
 真っ正面からまともに打撃を食らい、少年は後退するように後ろへよろめき、体勢を崩していた。怯んだように腕を引っ込めた相手へ、クラトスは追撃を放つ。抑えのなくなった剣を、留められていた低い位置から肩を開くように振り抜く。
 至近距離で横薙ぎに払った剣は、しかし、少年を剣先で僅かに捕らえるに止まった。崩した体勢から、大きく後方へ跳びずさった少年が、どうにか体勢を立て直す姿を見て、クラトスは高揚感とも緊張感ともつかない感覚に襲われていた。
 強い。剣を交えたばかりの──ほんの数分か前であれば、目の前の年若い剣士はこの一撃を見抜けずに斬られていただろう。打ち合うごとに成長していく少年へ、男はかつて騎士として自らの剣を捧げた一人の少年を思い出していた。大戦の英雄と呼ばれ、勇者と崇められた少年の、かつての姿を彷彿とさせる剣筋だった。彼の少年にはクラトス自身が指南をつけていたため、眼前の少年の、粗の見える剣技とは全く違う剣の運びをするが、それでも根底に何処か似通った部分を──例えば体をやや右へ開いた構えの取り方や足裁きなどの基本的なところで──見出していた。
 僅かな郷愁に囚われていた男へ、少年は隙を見たのか、構え直すやいなや、再び斬り込んできた。浅くであろうとも、斬られたことに対しての恐れのようなものは感じられない。痛みへ恐怖を覚えないようでは、まずもって長生きは出来まい。だが、恐れに捕らわれていては剣を握ることはかなわないだろう。
 迎え討つべく影の輪郭を正面へ捉えて、半歩ほど右足を引いて自らの間合いを保つ。真っ正面から打ち込んできた少年の双撃を、男は二三歩と左右に身をかわし後退して避ける。双剣での深い踏み込み斬りから、間髪入れずに繰り出される右剣での斬り上げ。続け様に左の勢いをつけ、着地した瞬間を狙っての斬り払い。先刻よりも数段伸びのいい剣技に、最後の斬り払いを盾で受け止め、一瞬ひやりとする。利き手での攻撃の後に見せていた隙は、攻め込まれる時機で気付いたのか、左手での攻撃に繋げることで潰されていた。
 否、それよりも。着地点を読まれていたことに、クラトスは衝撃を覚えていた。足の運びや、避けるときの僅かな癖を読みとられている。
 思わず足を止めて衝撃を盾で受け止めたのも束の間。視界の左から迫る白刃に、クラトスは首を倒し、寸でのところで剣を避ける。顔の真横を抜けた刃に数本の赤鳶色の髪が散った。避けきれなかった肩へ、熱い痛みが走る。
 頬を冷たい汗が滑り落ちた。凄まじい勢いで成長を遂げる少年の剣技へ。ぴりぴりと、焦りにも似た切迫感が肌の表面に走る。肩口へ滲んだ、ぬるりとした感触は。早々に決着をつけるべきだと、クラトスの脳裏へ警鐘を鳴らした。
 早々に決着をつけねば、こちらが不利となる。予感じみた考えに、首の後ろの毛が逆立った。
 防いだ剣を跳ね退けるように盾を弾かせて、後方への跳躍。追撃を見越し、身体の弾機を使って爪先が地に着くと同時に地を蹴る。三撃目を剣で左に流して、左足を擦るように爪先の向きを変え踏み締めると。上体を捻って、体勢を整えようとしていた少年の後頭部へ、上段蹴りを叩き込んだ。前へつんのめったかのように、たたらを踏んだ少年へ、間髪入れず身体を回転させ、軸足を切り替えての後ろ回し蹴りを放つ。
 渾身の力を込めて放った堅いブーツの踵は、がら空きの、少年の左脇腹に埋まった。一瞬押し当てる感触のあった後、中身の詰まった砂袋を蹴ったような重い反発を感じ、鈍い音とともに少年の身体が吹き飛んだ。受け身すら取れなかったのか、離れた場所で壁へ荷袋を投げつけた音によく似た音が響き渡る。詰まったような悲鳴と、激しく咳き込む声が聞こえた。
