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空は一つだと少年は言った


 ──只、違う物を感じるからこそ、相手の見ている物を知ろうと努めることが出来る。違う物を感じながら言葉を交わすことで、もっと遠くを見つめ感じ取ることすら出来るのだと、僕たちはもう一度知るべきなのかもしれない。


 * * *


 空は確かに一つしかない。だが、そう説いたところで、同じものを見て、感じる心は同じではないのだと、少年は知らねばならなかった。

 少年へと投げつけられた石は、同族の手によって放たれたものであった。
 じくじくと痛む額へ、少年の姉はほっそりとした指を当てて、癒しの言葉を紡いだ。瞬時に注がれた生命力は少年の再生力を活性化させて、傷口を修復させる。
 痛みの薄れはじめた額へ恐る恐る触れて、少年は顔を俯かせたまま姉へと感謝の言葉を口にした。
「ありがとう、姉様」
 無力感に打ちひしがれたように肩を落とし、投げ出した手を強く握り締めた少年は、ともすれば泣き出しそうに顔を歪めていた。
 訴えた言葉は届かなかった。
 捕らえられた同族たちを助けたい、と。連れ戻そうとした少年の行動は、彼らとともに隠れ住んでいた筈のハーフエルフたちに見向きもされなかった。それどころか、収容所から脱走させる計画を公的な機関へ故意に漏らした上で、撤退した少年らへ石まで投げつけたのだ。
 敵意の剥き出しになった視線は、少年の心をえぐった。
「……痛むか?」
 騎士のかける言葉へ、少年は首を振ると、騎士を押し退けるように彼の腕へと手を置いた。痛ましい、と目で訴える騎士を、少年は態と拒絶したのだ。
 一瞬、指先を強張らせ少年の促すがままに身を引く騎士へ、傍らから、放っておけ、と声が掛かる。
「放っておけ」
 姉弟や騎士と少し距離を置いたところで、追っ手が無いか来た道を確認していた男は、一瞥すら寄越さないまま、興味もなさそうに立っていた。
 長身を黒の外套で覆い、真っ直ぐに背筋を伸ばした姿は、いつも通り己に恥じるところなどないと言わんばかりに自信へ溢れている。
 ただ、その常と変わらぬ男の姿が、今の少年には不満に思えて仕方が無かった。
「……何さ、ユアン」
 我ながら、突っ掛かっているという自覚は、あった。
「なんだ」
 収容所へ捕われた同族を救出する計画を立てた時、男は一人反対していた。話し合いの末に、好きにしろと言い放った男は、その後救出計画には一切の手を貸さず、合流地点で待つ、と告げるなり傍観の姿勢をとったのだ。
「ユアンは、僕のしたことが間違ってたって言いたいんだ? 一人で勝手に突っ走って、仲間を危険に晒して、だから放っとけって!」
 詰め寄り、そういいたいんでしょ、と張り上げた声は立ち並ぶ木々の隙間を擦り抜けるように響く。しかし男に何かしらの変化を齎すことはなかった。少年の激昂に眉一つ動かさなかったユアンは、いつもの皮肉屋を気取った──しかしどこか感情的な──斜に構えた態ではなく。青みがかった濃い緑色の瞳は冷たさすら感じさせるような淡々とした色をしていた。
「ほう、考えなしに行動したという自覚はあるようだな」
 腕を組み、微動だにしないまま男は少年を見据えていた。否定して貰えるだろう、という根拠のない前提の元、吐き出した言葉を肯定されて、少年──ミトスは怯んだように言葉を詰まらせた。同族の理解を得られなかった不満と、彼らを理解できない苦しみから来ていた勢いは、あっという間に削がれる。
 それでも、俯きかけた視線を、苔むした地面に下ろすことは出来ず、木漏れ日の揺れる黒い外套の表面へどうにか押し止める。
「おかしい、変だよ。どうして彼らは助けようとしないの」
 削がれた気勢はそのままに。だが、むっつりと黙り込むことも出来ず、少年は男の肩口を睨みやっていた。
 しばしの沈黙の後。溜め息と共に、解らないのか、と言葉が落とされた。声は、先程よりは冷たさを和らげ、代わりのように少年に対する呆れを滲ませている。
「助けたところでどうなる。あの者らには、戻ってきた者たちを養う力もない。連れ戻してやったところで連中の食いぶちが減るだけだ」
「支え合えばいいじゃない、お互いに!」
