とりあえず一杯.
「…お待たせ。」
車の助手席のドアを開けると、二口の目がこちらを向く。
「おう、おつかれ。」
青根に言われた通り連絡をしたあの日以来、二口は仕事終わりに私を迎えに来てくれている。 これで、3日目。 シートベルトを着ければ、二口がアクセルを踏んだ。
「ねぇ、そろそろ大丈夫じゃないかな?」
「なにが?」
「お迎え。元彼も流石に諦めただろうし、二口だって仕事終わりに来るの大変でしょ?残業とか無いの?」
信号が赤に変わって、車が止まる。
「終わる時間が大体一緒なんだから、お前一人拾ってくくらい楽勝。まぁ遅くなる時は言うけどな。」
「でも、」
彼女に悪くないの? 彼女じゃないかもしれないけれど、あの化粧品の相手に悪くないだろうかと、心配になるのと同時に胸が痛む。
「…なんか、俺もアイツとあんまり変わんねーことしてんな。」
「アイツ?」
「ストーカー化した元彼。元カノを待ち伏せしてんの一緒だわ。」
「あぁ…。」
「全然違うよ〜、二口君は心配してくれてるんだしっ!…とか言えよ。」
裏声を作って二口が言う。顔まできゅるんとさせて言うものだから、思わず笑いがこぼれた。 二口の口元も、私と同じように弧を描く。
「腹減った、なんか食べてこうぜ。」 「うん。」
青に変わった信号に、二口がアクセルを踏んだ。 ハンドルをきって、向かうのは私の家とは違う方向。 まだ一緒にいられることが嬉しくて、二口にはきっと相手がいるのに頷いてしまった。
罪悪感を紛らわせるために、1杯目の生ビールをチビリと飲む。けれど、ハンドルキーパーの前でビールを飲むという罪悪感が少し湧いてきた。
二口が連れてきてくれたのは、雰囲気の良い居酒屋。 大将と女将さんだけで切り盛りしているらしい。 常連らしき人がカウンターにちらほら居る。案内されたカウンターの端に、2人並んで座れば思いの外近くて。ついつい、肩先に意識が向く。
「…おいし、」
「だろ?たまに一人で呑む時によく来るんだわ。」
女将さんが運んできてくれたお通しのおかげで、緊張が解れる。 お通しの白和えは、春菊の香りがふわっと香って優しい味。ピリ辛の鶏皮もビールが進む。
「意外と名字って呑めるんだな。なんか勝手に弱そうだと思ってた。」
名字って、呼ばれたの久しぶりだな。 再開してからは、ほとんどお前って呼ばれてたし。 付き合う前、学生のころはそうやって呼ばれていた。 「名字さん」がいつしか「名字」になって、「名前」へと変わっていった。
「…この間は潰れちゃったけどね。二口は、お酒は好きなの?」
「付き合いで飲むくらいだな。あんま強くねーから、大体運転に回るけど。…あとは、名字みたいなやつ介抱したりとか。」
「ごめんって…」
串物を咀嚼しながら、二口を見つめる。二口はつくねが熱かったのか、はふはふと口を動かしていた。
「あっつ、ふー…なんだよ?」
「んー、なんか変な感じして。」
「なにが」
「名字って呼ばれるの。…変な感じする。」
ぽろりと溢れた本音に、二口は溜息をつく。 しかめっ面なのに、顔が良いからか絵になるのが癪だ。
「…ずっとお前が二口って呼んでっからだろ。俺だけ名前、とか呼びづれーわ。」
2杯目の日本酒が運ばれてくる。 それを受け取って、口に運びながら。別に名前でいいのに、と一人ごちる。
「じゃあお前も呼び方戻せよ、名前。」
「それはやだ。」
だって、彼女に悪いし。化粧品達が頭にちらつく。 いやこうやって迎えにきてもらって、食事までして、…前に部屋にも入っておいて今更だけど。 ぐるぐると悩んでも、アルコールが入ってしまっていては思考は纏まらない。
「お前さ、結構酒回ってない?」
「…わかんない。」
嘘。日本酒を飲みきってしまって、結構お酒が回っている。週末で疲れが溜まっているからか、二口といる事で緊張しているからか、いつもより回りが早いみたいだ。
「名前、水。」
水を差し出されたけれど、手はつけない。 名前なんて呼ばないでよ。さっきまでは、別に名前でいいのに、なんて言ってた癖にそんな事を思う。
「別れてなかったら、こんな風に今も…。」
コップを軽く傾ければ、水面が揺れる。 仮定の話なんて無意味なのに、こんな事を思ってしまうくらいには二口が好きだった。
「…なぁ。俺ん家、くれば。」
揺れているのは水面か、心か。
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