 間髪居れず、音の鳴った方向へ、クラトスは腕を伸ばし剣を横倒しに捧げもって、意識を集中させる。もう、先程のような手は使えないだろうと、確証は無いながらも感じていた。二度は通用しない技だ。もし通じたとしても、二度使えば、或いは少年へそれだけの経験を積ませることとなる。下手を打てば、そっくりそのまま彼の技を体得しかねないようにも、思えた。ほんの数合で取得されるとは考えたくもなかったが、だが、少年を退けるよりも僅かに前のやり取りには、確かに覚えがあった。
 既視感ともいうべき感覚。それは数分前に、真逆の立場で、殆ど同じことが行われていたという証でもあった。罅割れ乾いた大地が水を吸うが如く、瞬く間にこちらの技術を吸収していく少年へ、恐ろしささえ憶えた。
(如何に技術をものにするだけの力があろうとも。)
 空気中のマナを、アイオニトスの力を借りて取り込み、一つの形へと縒り上げる。足元へ描かれた光の陣は、風に隷属するマナの輝きであった。人の目にも可視可能なほどに高密度となったマナは、光の粒を立ち上らせながら、その中央へ立つ男へ力を集束させていく。
 此方の技が、相手の手段を増やすこととなるのであれば。暗闇の中、崩れた壁か柱か、或いは木と思しき影の下で、蹲るように丸まっていた黒い塊がもぞりと動き出した。それと同時か数瞬早く、クラトスの魔術が完成する。
(こればかりは、どうにもなるまい。)
 少年の周囲に魔力の匂いはない。それは、少年がマナを紡ぐ術を持っていないということを、暗に示していた。魔術には──マナを識るには、天賦の才が必要だと、男は嫌というほど理解している。足元の光源が一際光を強め、伴ってクラトスの伸びた髪や燕尾にわかれた外套を膨らませる。
 少年が、身体を庇うかのように一度うつ伏せて起き上がる。その動作へあわせて、一瞬動きが止まる微かな隙を狙い、クラトスは術を放った。
 詠唱の完了と共に見えない拘束から解き放たれたのは鋭い風槍であった。
 空間を切り裂く高音を残して奇妙な軌道を描き打ち出された槍は、空中でばらけると、無数の鏃となって、膝を擦り立ち上がりかけた少年へと降り注ぐ。何ものをも貫き通す風の穂は、少年の腹部を、胸部を、肩を、背中から一突きに貫き、破裂した。高圧縮された幾つもの白い風槍の穂から、鈍い音を伴い一気に飛びだした棘のようなものは、三十の破片となって少年を身体の内側から引き裂いた。
 大きく身体を仰け反らせていた少年は、穂が拡散した瞬間に内臓を破壊され、引き攣ったように全身を細かく痙攣させた。悲鳴を上げようとしたのか、顎が外れる手前限界まで開かれた口からは、声の変わりにごぶごぶと水音が漏れでる。濃い影から、ハンドルを捻った蛇口のように──だが水などよりも遥かにどろりとした、粘ついた黒い液体が流れ出、影の足元へと水溜りをつくっていた。つん、と鼻の奥を刺激する錆臭さが、それが多量の血であると知らせる。ゆるゆると身体を前のめりにした少年の膝は、吸い込まれるように黒い水溜りの中へ落ちた。
 ぎこちなく、透明な壁か何かに沿ってずるように、ぐしゃり、とその場へ崩れた少年へ。男は暫し詠唱の構えを解くことなく、視線を送り続ける。血溜まりの中へ倒れた少年の痙攣は、次第に小刻みとなり、微かに聞こえていた跳ねる水の音も、直に聞こえなくなる。
 完璧なる静寂が訪れて、クラトスは自らの足音を意識しながら、動かなくなった少年へと足を向けた。距離を測り難いよう、極力足音を殺す。力なく臥している彼の手から剣が離れているのを確認して、クラトスはようやく歩み寄った。
 傍らへと膝を付き、少年の右肩へ手を掛けて、仰向かせる。想像していたよりも幾分か軽い。手に掛かる重さは、彼が男の想像していた通り、成熟した兵士などではなく、未だ成長途中である一人の少年に過ぎなかった、ということをクラトスへ知らしめた。
 首の、脈を診ようと伸ばした手は、立ち襟に阻まれる。やや生地の硬い上着は、首周りへ長い紐が伸び、合わせを大きな釦で留めてあった。かなり独特のデザインである。襟元で手を止めた男は逡巡して、つと、少年の左手をとった。意外と堅い手の平へ、彼がこの若さで剣士として重ねてきたであろう戦歴を思う。