 それが当たり前だと信じて疑わないミトスを、男は鼻に皺を寄せて嘲るように笑った。
「……ユアン」
 それまで沈黙していたクラトスが、口を開きかけた男を咎めるように呼ばう。唐突に声を上げた騎士へ、少年は顔を上げると、一転した男の険しい表情と騎士の無表情ながらも何処か牽制するような表情を見比べた。騎士が一体何を黙らせようとしているのか、少年に検討はつかないものの、視線を向けられている男へ、何処か苛立ちのようなものまで滲んでいるのを、敏感に読みとっていた。
「収容所へ行った者たちが、どのような目に合わされているのか知らないと見える」
 横目で騎士を見ていた男は、少年が再び正面に立つ彼へ向き直った時には、既に騎士から視線を外していた。
「無事に、戻ってくるとでも思っていたのか?」
 それは、と口ごもった少年へ。ユアンは端から返答に期待してもいなかったのか、少年の沈黙を気に止めることすらなく言葉を吐き出した。
「幼少期に受けた脳への強いダメージは成長してからの性格や行動へ影響を及ぼすのか」
「なに?」
「視覚や聴覚を遮った上で、痛みを持続的に与えてある程度感覚に慣れたら痛みを一段階強くする、それを繰り返した場合、人間はどの程度の痛みまでならば耐えられるのか、というものもあったな」
 それ自体は何でもないことのように。ユアンは至極詰まらないことでも語るように淡々とした口調で続ける。
 クラトスもまた、無表情のまま今度は止めることはなかった。
「ハーフエルフといえど病やその治療法は人間と同じだ。新薬の臨床実験で人間へ投与した段階での副作用を調べる為に使われることも多い。兵器開発に於いて運用実験の被験者とてそうだ。人間での反応が解るからな」
 そこまで聞いて、吐き出された事象が全てハーフエルフを対象として行われていた人体実験の数々であったと、少年は気付いた。思わず傍らへ立つ騎士を仰ぎ見る。とにかく、彼から否定の言葉を聞きたかった。
 だが、少年の希望に反して、人間の騎士は沈黙したまま、少年の青い目を見返すばかりだった。
「そのようなことに使われている者たちを、施設から連れ出してどうしようというのだ。治療も受けられぬ者たちを野ざらしにして朽ちるに任せるか? 例え、奇跡的に健康体であったとしても、ハーフエルフだと言うだけで働き口など知れている。ぎりぎりの生活を送る者たちが、収容所帰りを喜んで迎え入れるとでも思っていたのか、お前は」
「それでも、仲間じゃない」
 ミトスは、妙な焦燥を感じていた。喉の奥が張り付くような渇きを覚えて、咳ばらいをしたかったが、喉は硬く。思うように動いてはくれなかった。
「助ければそれでいいというわけではないと知ることだ。奴ら自身に自らを養う力が無ければ、皆共倒れになるか、さもなくば自分達の手を直接汚すことになるだけだ」
 だからって、と押し出した声はひどく小さかった。
 理想を追うには責任が伴い、そして理想を為すには見合うだけの力が必要なのだと、何時だったか師に説かれたことがある。ただ、その時のように、力がない者は人を救う権利も無いのかと、男を批難することは、不思議と出来なかった。
「だからって、見捨てろって言うの?」
 辛うじて少年から零れた声と対照的に、間髪入れず発っせられた声は肯定であった。明瞭なすっきりとした声は、静まり返った林道へ落ち、インクのように広がる。
 常は言い争いの仲裁に入る姉や、見守りながらも必ず少年の意志を尊重しようとしてくれる騎士も、ただ黙るばかりで、今の少年に彼等の考えは全く見えてこなかった。
「そんなの、酷いよ」
 強く握り締めた掌に、爪が立つ。呼吸は浅く、顔の中心、鼻の付け根の辺りに熱が集まり、目頭が痛む。稚拙な反論しかできない自分へ、少年は強く不甲斐なさを感じていた。
 唇を噛み、酷いよ、ともう一度漏らす。
 淡々と、少年の震える腕を見遣っていた男は、冷めたような目の色はそのままに、余程の世間知らずだな、と薄い唇を動かした。
「収容所の奴らを売ったのが誰だか知らんのか」
「ユアン」
 クラトスの鋭い声に、だが今度ばかりはユアンも、そちらを見ないままに、少し黙っていろ、と騎士へと言葉を投げつけた。
