『アルコール・フレーバー』.




「聖臣、」

人目のつかない、二人きりの車内で。私は初めて、聖臣の手に触れた。
血管の筋と骨の凹凸が目立つ手の甲に、ほんの少しだけ指先を置いて。聖臣の目を見つめた。
聖臣の瞳は、真っ黒なように見えるけれど、近くで見ると少し茶色がかっている。背が高いからか、鼻筋が通った整った造形ゆえか、あまり瞳に光が入らないのかもしれない。
そんな聖臣の瞳が僅かに数度揺れて、成人した男女なら、ここで…という所で、聖臣は私の手を振り払った。

ーーあぁ、過ぎたことをしちゃった、

「ごめんね、急に!はは、聖臣が潔癖症なの、わかってるのに!!その、ほんとごめん、汚かったよね。」

傷ついた顔をしちゃダメだ。
加害者は私で、聖臣は被害者なんだから。
被害者に、気を遣わせるなんて以ての外。
笑わなきゃ、なんてことない。許してないのに触れられるなんて、聖臣が一番嫌がることだし、彼が人に触れられて嫌がっているのを、何度も見てきた。みんな普通に謝って、その後何事もなかったみたいに笑ってたじゃない。私もそうしなきゃ。

「あ、名前ちゃん、ごめ…」

青ざめた顔の聖臣を見て、あぁなんて顔させてるんだろうと、さっきまで蒸気していたはずの心が急激に冷めていく。
片想いの頃には、潔癖症の聖臣に触れようなんて思えなかったけれど……恋人となった今なら、触れても許されるんじゃないかと、自惚れていた。
最悪。馬鹿すぎるじゃん、私。

「ちょっとお酒回っちゃったのかも。酔っ払いがしたことだから、許して?明日忘れてたらごめんだけど、」

「名前っ、」

「じゃあ、送ってくれてありがとねっ、また次出掛ける時は気をつけるから!…ばいばい。」

また次…なんて言ったけれど、その次が来ることがあるのかが怖くて、聖臣の返事も聞かずに助手席から飛び出した。

シートベルトをあらかじめ外しておいて良かった。
そのおかげですぐに車から出られる。
夜で良かった。
泣いても暗闇のせいで気付かれずに済む。

いつもなら振り返って手を振って、聖臣に「早く中入れ」と怒られる流れだけど、その日は一度も振り返らずに家に入った。
玄関に入ってすぐに、足の力は抜けてしまって。 
背中越しに閉じた扉は冷たかった。


あれから、彼氏の聖臣とは上手くいっていない。
連絡を取っていなければ、全く会っていない状態が続いている。
向こうは元から、あまりマメに連絡をくれるタイプではない。出掛けるのも好まない。
…そもそも、いつも電話をかけたり、食事に誘ったりするのは私だった。その私がノーアクションなんだから、こうなるのは自然の摂理だ。

「…元から恋人ですらなかったのかも、」

恋人なら。
互いにとって、たった一人だけの人間関係を築いているのなら、許されるはずの「触れたい」という気持ち。
それが私には許されなかった。
ブラックジャッカル公式SNSを見れば、佐久早選手は不器用ながらも最低限のファンサービスをしていて。
ただのファンのままで居た方が、視線一つに満足できたのになぁと、恋人になったことを後悔してしまう。

その癖に、聖臣の隣に居たいという欲は無くなってくれなくて、それが苦しい。
仕事からの帰り道に、スマホを片手に涙ぐみながら歩く私は、大阪の賑やかな街並みから浮いている。

「おねーさん、一人?」

居酒屋のキャッチすらもそっと声をかけずに避けていく中で、突然声をかけられた。
いつもなら、無視して素通りする。
なぜか立ち止まってしまったのは、おそらく気の迷いだ。

「お、かわいーやん。呑みにいかへん?」

「っ、はは、いいですね…って、宮選手?」

「やっぱり、臣くんのカノジョ。」

ナンパに乗ってみれば、声をかけてきたのは宮侑選手だった。
宮選手は、「知らん奴についてこーとしたら、あかんで?」と笑いながら嗜めるように言った。

「宮選手は、何でここに…」

「ぐーぜん。飯食い行こ思たら、な。泣いてる子居るわーって見てたら臣くんのカノジョやもん。びっくり。仕事帰り?」

頷くと、宮選手はふーんと聞いてきた癖に興味なさげに相槌を打つ。

「せっかくやから、飯食わへん?」

「いや、それは…」

「ほっといたら他の男に連れてかれそやし。決まり!」

「えっ、ちょっと!!」

宮選手は、ひょいと私の鞄を手に取ると、そのまま歩き出してしまった。
その背中を追うしか無くなってしまった私は、宮選手とご飯を共にすることに決まってしまったらしい。



おにぎり、お味噌汁、だし巻き卵、白和の小鉢。
おにぎり宮という宮選手のご兄弟がやられているお店は、MSBYファンの知る人ぞ知る名店で。その味は評判以上に美味しかった。 
勧められるがままにお酒を頼み、やけ酒も兼ねていつもよりもぐいぐいと呑んでしまった。