 常であれば、口元へ剣を向け、その曇りで呼吸を確かめるか、そうでなければ心臓を突くか。或いは首を落として、その生死を確かにするところだった。そうしないのは、僅かばかり残っていた子を持つ親としての憐憫の情か。剣を向けている間は僅かにも湧いてこなかった感情が、今更のように現れては自らを責めるのを、クラトスは自嘲した。
 血に濡れて張り付くグローブを剥がして、腕の半ばまで袖を捲くると、親指の骨から辿って手首をとる。親指の、付け根の丸い間接を通り過ぎ、骨と筋の僅かな隙間を探って、手を止めた。手の甲へ回した薬指の第二間接付近へ、硬く丸いものが当たったのだ。
「これは──」
 冷たい感触には心当たりがあるようにも思え、クラトスは、つ、と少年の手の平を裏返した。同時に、雲が晴れ──或いは魔術灯が灯ったのか──、全てを覆い隠していた暗闇が僅かに押しのけられる。
 視界へちらついた見覚えのある青い光沢へ、クラトスは衝撃を覚えた。肺が引きつったように硬直し、息を吸おうにも空気が喉へ詰まる。柔らかい光を放つ涙型の金属プレートの上で、静かに嘲笑う青い光。それを、クラトスは確かに知っていた。
 指先が震え、背中へ冷や汗が流れる。呼吸は不規則に乱れ、息がつっかえた喉の奥へ痛みが走った。見開いた目は乾燥し、鼓膜が震えて耳鳴りがする。口腔内に血の味が広がり、鼻へ鉄錆に似た臭いが上がってきて初めて、クラトスは自分が絶叫しているのだと、気付いた。


 飛び起きたとき、未だ耳の奥で、甲高い耳鳴りの残響が聞こえているような気がした。
 上がった息を落ち着かせるよう、数度深呼吸を繰り返して、クラトスは汗で顔へ張り付いた長い前髪を払いのけた。赤みの強い鳶色の髪は、少し癖があるのか、寝汗で湿った今も奔放に跳ねている。
 脈が速い。全身が汗でぐっしょりと濡れているのを意識しながら、彼は手で顔を拭った。額へ当てられていた手は、顔を撫で降ろし、口元を覆うような形で止める。押し当てた手の平で、寒くもないのに震える呼吸を受け止めながら、一度きつく瞼を降ろした。自然と眉根が寄り、痛みでも耐えるかのような表情となる。だが、痛みはない。痛みなど、感じるはずもなかった。
(“また”か。)
 幾度となく、夢を見ていた。
 繰り返される悪夢は、いつも必ず同じ内容である。暗闇の中、理由も解らないままに自身を追い立てる強迫観念に従って少年と剣を交え、追い詰め、追い詰められ、かの少年を殺す。そして、明かりは灯り。男は彼の正体を知るのだ。
 普段明るい日の下や野営の暖かい明かりの元で見る健康的な顔色とはほど遠く、血を失い色を無くした白い顔が脳裏へ甦り、胸へひやりと、冷たいものが刺さる。
 身体を支えるようシーツへ突いていた左手は強張り、強く握り締める。全身が、細かく震えていた。シーツを蹴るように足先を突っ張らせ、ぐうっと身体を前に折る。口に当てた手を──右腕を抱き込むように身体を縮こませて、咽喉の奥を引き攣らせる。
 どれほど身を起こしたまま動きを止めていたのか、異常な速さで打っていた拍動が収まりかけた頃、クラトスはぎこちなくだが動き始めた。跳ね起きた際に蹴落としてしまった薄い掛け布団を緩慢な動作で拾い上げ、少し迷ってから、軽く払う。同室の少年の眠りを妨げることのないよう、出来るだけ物音を立てずに布地の表面を手で払うと、自分のベッドの上へそのまま乗せた。
 薄暗い、部屋であった。そうは言っても、あの夢の中ほどの暗さではない。南東向きにとってある大きな窓には薄いカーテンしか引いておらず、合わせの隙間からは明け方近くの、絞りたてのオリーブ油を流し込んだような、薄く緑がかった空が覗いていた。陽の昇る前なのだろう、空全体が明るくなり始め、薄明かりが差し込み、目が慣れれば室内の景色ぐらいは容易に見渡せた。
