『小指に、きらり』.
額に残る微かな皮膚の盛り上がりは、幼い頃についたもの。侑と二人乗りしたブランコから落ちて、額にブランコの椅子がぶつかった。柔らかい子どもの皮膚は、衝撃を受けて、少し深く切れてしまったらしい。 親の心配はつゆ知らず、あの時の痛みは全く覚えていないけれど、ひとつだけしっかりと覚えている。
「名前ちゃん!名前ちゃん!!死なんといてっ!!」
侑がボロボロと大きな涙をいっぱいに浮かべていたこと。自分もブランコから落ちて、後頭部に怪我をしていたのに、大袈裟なくらいに私のことを心配していた。 病院から帰れば、侑がタンポポと白詰草の束を持って、私に傅いた。そして指に、おもちゃの指輪を嵌めて。
「名前ちゃんに貰い手おらんかったら、俺が貰ったる!きずもんにした責任はとるからな!!」
あの時のかわいくて、まっすぐな年下の男の子はどこに行ってしまったのか。 今や宮侑といえば、高校バレーのナンバーワンセッターで、そのルックスも相まって、女の子にモテモテ。 調子に乗った侑は、次から次に女の子を取っ替え引っ替えしている。
「侑くんのドアホ!!」
ゴツッと威勢のいい音が、住宅街に響いた。 確かに侑はドアホやな、と共感しながら、駆けていくケバケバしい女の子を眺める。侑みたいに、ブリーチで傷んだ髪。ブリーチって頭皮染みるらしいけど、ほんまかな。
「おう、名前おかえり。」
「…えらい、男前になったやん。」
「元からですー」
「アホ。信介にまた小言言われるで。…なんでぶたれたん?」
侑の頬に軽く触れて尋ねる。侑は、悪びれもせずに、「鬱陶しかってん」と一言。
「ただ何回か寝ただけやのに、彼女ヅラすんなって。部活サボってまでお前と会うか!って言うたら…このザマや。」
「すがすがしい程のクズやな。」
「せめて平手にしてほしかったわ、拳って…」
「腫れてきてるやん。…あーもう、ウチ来ぃ!どうせあんたは帰ったらほっとくやろ!!」
侑の腕を掴んで、家まで引き摺る。家にはまだ誰も帰ってきとらんから、二人きりやけどそんなん関係無い。救急箱を持って2階の部屋へ。 頬を軽く消毒して、湿布を貼る。つめたっ!!と声を上げる侑を無視して。
「…名前、何怒ってんねん。」
「別に。」
「お前はエリカか!ほーらぁ、何怒っとんのか教えてみぃ」
「なんでもない言うてるやんか!!」
「女がいう"なんでもない"は、なんかあんねん!」
侑が私の手を掴んで言うから、その体温にもうええやと耐え切らんくなって。
「…なんで、女遊びするん。」
彼女でもなんでも無いのに、こんな事を言ってしまったんが悪かった。
「…別にええやろ。」
「あんたもエリカか!!」
「なに?理由いうたら、名前が相手でもしてくれるんか?」
「はぁ?…あんた、アホなこと言うてると信介に言いつけるで。」
思いっきり眉間に皺を寄せてそう言うと、侑は掴んでいた私の手を思いっきし引いて、がぶり。 荒々しく唇を押し付けたかと思えば、そのまま歯を立てられた。血は出はしなかったけれど、犬歯を立てられて痛くないはずがない。
胸板を叩いて距離をとれば、侑は酷い顔をしていた。
「これも、北さんに言える?」
「…何言うてんねん、」
「名前が北さんと付き合うてるせいやで。」
脈絡の無い言葉、会話の意味はキスから通っていない。ただわかるのは、私の唇と侑の心が痛いんだろうということだけ。
「残念やったな、好きでもない男に唇奪われて。」
この男は何を言っているんだろう。 私は、ずっとずっと侑のことが好きで、侑のことしか見ていないのに。
「…帰るわ。」
立ち上がった侑のことを追いかけることも出来ずに、私は座り込んだまま。力の抜けてしまった膝小僧を見つめて、動けなかった。
ーーーのは、数秒だけ。 すぐに階段を駆け降りて、その勢いのまま侑に蹴りを入れる。
「…っはぁ!?なにすんねん!!」
玄関前、倒れ込んだ侑の髪を引っ掴んで顔を上げさせて。侑の唇に私の唇をぶつけた。
「なにくだらん理由で他の女抱いとんのや!!私のこと、傷もんにした責任とらんかい!!」
「は、」
「信介とは付き合ってないっ…こっちは、ちっこい頃に受けたプロポーズ、覚えとるんやからな!」
いつも制服のポケットに入れているのは、おもちゃの指輪。もう薬指にははめられない指輪を持っているなんて、あほみたいやけど。 その指輪を侑に突きつけて、もうどうしたらいいかなんてわからなくなってて。
「……侑のこと、好きやねん、」
年上のくせして、余裕ない。 小さい頃の、翌朝には忘れられてる口約束に過ぎないプロポーズをあほみたいに本気にして。 手どころか足まで出して癇癪を起こす私に、侑はまた一つキスをした。キス、なんてもんじゃない。犬に噛まれた、の方が合ってあるくらい乱暴に。
「いつまで取ってねん、こんなやっすい指輪…アホちゃう?とか、思ってん。…でも、いじらしくてたまらんくなるわ!なんやねん、ずっと俺のこと好きでおってくれたん?」
「そう言うてるやろ、なんかい言わすねんあほっ!」
侑は、太い眉毛を下げて、あ"ーー…もうっ!!と投げ出したように溜息を吐いたかと思えば、起き上がって。
「『俺と、結婚して下さい。』…って、言うたら望みある?」
さっき押し付けたおもちゃの指輪を、私の小指に通した。
「…は、段階、飛び過ぎとちゃう?」
「お前、18やん。もう結婚できるで。」
「アホか、あんたが18にならんと出来ひんよ、」
「ほんなら、結婚を前提にお付き合いしようや。お前、俺のこと好きなんやろ。」
小指に、きらり。 鈍く光る指輪は、デコラティブで、子どもの夢が詰まっているフォルム。
「…本当の結婚指輪は、ティファニーブルーの箱に入ったやつがええ。また、女遊びされたら即別れて換金できるし、」
「俺はプロなったら、イケメンやからスポンサーもぼんぼんつくし、好きなもん買ったる。」
「女遊び、せんといてな?」
「ノースキャンダルで、好感度あげるわ。愛妻家アピール出来るくらいには大事にする。」
「…ほんなら、ええよ。」
傷もんにした責任、とってな? 私がそう言うと、侑はデコピンをしたかと思えば、とびっきり優しく抱きしめてくれた。
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