「臣くんと、喧嘩でもしたん?」

お酒も十分体に染み渡ってきたなぁ…と言うところで、宮選手が嬉しそうに尋ねて来た。

「潔癖症って、どうしたら治るんですかね…」

「俺も知りたいわー、それ…」

「聖臣に、触ろうとしたら避けられちゃって。潔癖なのはわかってたし、私が気をつけなきゃいけないことだったのに…ダメですね、ほんと。」

あぁ、だめだ。
思い出すだけで、惨めで、恥ずかしくて、苦しい。
喉の詰まるような感覚を押し流すために、また一口お酒を煽る。やだな、こんな風に酌が進んでしまうのは。

「それはショックやなぁ…可哀想に。あのデコほくろ天パめ、名前ちゃんこれもお食べ。」

宮さんは、そら豆をお箸で摘んで私の前に差し出した。
いわゆる、あーん…といった手で、ドギマギしてしまう。チャラいイケメンって、すごいな…と。

「ほら、はよせんと。このまま突っ込むで?口あけて?」

「え、あ、」

ほんの出来心。軽く口を開けてしまった。
飲酒ってだめだ、判断力を鈍らせる。遅れてきた羞恥心に目を閉じれば、そら豆のほろ苦い春の香りが…と思ったところで。その一口は届かなかった。

「きよ、おみ…?」

宮さんの手元を掴んだ聖臣の口に、そら豆が吸い込まれる。
ぱくり。聖臣が、誰かの箸から食べ物をもらうだなんて…!!夢!?

「てめぇ、わかっててさっきから…!!」

「臣くん怖っ!!ちゃうって!あーんからのあーげないってするつもりやったから!」

「くたばれ。」

聖臣がカウンターの上に一万円札を置いたかと思えば、私は手を引かれて椅子からそのまま立ち上がる。

「釣りはいらねぇ。」

気がつけば店の外に居て、手を引かれていた。
聖臣の手が、私に触れてる。
アルコールとあいまって、ふわふわした足取りが、もっとふわふわと浮いてしまいそうなくらい、涙が滲むくらい、嬉しい。

「なんで、宮と居たの。」

「なりゆき…聖臣は、」

「俺は飯食ってただけ。」

「そっか…あっ、」

足がもつれて、かくりと身体が傾いた。

「あっぶな…名前ちゃん、どれくらい飲んだの。」

「…わかんない。」

聖臣は深いため息を吐くと、私の前にしゃがみ込んだ。
どうしたの?と、問えば、乗ってと呆れたように言われる。

「いいよ、私汚いし。仕事終わってから、そのままだよ?汗とか…」

「名前ちゃんは汚くない。いいから、乗って。」

圧をかけられて、緊張しながら手をかける。
初めて触れた肩、背中。筋肉がついた聖臣と、私の身体は別の生き物。

「…この間は、ごめん。100パーセント、俺が悪い。名前ちゃんに非はない。」

「ううん、私こそ、ごめんなさい。聖臣が潔癖症なの、わかってるのに…今も。ごめんね。いい大人なのに。」

「だから、違う。名前ちゃんのこと汚いとか、一回も思ったことない。」

「じゃあ、なんで手、振り払ったの?」

「…したんだよ、」

「なんて?」

「緊張、したんだよ。」

聖臣が立ち止まる。
街灯の下に照らされた耳は赤くて、熱を持っていた。

「名前ちゃんと付き合ったからには、一生かけて幸せにするって決めてる。…婚前交渉は、誠実とは言えねぇだろ。俺は、決めたからには、ちゃんと…その、タイミングとかも考えてた。でも、名前ちゃんに触れられたら計画が狂う。」

拗ねたように、聖臣が言う。

「我慢、すんのは苦手だから。」

…つまり、私が触れたら我慢ができなくなってしまうつていうこと?
だから、手を払い除けたの?
だとしたら、不器用がすぎる。不器用が過ぎて、愛おしい。

「聖臣、私は…婚前交渉したいんだけど。」

「名前ちゃんはそんなこと言わない。」

フツーの人と付き合ってたらね!?
解釈違いとでも言わんばかりに言い張る聖臣に、思わず溜息が出る。もう、すっかり酔いなんて覚めてしまった。

「私は、聖臣に触って欲しいし、触りたいよ!」

「…だから我慢出来なくなるって言ってる。」

「しなくていいって言ってる!」

私が声を荒げると、聖臣が盛大な舌打ちをした。
デカ男の舌打ちって怖いんだからね!!ばか!

「言ったのはお前だからな。後悔するなよ。」

「て、てかげん…」

「…他の奴にベタベタ触らせたこと、ムカついてるから、しない。」

翌日の朝、「ファーストキスが、酒の味だとは思わなかった」と聖臣に言われて、コーヒーを飲んでいた私は盛大にむせるのだった。






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