 やや広めの室内には扉の脇、窓際の隅へ寄せる形で置かれた丸テーブルと二脚の椅子。窓際の椅子には赤い上着が引っ掛けられ、もう一方の椅子には特徴的な燕尾の外套が丁寧に畳んで座面の上に置かれていた。扉の真正面には灯りの消えた卓上ランプが乗ったエンドテーブル。そして。そのエンドテーブルを挟む形で少し離し気味にベッドが二つ並んで置いてあるだけだった。シンプルだが、シルヴァラントにおいては中々質のいい調度品ではある。最も、彼自身そんなことには特に興味はなかったし、窓際のベッドに眠っている相部屋の少年は、普段であれば多少の興味を示したかもしれないが、今日ばかりはそんな余裕はないようだった。
 恐る恐る、息をついて、やっとクラトスは平常心に近い精神を取り戻すことが出来た。表面上は、だが。木の質感が柔らかい床へと爪先を降ろせば、アスカードの粗い砂粒が足の裏を刺激する。壁へ背を向けるようにベッドへ腰掛けて、もう一度、室内をゆっくりと見渡す。当たり前ではあるが、寝る前となんら変わりはしない。エンドテーブルとベッドヘッドの間の壁へ立てかけてある長剣も、枕の下へ忍ばせてある短剣の位置も。まとめて置かれた少ない手荷物も、そのままである。
 そこまで視線を巡らせて、クラトスはふと、少年の荷袋の上へ揃えて置かれたものを目にして、眉を寄せた。
 剣術指南の終わった後、疲れを滲ませた顔のまま愛剣の手入れをしていた少年は、どうやら手入れの道具を荷袋へしまった際に、そのまま剣帯と纏めて袋の上へ置いたようだった。少年からすれば出立の準備、といったところだろう。クラトスは思わず深く息を吐き、事有る毎に突っかかってきていた青臭い少年の、険を含ませた表情を思い出していた。
 幼馴染を守り、世界再生を手伝うのだと、息巻いていた少年には、世界再生の旅へついてくる以上、最低限自分の身は自分で守るよう言い渡してあった。まして、男の記憶が間違っていなければ、彼は確か、トリエットへ滞在していた折り、夜半に──どこの組織のものであるとは言わないが──不審者からの襲撃を受けていたはずである。
 そう遠くはない月日に、もっと警戒心が働いても良さそうなものだが、宿は安全だと思い込んでいるのか、或いは既に忘れているか。そうでなければ、単に疲れ果てて周囲を警戒する余裕すらなかったのかもしれないが。
(こういったところはまだ子供か。)
 自分の手荷物と並んで置かれた、素っ気無い荷袋をぼんやりと見詰めて、クラトスは、ふと苦笑した。荷袋から床の碁盤状に敷き詰められた木目を辿って、視線はベッドの影へと行き着く。薄明かりに浮かぶ灰色の影は、ベッドと、その上へ横たわる少年の形を写し取っていた。その影を、何とはなしに視線でなぞる。時折、寝返りとも寝相ともつかない動きを見せる影は、クラトスの記憶にあるそれよりも、随分成長していた。
 彼を、こんなところまで連れて来つもりでは無かった。
 この旅の結末を知っていながら、救いの塔まで少年を連れていこうなどと。クラトスは、ふ、と溜息ともつかない息を吐くと、膝の上に肘をついて、額を手の平に乗せた。汗が乾いた後の額は、ひやりと冷たい。じわじわと手の平の熱が額へ移るのを感じながら、クラトスは力なく目を伏せた。
 どうにかして追い返そうと、考えていたのは彼の少年が旅へ合流して始めの数週間だけであったように思う。襲撃された村人へのせめてもの償いだと呟いた思いつめた顔つきや、反発しながらも話を聞こうとする姿勢、何より時折見せる背伸びをしようとする子供の拗ねたような表情へ、脳裏へ響く忠告の声よりも微笑ましさに耳を傾けてしまった。村へ返すべきだと解っていたにも関わらず、もう少しこの子供の成長を見たい、と。そう、思ってしまったのだ。
(救いの塔で、神子のみを誘き出し、デリス・カーラーンへ転送する。上手く出し抜けるか。)
 残す封印は、二つ。少年が、今更帰るなどとは決して言わないだろうことに、男は既に気付いていた。