 真っ直ぐに突き刺さる視線へ痛みすら感じる。いつの間にか地面を映していた目をゆっくりと上げて、売った、と呟いた少年は僅かに動揺していた。観察するように感情を見せない青みの強い碧眼は、昼間の暖かな日差しを受けたところで、柔らかな光を載せたりはしない。義眼だ、といわれれば納得しかねないほど、温度の感じられない目だった。
「人間に、無理矢理連れて行かれたって」
 急にやって来た人間たちによって、息子は無理矢理連れ去られたのだ、と街に住む同族の女は言っていた。
 それは、少年らが街へ来たその日、街の様子を教えてくれた子供だった。情報料の代わりに、ブレッドを幾つかと果物を渡せば、痩せた腕でそれらを抱え。裏路地の、泥濘るみ悪臭を放つ土の上を裸足で駆けて行った小さな背中を、くっきりと覚えている。
 足を痛めていた姉を慮って一週間街へ滞在した一行は、出立する前日に子供を訪ね、そして母親に会った。
 数人の同族が住み着いているらしいそこは、随分と昔に放棄された掘っ建て小屋で、破れた屋根は辛うじて日陰を作っていた。痩けた頬をした母親は、徒に顔を伏せ砂や埃や時間が経って乾きかけた吐瀉物の、こびりついた床板の割れ目を、奇妙に見開いた目でなぞるばかりであった。
 痛々しい母親の姿を思い返して、少年は表情を曇らせた。ともすれば引きそうになる顎をどうにか押し止める。嫌な動悸がしていた。手首へ嵌めていた腕輪が擦れ、硬質な音を立てる。
「そうだな、連れていったのは確かに人間だろう」
 誰に同情しているのかは知らんが、と前置きをした男は、身じろぎ一つ、躊躇い一つ見せぬままに口を開いた。
「だがな、あの子供を売ったのはあれの母親だ」
 特に、何の感情も浮かばない声だった。ただ単に事象を述べているだけの、当たり前のことを当たり前のように告げるような、そんな声だった。
「稼ぎの悪い同族を売って、金を得る。ついでに食いぶちも減るからな、丁度いい」
 街へ住むハーフエルフの良く使う手だ。付け足して、男は、は、と息を吐いた。
「だから、帰ってきて貰っては困るわけだ。万が一にも収容所のものたちの脱走に自分達が噛んでいると思われれば、今までのような取引は出来なくなるからな」
「そんな」
 そんなわけはない、と続けようと思った少年の言葉は、しかし声となって空気を揺らしはしなかった。
 石を投げた者たちの中へ彼の母親を見たわけではない。ただ、収容所へ忍び込んで子供や、そこへ捕われている同族を必ず助けるからと、伝えた相手はあの子供の母親だけであったのも確かであり、一瞬でも彼女を疑ってしまった少年の心へ、男の言葉を否定するだけの力は残されてはいなかった。
「お前が、良かれと思ってしようとしたことは、あれらにとっては余計なこと以外のなにものでも無かった、ということだ」
 穏やかな陽気は翳ることもなく、少年の細い金髪を照らし、輝かせる。緩やかに吹き渡る午後の風は、立ったままの四人をそろりと満遍なく撫ぜて、微かな木擦れの音と共に光を揺らして過ぎ去っていった。
「それなら、どうすれば良かったのさ。あの子も、僕たちも」
 搾り出した声は情けなく震えていた。あの母親を信じ抜くことも、かといって糾弾する覚悟も持ち合わせていない自分の弱さに、少年は悔しく、眉根を寄せた。
「考えろ」
 それでも容赦の無い声は真っ直ぐに少年へ投げられ。突き放すような物言いは、ユアンが何処までもユアンであると、少年へ知らしめる。決して優しい言葉を掛けることのない同族の男は、師とは違い道を示すことも共に論じることもしてはくれない。
「お前が考えろ。ハーフエルフの現状をどうにかしたいのだろう。解らないのならば考えることだ。誰でもない、お前自身がだ。変えたい、といったのは私でもクラトスでもない、お前だろう」
 だが、いつになく真剣な声音に、少年は一度頷いた。拍子に零れた涙を、手の平で拭う。少し困った顔をした姉が、柔らかい布を差し出すのを少年はちょっと笑って受け取った。小さく、ありがとう、と口の中で感謝して、頬から目元へかけてを擦る。
 温い水分を吸い込み、滲む白いハンカチへ、少年は自らの無知と甘さを感じ取り。奥歯を強く、噛み締めた。


[幕切]


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