 神子の自我を消すには相当の時間を要する。そうなれば、神子を──生贄の少女をデリス・カーラーンへ転送する前に少年が追いつくであろうことは容易に想像できた。確実に、少年を含めた一行は、レミエルと戦闘になるだろう。彼と互角に渡り合える程度には力をつけてやらなければならなかった。少なくとも、レミエルが彼女を転送装置へかけ、それが発動するまでの時間、レミエルと対峙できるだけの力を。あの少女が転送された後であれば、幾らでも少年らへ加勢してやれる。
 そこまで考えて、クラトスは己の都合の良すぎる考え方に、自嘲した。二人の少年のうちどちらかを選べといわれれば、まず間違いなく自分の息子を選ぶだろう。だが、英雄と謡われた少年を、破滅の道へと追い込んでしまったのは人間であり。今日に至るまでミトスの計画を止めるでもなく、淡々と、彼の計画に手を貸していたのは紛れもなく自分自身だった。今更ミトスを裏切ることなど出来ない。かといって、亡き妻の忘れ形見でもあるわが子を、見捨てろといわれて見捨てられようはずもない。
 どこまでも自分勝手な考えに、反吐が出た。
 結局はどちらも選べず、都合の良い答えが見つからないかと、こうして無為に時間ばかりを浪費し続けている。
 く、とかぶりを振って、クラトスは表情を押し込めた。
(もしも。)
 いつの間にか、視線は自身の裸足を見詰めていた。ブーツにも通さぬまま床へ降ろされた足は甲へ青い血管が浮いていた、長らくウィルガイアの魔術灯の下で暮らしていたクラトスの肌は白く。日の下で育ってきた少年と比べれば些か不健康そうに映った。
(もしも、あの子が──ロイドが追いついてきたとして。)
 もしも、少女が転送される前に、ロイドたちがレミエルを圧倒してしまったなら。それは彼らとの対決を意味していた。レミエルは天使としての力を手に入れてはいるものの、それに慢心している節がある。実戦を繰り返し、幾度も生命の危機へ晒されながら、着実に力を身に付けてきた少年たちと、殆ど実戦へでたことのない導き手の天使と、果たしてどちらのほうが強いのか。
 顔の横を流れて視界の端で揺れている赤茶色の髪は室内の薄暗さも相まって黒味を帯びて見えた。乾きかけた血のようだ、と揶揄されたこともあるそれは、中途半端に伸びて視界を妨げている。邪魔に思ったことはあるが、不思議と短くしようと思ったことはなかった。
 額から指先を滑らせて、髪を掻き上げるように、髪の中へ指を押し込む。
 ミトス──ユグドラシル──と少年らの戦いを避けるには、自らが表に出るより他はないだろう。あの悲嘆に暮れる少年は、自らの悲しみを埋めるためであれば容赦などしないことを、クラトスは知っていた。
(出来るだろうか? 彼女を殺めた手と同じ、この手で。)
 頭を支えていた手を降ろし、自らの手の平へ視線を遣る。日に焼けない腕の内側は白く、浮き出た血管を伝って手首から手の平、その中央の窪みよりもやや上の辺りで目がとまった。赤みの薄い、手の平だった。長く、剣を握り続けてきた手である。最愛の妻を斬った後も変わらず、剣を携えてきた。視界には、剣を扱うには似つかわしくない、節の目立たないすんなりとした手が映っていたが、見えているだけで、クラトスの意識からは既に外れていた。
 輝かんばかりの金糸に縁取られた白く滑らかな頬。親しげな笑みを湛えて、だが決して怜悧な光を消すことのない青い虹彩。その明かりに捉われるのを厭うように、クラトスは軽く頭を振るうと、小刻みに震えていた手を、ぐ、と握り締めた。短く切り揃えた爪が突きたって皮膚が破れたのか、手の平へ小さな痛みが走る。
 生贄の少女を差し出しさえすれば、あのクルシスの統率者は少年への興味など示しもしないだろう。それまでの時間稼ぎであると思ってみても──自分勝手極まりない話ではあるが──彼女を殺めたこの手で、少年と対峙するというのは、ぞっとしなかった。
 今でも、男の右手は肉を断つ感覚を憶えていた。獣の呻り声にも似た低重音と、紛れるようにして──そういえば、不思議と、一度たりとも彼女の声を聞き取り損ねたことはなかった──微かに漏れ出た彼女の懇願。決して強い口調ではない。だが、もうそれしかないのだと、男に悟らせるには十分であった。
 思い出したくも無い、だが決して忘れてはならない記憶が、閉ざした視界で繰り返される。見晴らしのいい高台だった。夕刻の空は晴れ渡り、非常に美しかったのを憶えている。浴びた血の重さに項垂れた青草へ埋もれるようにして彼方此方へ落ちた人体。背中に庇った息子と旧友の温かみ。生臭い鉄錆の臭いを孕んだ風は重苦しく、異形と化した妻の姿に纏わりついていた。
「クラトス?」
 強く閉ざしていた瞼を、開かせたのは寝ぼけたようなぼんやりとした声だった。
 視界に広がった床の鮮明な色に、陽が昇ったことを知る。カーテンの隙間から入り込む朝日を浴びて、視線を上げれば、足で薄い掛け布団を捻るよう蹴たくりながら、欠伸を噛み殺す少年の姿があった。妙に険しい表情で伸びをして、カーテンの細い隙間から、すっ、と斜めに伸びた朝日にむず痒そうな顔をする。
「大丈夫かよ、なんだか顔色悪いぜ?」
 起き上がって、目を擦ったロイドは、寝起きながらも既にいつもの調子を取り戻しつつあった。なんとも意外そうに言う少年へ、クラトスは軽く頭を振った。何を否定しているのか自分でも疑問に思いつつ、大丈夫だ、と一言置く。
「少し、夢見が悪くてな」
 苦笑するように言えば、思いの外真面目な表情で、へえ、と返事が返された。
「どんな夢だったんだ?」
 ベッドの下へ脱ぎっぱなしで置いてあった赤いブーツに足先を押し込み、しかし脇の釦までは留めずにロイドは此方へ向き直った。落ち着いた様子で、話を聞こうとする姿勢を見せる少年は、まだ幼さを幾分残した顔をしている。だが、此処数ヶ月で随分と大人びた表情をするようになった。短い間ながら共に旅をしてきて、思ったことである。勿論、共に有ろうとも親子の会話やふれあいなど望むべくも無いが、それでもクラトスは失われた光を見つけたような気さえした。
 ロイドの肩越しに朝の日差しを目にして、クラトスは僅かに目を伏せた。
「まあ、言いたくないんならいいけどよ」
 肩をすくめて、ロイドは徐に立ち上がると、椅子に掛けてあった赤い上着の表面をひと撫でした。
 止まった会話に、クラトスもまた自身のブーツへと足を入れると、ずれないよう留め具を嵌める。身体を伸ばして立ち上がれば、長く戦歴を重ねてきたクラトスの身体は、切り替わったかのように端然として其処にあった。皺の寄ったシーツを軽く直すと、放置したままであった布団を一度広げて折りたたみ、寝台を整える。枕の下の短剣と剣帯から外さぬまま壁に立てかけていた長剣を、窓際の丸テーブルの上へ置いて、アームカバーを腕に通した。
「なあ」
 話出すきっかけを探るというよりは、思いついたことを喋るような気軽さで、掛けられた声に、クラトスは視線だけで隣りを見遣る。殆ど着替え終わっていたロイドは、二本の剣帯を腰に回して、その位置を確かめているところであった。長く扱ってきた木刀と真剣では重さが違う。剣を吊るための剣帯の長さも、それぞれの剣と使い手の体格に合わせて微妙な調整が必要だと、トリエットで剣を選んだときに教えたのを、少年は忘れていないようだった。
「いい言葉教えてやろうか」
「……何だ?」
 卓上からグローブを拾って嵌め、何度か手を動かして生地を馴染ませながら、ロイドを一瞥したクラトスへ。剣帯へ剣を吊って、ぽん、と軽く鳩尾の辺りへ手を置いたロイドは、至極得意そうに口を開いた。
「ゆめさかさまって言うんだぜ?」
 クラトスは、思わず顔を上げていた。
「夢で見たことは逆さまになるんだってよ。俺がまだちっさい時にさ、親父が教えてくれたんだ」
 小さい頃、と口にして少しばかり恥ずかしそうにした少年に、思わず口元が緩む。同時に、幼き頃の体験が、幾度と無く少年を苦しめてきたのであろうと思い至って、胸が痛んだ。
「だからさ。どんな夢見たのかは知らないけど、あんたもそんなに気にすんなよ」
 言い切って、屈託の無い笑みを浮かべた少年の無邪気さと純粋さに。かつて自らが希望としていた少年と、同じ輝きを見た。今の己には眩しすぎるそれを──今の自分達にはないものを──感じ取って、クラトスは目を細めて少年を見詰める。窓との間に立ち、朝日を背にした少年の顔は、逆光となって判然としない。だが、確かに其処へ失ったものを見た気がした。
 そうだな、と一度頷いたクラトスは、少年にもう一度視線をやると、ふと目元を弛ませた。
「……良い父親、だったのだな」
 イセリアの夜に一度だけ垣間見たドワーフの養父を思い返す。髭を蓄えた鍛冶師の男であった。一目見てそれと解る頑固そうな顔つきの中にも、情の厚い、温かみのようなものを感じる。
「ああ!」
 自信を持って頷いて見せた少年は、荷物袋を肩へ引っ掛けた。今朝は宿の階下で食事を取ってそのまま出立することになっている。クラトスは廊下へ続く扉へ向かう少年を見送ると、黙ってもう片方のグローブを嵌めた。卓上の剣を取り、短剣は布に包んで自身の荷袋へ丁寧に入れ、袋の口を縛る。剣帯へ吊ったまま外していた長剣は、ベルトの上へ剣帯を当て、そのまま帯を回す。布地の上を革が擦る鋭い音が室内へ響いた。
「そうだ」
 バックルを締める手を止めて顔を上げれば、少年はドアノブに手を置いたまま此方を見詰めていた。
「なあ、出立にはまだ早いし。アスカードを発つ前にさ、もう一回剣の稽古付けてくれないか?」
 真っ直ぐに向けられた表情は、真剣そのものであった。暫し、少年を見詰めて、だが少しも逸らされる様子のない焦げ茶色の目にクラトスは視線を降ろした。ベルトの金具をしっかり閉じて、バックルを持って少し左に回す。
「……先に出ていろ。場所は、昨日と同じでいいだろう」
「っそか。サンキュー、クラトス」
 柄頭の位置を確かめ、左の手で鞘の位置を直した男の耳に、勢いよく閉まった扉の音が届いた。ばん、と遠慮も何も無く響いた扉の音と、次いで廊下を走る足音。早朝であるにも関わらず、他の逗留客のことを考えない行動に、クラトスは軽く額を押さえた。
 溜息を軽く、一つ吐くと外套を手に取る。広がったのは、特徴的な燕尾である。立ち襟が内側へ倒れないように羽織り、肩よりやや下の留め金を留める。軽い振動と、硬質な音がした。
「ゆめさかさま、か」
 何の気なしに呟き、床に置いていた荷を拾おうと身を屈めかけて、クラトスは動きを止めた。
 赤鳶色の目を閉じ、夢の中の少年を思い返す。今一歩で己に手の届くところであった少年を思い描いて、次いで今し方部屋から飛び出していった少年を──本来の少年を──思う。
 ロイドは、強くなろうとしている。事実、夢の中のあの少年には未だ及ばないながらも、指南を始めてから時折驚くような俊敏な動きを見せるときがあった。森に育ったためか、動体視力はいい。一瞬の判断が要求されるような場面でこそ、少年は落ち着いた対応をしてみせた。
 ロイドは、強くなる。
 荷袋の紐を手に取ると、クラトスは扉へ向かった。触れたドアノブから伝わる、ひやりとした朝の温度に、男は一瞬目を伏せた。逆夢、ということはつまり、地に伏すべきは──。
 手首を回し、扉を開く。鼻先へ廊下の冷たい空気が触れた。肌寒い、というほどではない。ただ、室内の温度よりも幾分低いだけである。静まり返った宿の廊下へと身を浸し、クラトスは顎を上げると。後はもう只黙したまま、少年の待つであろう宿の裏手へと足を向けた。
 救いの塔が、近い。


[幕切]


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